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2005年6月

2005年6月30日 (木)

6月も今日で終わり

20050630OfunatoJPです。

(A)つまり1年の半分が過ぎてしまったのでした。
なんということでしょうか。歳を取ると時間の進むのが速いとは、よく言われますが、ほんとにまあ・・・。

(B)それはともかく。私は5年前までおよそ10年間、横浜に住んでいました。仙台に戻ってきて最初に驚いたのは、電車に乗ってる人たちのマナーでした。
首都圏なら出来るだけ多くの乗客が座れるように、客が自主的に詰めて座ると思うのですが、仙台では座席のど真ん中にデーンと座り、あまつさえ荷物を隣の席においてる人が、
やたら多いのです。それがれっきとした紳士やら、女子高生・女子大生風の女性やら、まともそうな人たちがそうなのです。
他の乗客もとがめもせず、また狭いスペースに無理に座ろうとする人もいません。

6人がけの椅子に4人ぐらいで座っているのは、普通に見かける光景で、むしろ6人がちゃんと座っている方が珍しいかも。これはなんだろうか?と私は思いました。
田舎ならではの鷹揚さ?マナーが根付いていない?やはり前者でしょうか。

郷に入っては郷に従えと言いますが、しかしどうも私はなじめません。やはりちゃんと詰めて座りたいと思うのです。ところがみんなゆったり座っているところに、ひとり隣の客にぴったりくっついて座ると言うのも(特にそれが女性客だった場合)、ちょっと変なのですね。

そんなわけで最近は、電車の中で若い女性の隣に座ることは、まず無くなってしまいました。女性の脇に座る時には、ほとんど隣はお婆ちゃんだけになってしまった私です。

(C)ウィンブルドン、エナンが早々と消えてしまったり、セリーナがノーシードの選手に敗れたりと、波乱含みの展開でしたが、ベスト4まできてみると、第1~3シード+過去2回優勝のヴィーナスという、誰でも予想できそうなメンバーで落ち着いてしまいましたね。
ということでダヴェンポート×モーレスモ戦をみようとBSをつけたら、あれえ?前の試合のVTRなんか流してる・・・雨なんでしょうか?

写真:岩手県大船渡市(市役所のあたり)

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2005年6月29日 (水)

フォーレのレクイエム・3

20050629ParisJP(6月17日の続き)
レクイエムの「いわゆるオリジナル版」については、17日にあげたような名盤が目白押しでどれを選んでも間違いはなさそうです。

中でも私が好きなのはスティーヴン・クレオベリー指揮ケンブリッジ・キングズ・カレッジ合唱団によるEMI盤(ラター版)で、演奏は普通に進んでいくのですが、最後のイン・パラディスムでちょっとビックリです(聞いてのお楽しみ)。フィルアップされたデュリュフレのレクイエムは独唱にアン・マレーが参加していて、素晴らしい歌声を聞かせてくれます。

シンフォニック版(フル・オーケストラ版)は昔から数多くの録音がなされてきましたが、ネクトゥーによれば1901年にアムレから出版されたスコアはかなり間違いが多く、校訂の必要があるのだそうです。
過去にも2回ほど新校訂の楽譜が出版されましたが、1998年に新たにネクトゥー自らが校訂したものが出版され、もっかのところこれが決定版ということになる模様です。
6月17日の助六さん宛てのコメントにも書きましたが、このネクトゥーによるエディションは、ヘレヴェッヘの2度目の録音で採用されています。

このヘレヴェッヘ盤はピリオド楽器のオーケストラを起用しているほか、発音にも注意を払っていて、1900年当時のフランスで行われていたであろうラテン語の発音を復活しているのだそうです。たとえば「イェス」は「ジェズュ」という感じになるなど、私たちが大学で学ぶラテン語発音とはかなりの違いが見られます。
エディションを考えれば、フォーレのレクイエムのフル・オーケストラ版のCDとして、最初にあげられるべきものはこれということになるでしょう。

この曲の録音としては従来まずクリュイタンス指揮のステレオ録音のEMI盤が、その後長い間コルボ指揮のエラート盤が、決定盤的評価を得てきました。しかし今となってはやはりコルボ盤は折衷的なものということになるのでしょうか。

もっともヴァージョンやエディションの問題を抜きにして、独唱者にのみ焦点をあてると、話はちょっと異なってきます。
やはりロス・アンヘレスとフィッシャー=ディースカウは、実に上手いですし、ウォルドマン指揮ムジカ・エテルナ演奏のMCA盤でのマーティナ・アーロヨとヘルマン・プライによる心温まる歌声は、特別なものと感じられます。
意外と駄目だったのはフルネのスイスでのライヴ録音(フルネとしては3度目。日本での録音は4度目にあたる)で、エディット・マティスのソプラノ・ソロに期待したのですが、録音が酷すぎて、マティスの声かどうかも聞き分けられないほど。いくらライヴでもいまどきのCDとは思えないこもった音で、ガッカリでした。

私が残念に思ってるのは、フレーニがこの曲の録音を残してないことです。彼女ならぴったりだったと思うのですが。

写真:セーヌ河

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2005年6月28日 (火)

インターネットは実名で?

20050628CadenJPすでに新聞等でご存知かと思いますが、総務省がインターネットについて以下のような見解を出しました。新聞記事のリードだけ引用します。

『総務省は二十七日、自殺サイトなど「有害情報の温床」ともいわれるインターネットを健全に利用するために、ネットが持つ匿名性を排除し、実名でのネット利用を促す取り組みに着手する方針を固めた。匿名性が低いとされるプログ(日記風サイト)やSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サイト)を小中学校の教育で活用するよう求め、文部科学省などと具体策を詰める。』

総務省は国民のインターネット利用に、今後どの程度干渉してくるつもりなのでしょうか?このニュースが示しているのは、次の2点です。
まずブログやMixiを小中学校で普及させることによって、ネットを実名で利用する習慣を子供のうちからつけるという教育方針。
そして実名でのネット利用を「促す」という言い方で、匿名での利用を規制する方向への準備。後者はもちろん推測です。

しかしそんなことが可能なんでしょうか?また実名とはなんでしょうか?ペンネームや芸名を持っている人はそちらが実名になると思いますが、一般の人はそんなものは持っていないのが普通ですから、つまり本名ということになるのでしょうけれど、それに伴う危険性について、総務省はどのように考えているのでしょうか?

つまりなんなのか、判らないだらけなのですが、これに先立って先週にはこんなニュースもありました。

『総務省は24日、インターネット上に流れる情報の違法性、有害性を判断し、
相談を受け付けるため、専門家による第三者機関「有害情報判定委員会」(仮称)を創設する方向で検討に入った。7月に省内に設置する有識者の研究会で、第三者機関の具体的なあり方を協議する。』

これと併せて読むと、どうやら「実名で」というのは情報統制の新しい形ということなのかもしれません。新聞記事によれば韓国ですでに実施され、効果をあげているということなのですが、こともあろうにこういうことで韓国をモデルにされても困ります。

具体的にはたとえば「自殺サイト」などが、当然のように槍玉にあげられるわけですが、しかし何故これほど自殺者が多いのか。もちろんバブル期以来延々と続く政府の経済無策にその源があるわけですが、根本を考えずにインターネットのせいにしても「臭いものに蓋」以上の効果があるとはとても思えない、というのが私の感想です。

そしてなによりも問題なのは、個人情報・プライバシーの件でしょう。これほど個人情報の流出が社会問題化し、種々の詐欺的事件を引き起こしている現状で、積極的に個人情報の暴露をしやすくするように、総務省が国民に求めると言うのは、なにか頭がクラクラして来そうです。

ブログに本名が晒してあって、なんらかの生年月日を判別できる情報が書いてあったら、依然として生年月日をキャッシュカードの暗証番号に使っている人(おそらく相当多いのではないかとおもわれます)の口座など、いちころではないでしょうか。

あるいは種々のメンヘル系統の悩みや性の悩み(特にセクシャリティの)を訴える人に対する差別等も発生することは、容易に考えられます。個人の特定が簡単になればなるほど、その心配は大きくならざるを得ません。

ついでに書けば、実名を出したブログやSNSのみが少年少女に提供されるとなると、彼らは人に言えない悩みをどこに持っていけばいいのでしょう。昔はインターネットなんか無かったと言うかも知れませんが、代わりに昔は親子の絆や友人同士の絆がしっかりとあったのです。いまは勿論ありません。唯一見つけたインターネットの世界からも、仲間はずれにされる子供たちが出現しそうです。

他にも問題山積みのような気がします。どうもインターネットなんか使ってない人、調査は部下まかせ、メールを出すのも読むのも秘書というような方々が、適当に考えたのではないかと思ってしまいます。

かつて私たちはE電という恥ずかしい言葉を、無視することで葬り去り、CCCDを不買という方法で消滅させました。今回もなにか消極的抵抗が効果を発揮するといいのですが。

写真:岩手県内で見つけた家電製品の店。家電屋さんで店名がCaden(キャデン)というのが素敵!

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2005年6月27日 (月)

新寺小路緑道

20050627sinteraryokudouJP昨日に続いて地域ネタを。

新寺小路は仙台駅の東南に位置する寺町で、その名の通りお寺が集まっています。
もともとは元寺小路というお寺が集まっていた通りがあるのですが、そこのお寺が移転してできた寺町のようで、そのため新寺と呼ばれています。と、よく説明されています。が・・・

仙台城から見て鬼門にあたるので、ここにお寺が多く建てられたという話も仙台市のサイトに載っていて、「元寺>新寺」の関係と「鬼門説」との兼ね合いがどうなってるのか、よくわかりません。

いずれにせよ「小路」と言うのはいささか似つかわしくなく、いまは大通りといったほうがよいかもしれません。
むしろ小路の名にふさわしいのは、立ち並ぶお寺の後ろ側を通る緑道です。これは幅10メートル、総延長640メートルの散歩道。

仙台駅の西側に比べると、少々緑が少なく潤いに欠ける東側地区の、まさにオアシスと呼ぶにふさわしい空間を作っています。

小林まことさんの「What’s マイケル」にそっくりの猫が、このへんをうろうろしてますので、みつけたらよろしく。(って、何をどうしろと?)

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2005年6月26日 (日)

広瀬橋

20050626HirosebashiJPいまでこそ広瀬川で洪水なんて聞いたこともありませんが、昔はよく氾濫して、人が流されたりしていたようです。仙台市中心部から長町方面に向かう時に通る広瀬橋のあたりも、よく氾濫することがあったのだとか。

当時、というのは藩政時代のことですが、ここには木造の橋が架かっていて長町橋と名付けられていました。しかし木造なので、しばしば流されていたのだそうです。

ある時には川の氾濫で橋を架けられず、ついに長者の娘が人柱となり、ようやく橋を架けることが出来たのでした。そんな悲しいエピソードも残るこの長町橋が鉄筋コンクリートの橋に架け替えられたのは明治42年のこと。その時名前も広瀬橋と改称されました。

20050626Hirosebashi2JPそして、仙台市民以外にはあまり知られてないことかもしれませんが、実はこれが日本で初めての鉄筋コンクリートの橋なのです。

ただし現在の橋は、交通量の増加にともなって昭和になってから再度、架け替えられたものです。近年になってちょっとノスタルジックな趣をかもし出すべく、お色直しもされました。広瀬川の川面に映る街灯がなかなか美しいので、普通の観光コースじゃない仙台を発見したいという旅行者の方にも、ちょっとお勧めできるかも・・・

最近ちょっと地域ネタをないがしろにしていたので、取り上げてみました。

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2005年6月25日 (土)

ヨブの哀歌~名画と名曲・19

20050625オルランド・ディ・ラッソの「聖ペテロの涙」については、前に書きました。初めてきいたラッソの作品でしたが、とても美しく感動的。で、同じ仏ハルモニア・ムンディからシリーズのようにして発売されたのが、ラッソの「ヨブの哀歌」でした。

当然期待して買って聞いてみましたが、ん~・・・。なにか「聖ペテロの涙」のような感動は得られず。ただ高校か大学時代の話なので、今ならもっと違うきき方ができるかもしれません。

聖ヨブはご承知のように聖書の登場人物で、神からあらゆる虐待を受けても信仰を失わなかったという、Mの鑑のような人。キリスト教徒もしくはユダヤ教徒の人が、どう考えているのか知りませんが、私にはあまりよく理解できない挿話です。

ヨブについての音楽は、ラッソの「ヨブの哀歌」以外に、良く知られている曲は無いと思いますが、絵画はきっとそれなりの数があるんじゃないかと思います。
中でも有名なのはジョヴァンニ・ベッリーニの「聖ヨブの祭壇画」、ヴェネツィアのアカデミア美術館にあります。

20050625この人がヨブで、悲壮感漂うというよりは、栄養の行き届いたムチムチ爺さんに見えるのはいかにしたことでしょうか。注目したいのは顔で、晩年のバーンスタインに似ているような気がしませんか?

ジョヴァンニ・ベッリーニは1420年代か30年代に生まれ、1516年に亡くなったヴェネツィア派の画家。西洋美術史上最も重要な画家の一人ですが、日本ではどうも美術に興味のある人以外からはあまり関心をもたれてないような気がします。どの盤か忘れましたが、ペルゴレージの「スターバト・マーテル」のジャケットに、ミラノのブレラ美術館にある「ピエタ」が使われていたような、淡い記憶が。

200506252中央の聖母の顔も、誰かに似ているような気がするのですが、誰かわかりません。ジェヌヴィエーヴ・ビュジョルドをふっくらさせたような。なんかこんな顔の女優さんがいたような気がするのですが・・・

聖ヨブはイタリア語では「サン・ジョッベ」となります。この作品が「聖ヨブの祭壇画」と呼ばれるのは、もともとはサン・ジョッベ聖堂に置かれていたからで、礼拝堂の祭壇画なので当然大きく、高さは4メートル70センチという巨大なものです。1487年ごろの作品と見られています。

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2005年6月24日 (金)

廃校

20050624GoyouJP岩手県の大船渡市に近い住田町。ここには県立自然公園に指定されている五葉(ごよう)山という山があります。登ったことはありませんが、頂上からは三陸のリアス式海岸が一望の下に見渡せるんだそうです。この山のふもと、五葉地区にあった小学校、五葉小学校に仕事で行ってきました。

といってもここは3年ほど前に廃校になった学校です。旧・五葉小学校といわなければなりません。いまは地区公民館として利用されているそうです。

デジャ・ヴ。

20050624Goyou2JPかつては子供たちの声であふれていたんだろう堂々たる木造の校舎。小さな机と椅子。歩くとミシミシなる板張りの廊下。もちろんアルミサッシなんかじゃない木枠の窓。職員室。黒板。
感傷的になる要素がこれほど揃ってるとは・・・

閉校間際には児童は10人をきったとか。今はもっと子供の数が少なくなって、数人がスクールバスで5キロほど離れた学校に通ってるそうです。

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2005年6月23日 (木)

セーフ!

20050623StationJPって、何が?

今日の分は予約投稿できずに、ついにブログ開設半年で、はじめて落とすか、と思ったのですが。
さっき帰宅。ぎりぎり間に合いました。

写真はローカル線の夜の無人駅。

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2005年6月22日 (水)

黄昏のベルリン~国境

20050622BorderJP(昨日の続き)を書こうとしていたんですが、時間がないので写真でごまかすしかありません・・・
上の写真は、列車で東西ドイツを越えるときの国境のポイント。
たしかハノーファーからベルリンに入るルートじゃなかったかと思います。

20050622BerlinJP下の写真はベルリンの有名なカイザー・ウィルヘルム教会。でも戦前は特に有名な教会と言うわけではなかったんだとか。

壁が壊れたのはカラヤンが亡くなって、まだアバドに決まる前。音楽の世界も激動の時代でしたね。

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2005年6月21日 (火)

黄昏のベルリン~チェックポイント・チャーリー

20050621CPCJP(昨日の続き)それまで行き来できた東西の間ですが、検問所が設けられ、厳しくチェックされることになります。

写真は一番有名なチェックポイント・チャーリー。
ABCと3つあるうちのCにあたるもので、チャーリーの名前は通話表に由来しています。電話や電報のときの「東京のト」とか「京都のキ」(?)とかいうアレで、英語の場合は「チャーリーのC」になるのだそう。

20050621CPC2JPたしか車で越えられるのはここのポイントだけだったと思います。「ユー・アー・リーヴィング・ジ・アメリカン・セクション」という警告が、怖さを添えます。
このチェックポイント・チャーリーのそばに壁博物館というのがあったんですが、今でもあるでしょうか。もう15年以上たって、壁の存在自体が、歴史の一部になってしまいましたが・・・

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2005年6月20日 (月)

黄昏のベルリン~壁

20050620wall1JPいま大学生ぐらいの人でしたら、かろうじて覚えてるのかもしれません。昔ドイツが東西に分かれていて、ベルリンも半分に分割され、街の半分が東ドイツ領、半分が西ドイツ領になっていたことを。そしてその境に「壁」があったことを。

もともと第二次世界大戦が終わって、ドイツがアメリカ側(西)と(旧)ソ連側(東)とに二分された時に、ベルリン市も二分されたのがことの発端でした。
西ベルリンは、海に浮かぶ孤島のように、東ドイツのなかにポツンと飛び地としてあったのです。

20050620wall2JP1961年8月東側は、とつぜん西ベルリンとの間に壁を作り始めました。長さ15キロ。
西側からの攻撃を防ぐためと言うのが名目ですが、実際には東側から西側への人々の流出を防ぐためと言われています。

この壁を乗り越えようとして失敗し、幾多の人々がなくなり、あるいは捕まったのでした。壁は多くの悲劇を生んだと共に、スパイ小説の格好のネタにもなります。

永遠に無くならないと思われた「壁」ですが、まさかこの壁が壊される日がこようとは。1989年11月。あの有名なロストロポーヴィチが無伴奏を弾いている映像が残された時です。

20050620wall3一番上の写真は西側から壁越しにブランデンブルク門を見たもの。2番目は記念に壁のかけらを持っていこうとしてる人々。もしかすると記念品として売ろうとしてるのかもしれません。最後のはたまたま私が拾ってきた壁の破片。

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2005年6月19日 (日)

もしかして Part2

20050619TouhokujidousyaJP明日から今週いっぱい、留守にするので、予約投稿していこうと思います。ただし、これから金曜日分まで書くので、果たして間に合うかどうか。もしかして初めて落とすかもしれません。

というわけでインターネット・カフェにでも行かない限り、たぶんコメントをいただいても、週末までレスできないかと思います。失礼がありましたら、お許しください。


ブログにかまけて放置していたホームページの方ですが、ブログに書いた「愛すれど心さびしく」をHPに移しました。


杉山愛、ウィンブルドンの初戦の対戦相手はイタリアのロベルタ・ヴィンチ。ヴィンチって・・・先祖がヴィンチ村の出身なんでしょうか?このところずっと調子の出てない杉山、相手がヴィンチじゃなくてピンチだといいんですが。(ってオヤジギャグにしても、なんかレベル低すぎるかも・・・)

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2005年6月18日 (土)

笛を吹く少年~名画と名曲・18

20050618マネの1866年の作品「笛を吹く少年」です。『扉に貼り付けたダイヤのジャック』というのが、サロンに落選した時のこの絵にたいする批判の一つだったそうで、やはりフランス人は嫌味のセンスもハイセンス?

パリのオルセー美術館にありますが、かつて「ジャポニスム展」で日本に来たことからも分かるように、日本の版画の影響が強く表れています。
と同時に、この作品はマネがスペイン旅行から帰ってきてすぐに取り掛かったもので、ベラスケスの空間表現にも影響されているようです。

とても有名な作品なので、絵そのものについてはまあいいとして、この少年はいったい何の曲を吹いているのでしょうか?

マネはこの作品を描く時に、まず少年鼓笛兵を連れてきて、ポーズを取らせたと言うことなので、吹いているのはあきらかに行進曲なのでしょう。実際は。
でもそれではつまらないので(?)1866年前後に、フランスではどんな曲が作曲されたかを調べてみました。

66年ぴったりに初演されてるのはビゼーが同名のオペラからまとめあげた組曲「美しきパースの娘」。少し前になりますが、63年に初演されてるのはサンサーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」。ビゼーは組曲「アルルの女」のファランドールならぴったりですが、残念ながらこれは70年代に入ってからまとめられたもの。サンサーンスもヴァイオリンの曲なので、ちょっとこの絵にはふさわしくないですねぇ。

オッフェンバックのオペレッタ「天国と地獄」は58年、「美しきエレーヌ」は64年、「パリの生活」は66年ぴったりですが、なんとなくこの少年にオッフェンバックというのもふさわしくないかも・・・
グノーの「ファウスト」は59年。同じくグノーの美しい歌曲「春の歌」は60年、この曲の旋律をフルートで吹いたなんて、ちょっと良さそうです。ベルリオーズの「トロイ人」は58年、「ベアトリスとベネディクト」が62年。

んー、どうもどの曲も、いまいち画面にしっくりきませんねぇ。そこはかとなく漂うスペイン色がじゃましてるような・・・。やはりこの少年が吹いている曲、時代はまるでずれますが、ラヴェルの歌曲集「シェエラザード」(1903年)の第2曲「魔法の笛」あたりがぴったりかも。

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2005年6月17日 (金)

フォーレのレクイエム・2

20050617ParisodeonJP昨日書いたような問題が浮上して、フォーレのレクイエムは出版までに契約から11年もかかってしまいました。

オーケストレーション問題については、フォーレは出版社に書き直しを確約していましたが、気乗りしなかったのか、なかなか手を付けなかったようです。

結局この作業は、1898年から99年にかけて行われ、1900年にシンフォニック版(フル・オーケストラ版)が初演、翌1901年にスコアが出版されることになります。
主な変更点はいうまでもなく、弦楽合奏にヴァイオリンを含めること、フルートなどの木管楽器を加えることの2点です。

この編曲作業は従来はフォーレ自らが行ったものと考えられていましたが、実はそうではないということがネクトゥーによって明らかになりました。

ある程度作曲者の意向と出版社の意向を取り入れつつではありますが、新たなオーケストレーションを施したのはフォーレの弟子のロジェ・デュカスという人だそうです。(「魔法使いの弟子」のデュカスとは別人。)
といってもロジェ・デュカスがオーケストレーションをしたという直接的な証拠――たとえば契約書とか、デュカスとフォーレの間の往復書簡とか、――は残されていない模様です。しかしネクトゥー論考は十分に説得力のあるものと思われますので、間違いないでしょう。

結局フォーレのレクイエムは大きく分けると3つの姿があるということになります。
1)1888年の初演――全5曲で、弦楽合奏にヴァイオリンは加わらず、管楽器は全く含まれない。
2)1893年頃にまとまった形――全7曲で、楽器編成は初演の形に金管楽器が加わる。
3)1900年初演、1901年出版の現行譜。――全7曲で弦楽合奏にヴァイオリンが加わり、木管楽器も参加する。

実際に演奏された形ですが、1)と2)はマドレーヌ寺院でのみ行われたため、ピエ・イェスのソロと合唱のソプラノ&アルト・パートは少年によって歌われました。
これに対し3)は、フォーレの存命中は終始一貫成人女性によって歌われています。
フォーレはこのシンフォニック版の成功をことのほか喜んでいたと伝えられ、このため果たしてフォーレの本来の意図が、少年合唱とボーイ・ソプラノ・ソロで歌われることにあったのか、それとも教会での演奏と言うことでやむをえない措置だったのかという所の判断を難しくしています。

現在1)の録音というのはおそらく無いのではないかと思います。すくなくとも国内盤では存在しません。(かつてカナダの団体の演奏で、1888年初演版というふれこみのCDが発売されたことがありましたが、1893年版の間違いでした。)

2)は現在「オリジナル版」「オリジナル版第2稿」「1893年版」などとさまざまな言い方をされているものが、これにあたります。

この形の楽譜についてですが、フォーレのもともとの自筆譜は散逸している上に、オッフェルトリウム、ピエ・イェス、リベラ・メの3章は紛失してるんだそうで、このために後年、パート譜その他から研究者が編纂した楽譜が使われています。

これは良く知られているように2種類のエディションがあって、一つはネクトゥーが指揮者のドラージュという人の協力を得て編纂したもの。ネクトゥー/ドラージュ版とよばれています。
ヘレヴェッヘの最初の録音、ガーディナー盤、ジャン・フルネが日本で録音したものなどがこのネクトゥー/ドラージュ版によっています。

もうひとつはイギリスの作曲家ジョン・ラターが編纂したラター版で、これはラター自身の指揮による録音と、クレオベリー指揮ケンブリッジ・キングズ・カレッジ合唱団によるEMI盤などが出ています。

2つのエディションの微妙な違いについては、大変に詳しく検討しているサイトがあり、とても参考になります。ご本人の許可を得ていないので、直リンはしませんが、URLを貼っておきます。
http://www.asahi-net.or.jp/~eh6k-ymgs/sacred/faureq.htm#ver2
(続く)

写真:パリ、オデオンあたり

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2005年6月16日 (木)

フォーレのレクイエム

20050616FaureJP(チェリビダッケのフォーレ・2の続き)
1888年1月のレクエム初演時には、曲数は現行より2曲少なく、全5曲で構成されていました。
イントロイトゥスとキリエ
オッフェルトリウム
サンクトゥス
ピエ・イェス
アニュス・デイ
リベラ・メ
イン・パラディスム

太字の部分が初演時にはなく後から加えられたものです。つまりバリトン・ソロを含む曲は初演時にはなかったわけです。
またオーケストレーションも変わっていて、管楽器は含まれず、弦楽合奏にヴァイオリンが含まれていないというきわめて変則的なものでした。(サンクトゥスのヴァイオリン・ソロはあり)

この初演時に使われたスコアは印刷譜として出版されることはありませんでしたが、それはおそらくフォーレ自身が改訂の必要があると感じたせいかもしれません。というのは、作曲家は初演後すぐにオーケストレーションの変更に手を付け、それも再演のたびに修正していったようです。
主な修正としてはホルンやトランペットなどの金管を加えたほか、曲数もバリトン・ソロを含む2曲を加えて、全7曲としました。ただしヴァイオリンは最後まで弦楽合奏に加えられることはありませんでした。

ネクトゥーによれば、フォーレが出版できる状態だとみなしたのは1890年のことで、この時アムレ社と出版の契約を結んでいるそうです。しかし実際には出版はその11年後となります。

この時点、あるいは1890年代前半に出版されてれば、フォーレのレクイエムは版の問題で悩まれることはなかったわけです。マドレーヌ寺院でフォーレ指揮によって演奏された形の最終形が分かったわけですから。

ところが出版されなかったために、のちにオリジナル版とよばれるものが編纂されることになるわけです。
出版にこぎつけなかったのには、理由がありました。一つはスコアがフォーレが1888年の自筆譜にたいしさまざまな加筆をした状態でしか残っていなかったこと(つまり清書されたものがなかった。)これがきわめて判読しづらいものだったとのことです。
そしてもう一つはヴァイオリンと木管楽器をふくまない特殊な楽器編成に、出版社側が難色をしめしたこと。
前者はオリジナル版の編纂に際しても、困難をもたらしたと想像されます。(続く)

指揮者のジュリーニが亡くなられたそうです。91歳。悲しくて言葉もありません。ご冥福をお祈りいたします。

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2005年6月15日 (水)

チェリビダッケのフォーレ・2

20050615touhokuJPチェリビダッケ指揮による演奏は、これまでにまったく聴いたことがないようなもので、一般にフォーレというと想像しがちなものとは、およそ違っています。
非常に透明でクリアな音響ではありますが、それらはいく層にも重なり立体を作って、スケールの大きな空間を形作っていきます。最初の2つの章のみならず、低弦は全体に支配的で、テンポも遅いのですが、重苦しくなることはありません。

アラン・タイタスのバリトン独唱もチェリビダッケの音楽にあわせて、スケールの大きな歌唱になっていますが、「リベラ・メ」の冒頭は、いままでに全くきいたことがない歌い方で驚かされます。一瞬音程はずしたのかと思いました。このタイタスの歌唱は、比喩的に言えばなにか全能の神が大きな翼を広げ、『われを許したまえ』と祈る人々を、翼に乗せて連れ去っていくような、そんな不思議な連想を禁じえないほどに、大きな広がりをもった歌で、まったく意表をつかれました。

ソプラノ・ソロによる「ピエ・イェス」は、天使のような純粋さを狙った演奏と、母性を感じさせる温かみと包容力のある演奏と、2つのタイプがあるように思いますが、ここではマーガレット・プライスが歌っているので、当然後者になっています。

ところでフォーレのレクイエムは、1888年に当時の有名な建築家の葬儀のおり、パリのマドレーヌ寺院で初演されました。フォーレはこの寺院の楽長だったので、作曲家自身の指揮で行われたのですが、ネクトゥーは初演の時の面白いエピソードを伝えています。

「式が終わるとまもなく、司祭が礼拝堂の楽長を聖具室に呼びつけ、次のごとく詰問した。『さきほど演奏したあのミサ曲はいったいなんだね。』――すると楽長は答えて曰く『どういう意味でしょうか、私のてがけたレクイエムですが・・・・・・。』――『ねぇ、フォーレ君、われわれにはあのような新しい曲は必要ないんだよ。わがマドレーヌ寺院のレパートリーは十分過ぎるほど立派なもので、君にもそれくらいのことはお分かりだろう・・・・・・。』」

初演の時のレクイエムの姿は、オーケストレーションは勿論のこと、まず楽章の数からして今の私たちが聞く形とはまったく違っていました。(続く)

写真:東北自動車道

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2005年6月14日 (火)

マイケル・ジャクソン全面無罪に

20050614MichelJP決め手となったのは被害者の少年の母親(名前がジャネット・ジャクソンって・・・)が、非常に印象が悪かったためとか。

この母親、かつて子供に暴力をふるったとしてデパートを訴え、得た賠償金でプラズマTVを買ったりしていたのだそうです。こうしたことを暴露されて金目当てのでっちあげ、被害者の少年も親に言い含められて演技をしているという、弁護側の主張が通ったようです。評決に際して意見の対立はほとんどなかったのだそう。

12年前にも同じような事件があったわけですが、この時の少年の両親はマイケルに映画制作の資金を出してくれるように頼み、断られるといきなり子供に性的虐待をしたと言って訴えたと言う経緯がありました。これはマイケル側が示談に持ち込み、その両親は莫大な和解金を手に入れたわけです。

子供を人身御供に差し出すだけで、こんなうまい汁がすえるとなれば、柳の下の2匹めのどじょうを目指す人々が大勢湧いてきても不思議は無いような気も・・・

マコーレー・カルキンら弁護側の証人が、数回一緒にベッドに寝たけれど、性的いたずらの類は何もなかったと証言していたのに、この被害者の家族が、マイケルの舌は蛇のようでどうのこうのと、ほとんど怪物扱いの極端な発言を連発したと言うのも逆効果で、なにか嘘くさく聞こえたのかも。

そういえばエマニュエル坊やも(今はもう坊やではないけれど)、ネヴァーランドに招待されたことがあるけど、そんなことはありえない。金欲しさのでっちあげに決まってると日本のTV番組で主張していました。
デイヴ・スペクター氏など流れによって意見を変えるタイプの人が、どのようなコメントに変化するかが興味深いところです。

ところでマイケルはかつて話題になったTV番組のインタビューで「子供たちとみんなで同じベッドに一緒に寝るんだ」と話していて、成人の男が子供たちと同じベッドに寝るというのは異常ではないか?と突っ込まれたのに対し、「どうして?それはとっても素晴らしいことだよ」と答えていました。

これが検察側を刺激したという話ですが、日本人ならさして気にもとめないと思うような言葉です。子供と同じ布団に寝たら、即、性的な悪戯をするに違いないと言うのは、日本人なら考え付かない発想ではないでしょうか。というかアメリカ人以外にはありえない発想じゃないかと思われます。

マイケルの発言よりも、むしろそういう発想になってしまう方にアメリカ社会の病根を感じずにはいられません。大人の男性は自分の子以外は絶対に、子供の頭をなでたりしちゃいけないんだとか。実際そう心配せざるをえないほど、子供にたいする性的虐待が多い訳で、何故アメリカはそんな社会になってしまったのか。社会学のことはよく分かりませんけども、建国以来のマッチョ社会の反動でしょうか?

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2005年6月13日 (月)

追悼ゲーナ・ディミトローヴァ

20050613turandotJPディミトローヴァが亡くなったことをじぃ。さんのブログで知りました。

スカラ座を中心に、ヴェルディ初期のドランマティコ・ダジリタの諸役やトゥーランドット、トスカ、アイーダなどで活躍した彼女。80年代にはスカラ座の女王として、シーズン・オープニングの栄誉を担っていたソプラノです。イタリア・オペラの超難役ばかりを歌いきった、まれに見る歌手でした。

ディミトローヴァというと、まず声量のことが語られがちです。実際、私がこれまでに聞いた歌手でも、「声の威力で驚いた」というのは男声では70年代のギャウロフ、女声では80年代のノーマンとディミトローヴァでした。が、もちろん彼女は声量だけではありません。ブルガリア生まれでありながら、ヴィブラートのきついいわゆるスラヴ系の発声とちがって、イタリア・オペラを歌うにふさわしい声とスタイルの持ち主だったと思います。

ディミトローヴァはアンナ・トモワ=シントウとブルガリアの音楽院で同期だったようですが、早くからカラヤンらに認められ、世界的に活躍していたトモワ=シントウには、かなりライヴァル意識を持っていたらしく、昔雑誌のインタビューで「彼女(トモワ=シントウ)は問題のあるメゾ・ソプラノとして入学して、問題のあるソプラノとして卒業していきました」とかなんとか語っていたのが、ちょっと微笑ましく思えました。

たしかマゼールとロンコーニがスカラ座で「アイーダ」を出した時には、上演期間の前半にはアムネリス(アイーダはキアーラ)を、後半にはアイーダを歌うという、スーパーなこともやってのけたと記憶してます。

ご冥福をお祈りします。

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2005年6月12日 (日)

チェリビダッケのフォーレ

20050612YoheiJP今日の仙台は最高気温、28.7度まで上がりました。
一日外にいたので、顔と腕だけ激しく日焼けしてしまいました。なんだかヒリヒリしてきそうな嫌な予感・・・

たまにはCDの感想でも。
チェリビダッケ指揮のフォーレのレクイエムのCDをきいてみました。ストラヴィンスキーの詩篇交響曲が一緒にはいっています。(EMIから昨年発売されたチェリビダッケ・エディション)

詩篇交響曲は、きっとチェリビダッケお得意のレパートリーではないかと思います。
実は、私が初めて彼の演奏を(録音で)きいたのも、この曲でした。
いまちょっと正確な年代は調べがつかないのですが、70年代の初めごろにFMで放送されたもの。まだシュトゥットガルト放送交響楽団が南ドイツ放送交響楽団という名称だった頃の演奏で、前半に詩篇交響曲、後半にブルックナーの第9交響曲というプログラムでした。
(チェリビダッケの演奏はその前に、やはりFMでミケランジェリとの皇帝が放送され、音楽ファンの間で大評判になったらしいのですが、それは私は聞いていません。)

その後チェリビダッケの指揮による演奏は、シュトゥットガルト放響(南ドイツ放響)、ロンドン交響楽団、ミュンヘン・フィル、ベルリン・フィルなど、NHK FMでさまざまな曲目が放送されてきましたが、フォーレ/レクイエムはなかったように思います。

フォーレ好きの私としては、かなり気になると言えば気になる、でもジュリーニみたいに重苦しいのだったらやだなあという気もあって、なかなか手を出せないでいたのです。

さて、チェリビダッケからはちょっと横道にそれますが、フォーレのレクイエムは版の問題があって、これがブルックナー真っ青のややこしさなのは、良く知られているとおりです。
ややこしくなった原因は、1901年に出版されたスコア(シンフォニック版とかフル・オーケストラ版とかよばれる)が、実はフォーレ自身のオーケストレーションではないこと。にもかかわらずフォーレは、その演奏の成功を大変喜んでいたと伝えられること。いわゆるオリジナル版の初演以後、作曲者がどんどん改訂を重ねたこと。フォーレによる自筆譜が、散逸している上に、一部は失われてしまっていることなどがあげられます。

初演以降どのような改訂が加えられたかは、フォーレ研究家として名高いネクトゥーの「評伝フォーレ」に詳しく解説されています。この本はフォーレ好きにとっては聖書のようなものなので、興味のある方はぜひ買ってお読みください――と言いたい所ですが、1万円もするので、レクイエムの部分だけ今週ぽつりぽつりとダイジェストしてみたいと思います。(続く)

写真:ロールシャッハテスト、ではなくて与兵衛沼の夕焼け

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2005年6月11日 (土)

エディプス王~名画と名曲・17

20050611Moreau1JPこのなんとも奇妙な絵は、ギュスターヴ・モローの「オイディプスとスフィンクス」です。モローの代表作には絢爛たる一連の「サロメ」があり、名画&名曲シリーズにはぴったりなわけですが、せっかく今週はパゾリーニの「アポロンの地獄」で盛り上がった(?)ので、これにしました。

象徴主義の先駆として人気のモローですが、この人も実は忘れ去られた画家たちの一人でした。
ギュスターヴ・モロー1826-1898。生前は人気画家であると同時に、教育者としてマティスやルオーを育てたことでも有名です。
ところが今となっては全く信じられないことですが、1961年にルーヴルが回顧展を開いて、ようやくなんとか知られるようになった程度で、二十世紀にはいってからはこの人は、ずっと忘れ去られていたのだそうです。印象派全盛だった19世紀フランスで、国立美術大学の教授にして、歴史画や神話に取材した作品を描いたモローは、単にアカデミックな立場の画家とだけみなされたことが原因のようです。

しかしもちろんモローの絵画はそれだけではありません。
たとえば神話に取材した作品は、単なるストーリーの絵解きではなく、神話の持つ深い意味というレベルにまで到達し、人間の底知れない精神が生み出す物語群の光と闇が、誰の目にも分かるようにハッキリと描かれています。

となるとシュールレアリストたちがモローの絵画の独創性に目をつけるのは当然で、彼らはモロー再評価に大きな役割を果たしました。それでもモローがフランス本国で一般に高い知名度を持つようになるのは1980年代になってかららしく、ある一つの国を除いてモローはなかなか省みられることがなかったのです。

20050611Moreau2JPで、その一つの国というのが、なぜか日本なのです。
日本ではルーヴルの3年後の1964年に、はやくもモローの回顧展が開かれるなど、「一部で」ではありますが、本国に先んじてといっていいでしょう、モローは高く評価されていたのでした。
日本人には装飾的なものや反自然主義的なものに対する拒否感が、基本的に無いということが大きいんじゃないかと思いますが、モローの絵の金襴緞子な感じ(右の絵は「ヘロデ王の前で踊るサロメ」)も日本人の好みに合っていたのかもしれません。

さてこの「オイディプスとスフィンクス」ですが、モローの作品の中でも有名な一つで、1864年のサロンに出品された時には大評判を呼んだそうです。モロー中期の作品で、後の作品のようなキンキラではありませんが、モローの特徴は非常に良く現れています。(NYのメトロポリタン美術館にあります。)

いったいこのスフィンクスは何故オイディプスにしがみついているのでしょう?
これはおそらくオイディプスがスフィンクスの出す謎を解いた瞬間だと思いますが、そのとたんスフィンクスはパッとオイディプスの身体に飛び掛ってしまいます。そしてオイディプスの身体に触れたその瞬間、2人はまるで間に永遠が介在してるかのように見つめあいます。
モロー自身はこう語っています。
「不可思議な運命に導かれて、人生の重大な局面にやってきた旅人は、自分を締め付け、苦しめる永遠の謎に出会う。だが心強き者は、時に甘美でときに粗暴な攻撃にたじろがず、理想を見据え、謎を踏み越えて、自身を持って目標に向かって進んでいく」

そして音楽でオイディプスといえば、ストラヴィンスキーのオペラ・オラトリオ「エディプス王」ですが、最近になってエネスコのオペラも知られるようになりました。
1997年にミヒャエル・ギーレン指揮でウィーン国立歌劇場で上演されたエネスコの歌劇「オイディプス」は、その時のライヴ録音がNHK FMでも放送されましたのでお聞きになった方も多いんじゃないかと思います。マリアーナ・リポウシェクやモンテ・ペダーソンが出演していました。

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2005年6月10日 (金)

ニュースの落穂拾い Watch What Happens・6

20050610MiyaginoharaJPなんだかかわいそうな、といったら女性の方から総スカンをくらうかもしれないが、かわいそうとしかいいようのない事件が・・・
ネットニュースはこちら

そりゃ勿論悪いに決まってますよ、盗撮は。でもね。
たとえ女性の読者を全員失っても、あえて私は言いたい。この人のやったことって、そんなに悪いこと?

県迷惑防止条例違反(ひわいな行為)の現行犯で逮捕されたというから、店の人か被害者本人が警察に通報したのだと思う。でも田代まさしのように、鏡とかで手のこんだ装置を造って、スカートの中を写そうとしたわけじゃない。記事によれば携帯で後ろから女性の足を撮影しただけなのだ。

それって逮捕されるようなこと?
記事によれば、この男は平謝りに謝っていたとか。だったら携帯の画像を削除させるだけでいいと思う。夫がいたんだから二、三発殴って放り出せば、それでいいんじゃないだろうか。警察よんで逮捕させるなんて。あまりにもギスギスしてる。

「こんなキモイ親父が無断でアタシの足を撮影するなんて、許せない!警察につきだしてやる!」ということだと思う。でもひわいな行為で県迷惑防止条例違反というが、そのミニスカートをはいた女は、(どのぐらいのミニなのかは知らないが)太股を他人にさらして、ひわいじゃないのか!見たくもないものを他人に見せて、迷惑をかけてないのか!と私は声を大にして言いたい。

そうでなくても恵まれない人生だったろうに、そんな人生すら失っちゃったのだ。なんというか・・・

それに店の人もあんまりだと思う。
>「取り立てて美人というわけでも、際立った脚線美の持ち主でもなかった」(同店関係者)
客に対して失礼ではないだろうか。

写真:JR宮城野原駅の入り口

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2005年6月 9日 (木)

トゥー・ヤング

20050609inoueJP古い雑誌を見ていたら、こんなレコード(もちろんLPね)ジャケットの写真をみつけたので、ご紹介しましょう。小澤を除いて、日本人指揮者が海外のオーケストラを振って録音するのはめったになかった時代のもの。白黒写真ですみません。

曲目はモーツァルトのハフナー交響曲とト短調交響曲K550。オーケストラはザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団。はっきりわからないけどおそらく日本人指揮者がモーツァルテウム管で録音したのは、これが初めてだったんじゃないかと思う。

批評は福原信夫さん。
「小澤征爾たちの輝かしい海外における活躍のあとをついで、海外各地で華々しい成果を挙げている日本人は決してすくなくない。この○○○○もその一人なのだが・・・」とこの長髪で文学青年タイプの指揮者を紹介する文章で始まり、
「演奏は若い人にありがちな性急なところがなく、きわめて優美で流麗なモーツァルトである。」となかなかに高い評価。福原さん以外の方も皆さん、この録音には好意的で、たしか宇野功芳さんは絶賛してたんじゃなかったかと思う。
で、○○○○に誰の名前が入るか、この写真でお分かりでしょうか?

実は井上道義さんなのだ!
いったい彼に何があったのだろうか・・・。

レイフ・セーゲルスタム(今でこそグリズリーのような氏だが、若かりし頃はジョン・エリオット・ガーディナーのような知的な雰囲気の好青年だった)にこそ及ばないものの、変貌率第2位の座は確保したと思われます。

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2005年6月 8日 (水)

さよならミセス・ロビンソン

20050608bancroftJP女優のアン・バンクロフトが亡くなったそうです。詳しくはこちらの記事を

バンクロフトと言えばアカデミー主演女優賞を受賞した「奇跡の人」のサリバン先生ですが、私は「奇跡の人」は初公開時ではなく随分あとから名画座系のところで見たので、最初の出会いは「卒業」でした。

高校生だったので、当然キャサリン・ロスがぽろっとこぼす涙にぐっと来ましたが、それはそれとして、バンクロフトの演技のうまかったこと。
この年のアカデミー賞の演技部門は激戦で、「俺たちに明日はない」のフェイ・ダナウェイと並んで、アン・バンクロフトは有力候補でしたが、残念ながら「招かれざる客」のキャサリン・ヘップバーンにさらわれ、二度目の受賞は逸しました。

(ところであらためてアン・バンクロフトの出演歴をながめると、どうも私はあまり彼女の出演作を見ていないことに気づきました。なんだかブログに追悼記事を書くには資格不足みたいな気も・・・)

で、まあ一般的にはミセス・ロビンソン以後の彼女というと、「愛と喝采の日々」とか「トーチソング・トリロジー」の凄い母親とかが代表的な役ということになるんでしょうけれど、私が「卒業」「奇跡の人」に続いて、パッと思い出したのはなぜか「ヒンデンブルグ」でした。
別にあえてアン・バンクロフトじゃなくてもという、誰でも出来そうな役なんですが、さすがに彼女が演じると貫禄がちがっていて、作品に厚みを与えていました。

さよならミセス・ロビンソン。素晴らしい演技の数々、ありがとう。

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2005年6月 7日 (火)

私とピエル・パオロ

20050607KoutoudaiJPなんてタイトルを付けるとまるで知り合いみたいですが、もちろんそんなことはありません。

ピエル・パオロ・パゾリーニの映画は、私にはよく判らない部分も多いし、基本的に昔も今もハリウッドのウェルメイド好みである私にとって、見る前にはちょっと覚悟がいる映画でもあります(艶笑3部作においてすら)。

にもかかわらず、私はパゾリーニは映画史上最も重要な監督の一人と考えていますし、なによりも私の人生を変えた一人なのです。

中学生の頃、私は映画監督になりたいと思っていました。といってもどうすればなれるのかよく判らなかったのですが、「サウンド・オブ・ミュージック」や「ドクトル・ジバゴ」のような大作を撮る人になりたかったのです。
そんな子供じみた(かどうか分かりませんが)希望を木っ端微塵に打ち砕いたのが、高校1年の時に見たパゾリーニの「アポロンの地獄」でした。

もともとこの映画を見るつもりはなかったのですが、名画座で偶然に予告編を見てしまったのです。(ちなみに名画座というのは固有名詞。昔仙台には「名画座」という、そのものずばりの名前の名画座がありました。)

なんだこの画面は!?
わずか数分の予告編からも、なにか強烈なものがほとばしり出ていました。それはいまだかつて見たことの無い世界で、しかもぐいぐいと脳の中に入り込んで忘れられない。何かうなされそうな映像でした。

本編の方は、もはや私の想像をはるかに超えていました。なによりショックだったのは、映画の総てに「天才」という文字が刻印されてたことでした。
世の中にはこんな凄い天才がいる。自分とは比較にもならない高みに達している人がいて、それは努力やなにやではとても追いつかないものだということが、はっきりと判ったのでした。

「アポロンの地獄」を見終わったとき、私の心の中から映画監督になりたいという希望は、消えてしまいました。世の中にはこんな凄い人がいる。逆立ちしてもかなわない・・・。まあ、普通でもかなわないのに、逆立ちしてかなうわけも無いのですが。

さてそんなパゾリーニですが、彼の映画は撮影にジュゼッペ・ルッツォリーニやエンニオ・グァルニエリなどの名手を起用しているので、当然画面は美しいのですが、その美しい画面のつなぎに非常に特徴があります。

ストーリーをより判りやすくするために、滑らかにつなぐのが至上の編集であるハリウッド・スタイルと違うのは勿論ですが、ヌーヴェル・ヴァーグ流の異化効果ともちがう、ぶつ切りとしか言いようの無い方法で、パゾリーニの画面は作られていきます。

しかしそれはちょうどシェーンベルクやウェーベルンの音楽が、聞きやすいメロディーなど何一つ形成しないにもかかわらず、ひとつひとつ磨きぬかれた音の数々が、それ以外はありえないという絶対的な場所、必然の場所におかれているのと似ています。

パゾリーニの映画も、ある表現のためには絶対にそれ以外はありえない、という研ぎ澄まされた画の数々が、のっぴきならない関係を持ってつなぎあわされているのです。それはすでに「表現」というレベルをこえ、物語の核心が私たちの脳髄に直接的に殴りこみをかけてくるとすら言えそうです。

とはいえパゾリーニの映画はよく判らないところも多いのです。
まずいくつかの映画はファシズムとそれに対する抵抗勢力としてのイタリア共産党の歴史を知らないと、解読できないところがあります。さらに宗教との関係は、より重要です。

聖ペテロと聖パウロの2人の聖人の名前を持つ、パゾリーニ。この人にとって非常にアンビヴァレントな対象であったらしいカトリックというものに対する理解は、残念ながら私などには決定的に不足しています。血塗られたキリスト教の歴史を嫌悪している私でも、こんな時だけはクリスチャンでも良かったかもなどと、つい日和ってしまうのでした。

写真:仙台市の勾当台通り

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2005年6月 6日 (月)

ゼフィール/春~名画と名曲・16

この眉間にしわよせた、ふくれっつらのお兄さんは、いったい何を怒っているのでしょうか?――と思いきや実はこれは西風の神ゼフュロス。口の中にいっぱい空気をためて、20050606laprimavera1JP
風を吹いているのでした。

ギリシャ神話に登場する西風ゼフュロスは、イタリア語ではゼッフィーロ(さらにそこからゼッフィレッリが派生)、フランス語ではゼフィールとなります。

4~5年前でしょうか。ウィリアム・クリスティ指揮レザール・フロリサンによる世界初録音のCDが出て知られるようになった、ラモーの「ゼフィール(別名 ディアヌのニンフたち)」は、まさにそのギリシャ神話におけるゼフィール(ゼフュロス)とクロリスのエピソードによっています。

この「ゼフィール」は『アクト・ド・バレ』というジャンルの音楽なのですが、これはどうやら『オペラ・バレエ』(ラモーの有名な「優雅なインドの国々」などがそれに該当)から、1幕だけを切り出してきたようなもの。小規模のオペラ・バレエと考えればよさそうです。ですから『バレ』といっても、実質はガヴォットだのサラバンドだのといったバロック音楽ではおなじみの舞踊音楽が、随所に挿入されるオペラという感じでしょうか。

ストーリーは西風ゼフィールがニンフのクロリスに恋し、彼女を花の女神フロール(フローラ)に変えるというもの。若干のすったもんだはあるものの、ロマン派オペラのような三角関係の葛藤なんかはもちろんありません。

登場人物はゼフィールとクロリス(後にフロール)、女神ディアヌ(ディアーナ)の3人および合唱で、クロリスとディアヌだけでなく、ゼフィールもソプラノによって歌われています。

20050606laprimaveraJP私ももちろんクリスティのCDで初めて聞きましたが、音楽はラモー特有の、軽くもなく重くも無い心地よいもので、特にソプラノ好きの私にはなかなかのご馳走でした。

この「ゼフィール」に出てくるゼフュロスとクロリスのシーンが、まさにそのまま描かれているのが、あの有名なボッティチェッリの「春(ラ・プリマヴェラ)」です。

20050606laprimavera2JP右にいるのがゼフュロス。その隣がクロリスで、ゼフュロスが風を吹きつけています。そしてその左がクロリスが変身した後の花の女神フローラです。
クロリスとフローラが風に吹かれていますが、2人の衣裳が違う方向になびいていることから、時間的な経過があったことを示していると言われています。

この「春」は1477~78年ですからボッティチェッリが32、3歳の時の作品。80年代の半ばに描かれた「ヴィーナスの誕生」とともに、フィレンツェのウッフィツィ美術館の特別展示室のような部屋に、並んでうやうやしく展示されています。
図版で見ていたときには、特に心惹かれる作品ではありませんでしたが、さすがに本物を見たときにはあまりの美しさに圧倒されました。

このような官能と気高さとが両立した傑作を生み出したボッティッチェッリですが、90年代にはいってロレンツォ・ディ・メディチが亡くなると、あのサヴォナローラに傾倒してしまい、やがてほとんど絵筆をとることは無くなってしまいます。

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2005年6月 5日 (日)

パゾリーニ事件(後)

20050605PasoliniJPパゾリーニは1922年生まれ、当初はフリウリ地方の方言で書いた詩によって、まず詩人として有名になったそうです。1960年代初めには映画監督としても知られるようになりました。

彼の名前が世界的に有名になったのは、イエスの生涯を描いた「奇跡の丘」によってで、当初制作が発表された時には、パゾリーニがキリストを冒涜的に描くのではないかと宗教関係者から激しい拒否反応が示されました。しかし実際に作品が完成すると、それは激しくも美しく、感動的なものでした。

「奇跡の丘」は1964年度のヴェネツィア映画祭で審査員特別賞と国際カトリック映画事務局長賞を受賞。そして受賞こそ逸しましたが、アメリカのアカデミー賞でも3部門にノミネートされました(ルイス・バカロフが編曲賞候補にあがっています)。

パゾリーニはこの作品によって、第1級の映画監督として世界に名をはせますが、さらにその評価を決定付けたのは、1967年の「アポロンの地獄」でした。
ことに日本ではそれはほとんど絶対的といいたいほどで、パゾリーニは一気に映像の天才として評価されることになります。「アポロンの地獄」は69年に日本で公開されましたが、「真夜中のカーボーイ」をおさえて、その年のキネマ旬報のベスト・ワンに選ばれています。

この後、パゾリーニは「テオレマ」「豚小屋」「王女メディア」と、次々と話題作・問題作を発表しますが、70年代にはいると突然方向性を変え「デカメロン」に始まる艶笑3部作を作り始めました。時に若い男女が全裸で健康的に性を謳歌しつつ、時に聖職者をバカにしつつ、作品はいずれもたわいのないファルスの連続で綴られていきますが、この3部作は3作ともベルリンあるいはカンヌで賞を受けています。

そして1975年「ソドムの市」でパゾリーニは再び、作風を変えます。
艶笑3部作があまり好きではない私としては、対象を見つめるその目の冷徹さと、表現の苛烈さという点において、60年代のパゾリーニが戻ってきたような印象を、当時うけましたが、果たして今見直したらどう感じるかはちょっとわかりません。


今回の件ですが、もちろんペロージ氏の告白が真実なのかどうかは、我々にはわかりません。助監督だったチッティ氏の言葉についても同様です。
ただあまりにも疑問が多すぎたパゾリーニ事件に、ひとつの合理的な解釈を与える物ではないかという感じはします。

パゾリーニの死が政治的な暗殺であろうとなかろうと、それはイタリアの政治(しかも30年も前の)ですから、私にとってはあまりにも遠い話です。にもかかわらず、私がこの告白になぜ衝撃を受け、重要と思ったかといえば、それはこの告白が真実であるならば、パゾリーニの自殺説が完全に否定されるからなのです。

パゾリーニが仮に自殺するにしても、17歳の少年を殺人犯にするという形で巻き添えにして死んでいくようなことがありうるとは、私にはとても考えられませんでした。そして特に「ソドムの市」には、今後パゾリーニが突き進んでいくであろう新たな方向性と、表現者としての覚悟を読み取ったような気が私はしていたのでした。ですから自殺説には激しく反発していたのです。

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2005年6月 4日 (土)

パゾリーニ事件(前)

20050604PasoliniJP今日は名画シリーズのつもりでしたが、(少なくとも私にとっては)あまりにも衝撃的なニュースがあったので、それを取り上げずにおくわけにはいきません。

ネットニュースはこちらです

でもこれだけでは何がなんだか全然わかりません。新聞には詳しく載っていましたので、かいつまんで概要をお知らせします。

イタリアの映画監督で詩人のピエル・パオロ・パゾリーニが殺されたのは、ちょうど30年前の1975年。ローマ近郊の海岸で死んでいるのが見つかったのですが、遺体は激しく損傷していて殺されたことは明らかでした。
逮捕されたのはピノ・ペロージという当時17歳の少年でしたが、伝えられるニュースは二転三転。

最初は同性愛者であるパゾリーニが、ローマ市内で男娼の少年を拾い、海岸に連れて行ったが、少年に殺されたというものでした。動機も車が欲しかったというものから、同性愛行為を要求されて逆上し、殺したというものにかわりました。また遺体の損傷度は並ではなく、殴打だけではなく車に轢かれたあともあったということが、遅れて伝わりました。

当然、「男娼だったらそれが商売なんだろうになぜ?」という疑問がよぎります。
さらに誰もが不思議に思ったのは、いくら逆上したと言っても、なぜたかが17歳の少年一人の暴力を、大の大人であるパゾリーニが止められなかったのかということでした。このため中にはパゾリーニの死は自殺で、わざと殴らせて殺させたんだろうと推測する人もあらわれました。

それにしても何度も何度も激しく殴打し、さらには車で引き殺すというのは、不愉快な行為を要求されて逆上したというだけで説明するには、あまりにも異常な行動でした。

そうこうしているうちに、このペロージ少年は実は男娼なんかではなく、パゾリーニの遺作で、当時撮影が終わったばかりの映画「ソドムの市」に出演していた俳優だという話が伝えられました。
そして明らかになったペロージ少年の顔は、今風に言えばそれなりのイケメンで、不細工好みのパゾリーニが選びそうもない相手じゃないかという疑問がささやかれるようになりました。

殺したのはペロージ少年ではなく他にいる。
特にパゾリーニの場合、鋭い政治家批判を繰り返していた上、作品も反道徳的とされるものが多く、政治的な敵を数多く作っていたのです。政治テロだという憶測がかなりの人々によってなされました。

しかし、ペロージは殺害を自白、最高裁で9年7ヶ月の刑が確定します。

それでもパゾリーニの死は右翼による政治テロだとする意見は根強く、たとえば女優のラウラ・ベッティはパゾリーニは暗殺されたのだと確信して、真実を明らかにする運動を地道に続けてきていました。

事件から30年、46歳になったペロージはこの5月TV番組に出演し,衝撃の告白をしたのです。
「犯人は別の3人組。家族に危害を加えると脅されたので、罪をかぶった。もう両親も死んだので話せる」

またパゾリーニの助監督をつとめたセルジョ・チッティの証言では、パゾリーニは「ソドムの市」のフィルムの一部が盗まれたため、事件当日その返還交渉に出かけたということです。チッティは「犯人は監督を殺すためにフィルム盗難をしくんだ」と語っているそうです。(続く)

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2005年6月 3日 (金)

「冬の旅人」~赤川次郎

20050603WinterJP赤川次郎さんはクラシック音楽好きで知られ、私もコンサート会場で何回かお見かけしたことがあります。当然クラシック・ネタの作品も数多くありますが、まさかここまでやってくれるとは!

世界的なバリトン歌手ディートリッヒ・F=Dのもとに「今夜『冬の旅』を歌うのをやめてください」という電話がかかってきます。人の命に関わるというのです。
果たして、コンサートを終えたF=Dの楽屋で死体が見つかり・・・

という発端でディートリッヒ・F=Dが探偵役になって事件を解決していきます。
なんと言ってもディートリッヒ・F=Dですからね。唖然・・・
他にも吉田秀和さん以外の何者でもない音楽評論家やら、大屋政子さんを髣髴とさせるお金持ちの女性やら。

この作品が発表されたのは、人気作家として次々と作品を発表していた時期。そろそろ粗製濫造に入って行きそうな気配もなくはなかったものの、これは赤川さんとしてもかなり気合が入った作品だったと思われます。

1980年代になると赤川次郎の名前は、単に子供の読み物を書く人という印象しか与えなくなってしまいます。しかし「セーラー服と機関銃」映画化の余波で、日本一の高額納税作家としての地位を独走しだす前、デビュー当時の赤川さんは、まさに日本ミステリ界のホープでした。次々と発表される新作は、いずれも斬新なアイディアと、従来の日本のミステリにはなかった軽やかな筆致で、多くのミステリファンの心をつかんでいたのです。

「冬の旅人」が発表されたのは、ちょうど映画「セーラー服と機関銃」が公開されたのと同時期で、まだじっくり構えて凝った作りのミステリを発表することも出来ていた時代でした。
この作品も犯人捜しミステリとしての興奮度という意味では、多少期待はずれという部分もありますが、「冬の旅」の内容にそって展開していく構成などは、ただ者ではなかったなぁという感じがします。

赤川さんにはミケロッティなるテノール歌手が登場する短編もあります。ロッティはパヴァロッティからとったんだと思いますが、ミケはなんなんでしょう?三毛猫ホームズシリーズというのがあるので、そのミケでしょうか?いっそドミロッティにすれば良かったのに、と私は思ったことでした。

写真:冬

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2005年6月 2日 (木)

スカラ座の思い出――かな?

20050602Lascala1JPこのネクタイに見覚えがある方は、1981年のスカラ座来日公演、初日の「シモン・ボッカネグラ」をご覧になった男性の方でしょう。なぜかこの時初日はガラ・パフォーマンスと銘うって特別料金で行われたのでした。

初日のみガラと言うんだから、当然フレーニ、カップッチッリ、ルケッティ、ギャウロフというのは、初日だけの特別キャスト。あとは理想のキャスティングではなくなるのかと思ってしまいました。ですから値段が高いのも我慢して初日に行きましたとも。
でもその後の上演も同じキャスト。もちろんそれは望ましいことですけど、でもじゃあ初日だけ値段が高かったのはなんだったのかなぁ?かの地のシーズン・オープニングは特別料金になるらしいけど、それを真似したのでしょうかね?

20050602Lascala2JPまあ、それはともかく高い代わりに初日の観客には、女性にはスカーフが、男性にはネクタイが配られたのでした。

かわって1988年の2回目のスカラ座来日公演。前回のアバドに代わって、今回一座を率いるのはムーティ。初日はディミトローヴァ、ブルゾンに加え、当時カラヤンに起用されたりしてかなり話題をよんでいた新進バスのブルチュラーゼも参加した「ナブッコ」。今度はネクタイではなく、右の写真のアルバムがお土産でした。(アルバムと言ってもCDとか写真集とかのことじゃなくて、写真を保存しておくためのアルバムです。)

その時にはこんなのいらない。だったら値段安くしろよと思ったけど、今となってはブログのネタになったからまあいいか。――みたいな。

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2005年6月 1日 (水)

今日から6月

20050601KitakamiJP「家焼かれ 国破られて 野となれる あと冷(ひやや)かに 秋風わたる」
短冊に書かれた土井晩翠の短歌を、仙台市に住む女性が保管していたんだそうです。詳しくはこちらのニュースを。

さて、今日から6月。仙台は真夏のような暑さでした。明日からまた遠出で、ちょっと時間がないので(予約投稿分の原稿も書かないといけないし)、本日は写真でごまかしです。

一昨日取った写真で、岩手県遠野市の近郊から見た北上方面の空です。嘘のようにきれいな夕焼けでした。

さてローラン・ギャロスはピエルスがダヴェンポートを圧倒。驚きました。ここまできたら優勝して欲しいかも・・・

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おさかな♪さん宛のコメントに付随した画像ですこの写真を見る

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