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2005年3月23日 (水)

オペラの演出-なぜ途中で帰れるのだろうか?

20050323DuidburgJP私は最近はめったにオペラは見ないので、少し前の舞台を例に挙げるのをお許し下さい。

フランツ・シュレーカーに「ゲツァイヒネテン」というオペラがあります。
後期ロマン派風のねっとりとした旋律と、新ウィーン楽派につながる斬新な響きの音楽。登場するのは高貴な精神と醜い外見を持つ男、美貌の女流画家、イタリアの貴族たち。そしてそこに愛、性、美、犯罪、裏切りなどなどをタップリつめこんだストーリーが織り込まれるという、もう実に耽美的な作品です。日本では最初に発売された国内盤CDに「烙印を押された人々」とかいうタイトルが付けられていたので、その名前でご存知の方のほうが多いかもしれません。

80年代の後半に私はライン・ドイツ・オペラで、ギュンター・クレーマー演出のこの作品を見ました。これは大変素晴らしい舞台で、冒頭すでにオペラが始まる前から、舞台はあいています。そこには池があり2人の小さな子供たちが天使のような格好をして遊んでいます。池にはピンクのフラミンゴ(本物)が数羽。でまあ、色々あってこの夢の楽園が、オペラの最後には裸の死体が累々と積まれた修羅場になってしまいます。

このクレーマーの演出は私が見た時点ではすでに名作として評価が定まっていましたが、プレミエの時には非常に激しい反応が出て、信じがたいことに途中で帰る客もいたそうです。

理由は2幕のバリトンとバスのシーンで、クレーマーは2人を同性愛の関係にしたからなのでした。幕が開くと舞台中央には大きなダブルベッド。タンクトップ姿で乱れたシーツにくるまっているバス。窓辺でタバコをふかしているバリトンは上半身裸、下半身はナチスを思わせる軍服のズボン。(しかも2人ともやたらマッチョだったりする。)
――というだけで、いまどきの過激演出に比べたら可愛いモンですが、どうもここが当時の一部の観客の逆鱗に触れたらしいのでした。

しかしここで帰った人は、その後に展開される深いクレーマー・ワールドと感動のラストシーンを見逃すことになります。たかだかワンシーンが気にくわなかったと言うだけで。(しかも美貌と演技力を兼ね備えたトゥルデリーゼ・シュミットと、主人公役のスペシャリストで2種類の全曲盤があるウィリアム・コックランの熱演も見ずに。)

それがどんなシーンであろうとも、何故そのシーンが必要だったのか、それが全体の中でどのような意味を持っているのかは、当然全てを見終わらなければ判断できません。
全体像を見据えることなしに、作品の核心にはせまれません。

ではとりあえず全部見ておけば、核心にせまれるのでしょうか?

昔の「赤旗」の映画評というのを読んだことがあるのですが、非常にしばしば噴飯物の批評にめぐりあいます。要するに特定のイデオロギーに染まった目で見ていくので、部分部分をイデオロギーで切っていくことは出来るのですが、全く映画の全体を見れてないのです。

しかし。イデオロギーというのは政治的なことだけではありません。たとえば「オペラは音楽が主、舞台は従」というのもイデオロギーだし、読み替えはけしからんとかいうのもイデオロギーなら、ハイCが出るかどうかが一番大事というのもイデオロギーです。

部分に対する過剰な感情的反応の積み重ねではなく、出来るだけ心を開いてそこに何があるのかそれが何を言わんとしてるのか、最後まで舞台と真剣に対峙し、わからなければ考えると言うこと。それなしに、核心にせまることは不可能だと私は思っています。

あっ!でも・・・
勿論私などとは違って、見巧者・聞き巧者の方々は、どんなに心を閉ざし、否定的反応を終始行っていたとしても、十分批評可能なだけのものをつかみうるのかもしれません。
であるのなら、それはそれで良しとしましょう。
幸か不幸か私はダメで、つねに心をまっ更にして全面的に受け入れる気持ちで、舞台に向かわないとその作品の全てはつかみえないのです。

そしてそんな私にとって、途中ではやばやと結論を出しえて、ブーイングなんかを出来る人というのは、理解を超えた異星人のような人々なのです。

写真:ドゥイスブルクの歌劇場。ご承知のようにライン・ドイツ・オペラはデュッセルドルフとドゥイスブルクの二つの街が合同で作っている。カンパニーとしては一つなのだが、それぞれに立派な劇場があり、オーケストラ・コーラスはそれぞれに付属している。
指揮者・ソリスト・プロダクションは勿論共通で、デュッセルドルフでまずプレミエが出され、その後ドゥイスブルクに移ることが多い。

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コメント

今日の記事もまるで私の気持ちを代弁してくださったみたいです^^; ので、以下、余談です。

劇場へ行って、気に入らないからという理由で途中で帰れる人というのは、ごく日常的に劇場通いができる人だろうと勝手に思っています。
映像で観る場合、つまらないという感じで途中でやめちゃうことありますね。でも、改めて観たら、とてもよくて、大好きな映像になったりすることもあります。逆もまた。これを劇場で生でできる幸せな人たちも存在するのでしょうね。

投稿: edc | 2005年3月23日 (水) 06:16

>気に入らないからという理由で途中で帰れる人というのは、ごく日常的に劇場通いができる人だろうと勝手に思っています。

・・に賛成^^|
また自慢話?^^;ですけど、コンヴィチュニーの『マイスタージンガー』の時、私の隣の男性は、ヴァルター役の歌手がどうもお気に召さなかったらしく、彼が歌ったあとで、いつも何かブツブツ言ってたんですけど(小さなささやき声ですよ!)二幕終了後に帰ってしまいました^^;

あの演出は、三幕の後半からが、俄然面白くなりますから、そういう意味では『勿体無い!』と思いましたが、恐らく日常的に、気軽にオペラが見られる方だからこそ、できることだと思いました。

そう、映像を途中で見るのを止めるのと同じ感覚でしょう・・きっと(^_^;)

投稿: ヴァランシエンヌ | 2005年3月23日 (水) 09:19

日本の評論家でも、「(あまりにひどいので)途中で帰ってきてしまった」と堂々と書いている人がいます(某大御所評論家もそうしていたのには驚きました。というより、もしかして彼の影響なのかしらん?)。
ご本人は一種の意思表示のつもりなのでしょうか。正直申して、最後まで観ずにどうしてその舞台について何かを語ることができるのだろう、と思ってしまいます。

と偉そうに申す私ですが……映像を途中で観るのをやめる人とは、まさに私のことです。とほほ……人のこと言えません。
LDの設備がないので東京文化会館の音楽資料室まで聴きにゆかなければならないとか、通してみる時間がないとか、言い訳してみたり。早くブーレーズ&シェロー『ジークフリート』第三幕を観なければ……。

投稿: ユルシュール | 2005年3月23日 (水) 10:30

>euridiceさん

日常的に劇場が良いが出来る人は、そうかもしれないですね。確かに幸せといえば幸せかも。
先の記事に挙げた例はプレミエ近辺の話ですからねぇ。

映像の場合はまたちょっと別だと思うんですね。
舞台は一期一会ですけど。

投稿: TARO | 2005年3月23日 (水) 23:38

>ヴァランシエンヌさん

外国の人って、結構ぶつぶついいますよね。
昔、小澤がマーラーの交響曲のライヴ録音をしてた時に(開演前にフィリップスの録音が入ってるから静かにしてくれと言うアナウンスがあったにもかかわらず)、私の近くの席の老人は楽章ごとにブツブツいってましたね。さすがに3回目ぐらいで周囲からシッとやられてましたが。

投稿: TARO | 2005年3月23日 (水) 23:42

>ユルシュールさん

それは新国開場の時の吉田秀和さんですよね。
ちょっとね。

というか気に入らなかったら途中で帰ること自体は別にかまわないと思うんです。どうしても耐えられないという人もいるでしょうから。
でも評論家が途中退席した以上、その舞台については一言も口を発言すべきではないように思います。

投稿: TARO | 2005年3月23日 (水) 23:47

西洋人のほうが概して他人を気にしませんね。(気遣いのあり方が違うとも言えるかもしれません)彼らの自分に腹を立ててとか単なる自分の都合による行動の類い。こういうの、日本人は普通我慢しちゃうでしょ。オペラの途中で帰っちゃうなんてのも、もしかしたら大半は急に腹が痛くなったとか、用事思い出したとか、当人の個人的理由かもしれません^^;

投稿: edc | 2005年3月23日 (水) 23:52

↑の続きです。

某大御所様も実はそうだったりして・・・

評論するからには、最後まで、偏見なしに接するべきですよね!それが、「帰っちゃった」が偉そうに聞こえるから不思議です・・

投稿: | 2005年3月24日 (木) 00:00

なんだか前のコメントで「口を発言」とか、日本語が変になってました。すみません。

>euridiceさん

服装とか個人的なことで他人のことをいちいち気にしないと言うのは、西洋人の良いところですね。でも劇場などでの他人への気遣いは、逆に日本人の良いところだと思います。これからはどんどん薄れてくるかもしれませんが。

>「帰っちゃった」が偉そうに聞こえるから不思議です・・

ホントに(笑

投稿: TARO | 2005年3月24日 (木) 02:10

>赤旗の映画評
そう言えば、ある映画評を中高時代愛読^^;してました。「カトリック生活」(多分)という月刊だったか、季刊だったか忘れましたが、薄っぺらい雑誌が学校の図書室にありまして、この裏表紙が必ず映画評というか、映画の分類表なんですよ。推薦から確か禁止映画まで。一番おもしろそうなのは禁止映画の項目でしたね^^; まあね、ほとんどが禁止映画だったと思います・・・今もあるのかしら??? 目から入る刺激が一番問題だということでしたから。

投稿: edc | 2005年3月24日 (木) 09:17

一昨年仕事をでっち上げてデュッセルドルフへ行きラインドイツオペラも見てきました.
プッチーニの「三部作」「外套」が良かったです.
劇場の隣の公園がきれいでした.トラムが便利でした

投稿: Esclarmonde | 2005年3月24日 (木) 21:27

>euridiceさん

「カトリック生活」なんていう雑誌があるんですかぁ、驚き。というかミッション系の学校はみんな購読してるんでしょうかね。

>ほとんどが禁止映画だったと思います・・・

すごく意味ないような。(笑
「偉大な生涯の物語」とか「天地創造」とかは、推薦でしょうね。あ、でも「天地創造」はアダムとイヴがオールヌードで出てくるから、禁止?

カトリックに関係する映画では、パゾリーニの「奇跡の丘」とケン・ラッセルの「肉体の悪魔」、それにアラン・カヴァリエの「テレーズ」が、私にとっての三大感動作かなぁ。

投稿: TARO | 2005年3月24日 (木) 23:34

>Esclarmondeさん

ライン・ドイツ・オペラはあらゆる点で水準が高いですよね。写真のギリシャ風のファサードの建物はドゥイスブルクのほうですが、デュッセルドルフは対照的に近代的な建物で。

ドゥイスもデュッセルに劣らず高レベルですから、次にいらっしゃったら是非そちらにも足を運ばれては。

投稿: TARO | 2005年3月24日 (木) 23:39

>しかし、イデオロギーというのは政治的なことだけではありません。
>たとえば「オペラは音楽が主、舞台は従」というのもイデオロギーだし、読み替えはけしからんとかいうのもイデオロギーなら、ハイCが出るかどうかが一番大事というのもイデオロギーです。

失礼ですがそれは間違いですね。
「オペラは音楽が主、舞台は従」というのは、<イデオロギー>では無く<事実>です。
オペラというのはあくまで舞台付きの音楽であって、音楽付きの演劇ではありません。
(一部の非音楽的な現代オペラは別ですが)。
舞台なしのオペラのCDや演奏会形式はありますが、音楽なしのオペラは存在しません。
「サロメ」は「フィガロ」「椿姫」等は演劇としても上演されますが、あくまで演劇として上演されるだけで音楽抜きのオペラとして上演されるわけではありません。
ワーグナーが自作を総合芸術などというのは、ただの芸術論というかプロパガンダに過ぎません。
ワーグナーの総合芸術で舞台に登場するのは、役者ではなくてオペラ歌手なのですから。
もちろんワーグナーに限らずオペラで舞台に立つのはオペラ歌手(=クラシックの声楽家)であってプロの役者ではありません。
そもそも音楽抜きの「マイスタージンガー」や「トリスタン」のリブレットを上演するなど、いかな天才的演出家でも不可能でしょう。
つまり歌と音楽あってこそのオペラであって、舞台はあくまで添え物なのです。
もちろんその舞台や芝居が素晴らしければ、より感動も深まるのはあたり前です。
しかしいかに素晴らしい舞台で役にふさわしく優れた演技力を備えたテナーであっても、<ハイC>をしくじれば台無しになるのがオペラというものです。
パヴァロッティのの現役時代太り過ぎでつっ立ったまま動けなくても批難される事はありませんでしたが、自慢の高音や美声が出せなければいっせいにブーイングを食らいました。
オペラの観客はパヴァロッティの学芸会並の芝居を見に行っているのではなく、彼の声の為に高額な入場料を払っているのですから。
それと読み替えが批難されるのも、音楽的に無意味な演出があまりに多いからですよ。
たとえ現代的な演出でも東京リングのウォーナーとかジュリー・ティモアのような演出なら大歓迎ですがねw。

投稿: op.0 | 2005年3月31日 (木) 23:29

op.0さん、いらっしゃいませ。

>「オペラは音楽が主、舞台は従」というのは、<イデオロギー>では無く<事実>です。

いいえ、それはあなたの勘違いではないでしょうか?というか「事実」という言葉の意味を勘違いされてるように思います。
「オペラは音楽が主、舞台は従」というのはイデオロギーにすぎません。「事実」があるとすれば、そのようなイデオロギーに沿った作品が多く作られ、かつそのようなイデオロギーに沿った舞台が多く上演されてきたということが、事実なのです。

ご承知のようにフィレンツェのコルシ邸で最初のオペラが上演された時、それはギリシャ悲劇の再現を目的としたものでした。つまり舞台が主、音楽が従だったのです。その後のヴェネツィアにおいて大衆に支持されたオペラがほとんどが音楽的価値のない見世物同様だったというのも、どんな音楽史の本にも書いてありますからご存知だと思います。
「音楽が主、舞台は従」という『イデオロギー』すら、オペラ発生の当初からあったわけではないのです。

>舞台なしのオペラのCDや演奏会形式はありますが、

それはオペラではありません。「オペラのCD」であり、「オペラの演奏会形式」に過ぎません。

>つまり歌と音楽あってこそのオペラであって、舞台はあくまで添え物なのです。
><ハイC>をしくじれば台無しになるのがオペラというものです。

だからそういう考え方を、イデオロギーと読んでいるのです。私はハイC失敗したからといってオペラが台無しになるとは思ってません。
なぜあなたと私と正反対の意見を持つものが存在しうるかといえば、個々に異なるイデオロギーを持つからです。
(それを「イデオロギー」と考える私は、自分とは異なるあなたの意見を受け入れることが可能ですが、それを「事実」と考えるあなたは、おそらく自分とは異なる他人の意見を受け入れられない狭量さに縛られると思います。大変失礼ながら。)

>パヴァロッティのの現役時代太り過ぎでつっ立ったまま動けなくても批難される事はありませんでしたが、自慢の高音や美声が出せなければいっせいにブーイングを食らいました。

そういうのは百も承知で書いています。そして正にそういう姿勢を非難してるのです。
つまり私が非難してる部分が、あなたの論旨の拠り所になってるのですね。

>たとえ現代的な演出でも東京リングのウォーナーとかジュリー・ティモアのような演出なら大歓迎ですがねw。

そんな意見の表明には何の意味もないと思いますが。そんなのはあなたの個人的な趣味、もしくは思想に基づく評価でしょ。

投稿: TARO | 2005年4月 1日 (金) 02:13

横から失礼します。TAROさんの意見に同感です。


「観客は、テノールが輝かしい高音、高いドの音を出せば、他のところでさんざんひどい歌い方をしても許してくれるが、ある晩の公演で、天使のようにすばらしく歌いながら、最高音を一つ失敗して、すべてをぶちこわす可能性もあるのだ。どんな公演にしろ、高いドの音を出し損なったら、立ち直れない」(ルチアーノ・パヴァロッティ)
このパヴァロッティの発言は、そういうオペラ的事実(あるいは悪習)を述べているとおもいますが、
少なくとも私はこういうオペラの鑑賞の仕方はしませんし、オペラがそういうものであるべきだとは考えません。

投稿: | 2005年4月 1日 (金) 08:44

>読み替えが批難されるのも、音楽的に無意味な演出があまりに多いからですよ。

音楽的に無意味かどうかは、個々の人それぞれの考え方ではないかしら?

能の話で恐縮ですが、かの世阿弥も『風姿花伝』でこのような主旨のことを書いています。

『どんな花でもいずれは散り、再び季節が巡ってきて咲くから珍しい=面白いのと同様、能においてもひとつのものに安住しないで、常に新しい表現を求めていれば、珍しさが生まれてくるのだ』

・・古典芸能だからといって、同じことの繰り返しでは『観客は飽きる』ので、常に新しさを求めて行かなくてはならないということです。そこに社会風刺を取り入れるのも、また然り・・でしょう。
私も同様に考えています。

もっとも、
>オペラというのはあくまで舞台付きの音楽であって、音楽付きの演劇ではありません。

という化石のような考えをお持ちの方には、到底理解して頂けないでしょうし、こちらもそういう啓蒙活動のつもりで書いたのではありませんので悪しからず。

投稿: ヴァランシエンヌ | 2005年4月 1日 (金) 12:05

えと、お名前の無い方は euridiceさんでしょうか?(違ってたらごめんなさい)

パヴァロッティの最大の魅力が、あの明るく伸びやかな声にあるのは勿論ですが、それと同じくらい高く評価されるべきなのは、プレ・ヴェルディを歌う時の模範的といってよい様式感だと私は思ってます。
だからキング・オブ・ハイCなどと言って、アリアの最高音しか評価の対象にしようとしない聞き方は、本当にパヴァロッティを聞いてるとは言えないんじゃないかとすら思っています。

アメリカと違ってイタリアの聴衆なら、高音の出来に一喜一憂しながらも、様式の把握がちゃんとなされているかとかも、しっかり聞いてると思うんですが。

>ヴァ、ヴァ、ヴァランシエンヌさんって、結構過激なんですね。化石って・・・(笑

趣味で聞いてる人にとっては、あまり変わらずに十年一日の如き同じ事をやってる方が良いのかもしれませんね。でもなんというか、単に趣味でオペラを聴くだけじゃなくて、オペラとあるいは音楽と共に(一緒に)生きていく方が充実してると思うんです。うまく言えませんが。

そうすると時代の変化によって、演奏そのものも変わってくる。当然演出も。HPに「魔笛」のパミーナと夜の女王の歌の変遷ということを書いたのも、そういう意図をこめてたんです。

投稿: TARO | 2005年4月 1日 (金) 22:09

>お名前の無い方
あ、毎度済みません。

>模範的といってよい様式感
そうなんですね。映像体験しかないんですが、
パヴァロッティって、ほんとうに存在感あると思います。

投稿: edc | 2005年4月 1日 (金) 22:20

>ヴァ、ヴァ、ヴァランシエンヌさんって、結構過激なんですね化石って・・・(笑

はは^^;優雅な駐在員妻の私のイメージ、崩れちゃいましたか?^^;

前から演出云々についてはまとめたい・・と思ってたのですが、いい機会だったのでつらつらと書いてみました。

実際には、直接関係ない話題が多くなっちゃいましたけど、きっかけを作って下さったのは、TAROさんのこの記事であり、『ブーイング』の記事でしたから、自分の記録を兼ねてTBさせて頂きました。ありがとうございましたm(__)m

投稿: ヴァランシエンヌ | 2005年4月 2日 (土) 09:46

>euridiceさん

あ、気にしないでくださいね。最近は名前が無くても文体でなんとなくわかるように。

>ヴァランシエンヌさん

そうなんですよ。イメージ変えなくては。(笑
後ほどサイトの方にお邪魔させていただきます。

投稿: TARO | 2005年4月 2日 (土) 15:37

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