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2005年3月

2005年3月31日 (木)

アラベラ・3 Arabella

20050331arabellaJPフランスの作家で文化大臣などもつとめたアンドレ・マルローが1950年代に提唱した、「空想の美術館」という言葉があります。
言葉というか概念を提示したんだと思いますが、――美術全集のように図版で絵を紹介するものを、私たちは単なる本物の代理としてとらえがちです。が、この言葉は逆にそれらを積極的に評価したもので、東西の作品をそれが本来おかれていた場所から切り離し、さまざまなものを併置することで、そこには新しい意味がうまれるのだというような考え方です。と、思います。

そのコンセプトについてはとりあえず無視して、この「空想の」という言葉だけを借りましょう。音楽好きの方なら、マルローに言われるまでもなく、昨日は「トロヴァトーレ」今日は「フィデリオ」明日は「運命の力」と、夜ごと「空想のオペラハウス」やら「空想のコンサート・ホール」やらを作り出してる人も多いことでしょう。
空想のレコーディング・プロデューサーなら私も得意です。チェリビダッケの「パルシファル」とか、ミュンシュの「トスカ」とか、カラヤンの「死の都」とか。
で、今回は空想の演出家になって「アラベラ」に読み替え演出を施してみたいと思うわけです。

この作品のキーを握るキャラはもちろんツデンカ(ズデンカ)です。
言うまでも無くシュトラウス=ホフマンスタールは「バラの騎士」で女性歌手に男性の役を歌わせ、しかもその男性役に舞台上で女装させるという、凝ったことをやりました。しかしこれはケルビーノという前例がありますから、私たちも素直に受け止めることができます。

ツデンカの場合、女性歌手が男装して出てくるだけではなく、それが実は男性として育てられた女性だったという前提のところで、むむ、、、ちょっと無理ないか?とか思っちゃうわけです。

彼女は親の伯爵に、娘を2人も社交界デビューさせるだけの金銭的余裕がないため、男の子として育てられたわけですが、もちろんこれはとんでもない親を持つと子供が苦労すると言う教訓話ではありません。
ツデンカはアラベラの求婚者の一人であるマッテオの親友であると同時に、彼を愛してもいます。しかしアラベラの幸せのためには自分は犠牲になろうと決めています。この犠牲になり方が、ワグナーのヒロインのように勇ましくかつ凛々しく犠牲になりにいくわけではなくて、なんとなく人生投げてる風なのはシュトラウスの甘い音楽が煽る虚無感のせいでしょうか。

愛するマッテオと姉アラベラの間を取り持とうと、いかにマッテオが彼女にふさわしいかお姉さんに売り込むわけですが、アラベラはマッテオにはさして気が無いわけですから、ツデンカの努力は空回り。マッテオにアラベラは本当はあなたのことが好きなのなどと、適当なことを言っていた報いが2幕にやってきます。

相手にされず嘆くマッテオに対して、彼女はアラベラが部屋で待っていると言って部屋の鍵を渡し、アラベラの代わりに自分がその部屋に行くことにするのです。
そして(舞台では演じられませんけども)暗闇の中で、彼女はアラベラとしてマッテオに抱かれるわけですが、いくらなんでもルチア・ポップとジュリー・カウフマンを間違わねえだろう。――というシュトラウス・オペラ最大の突っ込み所が出現します。(固有名詞はいかようにでも――)

こういう状況はめったに起きることではないと思いますが、このてのシチュエイションで女性がどう感じるものなのかというのは、男にはわからないことなので、深く追求するのはやめます。

私が気になるのはむしろ、この体験でツデンカはどう変わったのかということなのです。アラベラもマンドリカもマッテオも、ツデンカの行為と彼女の心にうたれて、人間としての成長をみせます。その成長が無かったら、この作品は少し変わった人たちの話で終わってしまいます。

でもツデンカ自身は?――彼女は世間的には男の子だったわけですが、家族のなかでは勿論女の子として遇されていました。姉のアラベラは既に、そろそろ妹を女に戻してやらなくちゃと思っていたりもします。
つまりツデンカはよく言えば本来の姿に戻ったのですが、悪く言えば単に隠していたことを世間に公表しただけということになります。

でもこの行為は、それまで無意味な犠牲的精神で、青春とも思えないあきらめ人生を送っていたツデンカにとって、一世一代の大芝居だった筈です。私としてはこれによって彼女は人格的にも成長して欲しいのです。人間的な変化がほしい。単に女に戻って、マッテオと結ばれました。めでたしめでたしだけではなく、自分自身を押さえつけてあきらめていた人生から、本当の自分をみつけて自己を解放して欲しいわけです。
他の登場人物への影響度を考えると、ツデンカの行為にそのぐらいの重要度を与えたほうが、ドラマとしてよりインパクトが強いものになるのではないかと思うのです。

そこで「空想の読み替え演出」の登場です。ツデンカ/ツデンコを性同一性障害の少年として読み替えてみてはどうでしょうか。(明後日あたりに続く)

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2005年3月30日 (水)

初めての体験

20050330rainJP♪りりりり~ん
「はいKIMURAです」
「(中年女性の声)こちらは○ずほ銀行コールセンターと申します。TAROさんいらっしゃいますか?」
「――え?○ずほ銀行ナニっておっしゃいました?」
「○ずほ銀行コールセンターです」
「(コールセンター?銀行にコールセンター?通販みたい・・・)どのようなご用件ですか?」
「このたびのペイオフ解禁にそなえて、お客様の預金を保護するために、ご案内してるんですが」
「(なんだそれ?これって、もしや噂のアレ?)はあ・・・」
「お客様TAROさまご本人でいらっしゃいますか?」(ご本人様と様をつけたほうがベターだよね)
「(一瞬迷うが)はい」
「確認のために生年月日をお願いします」
「(きたきた。これかぁ、個人情報聞き出す詐欺電話。初めての体験、ドキドキしちゃうかも)あの、すみません、何に備えてのご案内っておっしゃったんですか?」
「ペイオフです」
「何ですか、ペイオフって」
「あの・・・銀行が破綻した場合にですね、」
「ええっ!○ずほ銀行は破綻したんですか?」
「あ、そうじゃないんです。もし万一破綻した場合ですが、1000万円以上の預金をなさっているお客様の場合、預金がゼロになるんですね。それで」
「(おいおい、その説明ちょっと違うだろ!)エー、全然知りませんでしたぁ」
「それで預金保護のためにご案内してます」
「じゃあ、もし万一破綻しなかった場合はどうなるんですか?」
「え?」
「もし万一破綻した場合はゼロになるんですよね。もし万一破綻しなかったらどうなるんですか」
「あの。ちょっとお待ちください・・・ガチャッ」
あ、切った。失礼なヤツだなあ。もっと遊びたかったのに。

(これって1000万円以上預金してる人はこっちに移せとか言って金を移動させる新手の詐欺?それともこのあと引き続いて暗証番号とか聞きだそうとする流行の電話?○ずほ銀行に警告したほうがいいのかなぁ。)

追記:
というわけで本日、みずほ銀行に電話してみました。ヒエッ!驚き。コールセンターというところはあるんですって。しかも今、口座のある人に確認作業もしているとか。じゃあ、ホントにちゃんとした電話だったのかな?--でも「預金保護のためというのは変で、単なる確認作業ですし、いきなりガチャッと電話をきるような失礼なことはしないと思うんですが」とのこと。むむ・・・

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2005年3月29日 (火)

アラベラ・2 Arabella

20050329WienJP「アラベラ」の音楽は甘美な旋律にみたされていながら、じゃあその旋律を口ずさんでみろと言われると、「ん?」と戸惑わずにいられないという、R・シュトラウス特有の不思議な特徴を持っています。同じシュトラウスでもヨハンは勿論のこと、モーツァルトやイタリア・オペラならいくらでもメロディーは浮かんできます。ワグナーだって、オペラ好きでイゾルデの「愛の死」や「ウォータンの告別」のメロディーをなぞれない人の方が、むしろ少ないでしょう。

「アラベラ」のアナリーゼなど私の能力ではとても無理なので、聞いての印象で語ることしか出来ないのですが、「アラベラ」は全体が魅力的なサウンドに包まれているにもかかわらず、1幕・2幕ともにここがプロットポイントだ、ここがミッドポイントだと指定できるような決定的な旋律を欠いているように私には思えます。
ミッドポイントなら「椿姫」のバリトンのアリア、「ルチア」の六重唱などのように音楽的にも山場であってほしいわけですが、なにかいまひとつ決定打を欠くのです。
ストーリー上は、2幕でツデンカがマッテオにアラベラが部屋で待っていると告げるシーンが一つの山になり、ここでドラマは方向が変わります。しかしどうもここにつけられた音楽は全体のピークをなし、ドラマ全体の山場になるという性質のものではないように思われます。むしろフィアカーミリの歌のほうがよっぽど耳に残ったりして・・・

起承転結で言えば、1幕は起、2幕は承になり、3幕に転も結も押し込められているようです。しかし、純粋に台本だけを読むという作業をしたことはありませんが、ホフマンスタールのもくろみ自体は決して3幕に転も結も押し込めるつもりはなく、2幕に1つの山がくることを想定してたと思われます。R・シュトラウスの音楽がそれを裏切っているのではないか?――と感じるのです。
シュトラウスは形式上は3幕のオペラを書いたにもかかわらず、曲は往復書簡(12月18日付け)で示唆したような「ゆるい形式」になってしまったのではないかと。

そうだとすると、プロットポイントは3幕にきますが、この場合ツデンカが叫びながら部屋に飛び込んでくるところが3幕のドラマ全体の山になるということに異存のある方はいないでしょう。このシーンの後、これまで不完全燃焼だった登場人物たちがすべて一つのきっかりと焦点を結んだ人物像を形作ることになります。
つまり「エレクトラ」の
『長い序』(「アラベラ」の場合は3幕の途中まで)、
『一瞬の破』(ツデンカの登場と告白)、
『急速なカタストロフ』(「アラベラ」の場合は「大団円」)
という構造が、3幕仕立ての形式の奥に潜んでいるのではないかと思うわけです。

さてここで何が起きたのかを見る前に、この後の人物像の変化を、先に見てみることにしましょう。

まずアラベラ。妹の自己犠牲の精神にうたれたアラベラは、愛すると言うことはどういうことなのか、そして許すと言うことはどういうことなのかを知ります。そもそもアラベラはツデンカの犠牲の上に、青春を楽しんでいたわけで、妹思いの優しい姉でありながら、その根本のところには気づかないか、気づかないふりをして自分の心を欺いていた女性です。2幕までのアラベラの性格設定にいまひとつなじめないものを感じさせるのは、その欺瞞性のゆえかもしれません。
そのことに気づいたアラベラが夢見る少女の殻を脱ぎ捨て、大人の女性に成長するのはあまりにもたやすいことです。本当の大人の女になったアラベラは、同時に愛するということの本当の意味も、寛大さとは何か、許すという行為が人々に真に与えるものは何なのかをも知ります。

映画「ローマの休日」を取り上げた日記で、私は縦糸はアン王女の成長の物語で、横糸は人が人を信頼することの美しさだと書きました。
それにならって言えば、この「アラベラ」も縦糸は一夜の事件で成長した人々の物語であり、同時に(横糸は)「許す」という行為の意味であるとも言えると思います。
と言っても、その二つは分かちがたく結びついています。なぜなら「許す」ことは、単にすべてを無かったことにして無視することではないからです。「許す」ほうも、「許される」方も、その行為の後には人間的な成長があるのです。

「ローマの休日」がアン王女一人の成長の話だったのに対して、「アラベラ」の場合は全ての主要登場人物に成長が訪れます。詳述はさけますが、マンドリカも一夜にして多くのことを学びます。特に愛を。マッテオも学びます。特に真心を。そしてツデンカは真実の自分を取り戻します。(父親のヴァルトナー伯爵だけは、なんの変化も訪れずいつもの様に、というのがピリリと効いています。)

そんな風に登場人物の人格を変えてしまうような大事件であるツデンカの行為ですが、二つの意味を持っています。一つは愛する男性に身を捧げたこと、もう一つのそしてより重要なことは「性の転換」です。(明後日あたりに続く)

写真:陰謀の街、ウィーン

※Zdenkaですが、日本では普通ズデンカとカタカナ表記されているように思いますが、どうも録音を聞きますとツデンカと発音されているようです。とりあえず素直に音に従って表記してみました。

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2005年3月28日 (月)

名前のない路地~横町シリーズ・5

20050328namaenonairojiJPこの写真の路地は三越の裏手と言えばいいのか、タワービルの脇の山頭火の先から三越方面に抜ける路です。もうちょっとちゃんと言うと、タワービルの裏手、一番町と二番町の間の三越に突き当たる通りがありますが、その通りの一番三越よりの部分、その東側に一本走っている小さな抜け道があります。そこ。
「なんとか横町」の名前ぐらいついててもいいのに、それがないのは「大通りから派生する」と言う、横町の定義を満たしてないからでしょう。
でも行列の出来るラーメン屋とか安くてボリュームたっぷりの居酒屋とか、じつは穴場な路地なのですね。

写真は雪の日に撮ったので、道路が白くなっています。仙台には終戦直後の雰囲気を残した横町はいくつかありますが、こういうちょっと八代亜紀フィーリングな情緒をかもしだす所はあまりみかけません。港町じゃないからでしょうか。

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2005年3月27日 (日)

アラベラ・1 Arabella

20050327wienJP「エレクトラ」に続いて、R・シュトラウスの「アラベラ」を。
「アラベラ」はホフマンスタールが自らの小説を元にして、新たに書き下ろしたオリジナルのオペラ台本に基づく作品です。この作品を上演する際に、現在は主に2つのやり方があります。一つは原作通り3幕仕立てで上演するやりかた。もう一つは3幕への前奏曲を割愛して、2幕と3幕を続けて演奏するもの。
ウィーンのは後者だそうですし、私は見ておりませんが新国立劇場での上演(しのぶさんがキャンセルした時の)も後者と聞いています。日本初演だった88年のバイエルン国立歌劇場の上演は、オリジナル通りの3幕仕立てでした。

「アラベラ」はかなり風変わりなお話です。
主人公のアラベラはウィーンの没落貴族の娘で、絶世の美女。でもそろそろ婚期をのがしそう。求婚者はひきもきらずなのですが、心のどこかで王子様が出現するのを待ち望んでいるのでしょうか?結婚に踏み切れません。
一家はウィーンでしがない(2流の)ホテル住まい。お金がないのに両親は、父親が博打好き、母親は占いに凝ってたりして・・・希望をつなぐのはアラベラがお金持ちと結婚できるかどうかだけという情けない状態。
妹のツデンカ(ズデンカ)は、娘をもう一人育てる余裕がないからといって、ツデンコという名前で男の子として育てられています。しかし彼女も恋をする年頃、姉アラベラへの熱心な求愛者の一人である軍人マッテオを愛しているのに、勿論マッテオはツデンコを男の子だと信じきっています。
そこに遠く離れたクロアチアから一人の男性がやってきます。名前はマンドリカ。おじさんの遺産と広大な領地を受け継いだ大金持ちの独身男性なのですが、故郷の森では熊を投げ飛ばしてたりするワイルド派。この人いきなり見知らぬアラベラの家にやってきます。なぜかアラベラの肖像画を持っていて、それに一目ぼれ、彼女に求婚に来たのでした。
そして、そして・・・

――という話なのですが、この作品の登場人物、全員どこか変なのです。アラベラは美人な上に心優しい娘ではあるのですが、ちょっと自己中なところがあるし、いい年して夢見る乙女から卒業できません。マンドリカもどうも世間ズレして、いうことやることがいちいち意表をついています。加えて自堕落な父親、女なのに男として育てられた妹、間抜けな求婚者・・・

先に「エレクトラ」について書いたときに、作品の構造は「長い序」「一瞬の破」「急速なカタストロフ」となっているということにして話を進めました。
あまり賛同は得られないかも知れませんが、実は私は「アラベラ」についても同じ構造が潜んでいるのではないかと考えています。仮にもしそうだとすれば、「一瞬の破」に相当するのはどこで、「破」の前と後では何が変わるのでしょうか?

結論を先に書くと登場人物の人格が変わるのですが、まずその前に、わざわざ3幕の劇を1幕風に解釈することに妥当性はあるのかどうか?シュトラウスとホフマンスタールの往復書簡をみてみましょう。
この作品はかなり産みの苦しみがあったようで、2人の間に交わされた手紙は、相当に厳しいものになっています。その形式についてシュトラウスは、まだストーリーの骨子も固まっていない段階での手紙ですが、話の展開がまったく不満足なものであることを述べた後に、

>全体の構造を憂慮し、素材をそれぞれ完結する三つの幕の中にうまく取り込めないのなら、どうして『インテルメッツォ』の解き放たれたゆるやかな形式を選ぼうとしないのですか。

と書いています(1927年12月18日の手紙)。インテルメッツォというのは間奏曲と言う意味の普通名詞ではなくて、R・シュトラウスのオペラのタイトルです。これはシュトラウス自身が台本を書いた2幕のオペラで、場面を間奏曲でつないでいく作品です。
かっちりとした形式を持たない、1幕なり2幕なりのゆるい形式の作品にしてはどうかと提案しているわけです。

一方これに対して、ホフマンスタールは、

>喜劇にこの形式を使うことは全く考えられません。(中略)この形式からあなたの内部で呼び起こされているのは、永遠に心の中で演劇的人格と対立する、あなたの交響曲的人格です。しかし今回は、『薔薇の騎士』を作った際に一緒だった快活な演劇的人格に、私は会いたいのです。

と述べていて(1927年12月22日の手紙)、3幕の喜劇という形式にこだわりを見せています。

引用はしませんが、続きを読むとどうもホフマンスタールは、1幕形式というのは「(映画のように)画像が次々と押し寄せる荒々しく強烈な効果を持ったあらすじ、生のイメージ」にふさわしいもので、「快活で喜劇的な効果」は3幕の厳格な形式によって保たれると考えていたようです。

ホフマンスタールの遺作となった「アラベラ」の台本は、私たちがよく知るように3幕ものとして完成されました。しかしそれにつけられたシュトラウスの音楽はどうだったのでしょうか。(明後日あたりに続く)

写真:謀略の都ウィーン

※Arabellaはつづりをご覧いただければお分かりのようにLがダブっているので、アラベッラと表記する方がベターかもしれません。新国もそっちを使っていたと思います。ここではよりポピュラーなアラベラという書き方を選びました。

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2005年3月26日 (土)

ご挨拶

200503026fullcastmiyagiJP昨年暮れにこのブログとHPをスタートしてから、明日でまる3ヶ月になります。1週間続くかどうかと思っていたのですが、まさか3ヶ月間毎日書き続けられるとは。昨日の段階で、アクセス数が9993(Niftyのココログはアクセス・カウンターをサイトのデザインに反映できないのです)。今日中には10,000ヒットを超えると思います。
これもつまらない記事でも我慢して(?)読んでくださる皆様のおかげ、まことにありがとうございます。またいつもコメントをつけてくださる方々には、ことのほか感謝いたします。

この3ヶ月で一番アクセスが多かった話題は、なんと「あびる優」。これはちょっとビックリ&苦笑いでした。
またココログでは検索された単語も、毎日リストアップされます。前に「巨乳」と「写真」という言葉で検索された方がいらっしゃいました。え、なんで?と一瞬思ったのですが、そうそう。1月の初めのほうで、「日本語の複数形の表現」と言う話題を取り上げた時に、枕に叶姉妹のことを書いたのでした。

ああ、なんと申し訳ないことをしたんでしょうか・・・ 
この方はきっと、検索でひっかかったサイトを開くと、巨乳美女の写真がドバッと出てくると思ったに違いありません。そしたらなんだか小難しい複数形がどうだとかこうだとか。もはやこの日記を見てくださってはいないとは思いますが、こころからお詫び申し上げます。
あ、それからこの前「セクシー」と「居酒屋」で検索された方にも、お詫びを。30年ぐらい前に流行したノーパン喫茶の居酒屋版みたいなのを探されてたと思うのですが、なんの役にもたたなくてすみません。

ブログを毎日書いてる代わりに、本体のHPの方がすっかり休止状態なのですが、きょう、「エレクトラ」をHPに移行(というかコピー)いたしました。4月からはHPも(少なくとも今よりは)充実させたいとおもっております。

それでは、今後ともよろしくお願い申し上げます。

写真:新装あいなった県営宮城球場あらため「フルキャストスタジアム宮城」。

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2005年3月25日 (金)

アド・パルナッスム~名画と名曲・6

20050325adParnassumクレーついでにもう一つ「アド・パルナッスム(Ad Parnassum)」。この作品はクレーの中でも特に有名なものの一つ。1932年ですからドイツ時代に描かれたものですが、現在はベルンの美術館にあります。

アド(AD)というのは、ラテン語の前置詞で英語の to とか toward とかの意味を持ちます。パルナッスム(PARNASSUM)はギリシャのパルナッソス山のことで、ギリシャ語のオスはラテン語ではウスに変わるので、パルナッソスがパルナッススに変わり、さらにそれが格変化して語尾がウムになったもの。「パルナッソス山へ(の方に・向かって)」というような意味になります。

アポロンの住む山パルナッソスが、曙に輝くさまが描かれているのですが、四方八方からさしこむ光がおりなす壮麗な光の祭典という印象も与えます。
クレーの絵はよく音楽的だとか、音楽のようだとか言われますが、その特徴がこれほどハッキリ出ているのも他にないのではないでしょうか。
印象派の絵が補色の並置によって微妙な色彩効果や光の効果を出すのに対して、クレーの場合は同系色を並べていったり、より明るい色に包み込んで行ったりして、色を変化させていきます。それはまさにハーモニーという言葉を連想させますし、色彩の変化はとてもリズミカルで、それも音楽を思わせずにはおきません。

そして「アド・パルナッスム」と言えば、当然ドビュッシーです。
「子供の領分」を作曲することになったいきさつや、第1曲「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」にこめられたユーモアなどは、どのCD解説にもかいてありますから省略します。
私が初めて入手したドビュッシーのピアノ曲ですが、ギーゼキングのをこれは自分で買ったんじゃなくて、もらいました(もちろんLP)。
自分で買った最初のはベネデッティ=ミケランジェリのDG盤でした(もちろんLP)。

それにしてもこの「子供の領分」、大変に有名でCDも数多く出ている曲でありながら、意外とコンサートで演奏されるということは少ないんじゃないでしょうか?ベートーヴェン弾きが月光ソナタを、ショパン弾きが夜想曲Op.9の2をめったに弾かないのと一緒で、有名すぎて敬遠されてるのでしょうか?

ところで、ドビュッシーにこんな皮肉なタイトルをつけさせる原因ともなった、問題のクレメンティの「グラドゥス・アド・パルナッスム」ですが、こういうのはCDであるんだろうかと思って調べてみたら、なんとあるんですね。ARTSレーベルから4枚組みで出ていました。演奏は数人のピアニストが分担してるようですが、ブルーノ・カニーノのような有名ピアニストが弾いてるので驚き。

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2005年3月24日 (木)

ゲツァイヒネター~名画と名曲・5

20050324jp昨日の記事でシュレーカーの「ゲツァイヒネテン」の話題を取り上げました。この作品の原題はドイツ語で Die Gezeichneten 。zeichnen というのは印を付けるという意味で、英語だと mark に相当します。gezeichnet で「印のついた」とか「署名された」とかいう意味になり、定冠詞がついてかつ複数形になるので、英語に直したら The marked men とでもなるのでしょうか。
辞書によるとzeichnenという単語は比喩的に「烙印を押す」というニュアンスででも使われるようで、最初の日本盤CDのタイトルを「烙印を押された人々」とやったのは、きっと作品のおどろおどろしい内容にぴったりと思ったのでしょう。

この絵はパウル・クレーの作品。オペラとは何の関係もありませんが、タイトルが Gezeichneter なので取り上げてみました。単数形になって英語のタイトルは Marked Man です。
デュッセルドルフのノルトライン・ウエストファーレン州立美術館にあります。

パッと見、クレーと聞かされて、えっ!?と思う方もいらっしゃるんじゃないでしょうか?色使いがやや意外な感がありますし、ちょっと鉄の仮面を思わせるようなところもありますね。
シュレーカーの作品のCDジャケットに使っても合いそうな気がします。

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2005年3月23日 (水)

オペラの演出-なぜ途中で帰れるのだろうか?

20050323DuidburgJP私は最近はめったにオペラは見ないので、少し前の舞台を例に挙げるのをお許し下さい。

フランツ・シュレーカーに「ゲツァイヒネテン」というオペラがあります。
後期ロマン派風のねっとりとした旋律と、新ウィーン楽派につながる斬新な響きの音楽。登場するのは高貴な精神と醜い外見を持つ男、美貌の女流画家、イタリアの貴族たち。そしてそこに愛、性、美、犯罪、裏切りなどなどをタップリつめこんだストーリーが織り込まれるという、もう実に耽美的な作品です。日本では最初に発売された国内盤CDに「烙印を押された人々」とかいうタイトルが付けられていたので、その名前でご存知の方のほうが多いかもしれません。

80年代の後半に私はライン・ドイツ・オペラで、ギュンター・クレーマー演出のこの作品を見ました。これは大変素晴らしい舞台で、冒頭すでにオペラが始まる前から、舞台はあいています。そこには池があり2人の小さな子供たちが天使のような格好をして遊んでいます。池にはピンクのフラミンゴ(本物)が数羽。でまあ、色々あってこの夢の楽園が、オペラの最後には裸の死体が累々と積まれた修羅場になってしまいます。

このクレーマーの演出は私が見た時点ではすでに名作として評価が定まっていましたが、プレミエの時には非常に激しい反応が出て、信じがたいことに途中で帰る客もいたそうです。

理由は2幕のバリトンとバスのシーンで、クレーマーは2人を同性愛の関係にしたからなのでした。幕が開くと舞台中央には大きなダブルベッド。タンクトップ姿で乱れたシーツにくるまっているバス。窓辺でタバコをふかしているバリトンは上半身裸、下半身はナチスを思わせる軍服のズボン。(しかも2人ともやたらマッチョだったりする。)
――というだけで、いまどきの過激演出に比べたら可愛いモンですが、どうもここが当時の一部の観客の逆鱗に触れたらしいのでした。

しかしここで帰った人は、その後に展開される深いクレーマー・ワールドと感動のラストシーンを見逃すことになります。たかだかワンシーンが気にくわなかったと言うだけで。(しかも美貌と演技力を兼ね備えたトゥルデリーゼ・シュミットと、主人公役のスペシャリストで2種類の全曲盤があるウィリアム・コックランの熱演も見ずに。)

それがどんなシーンであろうとも、何故そのシーンが必要だったのか、それが全体の中でどのような意味を持っているのかは、当然全てを見終わらなければ判断できません。
全体像を見据えることなしに、作品の核心にはせまれません。

ではとりあえず全部見ておけば、核心にせまれるのでしょうか?

昔の「赤旗」の映画評というのを読んだことがあるのですが、非常にしばしば噴飯物の批評にめぐりあいます。要するに特定のイデオロギーに染まった目で見ていくので、部分部分をイデオロギーで切っていくことは出来るのですが、全く映画の全体を見れてないのです。

しかし。イデオロギーというのは政治的なことだけではありません。たとえば「オペラは音楽が主、舞台は従」というのもイデオロギーだし、読み替えはけしからんとかいうのもイデオロギーなら、ハイCが出るかどうかが一番大事というのもイデオロギーです。

部分に対する過剰な感情的反応の積み重ねではなく、出来るだけ心を開いてそこに何があるのかそれが何を言わんとしてるのか、最後まで舞台と真剣に対峙し、わからなければ考えると言うこと。それなしに、核心にせまることは不可能だと私は思っています。

あっ!でも・・・
勿論私などとは違って、見巧者・聞き巧者の方々は、どんなに心を閉ざし、否定的反応を終始行っていたとしても、十分批評可能なだけのものをつかみうるのかもしれません。
であるのなら、それはそれで良しとしましょう。
幸か不幸か私はダメで、つねに心をまっ更にして全面的に受け入れる気持ちで、舞台に向かわないとその作品の全てはつかみえないのです。

そしてそんな私にとって、途中ではやばやと結論を出しえて、ブーイングなんかを出来る人というのは、理解を超えた異星人のような人々なのです。

写真:ドゥイスブルクの歌劇場。ご承知のようにライン・ドイツ・オペラはデュッセルドルフとドゥイスブルクの二つの街が合同で作っている。カンパニーとしては一つなのだが、それぞれに立派な劇場があり、オーケストラ・コーラスはそれぞれに付属している。
指揮者・ソリスト・プロダクションは勿論共通で、デュッセルドルフでまずプレミエが出され、その後ドゥイスブルクに移ることが多い。

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2005年3月22日 (火)

竹屋横町と河原町横町~横町シリーズ・4

20050322takeyayokochoJP竹屋横町(左の写真)は仙台市若林区の南材木町から続く横町です。南材通りを蔵造りの店構えで知られる小林薬局さんの斜め向かいあたりから入っていく、ちょうど南材木町小学校のぴったり裏手を通る横町です。
昔は当然ここには竹屋さんが並んでいたのだそうです。大通りに出れば(南材通りは昔は奥州街道だった)材木屋さん、横町にはいると竹屋さんというわけです。

仙台七夕の時には、この横町から仙台市内の家々、お屋敷に竹が運ばれたんだろうなあ・・・などと、思わずのどかな想像をしてしまいます。ちょっと歩いてみたんですが、今はもうないんでしょうか?竹屋さん、見つけられませんでした。

20050322kawaramachiyokochoJP南材木町をそのまま南に行くと河原町になりますが、ここで河原町横町(右の写真)という横町を発見しました。むむ!河原町横町。知らない・・・
河原町商店街をちょっと進んで、右手から南に入っていく、どうもなんてことなさそうな普通の通りなんですが。写真でもわかるようにマンションだらけ。ネットで調べてもどういう性格の通りかまるで判りませんでした。でも仙台市が立てた標識があるので、由緒ある名前かと思うんですが。

ちなみに河原町は藩政時代は仙台市の南の玄関口。ここで広瀬川を渡って仙台入りした旅人から一種の関税みたいなものを取ってたんですね。

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2005年3月21日 (月)

ブーイング

20050321ParmaJP(このブログを読んでくださってる方のうち、音楽好き・オペラ好きの方の割合はかなり多いはずで、もしかしたらその半分以上の方を敵に回すかもしれないのだが・・・)

私はいまだかつてブーイングというものをしたことがない。理由は二つ。

いったいブーイングをする観客と言うのは、自分を何様だと思ってるのだろうか。なぜそう演奏したのか、なぜそう演出されているのか。そんなことを考えもせずに、単に自分の気に入らなかったから、いままで(CDで)聞いてきた演奏と違うから、ブーを叫んでいるのではないのか?

かつてベルリン・ドイツ・オペラが「ニーベルングの指輪」4部作の一括上演の日本初演を行った時、指揮者(ヘスス・ロペス=コボス)にブーイングしてる観客がいたという。どこが気に入らなかったのかと聞いたら、「フルトヴェングラーの演奏と違っていたから」と言ったとか・・・
このエピソードは、音楽雑誌などでも何度も紹介されているので、ご存知の方が多いと思う。もちろんこの話を聞いて、誰もが「馬鹿なやつ」と思うだろう。「かわいそうに」と哀れみを持つ人も多いに違いない。だが実は他のブーイングをしてる人たちも同じ穴の狢ではないのか。

「いや違う。もともと作曲家の書いた音楽に対して、冒涜的な演奏と判断したからブーを言ったのだ」、などという反論も、あるいは『あり』だろうか?
だが私には、今度はその人が「なぜそこまで自分に対して自信がもてるのか」が理解できない。そんなの自分が作曲した曲に対してのみ主張していただきたい。

少なくとも私は演奏者に対しては感謝の気持ちを持っているし、持ち続けたいとも思う。たとえどんな拙い演奏であったとしてもである。

第二の理由は下品だと言うことだ。公衆の前で「ブー」などとおならのような声を発する行為など、私たちの生活習慣の中にはない。私は断じて国粋主義者ではないが、しかしそれを下品とすら感じないほどの「西洋かぶれ」には死んでもなりたくない。

写真:イタリアで最も厳しい聴衆が集まると言われるパルマ歌劇場。だがオケや合唱の水準は低く、そのレベルは三大歌劇場(ミラノ、フィレンツェ、ボローニャ)の足元にも及ばない。高いのは聴衆のプライドだけと思われる。

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2005年3月20日 (日)

America

20050320americaJP「猫の目農政」という言葉があった。くるくる変わる国の農業政策を揶揄した言葉。
教育についても言えはしないだろうか?子供たちの知力の向上について、国はどういう方針で臨んでいるのだろう。なんだかさっぱり分からない。
昔円周率を『3.14』ではなく『3』で教えることになって、さすがにそれは批判の嵐ですぐに撤回されたが、今度は逆にゆとり教育を見直すとかなんだとか、何がどうなっているのやら。

前に子供向けの科学番組を担当してた時、私はよく一緒に仕事をするスタッフから、そこまで説明しなくてもとか、そこは分からなくてもいいんじゃないですかとか、言われることがあった。

これは私の悪い癖で、確かに子供たちは理解できないものには興味を示さないし、TVなのだから誰にでも分かる範囲でおさめるべきなのだ。だからこれはTVの話と言うことではなく、あくまでも一般論としてということなのだが、子供たちの潜在能力はものすごく高いと思う。

たとえば暗記。戦後教育の中で暗記という行為は、なにかすごく虚しい作業のように考えられてきたと思うが、しかし頭の柔らかい子供のうちに暗記しなかったら、いつやるのだろうと思う。円周率だって3.141592ぐらいまでは小学校で教えるべきだと思う。覚えられない人が3.14で止めておけばいいのだ。実際私は子供時代に普通に覚えたこの数字を、今も忘れていない。私はクリスチャンではないが、新約聖書の『アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟らを生み(以下略)』というのも覚えてみたりした。なんか面白そうだったので。

それに私は子供のころ、学校の先生も含めて大人の説明というものが、いつも中途半端なことにかなり不満をいだいてきた。先生に追求すればいいのだが、私は質問をしない子だったので、ひたすら不満だけが蓄積していたのである。

たとえば「アメリカ」という国の名前の由来。これはアメリゴ・ヴェスプッチの名前を取って「アメリカ」となったのである。――という説明は誰でも知ってると思うし、小学校か中学校のどちらかで教えると思う。

「だから~、なんでアメリがアメリになるの?」と、あなたは思わなかっただろうか。
私は思った。でも質問できない子だったし、他の人も別に誰も不思議に思わずにそのまま素通りするので、分からないのは自分だけなんだと思って、そのまま不満の池に放り込んで終わりにしたのだった。

ようやくそれが判ったのは大学に入ってラテン語の授業をとったときだった。アメリゴ・ヴェスプッチはイタリア人だが、昔は公文書はラテン語で書かれることが多く、その場合ラテン名で署名がなされた。アメリゴのラテン形はアメリクス Americus なので、そこに(正しく言うと語幹のAmericに)ラテン語の場所を表す語尾の –a がついて America となった。小学生の不満は十年越しでようやく解消されたわけである。
(※ ちなみにアフリカの場合はアメリカとは違って、-ica が語尾。)

小学生にラテン語の文法を教えろとは言わない。しかし「大昔のイタリアやスペインではラテン語という言葉を使ってて、それはイタリア語やスペイン語、フランス語などの先祖である。このラテン語は日常会話では使われなくなったものの、キリスト教関係や公の書類・論文などではずっとつかわれてきた。アメリゴ・ヴェスプッチの場合は――」ぐらいのことは教えてもいいと思う。
「アメリカという名前はアメリゴに由来します」で終わりにするよりは、ずっと判りやすいと思うのだ。

繰り返すが子供の潜在能力は高い。大人の浅はかさで調整しないで、可能なギリギリまで与えるべきだと思う。

写真:America

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2005年3月19日 (土)

コンサート~名画と名曲・4

20050319VermeerConcertボストンの地下鉄は郊外に出ると地上を走るので、地下鉄と言うよりは市電と呼びたい趣きになる。駅には有名なボストン美術館の前が「ミュージアム」、ボストン交響楽団の本拠地であるコンサート・ホールの前は「シンフォニー」と、超シンプルな名前がつけられているのが心地よい。

そのミュージアム駅を降りてすぐのところにボストン美術館、さらにそこからちょっと歩くと、もう一つの有名なミュージアム『イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館』がある。名前で分かるとおり個人所有の美術館だったところで、イザベラさんは大富豪の未亡人だったそうだ。

1990年5月のある日、閉館後の美術館に2人の警官が訪れた。「警報装置のテストです」。
だが油断した警備員を2人はいきなり縛り上げた。なんという単純な手口。彼らは扮装した美術品泥棒だったのだ。
被害額は日本円にして200億円とも300億円とも言われ、アメリカの美術品犯罪史上最大の事件となっている。この時盗まれた作品のうちの最も有名なものが、このフェルメールの「コンサート」。現時点でもまだ見つかっていない。

********

エレクトラにTBしていただいたフンメルさんのサイトで、ベルリンのゲメルデ・ギャラリーでごらんになったフェルメールの話題があったので、この画家を取り上げてみました。まあ、音楽と絵画というテーマなら絶対にさけて通れないのが、フェルメールともいえます。

フェルメールの現在残っている作品は、わずか三十数点にすぎないのですが、なぜか楽器を弾いている絵は数点あります。音楽が好きだったのか、あるいは当時のオランダではハウスムジークが盛んだったのか。

この作品のタイトルですが、「コンサート」というとちょっと誤解を招くので、日本語では「合奏」と書いてある画集もあります。それはともかく、この絵の人物たちは何を演奏しているのでしょうか?
左の女性はチェンバロを弾いてます。これはまあ、見れば確かでしょう。右の女性はこの写真では小さすぎてよくわからないと思いますが、実は手に楽譜とおぼしき紙をもっています。歌を歌っているのでしょう。後ろ向きの男性は何をしているのでしょうか?ヴィオラ・ダ・ガンバを弾いていると思うのですが、違うでしょうか?
そうだったら通奏低音について解説した本の表紙にでも使いたいような。

フェルメールがこの作品を描いたのがいつか、正確にははっきりしていませんが、1660年代とみなされています。ということはつまりバッハやテレマンのずっと前。果たしてその頃のオランダ・デルフトの一般家庭で、どのような作品が好んで演奏されていたのかとなると、残念ながら私の乏しい知識ではお手上げです。

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2005年3月18日 (金)

ニュースの落穂拾い~セクシー・チャーハンって・・・

かの中西(前)議員、ハレンチな事件の前にはこんな出来ごとが?「夕刊フジ」の記事から。
http://newsflash.nifty.com/news/ts/ts__fuji_320050317039.htm

20050318ShinjukuJPまず「セクシーチャーハン」(!)というネーミングがいかがなものかと思うが、それはともかくとして、実は私は泥酔したと言う経験がない。なので、人が酔っ払うとどういう気持ちになるのかよく判らない。(若い頃はいくら飲んでも酔わなかったし、今はそもそもあまり飲めなくなってきてるので。)
前後不覚になるほど酔ってて、目の前に「セクシーチャーハン」が出てきたら、いきなり欲情するものなのか??しかも店の中で下半身スッポンポンになってたって、、、、なんで?

この居酒屋の支配人で、タレントの山田まりあの実父の山田さんは語る。「ウチはそういう店ではないので、店員がズボンをはくようお願いしたが、中西さんは疲れたようでダラーンとしたまま動かなかった」
ダラーンという形容がダブルミーニングな感じだが、『ウチはそういう店ではないので』って、居酒屋なんだからいちいちそうことわらなくても・・・

山田さんは反省する。「私がセクシーチャーハンを出したことで先生が欲情し、事件を誘発したかもしれない。そうであればとても恐縮なことです」

写真:事件現場の六本木の夜を探したのですが、無かったので新宿でも。サイト「東京発フリー写真素材集」さまからお借りしました。

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2005年3月17日 (木)

Firefox

20050317firefoxJPEsclarmondeさんお薦めのMozillaのブラウザFirefoxを、遅ればせながら私も導入しました。
セキュリティホール修正済の 1.0.1 日本語版が13日に配布開始されて以来、mozillaのサイトにアクセス出来なかったり、アクセスしてもなぜかダウンロード出来なかったりで、今日になってしまいました。あまりのアクセス数の多さに、一時サービスを停止していたみたいです。

タブで開けると言うのが思いのほか便利。特に「2つ以上のタブを同時にホームページに設定できる」というのがナイスです。例えばとりあえず私が設定した例で言いますと、firefoxを起動すると(これまでホームページにしていた)@niftyのトップページと、自分のブログの両方にアクセス可能な状態で、画面が開きます。あとはタブを切り替えていけばいいわけです。これはかなり優れものです!(写真参照。上から4段目のURL欄の下に注目)

一方不便なこともあります。不便なのかどうかよく判らないのですが(つまり単に慣れてない、あるいは使いこなせてないだけかも)、文字のサイズがこれまで使っていたインターネット・エクスプローラー6(IE6)に比べて小さいような気がするのです。で、「文字のサイズ」で大きくすると、変に大きくなりすぎたりしてびっくり。

とりあえず最小フォント・サイズを指定できるので、私はそれで最小を14ポイントに設定してしのいでいます。ホームページの作者の意図したバランスではなくなるのですが、やむをえません。(やりかたはツール>オプション>全般>フォントと色>最小フォントサイズ。)
あとは画像が出てくるのに、IEに比べてちょっと時間がかかってるようです。これは何故なのかわかりません。

まだ使い方が分からないのは、ブックマーク登録のサイトを開くときにわざわざ右クリックで指定しなくても、「タブで開く」方法。あるいは不可能なのか?もしどなたかご存知の方がいらっしゃったら、教えてください。よろしくお願いします。

ちなみにIEの「お気に入り」は「ブックマーク」と名前を変えています。良かった。「お気に入り」という言い方、大嫌いだったんです。気に入ってるかどうかは気持ちの問題、ブックマークには気持ちとは関係がないものも登録するわけで、そういうところに「お気に入り」などという言葉を持ってくるセンスのなさと国語力のなさには、ゲンナリさせられていました。これだけでもIEをやめる価値があるかもです。

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2005年3月16日 (水)

エレクトラ・3 Elektra

20050316elektraJP オレストとの出会い

「エレクトラ」の解釈はさまざまにありえますが、無論フリードリヒの権力抗争版もその一つです。
またどこかのサイトで、男性原理・女性原理という視点から、この作品に切り込んだ文章も読みました。私にはその必然性がよく飲み込めませんでしたが、(男性原理・女性原理とは何かを説明するのに、この作品を利用すると言うのなら理解できる、)そういう視点で作品を読むのであれば、フリードリヒ=ベーム版の乾いた演奏や、ショルティ盤のオケをガンガンドライヴするだけの演奏でも許せるのかもしれません。

このオペラではエレクトラ一人が中心にいすわり、登場人物たちはひたすら『エレクトラ詣で』のように、彼女の前にやってきては去っていきます。そして彼女はいっさい他者を受け入れることがありません。
それをもってしても「結局この作品はエレクトラの自我を描いているのだ」と言う、最もよくみかける解説に私は賛成します。

で、そのエレクトラのアイデンティティは、クリテムネストラとエギストに復讐することだけで成立しています。それがオレストの登場と言うプロットポイントで、どう変わるのでしょうか?もしくは変わらないのでしょうか?(変わらなければそこはプロットポイントではない。)

オレストが宮殿の中に去った後、エレクトラが取る行動は3つです。①斧をオレストに渡すことを忘れる(ことに気づく)。②エギストとの対話。③踊り狂って死ぬ。

アガメムノンの血がこびりついた斧は、復讐のために絶対欠かせない道具です。それなしでは、それはエレクトラの復讐ではなく、オレストの復讐になってしまいます。それなのになぜエレクトラは斧を手渡すのを忘れるのでしょうか?オペラの中では怖い女性に見えますが、実はエレクトラはお茶目なウッカリ屋さんなのでしょうか?

オレストの復讐は父王を殺された復讐であり、正当な王位継承者が、本来自分が受け継ぐべき王位を求めて行ういわば『大儀ある復讐』です。オレストには復讐の資格がありますし、実際に後日、神々もそれを認めます。

しかるにエレクトラはどうでしょう?無論、父王の復讐なら彼女にも大儀はあります。だがもしオレストに対して近親相姦的な愛情を抱いてしまったら。それはクリテムネストラの夫殺しよりも遥かに大きな罪。エレクトラにはもはや母を非難する資格など与えられるはずがありません。

まだ完全に意識の表面には昇ってきてはいないかもしれませんが、エレクトラを支えてきた復讐の大儀が壊れ始めたことに、エレクトラ本人はうっすらと気づき始めたはずです。そしてそれはエレクトラのアイデンティティの崩壊でもあります。もしかしたらオレストへの愛情を通じて、彼女の深層心理に父アガメムノンへのこれもまた近親相姦的な愛情があったのだということも、エレクトラは自覚したかもしれません。復讐の相手であったはずの母親以上の罪を背負ったエレクトラ。彼女の全存在を支えてきた自我ががらがらと崩れ始めます。

もちろん大儀を失った以上、復讐はエレクトラのそれではなく、オレストのでなければなりませんから、必然的にエレクトラはオレストに斧を手渡すことを忘れます。無意識のなせる技と言えましょう。


ところでエレクトラはなぜ、踊り狂って死ぬのでしょうか?虐待されて心身ともに弱ってたのに、激しい踊りを踊って心不全を起こしたのでしょうか?まさか。エレクトラさんはかなり強そうです。

復讐が成ったから、それによって支えられてきた彼女のアイデンティティが空虚になり、死ぬのだという解釈もあります。(なんとなく日本の時代劇にならありそうな話ですが、あったとしても切腹。自動的に死にはしません。)私はこの説にはいまひとつ不満をもっていました。エレクトラの存在が心理学的な記号なら、それでいいと思いますが。でも別にオペラの登場人物は記号ではありません。

外的な要因で願いが成就し、それによって彼女のアイデンティティを成り立たせてきたものが『不要』になったから「死ぬ」と言うのは、私にはしっくりこなかったのです。
しかし、彼女の内部でアイデンティティの拠り所が、壊れ出していったと考えればどうでしょうか?そのきっかけとなるのは彼女が母親以上の罪を背負っているからであり、なおかつそれに彼女が気づくとしたら。

それでもエギストとの会話まで、エレクトラはかろうじて自らを保ち続けます。
しかしアイデンティティを支えるものが壊れ始めた以上、彼女の精神にもはや居場所はありません。

エレクトラは歓喜のうちに踊り狂って死ぬのではありません。フィナーレの踊りはエレクトラの「自我崩壊のダンス」なのです。

以上が私がオレストとの出会いをプロットポイントとみなし、ゆえにこのシーンの演奏には、近親相姦を想起させる甘美さが必要だと考える理由です。
そんな私にとって完璧な指揮者はサヴァリッシュ。私が持っているのは、EMIのスタジオ録音ではなくてバイエルン国立歌劇場のライヴ録音の方ですが、マスティロヴィッチのエレクトラやヴァルナイのクリテムネストラ、クラスのオレストなどの歌手陣を揃えて、素晴らしいR・シュトラウスを聞かせてくれます。

アバドのも良いと思いましたが、現在ライヴがDVDで出ているウィーンでの上演と、ベルリン・フィルとの演奏の両方を聴いた人によりますと、ベルリンのほうが圧倒的に優れていて、ウィーンの方は自信無いのが丸出しなんだとか。ベルリンのライヴがどこからか正規盤で出てくることを切に望みます。(終わり)

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2005年3月15日 (火)

モーツァルトの肖像画とMETのデータベース

20050315metJPエレクトラは一休みして、でもやはり音楽の話題です。

2月1日の日記でご紹介した、新発見のモーツァルトの肖像画。真贋論争がおきているようです。pfaelzerweinさんからのトラックバックで教えていただきました。もちろん真贋というのは描いた画家の方じゃなくて、モデルのほうですね。くわしくはpfaelzerweinさんのサイトをご覧ください。

さてkeyakiさんのブログでご紹介いただいた、NYのメトロポリタン歌劇場(写真)のデータベース。見てるだけで面白いとは、このことで、他の劇場でも是非ともやって欲しいものです。

とりあえず私の大好きなソプラノのマーティナ・アーロヨの出演作を調べました。
まず驚いたのは彼女はすでに50年代にMETデビューをしていたこと。といっても「ドン・カルロ」の天の声なので、主役として登場するまでには、そこから6年を要することになります。

脇役時代に歌ったのは
59、61年に「ドン・カルロ」の天の声
61~62年には「ニーベルングの指輪」全曲に出演しています。
「ラインの黄金」のウォークリンデ、「ワルキューレ」のオルトリンデ、「ジークフリート」の森の小鳥、「神々の黄昏」の第3のノルンとウォークリンデの2役。

この後3シーズンは出演記録はなく、65-66年のシーズンに突如「アイーダ」のタイトルロールで登場することになります。これがたぶんプライスの代役で歌って、センセーションを巻き起こしたという時でしょう、きっと。演出家の故・三谷礼二さんが聞かれたのも、この時のことだと思います。
このシーズンには他に「ドン・カルロ」の今度は天の声ではなく堂々エリザベッタを、そして「蝶々夫人」「イル・トロヴァトーレ」と一気に4演目で主役を飾ります。
よく67-68年には新たに「ローエングリン」と「仮面舞踏会」が加わり、68-69年のシーズンには「ドン・ジョヴァンニ」のドンナ・アンナ、そして「トゥーランドット」が加わります。ニルソンのタイトルロールに、彼女のリュウ。うわ、聞きたい・・・
69-70年には「カヴァレリア・ルスティカーナ」
70-71年には「エルナーニ」、71-72年には「運命の力」、72-73年には「マクベス」、75-76年には「ラ・ジョコンダ」、76-77年には「アンドレア・シェニエ」。以後は新しい役はなく、86年10月の「アイーダ」がMETでのラスト・パフォーマンスになります(ガラ・コンサートを除く)。

オペラに興味の無い方は「だから、なんなんだ」と思うかもしれませんが、こういう出演記録を調べるのが、楽しいのですね。あ、でも興味の無い人は、どっちみちここまで付き合ってはくれてないでしょうか?

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2005年3月14日 (月)

エレクトラ・2 Elektra

20050314RStrauss写真はR・シュトラウス(右)と、台本を書いたホフマンスタール。 ホフマンスタールは、50代半ばで心臓発作で亡くなっていますが、長男がピストル自殺を図り、そのショックに彼の繊細な神経と肉体が耐えられなかったのではないかと言われています。

Ⅱ ハリウッド映画と19世紀オペラ

昔、シナリオの勉強をしていたころに学んだことの一つに、アメリカ映画の作劇術があります。これは成功したアメリカ映画の分析から逆に導き出したもののようですが、以下のような構成法です。

全体は1幕、2幕(前)、2幕(後)、3幕の3幕4パートに分かれ、それぞれはほぼ当分量になります。
各幕の最後にはプロットポイントがおかれ、話を次の幕へと進ませるモメンタムになります。特に2幕(前)の最後におかれたポイントは、ミッドポイントと呼ばれ作品全体の頂点を形作ります。山型に盛り上がっていったストーリーは作品中央で一つの頂点を迎え、そこから終末に向かって下っていきます。ハリウッド映画の成功作はほとんどこのパターンとみなされています。

しかし、オペラ好きの方だったら当然思いつくように、これはハリウッドの独創ではありません。むしろ19世紀のオペラだったら、もっとも良く見かける構成です。

グランド・オペラは5幕ですから、ちょっと別ですが、それ以外のオペラ。たとえばヴェルディの「椿姫」、4幕版「ドンカルロ」「アイーダ」「オテロ」、プッチーニの「ボエーム」。ワグナーの場合も2幕の分量は少ないものの、同じような分析法が適用可能です。

例を挙げますと、たとえば「アイーダ」の場合は2幕の最後のトゥッティが音楽的にもスペクタクルとしても一つの頂点を形作り、3幕からはドラマはより内面的な方向へと転じます。「椿姫」にいたっては幕の分け方からいっても、分量から言っても完璧にこのパターンを示しています。
ある意味でハリウッド映画は、こうしたオペラの構成法を踏襲しているだけという見方も、出来なくはありません。

19世紀だけでなく、20世紀オペラもこの構成分析に合致するものが多いように感じられます。しかしワグナーの後を受け継ぐドイツ・オペラのホープだったはずのR・シュトラウスは、このパターンを採用しませんでした。
シュトラウス自身が語っているように、「サロメ」はクライマックスにむかって一直線に進んでいきます。
サロメの踊りを(ハリウッド式で言えば)唯一のプロット・ポイントに、後は一気にカタストロフへと進みます。
普通のオペラとは全く違い、いわば「長い序」「一瞬の破」「急速なカタストロフ」という構成になっているのです。

姉妹のような関係に当たる「エレクトラ」はどうかと言えば、聞いての印象としてはサロメと同じ構成になっているように思えます。しかしホフマンスタールの台本によるこの作品はさすがに、そう簡単にはいきません。

ホフマンスタールとR・シュトラウスは劇作ということに関して、かなり異なった意見を持っていたようで、たとえば「アラベラ」をめぐる彼らの往復書簡によりますと、交響詩のように一つの緩やかな形式に収めることを好む作曲家と、伝統的な3幕のコメディを好んだ詩人との間には、それなりの対立があったようです。この「エレクトラ」も1幕ものではありますが、全体を3部形式とみなす分析もあります(詳しくはシノポリ盤の解説等にあたって下さい)。

さて全体を3部形式として19世紀オペラ型分析にあてはめた場合、ミッドポイントはクリテムネストラとエレクトラの対決になります。しかし問題は、ここを頂点にドラマが変化するかということなのです。たしかにオレストの死の知らせが届いて、状況は変化をみます。ところがエレクトラの心理は変わりません。むしろ弟まかせにしていたこれまでから、自ら手を下す決心をして、気持ちはより強固なものになっていきます。つまりこの母娘の対決は頂点となってあらたな局面を切り開くプロットポイントではなく、ひたすらクライマックスに向けて盛り上がるための一里塚の一つと見るべきでしょう。

決定的な転換点を迎えるのはやはりオレストとの出会いです。
「ザロメ・タンツ」と「サロメのモノローグ~死」と、「オレストとの出会い」と「エレクトラの終曲の踊り」とは、ダンスの位置が逆なだけで、構造的にまったく同じ関係にあります。(これはシュトラウス自身がそう言っています。)

となるとやはり「エレクトラ」も「サロメ」同様に、(旧来型の3部形式ではなく)「長い序」「一瞬の破」「急速なカタストロフ」という、シュトラウス独自の3部形式によるものとみなせると思われます。

では、オレストとの出会いのシーンで、エレクトラの何が変わったのでしょうか?クラウディオ・アバドが「R・シュトラウスで最も美しいページ」とよんだこのシーンが、何ゆえに作品全体のプロット・ポイントたりうるのでしょうか?(続く)

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2005年3月13日 (日)

エレクトラ ・1 Elektra

20050313ElektraJPホームページの方の音楽のコーナーに「魔笛」に続いて「エレクトラ」を書こうと思いました。ところが頭の中では出来ているのですが、全然進みません。ようするに毎日の日記を書くだけでせいいっぱいなんです。
そこでブログに連載で書き綴っていって、出来上がったらHPに移行することにしました。
というわけでR・シュトラウス作曲、ホフマンスタール台本の「エレクトラ」の1です。

Ⅰ フリードリヒの映像版「エレクトラ」

カール・ベームの遺作ともなったゲッツ・フリードリヒ演出の映像版「エレクトラ」は、なぜか評判がいいのですが、私はかなり嫌っています。
理由は3つあって、①フリードリヒの演出上のコンセプトが気に入らない。②クリテムネストラの描き方がイヤ。③オレストとの出会いのシーンの(特に演奏の)そっけなさ。

しかしこれは好き嫌いの問題であって、水準が低いということではありません。むしろ感嘆すべきところは随所にあります。なかでも驚くべきは完璧に計算されたカメラ・アングルの緻密さ、正確さです。

作品全体を見終わったとき、まずエレクトラについては非常に多くのシーンで上から俯瞰で撮られていることが印象に残ります。なぜなのでしょうか?

作品冒頭、まずカメラは下女たちを正面からとらえます。これに対して少し遅れて登場するエレクトラはローアングル、つまり見上げる角度で捉えられます。それと共にはしため達はハイアングル(見下ろす)の映像に移っていきます。見上げる角度と見下ろす角度というこのアングルの関係は、下女たちと監視の女の関係でも正確に再現されます。

クリテムネストラが登場すると、このアングルの関係はよりはっきりしてきます。2人が同一画面に映るときを除いて、エレクトラは今度は逆にハイ・アングルで、クリテムネストラはローアングルで撮影されているのです。(顎に注目するとカメラポジションは容易に分かります。)クリテムネストラは基本的に見上げられ、エレクトラは見下ろされるわけです。
エギストはどうでしょうか?クリテムネストラと全く同じです。
オレストについては、さらに巧妙に計算されています。オレストが登場したときからエレクトラはハイアングル(見下ろす)です。しかしオレストは基本的にローアングルではなく、仮面を外した瞬間にはカメラはフィッシャー=ディースカウに正対しています。それがエレクトラがオレストの顔に手を伸ばし、2人が同一画面に映る唯一のカットを境に、オレストに対するカメラ・アングルはじわじわと見上げる角度に変化していきます。

これはいったい何を意味しているのでしょうか?

小津が人物をつねに<床>のポジションでしか撮らなかったように、カメラ・アングルというのは思想です。そしてここでフリードリヒは、それを意識的かつ徹底的に活用しているように思えます。

その意味について解釈はいかようにも出来るのですが、なにしろフリードリヒと言えば、旧東ドイツ出身。70年代にはバイロイトでの「タンホイザー」の演出に政治的スローガンを持ち込んだことで、スキャンダラスな演出家として名を上げた人。私が見た範囲ではベルリン・ドイツ・オペラの「フィガロの結婚」でも階級闘争としての視点を強く打ち出していました。そうしたことから81年という、壁が壊れる遥か以前に収録されたこの映像で、演出家は作品全体を支配者(=権力者)と被支配者の争いとしてとらえていると見るのが、最も妥当ではないかと私は考えています。

この映像版製作当時の風潮を鑑みて、権力者(=資本家)=悪という図式とするならば、当然のごとくクリテムネストラの姿は徹底的に戯画化して描かれてなければなりません。異様なお伴を連れたクリテムネストラや、化粧をほどこしいかにも退廃的な雰囲気のエギストの姿は、(私の解釈が正しいとすれば)フリードリヒのコンセプトからは必然です。
そして両方の世界を行き来するどっちつかずのクリソテミスのみはカメラ・アングルが定まっていません。

私がこのフリードリヒ版を嫌いな理由の②③としてあげた点ですが、上にも書いたように私の解釈がもし正しければ、両方ともフリードリヒのコンセプトからは当然の結論といえます。
しかし、まずクリテムネストラの描き方ですが、(シュトラウス&ホフマンスタールをどう解釈するかという点からは離れて、)ギリシャ神話・ギリシャ悲劇の登場人物としてみるならば、クリテムネストラは気位が高くそれゆえにアガメムノンを許せなかったという側面もあるわけで、すくなくとも気品がなければなりません。フリードリヒが描いたような周囲の空気をすら澱ませてしまうような、退廃的な怪物ではありません。

さらに③です。階級闘争と化したエレクトラの物語の中で、当然エレクトラとオレストの間にスウィートな感情は流れません。別撮りしたかのように、ワンカットを除いてエレクトラとオレストが同一画面に現れないフリードリヒの処理は、彼のコンセプトからは必然といえますが、しかしシュトラウス=ホフマンスタールの解釈としてはここに絶対必要な近親相姦的な感情は全く現れないのです。
リザネックとフィッシャー=ディースカウの歌も、ベテランが本気になるとここまで上手いんだぞと言う矜持は聞こえるかも知れませんが、(ベーム指揮のウィーン・フィルの演奏も含め)甘美さには程遠いものになっています。

では何故このシーンに近親相姦的な感情が必要なのでしょうか?すでにそれはエレクトラ・コンプレックスの名で知られるエレクトラのアガメムノンへの感情で示されているのであって、過剰解釈ではないかという意見もありそうです。(ちなみにホフマンスタールはこの作品の台本を書く段階で、すでにフロイトの「ヒステリー研究」等を呼んでいたことが知られていて、登場人物の心理の分析に関しては、決して無自覚・本能的に書いたわけではありません。)

なぜ近親相姦的な出会いでなければならないのかを書くのが、この文の目的であり、実はこのフリードリヒの映像版の話は全くの前置きなのですが(そもそも演出家がどう解釈しようとそれは自由なので、フリードリヒの解釈については、単に私が嫌いだというだけの話なのです)、ここでもうちょっと前置きを続けたいと思います。(続く)

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2005年3月12日 (土)

ホリエモン>「殺す」から「ハリウッド」へ

20050312ropphills03ニッポン放送の新株予約権の発行差し止めが認められて、ライブドア堀江社長が記者会見をしていた(昨夜8時半から)。
「私のことをコストカッターだと言ってた人もいたが、そうではない。ハリウッドに負けないようなコンテンツを・・・」などというようなことを。ええっ、ハリウッド!?「TV、ラジオなど既存のメディアを殺すためには、まず一度浸透して」とか言ってなかった?
「本音を言っちゃダメ」と、学んだと言うことなのか?
いずれにしてもまだニッポン放送の段階で、それだってどうなるか分からない。ましてやフジテレビに王手はかけてないのに、ハリウッドって・・・

一方、ニッポン放送の亀渕社長は「社員一同の気持ちが否定されて残念です」などと。裁判所は別に「気持ち」を裁定するところではなく、違法か適法かを裁定するところだと思うのだが。

それはともかく「ネットで関心の高かったものだけが、関心の高さの順番にニュース・ヴァリューがあり、そのほかはゴミ」というジャーナリズムに関しての堀江氏の見解は、実に持って現代日本社会的であるとは思う。
既存のメディアが恣意的にソースの選択をしたり、見出しをつけたりすることを、彼は「思い上がり」と断罪する。記者も不要。市民記者がニュースを流し、その価値は見る人が判断すればいいと言う。一種『2ちゃんねる的』であると言えるかも知れない。
「心」や「志」、「報道の精神」「使命感」「記者としての良心」「真実の追究」。あるいは「熟練」「熟達」「美意識」「プロフェッショナリズム」などと言った言葉を、かれはマスコミの世界には不要なもの、むしろ思い上がった傲慢な考え方で、あってはいけないものと考えているようだ。

そんなものがなくても、これだけの地位に(いや地位にではなく、位置にと言うべきか)のぼりつめた堀江氏らしい考え方だ。

しかし大企業がリストラという名前で、日本が誇るべき真のプロとも言うべき熟練した町工場テクノロジーを切り捨てた結果、日本の製造業がどうなったか。
経費節減でアルバイトだけを使うようになって、日本のサービス産業がどうなったか。
それを考えれば、ホリエモン流のやり方ではメディアの世界も死ぬだろうと予測するのはたやすいことだ。無論彼は「殺す」と言ってるのだから(もしくは言っていたのだから)、それでOKなわけだが。そして残った『2ちゃんねる的世界』がジャーナリズムの新しい王道となる。

プロフェッショナリズムがなければ、届きえないニュースもあると思うが、それはおくとしよう。ジャーナリズムが全てホリエモン・ワールドになったら、そこに誕生するのは新たな「匿名のオピニオン・リーダー」とでも呼ばれるべき人々ではないだろうか。腹黒い人ほど、世論操作が巧みだし、悪い人間が社会を意のままにしやすい世界が招来するのだろう。「プロフェッショナルの厳しい視線」などと言う言葉自体が、彼によれば既にもう『思い上がり』に違いないのだから。
私個人としては、日本のメディアがそうなる前に、自分の寿命がくることを望みたい。

写真:ライブドアが入っている六本木ヒルズの夜景。(「東京発フリー写真素材集」からお借りしました)

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2005年3月11日 (金)

指紋

20050311dainoharaJPゴルフ場のロッカーに「指紋認証」を取り入れる所が登場したそうです。携帯やパソコンも、最近は指紋認証が珍しくなくなりました。

実は私は指紋に関して一つの疑問と一つの不安を持っています。
まず不安のほうですが、ロッカーや携帯の場合は指紋認証が十分に有効だと思います。しかし、より重要なたとえば軍事関係(核兵器とか)のオペレイトや施設への入退場に指紋認証を取り入れていいのかということです。
映画をみていると、たまにそうした重要施設で手のひらをかざすと、入り口のドアが開くというシーンがあります。
でも、それって逆に危険だとおもうんです。認証されている人を誘拐して眠らせ、その入り口まで連れて来れば、すぐにドアは開くことになりますから。いずれ手首を切り落とすなんていう犯罪も起きるんじゃないかと心配です。こんなことを心配するなんて、変でしょうか?

それで死体や切り取った手・指から、ちゃんと生前同様の奇麗な指紋が採取できるのかを調べようとしたら、うわーーーー、凄く気持ち悪い写真が載ってるサイトに行き着いてしまいました。あえて紹介はしませんが、いろんな方法を駆使してちゃんと生前と同じような指紋が採取出来るのだそうです。

そして疑問というのは、本当に一人として同じ指紋の人はいないのか?ということです。
「万人不同、終生不変」というそうですが、でもどういう理屈でそうなのかがよくわからないのです。別に疑ってるわけじゃないんですが。

写真:雲がひとつだけぽっこりと。変。

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2005年3月10日 (木)

MyDVDがうまく使えない!

20050310nanakitagawaJP収録した映像をDVD化するのに、初めてMyDVD(パソコン・ソフトの名前)を使ってみました。意気揚々と、インデックスを20個ぐらいつけて、いざ焼こうとしたのですが。
ううう~、、、

変なメッセージが出て、プロジェクトが保存できない。
「パラメータエラー(-16071)」
な、なんだ16071って・・・

ヘルプに書いてないのですよ。前から思っていたのですが、このヘルプってほんとに何の役にも立たないものが多いんじゃないでしょうか?
読まなくても分かるようなことしか書いてないヘルプが多すぎると思います。それは「ヘルプじゃなくてただの取説だろう」と、言いたくなるようなのが。
少なくとも普通に操作して出てくるメッセージぐらい、解説してほしいし、対処法もしめしてほしい。

結局ネットに頼りました。
http://0x100.com/Windows/mydvd.html
このサイトさまがどちらなのか存じませんが、ありがとうございました。

同じ症状で困っているかたはどのぐらいいるんでしょうか?ヘルプには勿論、メーカーのサイトのFAQにも載ってないと言うことは、レアな症状なんでしょうか?
プロジェクト・フォルダーが適切に作成されなかったためらしいのですが、どうもその理由が不明なのですね。
私のようにコンピュータに無知な人間にとっては、なぜなのか推測すら出来ません。

以下は、私同様コンピュータに詳しくなく、かつMyDVDをお使いで同症状に悩んでいる方のために、補足を。
上記のサイトで紹介の方法を実施する前に必要なことが一つあります。
それはフォルダーを作ること。パーティションを3つ以上に分けてる方でしたら、まずFドライヴに「My DVDs」というフォルダーを新規で作ります(2つでしたらEドライヴ、1つだったらCドライヴ)。あとは上記サイトの解説の通り実施します。青枠の部分は全部コピーすること(REGEDIT4の部分から)。そして注意書きにも書いてあるように、ダブル・クォーテーションも忘れずに!(最終行のCの部分をEなりFなりに直すのも)

追加:MyDVDのオプションの「ファイルの位置」ですが、デフォルトだとCかEドライヴに設定されるようです。要領が足りなくなるのでFドライヴにフォルダーの新規作成をした後、移動しておいた方が無難みたいです。

写真:七北田川。七北田で「ななきた」と読みます。でも仙台以外の人はつい「ななきただ」と呼びたくなるようです。

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2005年3月 9日 (水)

ドン・ジョヴァンニ~名画と名曲・3

20050309dongiovanniJPeuridiceさんのブログで、私も大好きなジョセフ・ロージー監督のオペラ映画「ドン・ジョヴァンニ」を取り上げていたので、協賛してみました。

この絵はマックス・スレーフォークトの作品でタイトルは「シャンパンの歌(Das Champagnerlied)」。シュトゥットガルト州立美術館にあります。
スレーフォークトは20世紀初めに活躍した画家で、いわゆるベルリン分離派の一人。このドン・ジョヴァンニ像は1902年に描かれたもののようです。
もしかして当時この役でならした有名歌手のモデルでもいたのかなと思い、調べようとしたんですが、よくわからないうちに挫折しました。

パッと見にはエレガントでギャラントなシェピ路線のドン・ジョヴァンニ像かと思えるのですが、よく見ると顔がやたらマジ。髭もむさいしエレガント路線ではないのかも。

ロージーの映画版に話を戻すと、タイトルロールを歌っているルッジェロ・ライモンディのようなデモーニッシュ型は、この絵のようなドン・ジョヴァンニとは全然違う路線ですね。
ライモンディもやはりふくらんだ袖、太股まで足を出したタイツなどという格好でドン・ジョヴァンニを歌ったことはあるんでしょうか?
ライモンディがプレミエを歌ったミュンヘンのレンネルト演出の舞台は、トーマス・アレンで見たことがあるんですが、服装とかは忘れちゃいました・・・

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2005年3月 8日 (火)

SONYとNHK

20050308dainoharaJPこれは音楽の話題です。

ソニーのトップ3が交替することになりました。すでに新聞、ニュース等でご承知の通り、ハワード・ストリンガー氏というソニー・アメリカの社長が会長兼CEOになります。ウェールズ出身でナイトの称号をもっているのでサー・ハワードということになるんでしょうか。社長は中鉢良治氏という技術畑の人。宮城県の出身で東北大学の大学院を出ているそうです。

SONYに対する希望は、1月6日の日記に書いたので繰り返しませんが、はたして立ち直れるのでしょうか?ネットでいろんなBBSを見てみましたが、どこも非常に多くの書き込みがあります。にもかかわらず退任した3人を惜しむ声が全く無いのですね。見事なほど。
この種のwebの発言を呼んでいると、日本を代表する企業(だったはず)のSONYの凋落ぶりを、非常に多くの人たちがいらいらしながら見守っていたと言うことが分かります。SONYとは何の利害関係も無い一般の国民までもが、どこに問題点があるかを分かり、苛立ちを募らせていたのに、経営者だけがいい気になってたということなのかもしれません。

BBSの中には、新CEOにカルロス・ゴーン効果を期待する声もありました。でもゴーン氏がしたことは、まず従業員の首を切って会社の経営を立て直すということで、日産が素晴らしく魅力のある車を生み出したことで、車の売り上げが上がったわけではありません。
ところがSONYは経営状態の改善だけでなく、モノとしての魅力があるものを作っていかなければ消費者は戻ってこないし、地に落ちたブランド・イメージを回復させなければなりません。どう考えてもサー・ハワードにはゴーン氏とは別の役割が課されていると思います。(それに現在のSONYが、欠陥品すれすれの商品を平気で売り出すという印象なのに対して、日産の場合は単に製造コストがかかりすぎて会社の財務状況が悪くなっただけで、ニッサン・タイマーがついてた訳ではない。そこにも大きな違いが。)

記者会見で新社長になる中鉢氏は「消費者の視線が欠けていた。消費者の望むモノを届けるという当然の営みに緩みがあった。商品力が低下している感は否めない」と語ったといいます。正にその通りで、昔のSONY好きとしては、心から立ち直ってほしいと思うわけですが・・・

・・・そこでNHKですよ。おとといの日曜日午後3時から、NHK FMではN響と共演したソリストたちという3時間番組を放送しました。曲目は以下の通り、

①シューマン/ピアノ協奏曲から 第1楽章(ピアノ)グリモー(指揮)アシュケナージ
②イベール/フルート協奏曲から 第1、第3楽章(フルート)パユ(指揮)サヴァリッシュ
③ブリテン/ヴァイオリン協奏曲から 第2楽章末部、第3楽章(ヴァイオリン)ツィンマーマン(指揮)サヴァリッシュ
④ブラームス/ヴァイオリン協奏曲から 第1楽章(ヴァイオリン)ツェートマイアー(指揮)ルイージ
⑤ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番から 第2楽章(ピアノ)ゲルナー(指揮)ルイージ
⑥チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番から 第3楽章(ピアノ)上原彩子(指揮)デュトワ
⑦ベートーベン/ピアノ協奏曲第1番から第2、第3楽章(ピアノ)エマール(指揮)デュトワ
⑧ベートーベン/ヴァイオリン協奏曲から第2、第3楽章(ヴァイオリン)ハチャトゥリヤン(指揮)バルシャイ
⑨武満徹/ウォーター・ドリーミング(フルート)バイノン(指揮)アシュケナージ
⑩メンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲から 第3楽章(ヴァイオリン)ヤンセン(指揮)アシュケナージ

3時間番組で10曲放送して、全曲を流したのは短い武満の曲だけ。あとは全部曲の一部分しか流さない。これはなんでしょうか?音楽ファンに対する嫌がらせでしょうか?
もちろんトーク番組なら「有り」の構成です。曲を聞くことではなく、話を聞くことを主たる目的とする番組だから。しかしこれは諸石さんが一人で解説する番組。どう考えてもトーク番組ではなく音楽番組でしょう。

NHK FMでは海外ライヴ物などで時間の関係で省略ということがしばしばあり(ここ数年特に多い)、いらいらさせられてきました。アルミンク指揮のマーラー3番など、わざわざ楽章を一つだけ割愛して放送したりしています。
とりあえず作曲者と演奏者に対して失礼だという点はおくとしても、こんな切り貼り放送で3時間も無駄使いする余裕があるんだったら、それを大曲の放送になぜ振り向けられないのでしょう。

いや、まず根本的な疑問として、こんな切り貼り番組、誰のために放送しているのでしょうか?いったいこれを聞いて誰が喜ぶというのでしょう?
音楽ファンがN響と共演したソリストを、たった3時間の間に10人も聞けてラッキー!と思うとでも考えたのでしょうか???

実はこの番組は留守録していただけで、まだ聴いていません。もちろん聞き次第NHKには抗議のメールを送るつもり。先の中鉢氏の言葉をもじれば「視聴者の視線が欠けていた。視聴者の望む番組を届けるという当然の営みに緩みがあった。企画力が低下している感は否めない」という反省がNHKから聞けることを望みたいですが、まあ無理でしょう。

写真:みちのくにも春の気配、みたいな。

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2005年3月 7日 (月)

虎屋横丁~横丁シリーズ・3

20050307torayokoJP虎屋横丁はもしかすると仙台で一番有名な横丁かもしれません。商店街という意味での仙台一の繁華街一番町と、歓楽街と言う意味での仙台一の繁華街国分町をつなぐ道路、ホテル・ユニバースの先の果物屋さんのところから稲荷小路・国分町方面に入っていく通りです。

虎屋(トラヤ)といってもお菓子の虎屋ではなくて、実はこれは江戸時代、この通りにそういう名前の薬種屋(薬屋)があってトラの置物が置かれていたんだそうです。で、そのお店が廃業してもずっとトラの置物だけはそこにあったので、横丁の名前になったんだとか。

ここいらへんは明治時代には芸者置屋がずっとならんでいたんだそうですが、いまは置屋のかわりに客引きのお兄さんたちがずらっとならんでいます。
この人たちは実にプロでして、私がサラリーマン時代には、もう通るたびにうるさくて中には国分町の方まで、ずーっとくっついて来る人までいる始末。でもフリーになったら途端に見向きもされなくなりました。何でわかるんでしょう?
煩わしくなくていいけど、でもちょっとムッとしてるんです。

※2月13日の「文化横丁」に新たに分かったことを追記しておきました。

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2005年3月 6日 (日)

風変わりな人々・3~「鳥」

20050306風変わりな人というより、風変わりな鳥なのかもしれません。
スイスのルツェルンは湖のほとりの美しい街。音楽好きの方にとっては夏の音楽祭と祝祭管弦楽団が第一でしょうが、私のようなソプラノ好きにとってはエディット・マティスの生まれ故郷としてのネームヴァリューも譲れません。

このルツェルン湖からは、川が流れ出ているのですが、ちょうどその湖と川の境目ぐらいに古い木造の橋がかかっています。それがこの街のシンボルであり第一の観光名所である「カペル橋」(写真)。

1993年に火事でかなりの部分を焼失してしまいましたが、今は再建されたそうです。
この橋を渡ってすぐのところに、湖に下りられる場所があるのですが、私が行ったときはそこに白鳥が数十羽集まっていました。誰かが湖岸におりて餌をやっているようです。

驚いたことにここの白鳥はとても人懐こく、餌をやっているおばさん(おばあさん)のそばに寄ってきてるのです。しかもそのうちの2羽はおばさんの肩に乗ってるではありませんか。両肩にそれぞれ1羽づつ。
遠目に見たときは、なんか変な体型の人だなと思ったのです。両肩が変に盛り上がってて。でもまさか白鳥が乗ってるとは思いませんでした。

白鳥でもあれだけ人懐こくなるんですねえ。驚きました。

あるときこの話をしたら、ちょうどその場には某プロダクションのカメラマンが二人いたんですが、大不評。
「また作り話ばっかりして。白鳥って凄く大きいんですよ、人の肩に乗るわけ無いじゃないですか」とか「そんな話作ってどこが面白いんですか」とか、ほとんど「ごきげんよう」のなぎら扱い。でも、これ絶対に嘘じゃありませんからぁ!!!

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2005年3月 5日 (土)

休息、バレンシアの風俗~名画と名曲・2

20050305porionJPボルドー美術館にある、この愛すべき小品はフランスの画家シャルル・ポリオンの作品。タイトルは「休息、バレンシアの風俗」。

音楽好きの方ならよくご存知のように、19世紀後半から20世紀の初めにかけて、フランスでは隣国スペインが一大ブームになりました。音楽でしたらなんといっても「カルメン」が有名ですし、マスネの「ル・シッド」や「ナバラの女」、そしてラヴェルの数々の作品があります。美術の世界でもマネの絵を始め、音楽と同様のブームがありました。このポリオンについて私は全然知らないのですが、どうやら19世紀フランスの画家で、この他にもスペインがらみではベラスケスの絵画をもとにした磔刑図などを描いているようです。

見たとたんに、私はこの絵に惚れこみました。
休息と言うのですから、仕事の途中の休憩時間でしょうか?青年が弾くギターは、きっと恋人に弾いて聞かせる練習でしょう。彼は使用人で、後ろの二人はその主人夫婦。若い妻は彼にひそかに思いを寄せ、背後にいる年の離れた夫は、それを知ってか知らずか・・・
樹の葉の濃い緑とバックの漆黒が、逆にスペインの日差しの強さを感じさせます。すべての人を怠惰にする南欧のけだるい午後。

ここで彼が弾いている曲が何かはわかりません。が、この絵に最も合う曲というのなら、これはもう文句なし、ポンセの「エストレリータ(小さな星)」でしょう!

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2005年3月 4日 (金)

トラックバック

20050304sendaiJPこのブログは@niftyの「ココログ」なんですが、今日ニフティからメール・マガジンが届いていました。特集はトラックバックの正しい使い方。

それによるとブログがブームになって1年がたち、そろそろトラックバックのルールが確立されてきたとのこと。そして、そのルールとは、

「自分が記事Aに関連した記事を書いたときにだけ、記事Aに対してトラックバックを打ち、なおかつ自分の記事の中で、記事Aについてのリンクを貼る、という使い方です(よく勘違いする人がいますが、トラックバックを打っただけでは、自分の記事から記事Aへはリンクは貼られませんので、必ず記事中に自分で記事Aへのリンクを貼ってください)。」

ひえー、そうだったのか。私は関連した話題を話してるブログをみつけたら、ボカスカTBしまくっていいんだと思ってました(してないけど)。
そんな暗黙のルールが出来つつあったんですね。

でもそんなに厳密じゃなくて、関連話題だからということでTBしてもらうのも、面白いような気もするけど・・・ それなしでは絶対にみないような、全く見知らぬ人のサイトをTBで訪ねるのって、なかなか悪くないし。


FMを留守録したまま聞かないでいた、堀米ゆず子さんと児玉桃さんによるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ演奏会のライヴ、聞きました。前に放送された回も良かったのですが、今回も素敵な演奏でした。
シリーズで全曲を取り上げていくようですので、楽しみです。

写真:夕暮れの仙台市内。ポツンと高い建物はアエル(昨日)

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2005年3月 3日 (木)

同情だって!?・・・冗談じゃない ~ニュースと芸能ニュースの落穂拾い Watch What Happens・4

明治安田生命が明日4日から2週間、事実上の営業停止になります。報道でご承知のように、敢えて言えばあきれかえるような詐欺的営業を行っていたため。
ネットニュースで最初の方を読んだときには、一瞬「エッ?こんな程度で?」と思いました。が、読み進んでいくとなんとまあ・・・

先月のニュースなので、ちょっと復習いたしましょう。
保険会社の個人担当の営業の人たちというのは、客を保険に加入するように勧誘するのが仕事です。もちろんその時、その人が健康体であるかどうか確認しなければなりません。今にも死にそうな病気なのに、それを隠して契約されて、あまり保険料を払わないうちに死んだりすると、保険会社が損をするからです。

今回のケースは営業の人たちが、加入者が健康に問題があることを知りながら、『それを隠して加入するように』と本人に勧め、契約を取っていたと言うもの。ここまでなら、「ふ~ん、でもそれって個々の営業部員の話じゃないの?そんな営業停止になるようなことなのか?」と思うだけですが。

加入者が死んで、いざ保険金がもらえるかという段になると、明治安田生命は病気を隠していたからと言う理由で、保険金の支払いを拒否したのだといいます。つまり最初から出ないことが分かってての計画的保険料ただ取り。
このほかのケースもあり、こうした不適切な対応で本来支払うべき保険金を払わなかったのは、会社発表で合わせて162件、その総額は15億円を超えます。(泣き寝入りした人を考えると、不当な処理はその10倍はくだらないものと、私は想像しています。)

会社幹部は「現場が暴走した」などと言っていて、何時に変わらぬトカゲの尻尾きり。しかし10件や20件ならともかく、これでは会社ぐるみの詐欺的営業と言われても、弁解のしようが無いと思われます。

この事件そのものについては、先月のニュースなので、皆さんそれぞれブログで意見を(怒りを)述べてらっしゃるし、まあいいとしましょう。いや、良くは無いのですが、要するに不誠実な会社が事件を起こして処分されたということ。私が問題にしたいのは、

この件に関して不況による保険会社の経営の大変さと、営業の苦しさとをあげ、同情する論調が出ていると言うことなのです。「冗談じゃない」としかいいようがありません。この違反の勧誘をした人たちも、明治安田生命の役員も自分たちは詐欺師だったんだと言うことを自覚すべきだと思います。
あ、詐欺師といっても「スティング」のポール・ニューマンとロバート・レッドフォードみたいな、さっそうとしたものではなくて。いやいやエリザベス女王の甥の海軍士官と比べても、海軍士官のほうが100倍まし。※

私の知り合いにも明治安田生命(というか旧明治生命)に煮え湯を飲まされた人がいて、その人は泣き寝入りしたようですが、どうも会社の体質的な問題があるのかもしれません。

20030303NTVtowerJPもうひとつ。万引き娘(もしくは集団窃盗)のあびる優にも同情論が出ているのだと言います。日テレとホリプロの責任は問われず、未成年の女の子一人に責任をとらせ、かわいそうだということらしいのですが。

これも冗談じゃない。無論、日テレの番組担当者は顰蹙ものではあります。怠慢のそしりは免れないでしょう。しかし別に日テレのプロデューサーもホリプロのマネージャーも、悪いことをしたわけでも犯罪を犯したわけでもありません。

犯罪者はあくまでも あびる優 なのです。責任をとるべきなのは、誰よりもあびる本人。しかも現時点で責任なんか何もとってはいないと思うのですよね。謹慎なんて休養の同義語。謹慎といっても別に軟禁されてるとか、自宅から一歩も出られないとかいうわけではない。悪びれた様子もなく遊び歩いてると言う噂も聞こえてきます。
本当に責任をとるつもりなら、そのつぶれたコンビニの経営者のところに行って謝罪し、盗んだ分を弁償すべきでしょう。そんなこともしないくせに、ただ仕事休んでるだけで責任とったなんて、甘すぎて虫歯になりそう。

あびる同情論は、なんらかの理由で日テレを叩きたい人か、あびるを復帰させたい人の意見なのでしょうが、本末転倒もはなはだしい。窃盗娘なんか二度とテレビ界に戻らないでもらいたいです。

※ そういうふれこみ(日本人なのに)で結婚詐欺をしていた人が昔いて、相当話題になりました。なにしろ結婚詐欺で逮捕された時、各新聞よりにもよって海軍士官の制服を着た姿の写真を載せたので。

関係ありませんが、ダルビッシュは生涯禁煙を誓ったのだとか。こっちはなんだか微笑ましいような気が。

写真:日本テレビタワー(「東京発フリー写真素材集」サイト様から)

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2005年3月 2日 (水)

変容~名画と名曲・1

20050302transfigurationJPLP時代からの音楽好きでしたら、この絵は一度はご覧になったことがあると思います。ラファエロの「変容」です。英語だとトランスフィギュレーション。

バーンスタイン指揮LSOのマーラー/交響曲第2番「復活」のジャケットに使われていたからで、おかげで私はしばらくの間、この作品のタイトルを「復活」だと思い込んでいました。まさかR・シュトラウスだったとは。

この絵もヴァチカン美術館にあります。とても大きな作品で、バーンスタインのレコード・ジャケットにつかわれたのは、このキリストの部分だけ。その下にはバーンスタインと2人の独唱者(シーラ・アームストロングとジャネット・ベイカー)がコラージュされていました。

ラファエロの絵の全体はこうなります。

20050302transfiguration2JP「変容」はイエスがガリラヤの山上で弟子たちの前に、神としての正体を示した時のことで、イエスの顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。そして天から「これはわが子である」と声が聞こえた(両脇に浮かんでいるのはモーゼとエリヤ)、という光景をラファエロは魅惑的にあらわしています。レコード・ジャケットに使いたくなるのもむべなるかな――。もちろん「復活」は死んだ後ですから、全然違う時の話です。

バーンスタインには「復活」の正規レコーディングが3種類もあり、加えてLSO(ロンドン交響楽団)との録音は映像版もあります。現在の指揮者でこれに負けていない復活好きは、もちろんクラウディオ・アバドで正規盤が3種類の上に、映像版が1つ。海賊版では60年代のザルツブルク音楽祭のライヴがあり、さらに私の手元にあるだけでもベルリン・フィルとのライヴが数種類。ここぞと言う時には必ず「復活」と言うのが、不思議ふしぎ。

逆に演奏しなかったのがカラヤン。なんかこう全体にあからさまな感じが、カラヤン好みではなかったのかもしれないと、思ってみたりも・・・

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2005年3月 1日 (火)

奏楽の天使~名画と名曲・序

20050301musicmakingangelJPきょうから3月。東北は凍える日が続いていて、いったい今年は春が来るのでしょうか?
とりあえず少しは春にふさわしくと、ブログのデザインを変えてみました。

さて絵画と音楽については「レコード芸術」誌に、喜多尾道冬さんがとても読み応えのある連載をされています。これがまとまって本になれば、美術と音楽のアナロジーを考えるうえでの非常に優れた参考書になることは間違いないでしょう。

「名画と名曲」というシリーズ・タイトルをつけましたが、もちろん私は喜多尾さんのような力量も教養もないので、ここでは「この絵で楽器弾いてる人は、なんの曲を演奏してるんだろうね」とか、「この絵はあのレコードのジャケットに使われていたよね」とか、そんなことを徒然に書いていってみようかなと思います。(「ネタに困ってるのね」と囁いてるのは誰だ!)

写真の美しい絵はヴァチカン美術館にあるフレスコ画の断片。メロッツォ・ダ・フォルリという人の作品で「奏楽の天使」と名付けられています。英語でミュージック・メイキング・エンジェル。
この作品はいくつかの断片の形でしか残っていません(このうち一部は十数年前ですが、上野の西洋美術館で開かれた「ヴァチカン美術館展」で本邦公開されました)。それにしてもこんな天使が壁一面に描かれていたら、さぞや天国的な美しさだったろうと思われ、実に残念です。

このフレスコ画が描かれたのは1480年ごろ。音楽だとイタリアではちょうど、ジョスカン・デ・プレが活躍していた時代です。そういえば何年か前にジョスカンは二人いたという論文が発表され、ルネサンス音楽好きにショックをあたえましたが、その後の研究はどうなったんでしょう?二人分の曲がごちゃまぜになって、一人の作品だとこれまでは思われていたというんですが・・・

いずれにせよこの天使が弾く音楽、人間が作曲したものでないのは確かでしょう。

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