2008年10月 8日 (水)

さようなら

この最終回のタイトルを「ワルキューレ」の3幕にするか、「ボエーム」の3幕にするかちょっと迷いましたが、やはりソプラノ好きの私としてはソプラノのアリアでということで。

昨年からちょっと体の具合が悪かったのですが、今年に入ってもプライヴェートで色々とあって、なかなか体調を戻すことが出来ませんでした。(胃や腸を押すと痛いとか疲労感が激しいとか、母親がガンになった直前の症状とまったく同じだったので、かなり不安だったのですが、幸い今のところガンではないみたいです。)
特に夏以降、夜になると頭痛や倦怠感に悩まされる日が続き、ブログを更新できてないと言うのも、精神的なプレッシャーになっているように思うので、思い切って閉鎖することにしました。いつかまた健康状態が許せば、ぜひとも再開したいのですが、いつのことになるものやら・・・

これまで私の拙い文章をお読みくださった皆様、本当にありがとうございました。コメント欄とTB欄は閉じますが、ログ自体はしばらくの間、残しておきますので、もしご自身がお書きになったコメントなどで保存しておきたい方がいらっしゃいましたら、お暇なときにでもコピーしておいて下さい。
あと恐縮ですが、この件に関してメール等は、どうぞご遠慮ください。切にお願い申し上げます。

ところで『「ティファニーで朝食を」と「つぐない」と「永遠のマリア・カラス」』が途中になっていました。
何を言いたかったかと言うと、アーティストにとっては創作の中こそが現実であるということ。アーティストが「夢」をかなえるのは作品の中でですが、作品世界が出来上がるとそこに生まれるのはもはや夢ではなく現実であると言うことです。

ゼッフィレッリはおそらくカラスでカルメンをやりたかったのでしょう。実現しなかった夢を映画の中で実現させたのです。映画監督にとって映像に焼き付けられた瞬間から、フィルムの中にいるのはファニー・アルダンではなくマリア・カラスその人。

同じように「つぐない」の次女、ブライオニーにとっても創作の中こそが現実であるのです。
「つぐない」と「永遠のマリア・カラス」では作品の深みがまるで違いますし、主題も違いますが、基本が「芸術家の夢と現実」を基にしていること、そしてさらにその底には「芸術家のエゴ」が横たわっていると言う部分で、共通しています。

「つぐない」は多くの人に絶賛され、「永遠のマリア・カラス」は多くのオペラ・ファンから非難されたわけですが、根本において同じものが提示されているように、私には感じられたのでした。

マキューアンの小説はあまり起承転結がなく、淡々と進んできて最後にキュッと締めて落とすというのが多いように思います。しかしいわゆる「オチ」というのではなくて、そこで新しい次元に読者を導く。同じ平面上でのオチではなく、より広い視点を与えたり、より深い次元をあたえたり、読者を一段と高いところに誘うというのが特色ではないかと思われます。(そういう意味で一番成功しているのは「黒い犬」であり、一番物足りないのは「アムステルダム」でしょうか。)

映画「つぐない」はラストの「アラベラの試練」のシーン以外は、かなり原作に忠実に作られていますが、マキューアン小説が提示してみせる、ラストシーンでの新たな広がり、新たな次元といったものを獲得するのは、さすがに無理だったようです。もちろん(前)のはじめに述べたように、映画と小説とは違うものなのですから、映画が「だから小説より駄目だ」ということには、ならないのですが。

ポール・ニューマン、緒方拳という、20世紀のアメリカ映画界と日本映画界を代表する名優が相次いで世を去りました。ご冥福をお祈りいたします。

最後にブログをお読みくださった皆様、そして何よりもいつも素晴らしいコメントをお寄せくださった皆様。本当にありがとうございました。心より感謝申し上げます。                                                                                          TARO'S CAFE 店主敬白

|

2008年7月29日 (火)

ホルスト・シュタイン逝去

20080729steinjp また巨匠が一人・・・

指揮者のホルスト・シュタインが亡くなったそうです。80歳でした。
いまちょっと長い記事を書いている時間がとれないのですが、N響との数々の名演、そして私にとっては、ウィーン国立歌劇場初来日公演での、リザネックとの「サロメ」が何よりも忘れ難い思い出です。

どうぞ安らかにお眠りください。

| | コメント (8) | トラックバック (1)

2008年7月11日 (金)

「ティファニーで朝食を」と「つぐない」と「永遠のマリア・カラス」(前)

20080711atonementjp (思い切りネタバレあり)

原作通りでないという理由で不当に貶められてきた映画に、オードリー・ヘップバーン主演の1961年作品「ティファニーで朝食を」があります。

映画と原作とは別物、映画とは断じて原作の絵解きではないと考える私にとって、『オードリーが、原作のホリー・ゴライトリーのイメージと違う』とか、『甘いハッピーエンドにしてしまって、カポーティの原作が台無し』とかいう意見は、まったく理解に苦しむものです。

オードリーがキャスティングされた段階で、すでに映画「ティファニーで朝食を」は、カポーティを大きく離れることを宣言したも同様なのですから、そのつもりで見なければなりません。そしてもし批評するのであるならば、原作に頼りそれがどこまで忠実に映像化されてるかを判断することで批評したつもりになるのではなく、何者にも頼らず映画自体を、独立した芸術作品としてそれ自体を論じなくてはなりません。
(ストーリーの絵解きにすぎない作品というのも数多くありますが、それらはまず失敗作とみなされます。)

以上のような考え方というのは「ティファニー」に限らず、私の基本的なスタンスなのですが、もちろん例外はあります。
今年のアカデミー賞でも話題になった映画「つぐない」もそんな例外のひとつで、私は原作を読まないで映画の方を先に見てしまったんですが、どうしても原作小説を読んで比較したいという気にさせるものでした。

家庭用ビデオが一般化する前は、いわば映画のスーヴニールとして、原作を読むことはしょっちゅうだったのですが、「比較のために」読んでみたいと思わされたのは、もしかするとこの「つぐない」が初めてかもしれません。

原作はイアン・マキューアンの「贖罪」 Atonement 。映画の日本語題名がひらがなで「つぐない」になってしまったのは、「贖罪」という単語に宗教的な匂いがまとわりついていることや、難解な作品だと思われて敬遠されそうということなどを考慮したんでしょう。やむをえないことですし、「愛と哀しみのナンチャラ」よりは百倍良いと思いますが、ニュアンスが柔らかくなりすぎてしまってやはりちょっと残念な気がします。

映画はほぼ原作に忠実に作られています。(原作といっても私が読んだのは翻訳で、マキューアンの文章は、原語で読まないとちゃんとは味わえないと思うのですが、別に文芸批評するわけではないので、それは許していただきましょう。)

この作品では映画においても原作においても、ふたつの「どんでん」が用意されています。つまり作品がブライオニーの著作であること。そして恋人たちの悲劇の結末が事実とは違うことの二つです。

これらはいずれも作品の最後で明かされるわけですが、映画と小説と一番大きく違うのはこのラストシーンの設定です。

ラスト。原作ではタリス邸で老ブライオニーの誕生日を祝って、一族の集いが開かれるという場面設定になっています。ここであの日上演されずじまいだった「アラベラの試練」が六十数年ぶりに上演されます。
私たち読者は思わずもしもあの時に上演されていたら、偶然の積み重なりは起きず、恋人たちの悲劇もなければ、ブライオニーも試練にさらされ、贖罪の数十年を生き続けることもなかっただろうにと思わずにはいられない、実に上手い設定です。

まず最初の「どんでん」は、原作ではこのシーンの前。ブライオニーと恋人たちの邂逅で過去のストーリーが締めくくられた後に、いったん作者が筆を置くという形でもたらされます。

ここで私たちは「作品の外側にいる作家によって創作された物語」として読んできた作品が、「作品の内側にいる(=小説の中では実在する人物である)ブライオニー・タリスの作品であった」という、第一の裏切りに出会います。

読者は実際にブライオニーの創作物を読んできた、つまり直接的に接してきたわけです。ですから文学上の裏切りは効果的にもたらされます。

劇の上演が終わってブライオニーが自室に引き上げた後、彼女の独白という形で第二の裏切りがきます。実は恋人たちの結末はまったく違うものだったということ。ここは事実が述べられるだけで、映画に比べると(表面上は)かなりあっさりしています。

さて第二の方はともかく、第一の「どんでん」は映画にするとなると、相当の難物です。まず私たちは小説を読んでいるのではなく、あくまでもその映像化作品を見ています。それは小説を読んでいることとは、まるで違う行為であって、『読者が直接的に接してきたものが実は作中人物の想像力の賜物であった』という原作における文学的裏切りと同じものをもたらすことは出来ません。映像化作品は断じてブライオニーの創造物ではないからです。(体験の直接的裏切りを映画で可能にするためにはブライオニーを映画監督に設定して、この映像化作品は私の創造物ですと明かすしか手段はありません。)

さらに小説においては登場人物の心理も情景描写も、すべてブライオニーの想像力の中で創造されたものだったということになるわけですが、映画は必ずしもそうはならないという問題点があります。

まず俳優の存在感と、映像の迫力が圧倒的である場合、登場人物たちとそれぞれのシーンは勝手に動きだし、独自の実在を主張します。
映画ではブライオニーの小説を基にしていることを暗示するため、BGMに重なって無遠慮に入り込んでくるタイプライターの音が、やがてリズミカルに音楽にシンクロしていくという大変に面白い手法を使っていますが(今年のアカデミー作曲賞受賞)、その目論見とは逆にこの音楽もまた小説では存在しえない独自の魅力となってせまってくるのが、小説と映画の距離をいっそう遠くへ引き離していくようです。

さらに、上で私が非難した「ストーリーの絵解き」に終始しているものならば、単なる小説の映像化と主張することもできますが、映像でなければもたらすことの出来ない、目の快楽が用意された場合、もはやそれは独立した芸術作品として自立していると言わざるを得ません。

すべての人が絶賛するダンケルクのシーンの数分間に渡る長回しの奇跡的なカメラワーク(おそらくCGと実写の合成ではないかと思われますが、同じワンシーン・ワンカットのブラナーの「魔笛」の冒頭シーンが、ある程度CG臭さを残していたのに対して、この「つぐない」の長回しはまったくCGと実写の区別がつきません)は勿論ですが、戦火のロンドンでのセシーリアとロビーの出会いのシーンなど、映画的な快感を呼び起こすシーンがふんだんに用意されたこの作品は、あきらかに「小説の絵解き」を超えて、映画独自の魅力を主張しています。

以上のようなことは、一見、成功した文芸映画ならどんな作品でもそうであるように、この作品でもそうだということにすぎないと見えるかもしれません。

しかしこの「つぐない」の場合に限っては、

1)映画で展開されてきた事態もまた、ブライオニーの想像力の産物としてみるべきなのか、(=マキューアンの原作通りだが、すべては単なるブライオニー作の小説の絵解きであり、映画として自立するためには、最後のインタビューシーンを待たなければならない。過去のタリス邸と戦場のシーンは、いわば長い「序」となってしまう。)

2)ラストの3人の出会い以外は、(フィクション内での)事実が描かれていると見るべきなのか、(=過去シーンは自立した芸術作品としての存在価値を主張できるが、原作者が用意した第一の裏切りは、かなり効果が減ぜられる。)

という問題が発生するのです。

いったいそれはどう考えれば良いのでしょうか。

「アラベラの試練」のシーンを、原作通りに映画化しなかったことは理解できます。おそらく感動的なシーンになることが約束されたはずですから、製作総指揮に名を連ねているマキューアンや監督のライトなど、製作側の人々にとってそれは断腸の思いだったに違いありません。

しかしその場合、観客は単純に六十数年後に時間が飛んだだけと見てしまうでしょう。
つまり全体が「3つの時代にまたがる一遍の大河ドラマ」となってしまって、原作における「小説が一旦閉じられ、それがブライオニーの著作であることを明かす」という効果は、もたらせなくなってしまいます。

インタビューのシーンもヴァネッサ・レッドグレーヴの演技力のおかげで見ごたえのあるものにはなりましたが、原作の愛読者には相当な失望を与えたことと思います。でもこれは上に述べたような理由で、しょうがないのです。むしろ考えられる最善にしてギリギリの解決策だったといえるのではないでしょうか。

しかもここには非常に重要な仕掛けがなされています。それはインタビュアーの役を、先頃亡くなったアンソニー・ミンゲラが演じているということです。

ミンゲラはご承知のようにイギリスの映画監督で、アカデミー賞を大量受賞した「イングリッシュ・ペイシェント」をはじめ「リプリー」や「コールドマウンテン」などの話題作を発表しています。オペラ好きの方にはMETで「蝶々夫人」を演出したことでも知られているかと思います。
この3月にガン手術後の合併症で、わずか54歳で亡くなりました。

(関係ありませんがミンゲラ監督は1954年1月生まれなので、私より年齢は1歳下なんですが、日本流に言うと同じ学年ということになり、私にとっては同い年で学年だと1年上になる村下孝蔵さんが脳溢血で亡くなった時に匹敵するショックでした。)

ライトは何故、インタビュアー役に俳優やキャスターではなく、映画監督を起用したのでしょうか?
私はここに過去のシーンを1本の映画として、一つの実在として提示したかったからだと考えます。それは表面的にはブライオニーの小説の映画化に他ならないわけですが、創作者(ここでは映画監督)にとって、事実とは、あるいは現実とは、まさに創作物の中にあるのであり、フィルムに固定されたその瞬間に俳優たちは、それぞれの役の人物となって実態を持って動き出すのです。

スクリーンの中では、登場人物こそが現実であり、もしも実在の人物の伝記を描いたとしても、真実はモデルとなった本人ではなく、フィルムの中にあります。
ドキュメンタリーや報道番組ではないのですから、実際と違うということは批評の論点にはなりません。

この映画の場合、セシーリアとロビーの噴水での出来事も、図書室でのラブシーンも、戦時下の逢瀬も、ダンケルクのシーンもすべて事実であって、その通りに行われた。もちろん監督がそれらの現実を創造したのです。ブライオニーではなく。

おそらく意識的に、仮に無意識的にであったとしても、インタビュアー役に映画監督であるアンソニー・ミンゲラを起用したということは、その控えめな誇示、もしくは暗示ではなかろうかと私には思えます。

(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月10日 (木)

iPodへの課金、ひとまず先送りへ

20080710akita 5月8日の記事でお伝えしたように、文化庁は文化審議会著作権分科会の「私的録音録画小委員会」に対して、iPodなどのデジタル携帯オーディオ・プレーヤーに対する課金を提案。検討が行われていました。

もし小委員会で合意が出来た場合は、秋の臨時国会にも提出されるものと見られていましたが、今日開かれた今年度第3回目の小委員会では電子機器メーカー側(JEITA)が課金に強く反発。結局話し合いはまとまりませんでした。
詳しくは INTERNET Watch の記事をご覧下さい。

現時点では課金は先送りということになったわけですが、もちろんJASRACなどの権利者側が断念するわけはありませんから、今後も経緯を見守る必要がありそうです。

JEITAの強硬な反発にたいして権利者側は、「ダビング10が決まってから、『対価の還元は不要』と言うのは、後出しではないか」と主張しています.
でもなんか、前にはダビング10とiPodへの課金は無関係と言わんばかりに「ダビング10を取引材料にはしていない」と見得を切ってたわけだから、そういう見方も変なような・・・。

現在補償金制度に関する話し合いの焦点は、「DRM(コピー制限の技術)がついている時でも、補償金は必要なのかどうか」という1点に絞られているようです。

しかし私はこれは話の筋道がちょっとズレてるんじゃないかと思います。
そもそも補償金制度は、「アーティストが損害を受けてるから、補償する」という精神で始まったものですから、個々の機器がアーティストに損害を与えるものなのかどうかが、まず検討されるべきではないかと思います。

1) iPod やその他の携帯プレーヤーが、海賊盤CDや海賊盤DVDのような形でアーティストに損害を与える可能性はゼロに等しいほど少ない。
2)友人から借りたCDをパソコンに取り込み、iPodにコピーした場合は、ある程度損害を与えてるといえなくもない。
3) iTunes 経由で購入した楽曲はその段階で著作権料が徴収されてるので、二重取りになる。

ざっとこんな感じでしょうか。
単純に考えれば2は課金を求める理由になり、1と3は拒否する理由になるわけですが、私は2を課金要求の理由とすることにも、(理屈上は正当だと思いますが、感情的には)かなりの不快感を覚えています。

2のようなケース、友人のCDを借りてコピーするというのは、カセットの時代から子供たちはずっとやってきたと思います。私自身も高校時代など、友人のレコードを借りてオープンテープに録音するということを、やってきました。そりゃ当然全部自分でレコードを買いたいに決まってますが、そんなにお金はないし、友人がクーベリック指揮BPOのエロイカを買い、私は当時廉価盤で発売になったフルトヴェングラーのウラニア盤エロイカを買って、交換してテープに録音するなどということを普通にやっていました。

それは犯罪なのでしょうか?それはアーティストに損害を与える行為で、金を払わずに音楽を聞くことはいけないことだったのでしょうか?

今の権利者側の発言を聞いてると、あるいはJASRACの行動を見ていると、「金を出さずには、芸術に一切触れるな」と言わんばかりです。
私は特に子供たちが(変な表現かもしれませんが)「ただで音楽を聴くチャンス」というのは決してなくしてはならないと思います。CDを交換して出来るだけ多くの音楽に触れるチャンスを摘むべきではありません。(だからFM放送の廃止案などにも絶対反対です。)

もちろん権利者側は反論するでしょう。チャンスを摘んだりはしてないと。逆にそれを認めるからこそ、その対価として金をよこせと権利者側はいっているわけです。
しかしここまで金でがんじがらめ、ここまで金まみれで、本当に芸術を守ってるなどと言えるのでしょうか?

個々のアーティストが必ずしも、権利者団体の意向に賛同してるわけではないのがわずかな救いです。――たとえば何年前だったでしょうか。ヴォーカリストで作曲家でもある鈴木雅之はこんな言い方で、日本の著作権の現状を軽く皮肉っていました。

「私は歌手ではなく、ラブソングの歌手です。私の歌をダビングして恋人に贈ることは大いに推奨します」

写真:秋田市中心部を流れる旭川

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年6月14日 (土)

岩手・宮城内陸地震、死者6人に

20080614akita いやあ、ホントに驚きました。
30年前の宮城県沖地震に比べれば、仙台市内の揺れはたいしたことがなかったものの、なんか朝の半分寝ぼけてる時にいきなりきたので、あわてふためいちゃいました。私が住んでいる仙台市宮城野区は震度5。まあ我が家はたまたま倒れたものも無かったんですが、必死でパソコンを押さえる程度には強力な揺れでした。

備忘のためにまとめておきます。

14日午前8時43分ごろ、東北地方で強い地震があり、岩手県奥州市と宮城県栗原市で震度6強、北海道から愛知県までの広い範囲で震度6弱から1の揺れを観測した。気象庁によると、震源地は岩手県内陸南部で、震源の深さは8キロ、地震の規模を示すマグニチュード(M)は7.2と推定される。この地震で5人が死亡、155人が重軽傷。宮城県内で計11人が行方不明になっているとの情報があり、懸命の捜索・救助活動が続いている。
毎日新聞

死者はこの記事の時点からさらに一人増えているようです。

まだ被害の全容がわかっていませんが、空撮の映像を見ると、唖然とするほどの大規模ながけ崩れや道路の崩壊があったようで、震源近くの被害はかなり酷いようです。

また東北新幹線の仙台以北と秋田新幹線も終日停まっていて、私たまたま昨日まで秋田出張で、昨日の夜仙台に戻ってきたんですが、半日ずれてたら、新幹線に閉じ込められてしまうところでした。

月曜日に取材で栗原市の山の中に行く予定になってたんですが、道路が寸断されてるみたいなので、無理かもしれません。

写真:昨日の秋田市の空

| | コメント (16) | トラックバック (0)

2008年6月11日 (水)

映画評論家の水野晴郎さんが死去 驚きの事実も!

20080611mizunojp ニュースでもやってましたので、すでにご存知の方が多いと思いますが、映画評論家でシベリア超特急シリーズの監督でもある水野晴郎さんが肝不全のため亡くなられました。76歳でした。

水野さんは2006年1月に自宅兼事務所で吐血して倒れ、一時は意識不明の重態に陥りました。このときは幸い回復して映画界に復帰。一度復帰後にテレビ出演したのを見ましたが、一気に老けた感じで往年の面影はまったくなくなっていました。
さらに昨年6月には階段を踏み外して背骨を圧迫骨折。12月にも自宅で転倒して肋骨骨折するなど、晩年は病気や怪我を繰り返していたようです。

私は基本的にテレビで映画を見ないので、水野さんは映画評論家の中でもわりと疎遠というか、関心が薄かった方かもしれません。
水野さんに関しては、むしろユナイトの宣伝部にいたときの活動の方に興味を惹かれるものがあります。

当時、というのは1960年代から70年代の初めにかけてなんですが、ユナイトが配給して大ヒットした外国映画の邦題は、水野さんがつけたものが多く、自他共に認める日本語タイトルをつける名手だったようです。

Wikipediaによればユナイト時代の水野さんが邦題と宣伝を担当した作品は、

    ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!
    史上最大の作戦
    真夜中のカーボーイ
    夕陽のガンマン
    007/危機一発
    女王陛下の007
    夜の大捜査線
    チキ・チキ・バン・バン
    華麗なる賭け

などがあります。

もっとも「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」のダサさや、「夜の大捜査線」というほとんど映画の内容から離れてしまったタイトル(原題はIn The Heat of The Night『夜の熱気の中で』)、「危機一髪」じゃなくて「危機一発」とした国語的間違いなど、映画ファンの間からは水野タイトルには結構批判も多かったと思います。でもヒットしたんだから勝てば官軍ということで。

Midnight Cowboy は、そのまま訳せば「真夜中のカウボーイ」となるところですが、水野さんはカウ(牛)じゃなくてカー(車)にして「真夜中のカーボーイ」としました。これによって都会的なセンスが出て、映画はヒットしたというのが水野さんの自慢だったんですが、勿論これは映画ファンの批判の的でした。まあ、内容的に車とは何の関係もないし、カウボーイという単語に原作者は色んな意味を込めたわけですからねえ…

ところで訃報記事の中に驚くべき一行が!

 「映画って本当にいいもんですね」というあいさつで親しまれた映画評論家の水野晴郎(みずの・はるお、本名山下奉大=やました・ともひろ)さんが10日午後3時5分、肝不全のため東京都の病院で死去した。」(時事通信

なんだって!? 本名 山下奉大!???
山下奉大といえば、シベ超の主人公で、もともとは水野さんが映画「洛陽」の中で演じた山下将軍のフルネーム、山下奉文(ともゆき)の名前を一文字変えたもの。

顔がそっくりということで「洛陽」でこの役に起用された水野さんは、山下大将に対し強い思いを持っていたようで、その後自らが監督・主演した「シベリア超特急」シリーズの主人公にもした他、一文字変えた奉大(ともひろ)をペンネームとして2時間ドラマの批評活動までしていたのですが、あの・・・本名って???

解明しました。(<駄洒落じゃないから)
なんと驚いたことに水野さんは
「戸籍上の名前を改名していた!」
のだそうです(シネマトゥデイ

超ビックリです。
でもビックリはビックリですが、なんとなく水野さんなら、やりそうという気もしますね。やりそうというか、やったんですけど。

生前最後に見たDVDはポリス物の映画だったようです。いかにも警察マニアでもあった水野さんらしい最期といえるんじゃないでしょうか。ご冥福をお祈りします。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2008年6月 8日 (日)

休日の秋葉原で通り魔、17人ケガ、うち7人死亡!

200806008akihabarajp (追記あり)

今日の昼過ぎ、休日の買い物客でにぎわう秋葉原で、
「車両が歩行者数人をはねた。(さらに)運転していた男が(車をおりて)、刃物を持って歩行者数人を切りつけた。警視庁は男の身柄を確保した。けが人は10人以上に上り、刺された6人のうち5人は心肺停止状態だという。」(毎日新聞)  

camera救護する救急隊員の写真>クリック

けが人のうち一人は警察官とのことです。(なお引用記事のカッコ内は筆者)

なにがどうなってるんでしょう。秋葉原は上京するたびに訪ねる定番コース。つい先日も出張帰りに寄ってパーツを買ってきました。私にとっては東京で一番馴染みで居心地の良い場所なんですが。こんな事件が起きるとは想像だにしませんでした。

   * * *

続報です。

「ナイフのようなもので次々と通行人らに切りつけた。警察官を含む17人が刺されるなどして負傷し、うち3人が死亡した。ほかに心肺停止の人もいる。警視庁は殺人未遂の現行犯で、本籍青森県、住所静岡県裾野市の職業不詳加藤智大容疑者(25)を逮捕。」
(以上共同通信

  * * *

死者の数が増えました。

「男女17人が負傷し、このうち男性6人と女性1人の死亡が病院で確認された。
 逮捕されたのは、静岡県裾野市富沢、職業不詳加藤智大容疑者(25)。警視庁捜査1課は同署に捜査本部を設置し、容疑を殺人などに切り替えて取り調べる。
 同容疑者は「人を殺すために秋葉原に来た。世の中が嫌になった。誰でもよかった」と供述。同日に静岡を出発したという。
 死亡した7人は19歳、20歳、29歳、33歳、47歳、74歳の男性と、女性(21)。」(時事通信

写真:秋葉原(先月)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年6月 4日 (水)

iPhone は Softbank が獲得

20080604iphonejp 「この度、ソフトバンクモバイル株式会社は、今年中に日本国内において「iPhone」を発売することにつきまして、アップル社と契約を締結したことを発表いたします。」

Softbank のホームページからなんですが、心なしかわずか2行の発表がかえって誇らしげ(?)な気分を示してるような感じも。

Docomoかと噂されてたんですが、結局Softbank になったんですね。
もっとも INTERNET Watch によれば、NTTドコモはこの発表に関連し「引き続きiPhoneの発売に向けて検討を続けていく」とコメントしているそうです。

まあ私自身は今のところアメリカ製品は不買してるし、携帯はDocomoなので、どっちにせよあまりこのニュース意味は無いんです。せいぜい嫌韓厨のマカーが地団太踏むのが面白いくらいで。
どこか日本のメーカーがHDDを200Gぐらい積んで、無線LANとiモードが使えるスマートフォンを出してくれれば、すぐ買うんですけどねえ。

| | コメント (12) | トラックバック (0)

2008年6月 3日 (火)

愛と哀しみのウギ

20080603geigekijp_2 指揮者のサヴァリッシュは、言うまでもなく世界の巨匠のなかでは、最も日本人におなじみの指揮者と言えるでしょう。同じ独墺系の指揮者でもベームやヨッフムなら曲のクライマックスに向けて白熱した演奏になることが多いのに、サヴァリッシュの場合そういうことはあまりないので、中には「常に水準以上の演奏を聞かせるというだけ」と酷評する人もいます。

確かにモーツァルトやベートーヴェンだと、そんな感じもなきにしもあらずですが、そんなサヴァリッシュの演奏の中で、絶対的な価値を持つのがブラームスとR・シュトラウス。

ブラームスという作曲家の管弦楽作品は、あの分厚いオーケストラを一塊にしてドライヴするやり方では、まったく魅力は出てこないのではないでしょうか。スコアを精密に分析してすべての要素をあまねく取り出し、最適のバランスで配置してこそ、あの複雑に織り成されたテクスチュアの隙間からブラームス特有の霧に煙るような叙情と憂愁が浮かび上がってくるように思われます。

そこがサヴァリッシュで聞くと完璧で、特に70年代のライブはいずれも最上級の名演奏で溢れています(ただし後にロンドンでスタジオ録音した交響曲全集などは、なぜかスカスカで魅力に乏しいものでしたが)。

私が中でも好きなのは、これもFMで放送されたものなんですが、スイス・ロマンド時代に演奏したシェリングとのヴァイオリン協奏曲。シェリングの気品あるヴァイオリンとともに、同曲中最高の録音ではないかと思っています。市販されてないのが残念ですが。

そしてそのサヴァリッシュがN響の定期でブラームスのヴァイオリン協奏曲を取り上げるとなったら、たとえヴァイオリニストが全然知らない人だったとしても、多大な期待を抱いてしまうというものではないでしょうか。

それはたしか1980年前後じゃなかったかと記憶してますが、ヴァイオリニストはイタリア出身のウト・ウギという青年。残念なことに私は生で聞くことは出来なかったのですが、FMで聞いたその演奏は予感がぴったり当たって、大変な名演奏となりました。

特に惹かれたのはウギの艶やかな音色。そして「さすがイタリア人!」と言いたいほどに、豊かに歌われる旋律。それでいながら決して野放図に歌いすぎない節度と落ち着き。
サヴァリッシュとの相性もよほどよかったのか、二人はその後ブラームスとベートーヴェンの協奏曲に加え、サヴァリッシュがピアノを弾いて「春」と「クロイツェル」なども録音しています。

イタリア人ヴァイオリニストの中でもより鋭くきびきびした演奏を行うアッカルドがコリン・デイヴィスと組み、よりリリカルなウギがサヴァリッシュと組むというのは、なんとなくうなずけるような気がしないでしょうか。         

          note    note    note

さてそれから約30年、そのウト・ウギが来日して円熟の境地で再びブラームスの協奏曲を弾くとなったら、これはもう期待せずにいられません。ちょうどうまい具合に土・日は東京に出張だったので、聞いてきました。オーケストラは大友直人指揮東京交響楽団(会場は東京芸術劇場)。もっとも実を言うとかすかに不安要素はありました。30年といえばかなりの時、もしかして、、、いや、まさかとは思うものの、もしかしてギトリス化してるんじゃないかという…

コンサート前半はイギリスの作品で、威風堂々第5番とマクミランの「イゾベル・ゴーディの告白」。イゾベル・ゴーディというのは魔女狩りの犠牲になった女性の名前で、曲は大変にわかりやすい面白いもの。オーケストラはこの曲に全力を傾けたようで、弦は透明感と力強さを兼ね備え、管・打楽器も素晴らしい表現力で応え、期待以上の名演になりました。

そして後半のブラームス。まずオーケストラが奏でる第1主題からして、前半のマクミランとはうって変わった濁った音色。やはりイゾベル・ゴーディーで力尽きたのでしょうか?大友さんの音楽作りも、上で私が否定した「オーケストラを一塊にしてドライヴする」やり方。なんだか厭な予感・・・

でもそこまでは序の口でした。ウギのヴァイオリンが入ってきた瞬間、衝撃が・・・
ショボイのです、音色が。音量も弱くオケにかき消される時もあって。いったいあの艶やかなウギの音色はどこにいったんでしょうか。

そして最も問題なのは、高音域になると音程がおかしくなり、全部の音がぶら下がってしまうことで、ちょうど年取った歌手が高音域だけ音程が取れずに、音痴状態になるのに似ています。そんなことがヴァイオリンでも起きるんでしょうか???

カデンツァになると大分持ち直してきましたが、やはり高い方の音程が駄目。第二楽章はまあまあ。終楽章は大変に情熱的な演奏で、それはそれで聞くべき部分も随分あったように思いますが、どうしても潤いを欠いた音色と音程が気になって、とても楽しめませんでした。
ウギは1944年生まれなので、まだ64歳。ギトリス化するにはいくらなんでも早いんじゃないかと思うんですが…。会場はブラヴォーも出て、万雷の拍手。私はあまりのショックで、全曲が終わってもちょっと立ち直れないほどでしたが、聞き巧者の聴衆の方々は個性を楽しんだということなんでしょうか。

東京芸術劇場の写真は東京発フリー写真素材集さまから

| | コメント (14) | トラックバック (0)

2008年5月27日 (火)

シドニー・ポラック監督が死去

20080527pollackjpシドニー・ポラック監督が亡くなられたそうです。

シドニー・ポラックさん73歳(米映画監督、俳優)AP通信によると、26日、がんのためロサンゼルス市郊外の自宅で死去。

 85年の「愛と哀しみの果て」でアカデミー監督賞を受賞したほか、「ひとりぼっちの青春」(69年)や「トッツィー」( 82年)もアカデミー賞各賞にノミネートされた。(ネットニュース

ポラック監督は1934年、インディアナ州ラファイエットの生まれ。最初俳優を目指していましたが、テレビ出演中にフランケンハイマーと知り合うことでハリウッドへの道が開けます。テレビの監督を経て1965年に「いのちの紐」で映画監督デビュー。

この作品は私は見逃してるんですが、自殺しようとして『命の電話』に最後の電話をかけてくるアン・バンクロフトと、その電話を受けた学生アルバイトのシドニー・ポワチエという組み合わせの息詰まるドラマだったようです。公開時に「暮らしの手帖」に古谷綱正さんが批評を書いていたのを覚えています。

続いてレッドフォードとナタリー・ウッドの「雨のニューオーリンズ」をへて、アカデミー賞に大量ノミネートされたジェイン・フォンダ主演の「ひとりぼっちの青春」で一流の監督として認められるようになります。

ポラックの映画は社会派的側面とメロドラマを巧みに組み合わせた上質な娯楽作で、そのようなポラック作品の特質が完全に花開いたのが、アカデミー賞を受賞した「愛と哀しみの果て」と言えるでしょうか。

しかし、これは私だけではないと思うんですが、ポラックの代表作を一つ挙げろといわれたら、これはもう「愛と哀しみの果て」でも「トッツィー」でも「スクープ・悪意の不在」でも「ひとりぼっちの青春」でもなく、やはりバーブラの「追憶」ということになるんじゃないでしょうか。興行収入については知りませんが、もっとも多くの人々の支持を得た作品はやはりこれなんじゃないかと思います。

この「追憶」(1973)は甘美なメロドラマとしても秀逸ですが、ハリウッド映画が赤狩りを取り上げたという点でも画期的な作品でした。
もちろんすでに60年代後半には追放された人々も本名でハリウッドに復帰し、69年にはエイブラム・ポロンスキーが、71年にはダルトン・トランボが自身の監督作を発表、チャップリンも71年にアカデミー賞の名誉賞を受賞、72年にはさらにアカデミー作曲賞受賞という形で復権を果たしており、赤狩りを描いた映画が出てくることは時間の問題だったという見方も出来ますが。
(デ・ニーロの「真実の瞬間」(1991)のようなストレートな赤狩り批判の映画が出てくるまでには、さらに18年かかるわけで、ハリウッドの傷の深さが判ります。)

「追憶」はバーブラが演じる女性像なども、いかにも70年代の女性像という感じで、ポラックの全盛期とバーブラ、レッドフォード両人が最も輝いていた時期が重なったのは、まことに幸運だったといえるのかもしれません。

ポラックは「愛と哀しみの果て」でアカデミー監督賞を受賞して以後は、どうやら力量に衰えが見られることが多くなったらしく、「ハバナ」「サブリナ」「ザ・インタープリター」など批評の面でも興行的にもいまいちだったようです。私自身は見てないのでわからないのですが。
80年代後半以降の中ではトム・クルーズの「ザ・ファーム/法律事務所」がヒットはしたようです。

ポラックは俳優としても活躍し、キューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」から最近の「フィクサー」まで、話題作に出演していて、この後も7月公開の「近距離恋愛」という作品が控えてるようです。

ロイターによれば、ガンが発見されたのは10ヶ月前とのことで、闘病の末に現地時間の昨日午後5時ごろ、ロサンゼルス郊外の自宅で家族に見守られて息をひきとったとのことです。

ご冥福をお祈りいたします。

| | コメント (18) | トラックバック (1)

2008年5月10日 (土)

OS管理領域外のメモリをRAMディスクとして使う

20080510catsjp いま2ちゃんねるのWindows板やPC自作板を中心に、いわゆる祭り状態になっている話題があります。それが表題のネタ。

詳しい方は見ただけで「それは無理」と思われるでしょうし、詳しくない方はタイトルだけで「何のこっちゃ」と思われるかと思います。またWindowsの話なので、マックとLinuxには関係ありません。
しかも知識の有無にかかわらず、これ、まずほとんどの人にはメリットないですので、特別に興味・関心のある方以外はスルーして下さい。

というのも不親切な感じなので、ごく簡単に解説すると、私たちが普通使っている民生用のWindowsパソコンの場合、搭載されるメモリ容量には色々と制限があります。まずマザーボードで制限があり、最近の製品だとほとんどは4GBか8GBということになります。少数ですがもっと積める製品もありますし、また少し前の製品だと2Gとか、もっと古いものだと1Gとか512MBとかしか積めないということになります。

でOSの方でも制限があってWindowsXP、Vistaの場合、一般的に使われているもの(32bit)は4Gまでとなっています。それ以上は認識しません。それ以上、たとえば8Gなり16Gなり使おうと思ったら、あまり普及していない64bitのWindowsを使わなければなりません。

そこまではまだいいのですが、さらにそれに加えて、Windows(32bit)の場合はOSがメモリのアドレスのうちの一部を他の機能に割り当てるため、実際には3G~3.4G程度しか使えないという事態になっています。(技術的なことは詳しく説明できないので、すみませんがスルーして下さい。そもそも何故にWindowsだけ、こんな変な制限があるのかまるで理解できません。マックやLinuxは問題ないのに。)

つまり物理的には4GBのメモリを積んでいても(この場合BIOSレベルでは4Gを認識するがOSレベルでは3.4Gとか3.2Gとかになる)、実際には0.6G~1G程度がまったく使われずに無駄になっています。8G積んでいたら4.6G~5Gが無駄になっていたことになるのです。
この部分がもったいないので、RAMディスクとして使えないかというのは、自作マニアの願いでした。しかし何しろOSの管理領域外だったので、無理なこととあきらめていたわけです。

しかしまあ魅力はあるチャレンジなので、なんども2チャンの自作板などで、4G以上認識できるというネタが披露されてきました。全部ガセでした。

ところが――ついにあらわれたのです。Windowsが認識してない部分のメモリをRAMディスクとして使えるソフトが。中国(台湾かもしれません。中国語できないので、よくわかりません)で開発されたみたいですが、どうやら今度は本物のようです。
なぜOS管理領域外なのに使用できるのかは、私にはとても理解できませんので、どうぞ質問などしないで下さい。

問題はそこにRAMディスクを作って何をするかですが、普通は使い道がありませんのでおよそ意味がないと思います。キャッシュを置いたとしても電源落とすと消えてしまうので、その前にデータは手動で退避させなければなりませんから。
ただAdobeのフォトショップやアフター・イフェクツで重い画像・映像を扱っている人は(まさに私がそうなんですが)、TEMPをこのRAMディスクに設定すると素晴らしく早くなるのではないかと期待されます。あと私はよく知りませんがゲーマーにも有利らしいです。

システムを破壊する可能性が絶対に無いともいえないので、もしやろうとする方がいましたら 自 己 責 任 でお願いします。私は今は絶対にパソコンを壊せないので、もう少し暇になったらやります。

詳しくは下のURL(2ちゃんねるのスレッド)を175あたりから読んでいって下さい。527が特に重要。ダウンロードは420を参照。

http://pc11.2ch.net/test/read.cgi/win/1208334590/

追記:RAMディスクの内容を自動でバックアップするフリーソフトが出ているようです。
http://www.vector.co.jp/soft/winnt/util/se449025.html
チョー使えるって感じ!

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年5月 9日 (金)

多方面で応用可能な素敵なロジックについて

20080508zuiganjijp_3写真は松島瑞巌寺の庫裡。国宝になっています。たまたまストックの写真がこれしかなかったので使ってしまいましたが、本文とはなんの関係もありません。

    

さて、文化審議会著作権分科会の私的録音録画小委員会が、昨日(8日)開かれ、朝日の記事通り文化庁側から「iPodなど携帯プレーヤーを補償金制度の対象とする」案が提案されました。
いつものようにINTERNET Watch の記事が一番充実してますので、興味がおありの方はそちらをお読みください。

で、基本的なことは昨日書いたとおりですが、なんとも奇妙なのは次の部分。

『今後の補償金制度の基本的な考え方としては、補償金制度の縮小を前提としつつ、当面は経過措置として「音楽CDからの録音」と「無料デジタル放送からの録画」の分野について補償金制度での対応を検討するとしている。 』

明らかに補償金制度の拡大を求めた案なのに、「補償金制度の縮小を前提としつつ」などと前置きされてるのですね。なんとも不思議なロジックです。いやレトリックと言うべきなのでしょうか。
通常なら「将来的な制度の全廃を前提にしつつ、当面は廃止せず課金のパーセンテージを下げる」とかそういうのが縮小を前提とした経過措置かと思うのですが??

応用1 所得税の全廃を前提としつつ経過措置として増税するとか、
応用2 将来の大幅ベア・定昇を前提としつつ経過措置として給与とボーナスを10%カットとか、
応用3 メルセデスの購入を前提としつつ、経過措置としてクラウンを売って中古のマーチに買い換えるとか、
色々に使えそうです。

まあ、あるいはちゃんとしたコピー制限が出てくるまでの経過措置という意味かもしれませんが、CCCDが消費者にそっぽを向かれ大失敗に終わって、果たして有効なDRM(ディジタル著作権管理)なんて出てくるのでしょうか?
しかももしそういう意味だとしたら、B-CASという強力なDRMがある放送を録画するHDDレコーダーに課金するのは矛盾してるし。

ところでこの小委員会の委員の一人、ジャーナリストの津田大介氏は、席上

『「消費者は合理的な理由を求めている。補償金がどのようなプロセスを経て誰の手に渡っているのかが、現状では見えていない」として、補償金制度についての説明責任を果たすことが必要だと主張。「補償金制度を維持するというのなら、きちんとした情報公開が必須で、それを行なった上でなければ対象機器を増やすといった話は消費者の理解が得られない」として、補償金制度について消費者に対する説明責任を果たすよう』

求めています。
まったくその通りで、この「誰にどんな形で分配されているのかわからない」というのも、補償金制度の(もしかすると最大の)問題点です。
補償金は組織としては SARVH サーブと sarah サーラが担当しますが、この誰にどう渡ってるのか判らないというのは、JASRACも一緒です。個人情報だからというのが、JASRACが情報公開を拒否してる理由ですが、そのために「JASRAC内部で力を持っている演歌・歌謡曲関係の作詞・作曲家に多く分配されているのではないか」などと囁かれています(もちろん真偽のほどは判りません)。

補償金を束ねるサーブとサーラの場合、分配方法は以下のように説明されています。

「放送やレンタルレコードのサンプリング調査、CDなどの生産実績調査、また、ユーザーの皆さんからのアンケート調査など専門の統計学者の指導による手法によって、できるだけ精度の高い分配資料を作成し、これらの資料に基づいて、適正な権利者への分配を行うこととしています。」

以前に放送局のことについて書いたときにもいいましたが、このサンプリング調査(JASRACによる)というのが実にいい加減です。ワンクールに1回(1週間~2週間ぐらい。どっちだか忘れました)しか調査をしないでそれを按分しちゃうわけです。
それにアンケート調査だのいうのも、なんだか厭な感じをうけますが、しかしまあそれはともかく。
仮にJASRACのCD・放送・レンタルからの著作権料の総額が100億円、補償金の総額も100億円だったと仮定しましょう。

で仮に桑田佳祐や中島みゆきなどの有名ソングライターがそれぞれ年間1億円の著作権料をJASRACからもらっているとします。
それに対して無名の作詞家Aさんや作曲家Bさんにはそれぞれ年間千円の著作権料が渡されたとします。

補償金制度は按分ですから、桑田や中島みゆきは、補償金制度によってさらに1億円入ってきて、無名のAさん、Bさんはそれぞれ千円入ってくることになります。(もちろんアンケート調査などによる調整が入るので、厳密には同額ではありませんが。)

権利者団体はアーティストの権利という言葉をやたら振りかざしたがりますが、つまり補償金制度というのは、貧乏な一般大衆から広く少なくお金を集めて、そうでなくても億万長者のビッグなソングライターをさらに富裕にするシステムと見ることも出来ます。

前にも書きましたが、ぎりぎりヴェルディやプッチーニの遺族にでもお金が渡るんだったらまだ我慢も出来ますが、なぜに私たちクラシック好きの払った金が浜崎あゆみに渡るのか、制度がある限りやむをえないというのは頭では理解できますが、感情的にはかなりむかつく話です。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

«iPod にも私的録音録画補償金を課金?