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2005年3月13日 (日)

エレクトラ ・1 Elektra

20050313ElektraJPホームページの方の音楽のコーナーに「魔笛」に続いて「エレクトラ」を書こうと思いました。ところが頭の中では出来ているのですが、全然進みません。ようするに毎日の日記を書くだけでせいいっぱいなんです。
そこでブログに連載で書き綴っていって、出来上がったらHPに移行することにしました。
というわけでR・シュトラウス作曲、ホフマンスタール台本の「エレクトラ」の1です。

Ⅰ フリードリヒの映像版「エレクトラ」

カール・ベームの遺作ともなったゲッツ・フリードリヒ演出の映像版「エレクトラ」は、なぜか評判がいいのですが、私はかなり嫌っています。
理由は3つあって、①フリードリヒの演出上のコンセプトが気に入らない。②クリテムネストラの描き方がイヤ。③オレストとの出会いのシーンの(特に演奏の)そっけなさ。

しかしこれは好き嫌いの問題であって、水準が低いということではありません。むしろ感嘆すべきところは随所にあります。なかでも驚くべきは完璧に計算されたカメラ・アングルの緻密さ、正確さです。

作品全体を見終わったとき、まずエレクトラについては非常に多くのシーンで上から俯瞰で撮られていることが印象に残ります。なぜなのでしょうか?

作品冒頭、まずカメラは下女たちを正面からとらえます。これに対して少し遅れて登場するエレクトラはローアングル、つまり見上げる角度で捉えられます。それと共にはしため達はハイアングル(見下ろす)の映像に移っていきます。見上げる角度と見下ろす角度というこのアングルの関係は、下女たちと監視の女の関係でも正確に再現されます。

クリテムネストラが登場すると、このアングルの関係はよりはっきりしてきます。2人が同一画面に映るときを除いて、エレクトラは今度は逆にハイ・アングルで、クリテムネストラはローアングルで撮影されているのです。(顎に注目するとカメラポジションは容易に分かります。)クリテムネストラは基本的に見上げられ、エレクトラは見下ろされるわけです。
エギストはどうでしょうか?クリテムネストラと全く同じです。
オレストについては、さらに巧妙に計算されています。オレストが登場したときからエレクトラはハイアングル(見下ろす)です。しかしオレストは基本的にローアングルではなく、仮面を外した瞬間にはカメラはフィッシャー=ディースカウに正対しています。それがエレクトラがオレストの顔に手を伸ばし、2人が同一画面に映る唯一のカットを境に、オレストに対するカメラ・アングルはじわじわと見上げる角度に変化していきます。

これはいったい何を意味しているのでしょうか?

小津が人物をつねに<床>のポジションでしか撮らなかったように、カメラ・アングルというのは思想です。そしてここでフリードリヒは、それを意識的かつ徹底的に活用しているように思えます。

その意味について解釈はいかようにも出来るのですが、なにしろフリードリヒと言えば、旧東ドイツ出身。70年代にはバイロイトでの「タンホイザー」の演出に政治的スローガンを持ち込んだことで、スキャンダラスな演出家として名を上げた人。私が見た範囲ではベルリン・ドイツ・オペラの「フィガロの結婚」でも階級闘争としての視点を強く打ち出していました。そうしたことから81年という、壁が壊れる遥か以前に収録されたこの映像で、演出家は作品全体を支配者(=権力者)と被支配者の争いとしてとらえていると見るのが、最も妥当ではないかと私は考えています。

この映像版製作当時の風潮を鑑みて、権力者(=資本家)=悪という図式とするならば、当然のごとくクリテムネストラの姿は徹底的に戯画化して描かれてなければなりません。異様なお伴を連れたクリテムネストラや、化粧をほどこしいかにも退廃的な雰囲気のエギストの姿は、(私の解釈が正しいとすれば)フリードリヒのコンセプトからは必然です。
そして両方の世界を行き来するどっちつかずのクリソテミスのみはカメラ・アングルが定まっていません。

私がこのフリードリヒ版を嫌いな理由の②③としてあげた点ですが、上にも書いたように私の解釈がもし正しければ、両方ともフリードリヒのコンセプトからは当然の結論といえます。
しかし、まずクリテムネストラの描き方ですが、(シュトラウス&ホフマンスタールをどう解釈するかという点からは離れて、)ギリシャ神話・ギリシャ悲劇の登場人物としてみるならば、クリテムネストラは気位が高くそれゆえにアガメムノンを許せなかったという側面もあるわけで、すくなくとも気品がなければなりません。フリードリヒが描いたような周囲の空気をすら澱ませてしまうような、退廃的な怪物ではありません。

さらに③です。階級闘争と化したエレクトラの物語の中で、当然エレクトラとオレストの間にスウィートな感情は流れません。別撮りしたかのように、ワンカットを除いてエレクトラとオレストが同一画面に現れないフリードリヒの処理は、彼のコンセプトからは必然といえますが、しかしシュトラウス=ホフマンスタールの解釈としてはここに絶対必要な近親相姦的な感情は全く現れないのです。
リザネックとフィッシャー=ディースカウの歌も、ベテランが本気になるとここまで上手いんだぞと言う矜持は聞こえるかも知れませんが、(ベーム指揮のウィーン・フィルの演奏も含め)甘美さには程遠いものになっています。

では何故このシーンに近親相姦的な感情が必要なのでしょうか?すでにそれはエレクトラ・コンプレックスの名で知られるエレクトラのアガメムノンへの感情で示されているのであって、過剰解釈ではないかという意見もありそうです。(ちなみにホフマンスタールはこの作品の台本を書く段階で、すでにフロイトの「ヒステリー研究」等を呼んでいたことが知られていて、登場人物の心理の分析に関しては、決して無自覚・本能的に書いたわけではありません。)

なぜ近親相姦的な出会いでなければならないのかを書くのが、この文の目的であり、実はこのフリードリヒの映像版の話は全くの前置きなのですが(そもそも演出家がどう解釈しようとそれは自由なので、フリードリヒの解釈については、単に私が嫌いだというだけの話なのです)、ここでもうちょっと前置きを続けたいと思います。(続く)

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コメント

とても興味深く読みました。フリードリヒ版は最初のオペラ「エレクトラ」でした。この辺の物語は、ずっとムカシにギリシャ悲劇でかなりはまっていまして、興味の中心は、オレステスでした。それもひとつの理由だと思うのですが、フリードリヒ版には違和感があります。続き、楽しみにしてます。

投稿: edc | 2005年3月13日 (日) 05:50

TB先の記事、読ませていただきました。
サルトルの「蝿」、そういえば学生時代に読みましたねぇ。日本語訳のサルトル全集って、人文書院でしたっけ白水社でしたっけ。古本屋で買い揃えていったものです。

フリードリヒ版はフラッシュバックで出てくるアガメムノンの顔よりも、フィッシャー=ディースカウの顔の方が老けてるので、「あれれ?」と思っちゃいますよね。リアリズム(アガメムノンはエレクトラの記憶の中で美化されてる)と言う点からいけば、あるいはそうなのかもしれませんが。

投稿: TARO | 2005年3月13日 (日) 13:50

シュトラウスの作品のなかで、今ひとつつかめないのがこの『エレクトラ』です・・

派手なオケは好きだし、ドラマティックソプラノも大好き^^なんですが、ここまでオケが派手だと、流石に『うるさい』気がして、精神的にブルーな時とか、逆にハイテンションの時(つまり、普通の時ではないわけですね^^;)にはすんなりと受け入れられるような・・但し、音だけですけどね。

お話に上っている、フリードリッヒ演出の映像も見てみましたが、確かに何となく没入できない気がします。

(彼の映画版『サロメ』でも、同様の違和感を感じます・・単純にカメラワークのせいかな?とも思うんですが・・)

続きを楽しみにしています。

投稿: ヴァランシエンヌ | 2005年3月15日 (火) 08:15

ブルーな時に受け入れられるというのが、面白いですね。

私はR・シュトラウスのオペラはまず「エレクトラ」から入って(サヴァリッシュ指揮のライヴ録音)、しばらくは一番好きな作品だったんですが、今は「影の無い女」と「アラベラ」の方が好きになりました。

フリードリヒの「サロメ」は支持者が多いですけど、私も違和感ありまくりなんですよ。ヴァイクルが汚すぎるのもちょっと・・・

投稿: TARO | 2005年3月15日 (火) 13:03

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