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2005年3月29日 (火)

アラベラ・2 Arabella

20050329WienJP「アラベラ」の音楽は甘美な旋律にみたされていながら、じゃあその旋律を口ずさんでみろと言われると、「ん?」と戸惑わずにいられないという、R・シュトラウス特有の不思議な特徴を持っています。同じシュトラウスでもヨハンは勿論のこと、モーツァルトやイタリア・オペラならいくらでもメロディーは浮かんできます。ワグナーだって、オペラ好きでイゾルデの「愛の死」や「ウォータンの告別」のメロディーをなぞれない人の方が、むしろ少ないでしょう。

「アラベラ」のアナリーゼなど私の能力ではとても無理なので、聞いての印象で語ることしか出来ないのですが、「アラベラ」は全体が魅力的なサウンドに包まれているにもかかわらず、1幕・2幕ともにここがプロットポイントだ、ここがミッドポイントだと指定できるような決定的な旋律を欠いているように私には思えます。
ミッドポイントなら「椿姫」のバリトンのアリア、「ルチア」の六重唱などのように音楽的にも山場であってほしいわけですが、なにかいまひとつ決定打を欠くのです。
ストーリー上は、2幕でツデンカがマッテオにアラベラが部屋で待っていると告げるシーンが一つの山になり、ここでドラマは方向が変わります。しかしどうもここにつけられた音楽は全体のピークをなし、ドラマ全体の山場になるという性質のものではないように思われます。むしろフィアカーミリの歌のほうがよっぽど耳に残ったりして・・・

起承転結で言えば、1幕は起、2幕は承になり、3幕に転も結も押し込められているようです。しかし、純粋に台本だけを読むという作業をしたことはありませんが、ホフマンスタールのもくろみ自体は決して3幕に転も結も押し込めるつもりはなく、2幕に1つの山がくることを想定してたと思われます。R・シュトラウスの音楽がそれを裏切っているのではないか?――と感じるのです。
シュトラウスは形式上は3幕のオペラを書いたにもかかわらず、曲は往復書簡(12月18日付け)で示唆したような「ゆるい形式」になってしまったのではないかと。

そうだとすると、プロットポイントは3幕にきますが、この場合ツデンカが叫びながら部屋に飛び込んでくるところが3幕のドラマ全体の山になるということに異存のある方はいないでしょう。このシーンの後、これまで不完全燃焼だった登場人物たちがすべて一つのきっかりと焦点を結んだ人物像を形作ることになります。
つまり「エレクトラ」の
『長い序』(「アラベラ」の場合は3幕の途中まで)、
『一瞬の破』(ツデンカの登場と告白)、
『急速なカタストロフ』(「アラベラ」の場合は「大団円」)
という構造が、3幕仕立ての形式の奥に潜んでいるのではないかと思うわけです。

さてここで何が起きたのかを見る前に、この後の人物像の変化を、先に見てみることにしましょう。

まずアラベラ。妹の自己犠牲の精神にうたれたアラベラは、愛すると言うことはどういうことなのか、そして許すと言うことはどういうことなのかを知ります。そもそもアラベラはツデンカの犠牲の上に、青春を楽しんでいたわけで、妹思いの優しい姉でありながら、その根本のところには気づかないか、気づかないふりをして自分の心を欺いていた女性です。2幕までのアラベラの性格設定にいまひとつなじめないものを感じさせるのは、その欺瞞性のゆえかもしれません。
そのことに気づいたアラベラが夢見る少女の殻を脱ぎ捨て、大人の女性に成長するのはあまりにもたやすいことです。本当の大人の女になったアラベラは、同時に愛するということの本当の意味も、寛大さとは何か、許すという行為が人々に真に与えるものは何なのかをも知ります。

映画「ローマの休日」を取り上げた日記で、私は縦糸はアン王女の成長の物語で、横糸は人が人を信頼することの美しさだと書きました。
それにならって言えば、この「アラベラ」も縦糸は一夜の事件で成長した人々の物語であり、同時に(横糸は)「許す」という行為の意味であるとも言えると思います。
と言っても、その二つは分かちがたく結びついています。なぜなら「許す」ことは、単にすべてを無かったことにして無視することではないからです。「許す」ほうも、「許される」方も、その行為の後には人間的な成長があるのです。

「ローマの休日」がアン王女一人の成長の話だったのに対して、「アラベラ」の場合は全ての主要登場人物に成長が訪れます。詳述はさけますが、マンドリカも一夜にして多くのことを学びます。特に愛を。マッテオも学びます。特に真心を。そしてツデンカは真実の自分を取り戻します。(父親のヴァルトナー伯爵だけは、なんの変化も訪れずいつもの様に、というのがピリリと効いています。)

そんな風に登場人物の人格を変えてしまうような大事件であるツデンカの行為ですが、二つの意味を持っています。一つは愛する男性に身を捧げたこと、もう一つのそしてより重要なことは「性の転換」です。(明後日あたりに続く)

写真:陰謀の街、ウィーン

※Zdenkaですが、日本では普通ズデンカとカタカナ表記されているように思いますが、どうも録音を聞きますとツデンカと発音されているようです。とりあえず素直に音に従って表記してみました。

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コメント

今回の連載も興味深く、楽しみに読んでます。2回目はおおむね方向性が当たりました^^; ほんとにうまく言葉になさるので、感激です。アラベラはあまりなじめないオペラのひとつですが、確かにほんの一小節でさえ音が頭に残っていません。私が耳にしているR.シュトラウスは、サロメ、ばらの騎士、エレクトラ、影のない女 ナクソス島のアリアドネ アラベラ カプリッチョ インテルメッツォですが、アラベラとインテルメッツォです。インテルメッツォは多分1度しか視聴していないので、置いておくとして、音楽がなにひとつ浮かばないのが、アラベラです。視聴しているときは、けっこう楽しんでいるのですけど・・・

投稿: edc | 2005年3月29日 (火) 07:48

↑またやってますm(_ _)m

下の文の間違いを直してください。

私が耳にしているR.シュトラウスは、サロメ、ばらの騎士、エレクトラ、影のない女 ナクソス島のアリアドネ アラベラ カプリッチョ インテルメッツォですが、アラベラとインテルメッツォです。インテルメッツォは多分1度しか視聴していないので、置いておくとして、音楽がなにひとつ浮かばないのが、アラベラです。


正解)
私が耳にしているR.シュトラウスは、サロメ、ばらの騎士、エレクトラ、影のない女 ナクソス島のアリアドネ アラベラ カプリッチョ インテルメッツォです。インテルメッツォは多分1度しか視聴していないので、置いておくとして、音楽がなにひとつ浮かばないのが、アラベラです。

投稿: | 2005年3月29日 (火) 07:57

せっかく新しい記事を書いて下さったので、こちらへまとめちゃいますね。

>パリの舞台と言うの、マッティラが歌った時のでしょうか?

そうです。ズデンカはB.ボニー、マンドリカはT.ハンプソンです。
演出は誰だったかしら?後で確認しておきますね。

>今回の「アラベラ」は、実は『読み替えのすすめ』がテーマです。

うふふ。楽しみです。じゃんじゃんやって下さいよ~~^^結構、突っ込みどころが満載ですものね!この作品。

私はこの作品の真の主人公は、ズデンカだと思ってます。

投稿: ヴァランシエンヌ | 2005年3月29日 (火) 08:22

>euridiceさん

そう、聞いている時はウットリするんですよね。でも思い出せといわれると・・・

にもかかわらず「アラベラ」、R・シュトラウスのオペラの中では「影の無い女」とともに一番好きです。結構そのウットリ感に身をまかせているのが快感みたいな。

投稿: TARO | 2005年3月29日 (火) 23:36

>ヴァランシエンヌさん

登場人物の中でツデンカだけが好きという人も、いらっしゃいますね。メゾソプラノの大物が歌ったりすると、主役は逆転するかもしれないですね。昔のバルツァのような。

ホントに突っ込みどころ満載ですが、いつの間にか許してしまうのがR・シュトラウス・マジックというところでしょうか。

投稿: TARO | 2005年3月29日 (火) 23:42

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TARO's CAFEの興味深い連載に連動させていただきます。 なんだか自分の身の丈に合わないというか落ち着かない物語です。オペラ作品のひとつというだけで... [続きを読む]

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