« 2005年8月 | トップページ | 2005年10月 »

2005年9月

2005年9月30日 (金)

ケン・ラッセルとは何者か・8 ~マーラー(後)

20050930MahlerJPケンのマーラー・パラフレーズは交響曲第10番で始まり、3番、5番、4番と続きますが、最も重要視されてるのは6番です。ケン・ラッセルは第1楽章の第2主題をマーラーとアルマの愛のテーマとみなし、映画のはじめの方の二人の結婚当初のシーン、そして終わりの二人の愛が確認されるシーンの2箇所で使っています。

「僕の音楽がある限り、僕らの愛は永遠に生きる」

この台詞と6番の使い方が、無秩序にすら思えるこのパラフレーズに構成感を与えていて、「パラフレーズとしての映画」というやり方を肯定するのであれば、見事な脚本と言うことができます。

しかしその台詞の直後、シーンは切り替わりマーラーは余命いくばくもないことが明らかにされます。

音楽と共に「愛は永遠に生き」、しかしマーラー自身は、列車によって運ばれる予定された死に向かいます。
「愛」が「死」に向かう列車によって運ばれる。――ここでもまたケン・ラッセルのタナトス志向がハッキリと打ち出されます。

しかも「性=生」が、映画が進むにつれて次第に「死」にからめとられていく「恋する女たち」と違って、ここでは「愛=生=音楽」は、すでに「死」の上に乗っています。まるで肉体が朽ち果てるからこそ、芸術は永遠の生命を持つといわんばかりに。
ここでは愛は死に向かい、死によってのみ愛=芸術は不滅の生命を宿すのです。作中にマーラーの音楽の他に、「トリスタンとイゾルデ」の「愛の死」が使われているのは、当然すぎる選曲と言えるでしょう。

それにしても・・・。その破天荒でエネルギッシュな作風にもかかわらず、なぜこんなにもケン・ラッセルは死にとらわれているのでしょうか。ジャンルを問わず「死」を考えない芸術家がいるとは思えませんが、ケン・ラッセルの場合は、少し異常といえるかもしれません。
おまけに夭折した芸術家や、死を身近に生きてきたような青白く不健康なアーティストならともかく、ケン・ラッセルの場合は成人病漬けみたいな体型にもかかわらず、けっこう長生きしてるわけで・・・

この映画で一つ残念なのは役者でしょうか。ロバート・パウェルはマーラー本人に似ていますし、非常に良く演じてもいますが、やはりスターの輝きがほしい感じ。アルマを演ずるジョージナ・ヘイルはケン・ラッセルお気に入りの女優ですが、ミス・キャストのように思います。これが顔は似ていませんが例えばアラン・ベイツとヴァネッサ・レッドグレーヴの組み合わせとかだったら、映画の印象の強さは相当に違ったものになったと思われます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月29日 (木)

ク、クビが・・・

20050929UragaJP昨日から首が回らなくなりました。
借金で首が回んないとか、そういうんじゃなくて、本当に肉体的に首が・・・
左には回るのに、右には回らないというか、正しくは回るけど痛いというか。

思い当たるのはパソコン。今ちょっと都合でディスプレイを斜めにおいているため、ここ2ヶ月ほど身体はまっすぐ、顔はちょっと斜めにしてキーボードを打ってたのです。
そんなわけで少しPCを使う時間を減らそうかなと思う今日この頃。

しかし・・・

違うかもしれないのです。そう、あの恐怖の「四十肩」のヴァリアントではあるまいかとも・・・
(そこで五十肩だろうと言ってるのは誰だ!)

写真:浦賀のペリー公園の夕暮れ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005年9月28日 (水)

ケン・ラッセルとは何者か・7 ~マーラー(中)

20050928MahlerJP映画「マーラー」の冒頭は、まず交響曲第10番から始まり、すぐに第3番に切り替わって、有名な「繭」のシーンになります。
この「繭」のシーンはケン・ラッセルの映画の中でも、「恋する女たち」のグレンダ・ジャクソンと牛のシーンや、「肉体の悪魔」の火刑のシーンなどと共に、ラッセル映画の白眉とも言いたい名シーンですが・・・さて、1974年当時のカンヌの審査員たちが、どの程度マーラーの音楽とその生涯に理解があったか。はたしてこのシーンの意味が理解できたかは、疑問の余地がありそうです。

この「繭」のシーンを始め、映画の最初の方はアルマが重要な位置を占めていて、ほとんど「マーラー」ではなく「アルマ」と題した方がいいんじゃないかとおもうほど。今でこそアルマ・マーラーの曲はコンサートでも有名歌手によって歌われますし、キルヒィのCDなどスター歌手による録音も出てきましたが、この時点で作曲家アルマの焦燥感に焦点をあてたのは、ケン・ラッセルの先見性といえるんじゃないかと思います。

さて、映画はマーラーの死の直前、ウィーンに戻る列車の中でマーラー自身が、生涯を回想するという形で進められます。が・・・

始まってすぐに、ケンの悪戯が入ります。列車が駅に着きロバート・パウエル演ずるマーラーが車窓の外を覗くと、そこには「ベニスに死す」のダーク・ボガードそっくりの男、そしてそのそばにはセーラー服の美少年(実はあまり美しくない)。で、流れるのは勿論アダージェット。
最初に見たときの私の反応は、「ゲゲッ!なんじゃこりゃ?」でした。
カンヌ25周年記念賞受賞の「ベニスに死す」を嘲笑うような、パロディ・シーン。開幕早々に「これって真面目な映画じゃないから」と宣言するようなこのパロディを、カンヌの審査員たちはどんな思いで見たんでしょうか。

このあとも次々とぶっ飛んだ回想・幻想シーンが挿入されます。
なかでも美しくもエロティックなマーラー葬儀のシーン(生きながらにして火葬にされるというマーラーの幻想)と、無声映画風に処理された変に漫画チックな改宗のシーンは、全体構成のバランスも格調も吹っ飛ばす、異様に突出したシーンとなりました。

「恋人たちの曲・悲愴」で成功した、幻想シーンの挿入ですが、「マーラー」では、ドラマの本筋を忘れてそこだけ覚えてるというような、「やりすぎ」に陥っていると言えます。
しかし。今、「ドラマの」と書きましたが、この映画はドラマなのでしょうか?
多分違います。

この他にも「マーラー」には、やけに不気味な幻想的映像がインサートされることがあるのですが、これはマーラーの音楽にしばしば感じられるグロテスクで不気味な響きに対応してはいないでしょうか?

葬儀のシーンのゴージャスな映像はマーラーの全交響曲に見られる、響きのゴージャスさと対応していないでしょうか?

改宗のシーンの漫画的な描写は、明らかに(たとえば交響曲第4番の第2楽章などの)諧謔的な味わいの楽章に対応してはいないでしょうか。

これらのシーンはドラマの一部ではなく、マーラーの音楽と、それに触発されたケン・ラッセルの映像的イメージのコラボレーションと言えます。
そう考えると全体を貫く、マーラー自身の死に向かって走る列車の中のシーンは、交響曲第9番や第10番のアダージョ楽章に相当すると考えることが出来るのではないでしょうか?

つまりこの映画は、ドラマではなくいわばケンのイマジネーションによって彩られた、マーラー音楽のパラフレーズと見なすことが出来ます。
リストが「リゴレット・パラフレーズ」や「ドン・ジョヴァンニの追憶」を作曲したように、これはケン・ラッセルによる映像と音楽の「マーラー・パラフレーズ」なのでした。
この「マーラー」こそ、端正でスタイリッシュな演出で人間関係のドラマを描いていった「恋する女たち」の、対極にくるスタイルと言えると思います。

このマーラー・パラフレーズを演奏するのはベルナルド・ハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団。映画のエンディングはハイティンクの写真にエンド・クレジットが流れ、拍手の音が入って終わります。
(続く)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年9月27日 (火)

Your account is suspended

20050927UragaJPこれまではほとんどなかったのですが、ここのところ急にウィルス・メールが送られてくるようになりました。
私は月200円だかでプロバイダーのメール・チェックに入っているので、幸い事前にブロックされるため大丈夫なんですが、やはりあまり感じのいいものではありません。

ブログとHPのメアドをしばらく外します。もしメールで連絡する必要のある方がいらっしゃいましたら、すみませんが最新の記事へのコメントの形でお願いします。フリーのメアドをご連絡いたします。

被害は無いとはいえ、うんざりなのですが、ネタになったからいいかとかも思ってたりして。

写真:横須賀市の浦賀。ええと、黒船が来たところですか。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2005年9月26日 (月)

ケン・ラッセルとは何者か・6 ~ マーラー(前)

20050926MahlerJPケン・ラッセル監督の映画「マーラー」は、1974年に作られ、その年のカンヌ映画祭に出品されました。

1974年といえばマーラーという作曲家は、まさにそのブームが加熱し始めようとする時期と言って良いでしょう。
1960年代にバーンスタインがマーラー交響曲全集を完成し、次いでクーベリックやショルティも相次いで交響曲全曲を録音。
また、1970年にはカラヤンがルードウィヒ、シュピース、ラウベンタールをソリストに、「大地の歌」で初めてマーラーにチャレンジしました。

さらにアバドやメータ、小澤などの(当時の)若い世代も次々とマーラーをレパートリーの中核に取り入れていました。レコード録音という点では1974年という段階は、まさにこうした新世代のマーラーが出現する前夜だったと言えます。
発売当初は絶賛されたメータ/VPOの「復活」が1975年の録音。これも大評判となったアバド/シカゴ響の「復活」が1976年。

今はすでにオーケストラ・コンサートの中心的演目は、ベートーヴェンからマーラーに移ったといってもいいと思いますが、70年代前半はさすがにまだそこまではいかないものの、その萌芽が見え始めた時期にあたります。そしてその後、録音でもコンサートでもマーラー熱はどんどん加速していくわけです。

またクラシック音楽好き以外の人にも、ヴィスコンティ監督の映画「ベニスに死す」によって、マーラーは身近なものになりました。といっても第5交響曲のアダージェットだけですけど。
しかしヴェネツィアの街をさまようダーク・ボガードの姿と、バックに流れるアダージェットを結び付けないで思い起こすのはほとんど不可能なほど、この曲とこの映画は一体となって、私たちに印象付けられたと言えます。
この「ベニスに死す」は25周年を迎えた1971年のカンヌ映画祭に出品され、25周年記念賞を受賞しました。


一方、そのころケン・ラッセルはどうだったのでしょうか。
1974年という段階で、彼は既にBBCのドキュメンタリーや、映画「恋人たちの曲・悲愴」の成功によって、作曲家の伝記物を作らせたら、素晴らしく斬新かつクオリティの高い作品を作る映画作家というのは、もう定評になっていました。

映画賞という点では「恋する女たち」でハリウッドのゴールデン・グローヴ賞を、「肉体の悪魔」でヴェネツィア映画祭を制し、ケンの監督としての評価は頂点を極めていたといっても良いでしょう。

そんなケン・ラッセルが、そんなマーラーの伝記映画を作る。

それがイギリス代表の公式出品作としてカンヌ映画祭に出品されたのです。誰もがこの作品こそ今年のカンヌの本命だろうと予想しました。
グランプリは「マーラー」に行くだろうと、皆思っていたのです。実際に作品を見るまでは・・・
(続く)

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005年9月25日 (日)

津波を防ぐ

20050925TarouchoJP今年の6月から宮古市と合併しましたが、岩手県の旧・田老町の写真です。
この堤防みたいなのは何かというと、防潮堤です。

おおまかに、港の中に建設して高波などを抑えるのが防波堤。陸に建設して津波を抑えるのが防潮堤と、言葉を使い分けているようです。

行かれたことがある方はお分かりと思いますが、これは港に面して街を守るように建設されていて、なんだか凄いものです。総延長は2.4キロ。高さは10メートル。

この旧・田老町は昭和8年の三陸津波の時に、壊滅的な打撃を受けました。許可を得てないので写真出せませんが、津波の前と後に撮った写真があって、驚きます。立ち並んでいた家が全くなくなっているのです。岩手県沿岸はリアス式海岸なので海の前はほんのちょっとの狭い平地、背後はすぐに山というのがパターン。

そもそも平地の面積が少ないので、家の数も少ないのですが、それにしても全500戸のうちほとんどが流され、残ったのは10戸だけだったのです。
にもかかわらず、どうしても土地を離れたくない、また同じ場所に住みたいという感情が何をさせたか。

昭和8年の三陸津波の後、全国各地から義捐金が寄せられました。他の市町村は町民・村民に分配したのですが、田老町はそのお金を町民に分配せずに防潮堤を建設することに決めたのです。

津波に襲われたその年の秋には計画がスタート。ただし途中で戦争があったりして、完成までには第1期工事分だけでも20年以上を要しました。

もっとも昭和35年のチリ地震津波の時には田老町はほとんど被害がなかったため、まだこの防潮堤の威力が確認されたことは一度もありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月24日 (土)

オシァンの歌~名画と名曲・31

20050924LADavidJPメンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」でも知られる、フィンガル王(別名フィン王)は3世紀頃のケルト人の王様。果たして実在の人物かどうかはわかっていませんが、フィンガル王(フィン王)の伝承譚はアイルランドとスコットランドで、それぞれ形を変えて伝わっているようです。

1760年、22歳のスコットランド出身の青年ジェイムズ・マクファソン(スコットランド語ではシェイマス・マクヴーリヒと言うらしい)は、高地スコットランドに伝わるケルト人の英雄たちの愛と戦いの物語を英語に翻訳して、叙事詩「オシァンの歌」として出版しました。

オシァンはフィンガル王の息子の王子で、フィンガル一族の最後の人物となった人。叙事詩「オシァンの歌」は、老いて盲目となったオシァンが、竪琴の名手マルヴィーナに詠い聞かせるという形で、綴られています。

この「オシァンの歌」は出版されるや、ヨーロッパ中で一躍人気となったようで、さっそくゲーテの「若きウェルテルの悩み」に取り入れられました。さらにマスネが歌劇「ウェルテル」でその一部に曲をつけたこと。そしてこれをアルフレード・クラウスが歌った時には、テノールのための最も感動的なアリアの一つになったことは、いまさら言うまでもありません。

もっともこの「オシァンの歌」には、原典というものがなく、このためにこれが贋作、つまり伝説をもとにしたマクファソンの創作ではないのかという説もあるそうです。
でもマクファソンはヘブリディーズ諸島まで取材にも行っているそうで、素人考えですが、おそらく口伝えに歌い継がれてきたものをマクファソンが書き取ったと考えるのが、妥当なんじゃないでしょうか。もっとも完全な創作だったらそれはそれで凄いと思いますが。

ちなみにアイルランドの伝説ではフィンガル王は名前をフィン王と変え、オシァンもオシーンとなります。オシァンというとクラウスの顔が浮かんできますが、オシーンというと橋田寿賀子の顔が浮かんでくるのは、なんなんでしょうか。


この絵はルイ・アルフォンス・ダヴィッドの「英雄たちの霊を呼び出すマルヴィーナ」という作品。フランスのモンタルジの美術館にあります(モンタルジ市はパリの100キロほど南)。

ルイ・アルフォンス・ダヴィッド(1798-1849)は、あの「ナポレオンの戴冠」などで知られる有名なダヴィッドとは別人です。有名な方のジャック・ルイ・ダヴィッドは、1748-1825なので、時代的には若干重なってるということになります(この「マルヴィーナ」は1824年の作品)。
といっても50歳違うし、なんといってもルイ・アルフォンスはフランス革命以後に生まれた世代ですから、もう全く別の世代と言うことになるのは、画風の違いからも明らかですね。

昔オペラの衣裳を集めた展覧会が、東京都庭園美術館で開かれたことがありました。マリア・カラスが着たノルマの衣裳も展示されていましたが、まさにこんな感じ。色は全部白だったと思いましたが。

*******************

おさかな♪さん宛てのコメントに付随する画像  この写真を見る

| | コメント (10) | トラックバック (1)

2005年9月23日 (金)

ペ様は語る~温かく正しく生きたい

20050923PeJP今日は祝日、「徹子の部屋」もスペシャルなゲストをということか、ヨン様ことペ・ヨンジュンが出演しました。

私は韓流ドラマは見てないし、そもそもイケメンというものには敵意しか抱かないので(オペラ歌手を除く)、人気の韓国俳優たちにはまったく興味ありません。

ただペ・ヨンジュンだけは、ある雑誌記事を読んで以来、その人物像に大変に興味を持っていました。彼は以前に日本のファンを「私の家族」と発言したことがあるのですが、「韓国の有名人が、日本人のことを『家族』と言ったのは初めてのことだろう」とその雑誌には書かれていました。

はたしてそのような発言がリスクを伴う行為なのかどうか、私には判断できませんが、ペ・ヨンジュンにしても、彼のファンの日本の中年女性たちにしても、韓国における根強い反日傾向や、2ちゃんねるなどに渦く反韓ムードとは別のところで、大きな潮流を作り出してるのは間違いないと思われます。

そのヨン様の、今日の「徹子の部屋」での発言。

「私に対し多くの方々が抱くイメージは、私の生き方、ペ・ヨンジュンとしてのものだと思います。私の生き方は、皆さんに感じていただいているように、温かく正しく生きていきたいと思います。」
「苦痛が大きければ、私も得るものが大きいと思うからこそ、チャレンジしています。」
「どんな関係であれ続けることが大事であり、愛情もお互いが注ぎ続けなければならないと感じました。(<ペットとの関係について)」
「俳優ですので多くの人から愛されています。俳優としてその愛情にお答えするには、多くの作品を通じて感動を与えることだと思います。(しかし)アジアの家族の皆さんの愛はあまりにも大きく温かいものなので、私の日ごろの活動だけでは足りないと思いました。(<地震被害者への寄付や、乳癌撲滅の運動など、社会的活動について)」

それにしても、柔和な物腰、丁寧で時に囁くような口調、ほとんど女性的と言いたいような仕草。粗野な亭主との付き合いに疲れた、日本の主婦が夢中になるのも分かりますね。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2005年9月22日 (木)

言葉狩りの補足

20050922KokubunjiJP今日(22日)は、といってももう明日(23日)になってるんですが、帰宅が間に合わずに更新ができませんでした。でも日付をさかのぼっても投稿できるみたいなので、22日付けでやってみます。

9月13日の日記で、私はこんなことを書きました。

>また2ちゃんねるなどのBBSで見られる、ホモ・セクシュアルの人たちが自分たちはオカマと自称しつつ、ヘテロ・セクシュアルの人間にはそれを許さないと いうダブル・スタンダードは、私はおかしいと思います。おかしいというのが言い過ぎなら、控えめに言えば吐き気がするほど不快です。

この部分について、ある友人の反応は、「なんでそんなことをいちいち不愉快に思うの?そんなのどうだっていいじゃん」というものでした。

また、この日のコメント欄では、Esclarmondeさんからこの部分に関して反論をいただき、それに対して私も再反論のレスをつけてますので、もしご参照いただければ幸いです。

それまではただ感覚的に間違ってる、不快だと思っていただけなのですが、このEsclarmondeさんとのやり取りがあったおかげで、私はあらためて「何故、不快なのか」を考えてみることができました。

結論をまず書くと、それは言葉は万人のものであり、一部のグループが独占していいものではないからだ、ということにつきます。

たとえそれが一般的に差別用語と見られているものであろうとも、特定の人々が占有できるものではないというのが、私の考えです。もし占有できると思うのなら、それは「被差別者の傲慢」とでも言うべきものではないでしょうか?

例えばおすぎとピーコのようなタレントが、番組で「オカマ」を連発しても、私は間違っているとは思いません。なぜならば彼らは、「オカマ」という呼称を自分たちだけが使えるなどとは考えていないからです。他人が使うことも認めたうえで、自分たちが使っている。「ネガティヴな印象の言葉をポジティヴに」という意識まであるのかどうかは分かりませんが、傲慢さも不快感も感じさせないのは、言葉を独占しようとしてはいないからだと思うのです。

写真:陸奥国分寺薬師堂の鐘楼

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005年9月21日 (水)

後藤田正晴元副総理が逝去

20050921GotoudaJP詳しくはネットニュースをご覧ください。

後藤田さんはなにしろ旧内務省の出身ですから、当初は非常に警戒されていて、特に左翼系の人々からは眼の敵にされていたらしいです。
しかし筋の通った人と言うのは、政治的立場などを超えて信望を集めるものらしく、やがては最も信頼できる政治家の一人とみなされるようになったと言えます。

さきほどまで放送されていたTBSのニュースでは、筑紫さんが「なにしろ大変なエリートですから、(後藤田さんの中にはなによりも)まず国家というものがあった。しかしそれは国家のために国民が犠牲になるというようなものではなく、『護民官』として国民を守るんだと言う意識だったんだろう」と述べていました。
(筑紫さんは時々こういうハッとさせることを言いますね。)

後藤田さんへの筑紫さんのインタビューも、いくつか放送されていましたが、特に最近のインタビューでは、
「政治家の反応が非常に情緒的になっている」こと。
「政治家もマスコミも付和雷同の傾向が強くなっている」ことを指摘していました。非常に危機感を覚えていた様子が伺えます。

亡くなられたのは19日だそうですが、奇しくも小泉新内閣発足の今日、死去が発表されました。護憲派の砦とでも言うべき人を亡くして、日本の右傾化はますます加速していくのでしょうか?ちょっと暗澹たる気持ちにさせられます。

リベラルな映画人の代表だったワイズ監督と同じく91歳。
謹んでご冥福をお祈りいたします。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年9月20日 (火)

実は私、Sayakaのファンです

20050920SayakaJPといっても松田聖子の娘じゃなくって。

今日のFM放送は、今年のアスコーナ音楽祭におけるテミルカーノフ指揮サンクト・ペテルブルグ・フィルのコンサート・ライヴ。グリンカ、プロコフィエフ、チャイコフスキー。
ロシア物があまり得意ではない私にとって、いつもならさして興味をひくプログラムではないのですが、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番を庄司紗矢香が弾くとなれば別。

ただし私のサヤカ歴はとっても浅くて、ファンになったのは去年からなのです。デイヴィス指揮LSOの来日公演のTV放送を見て(シベリウスのヴァイオリン協奏曲)、あれ?この人ってこんなにも情熱的な演奏するひとだった?と、庄司紗矢香に対する認識を新たにしたのが始まり。
情熱的という表現が正しいのか、ちょっと違うような気もしますが、予想外に骨太でパッショネイトな演奏は、ただの天才少女の域を遥かに超えて、耳を惹きつけずにはおきませんでした。

きょうのプロコフィエフも素晴らしい集中力で弾ききっていましたが、特に第1楽章の冒頭のデリケートな表情。その中にほのかに浮かび出るロマンティックな味わい(プロコフィエフでありながら!)。
終楽章の豊かに旋律を歌わせながら、聞き手を虜にしていく魅惑の音色。
もちろん技巧的な部分の上手さは言うまでもありません。

ということで、いつもNHK FMは悪口ばかり書いてるのですが、まあしょうがない、この秋も受信料払ってやるかと。

| | コメント (8) | トラックバック (1)

2005年9月19日 (月)

ニュースの落穂拾い・3~TV好きは自民に Watch What Happens

20050919SunsetJPネットニュースのタイトルは
『「劇場型選挙」TV好きは自民に…読売ネットモニター(読売新聞)』

ということですが、読売新聞の調査によると、一日あたりの視聴時間が長いほど、自民党や小泉首相を支持する割合が高いことがわかりました。

簡単にダイジェストすると、

(1)まず自民党に投票した人の割合を、1日あたりのTV視聴時間別で見てみましょう。
30分未満  40%
3時間以上 57%
全体  53%

(2)次に小泉首相が来年9月の任期で辞めたほうがよいかどうか。

30分未満 任期で辞める67%、引き続き担当33%
3時間以上 引き続き担当53%、任期で辞める48%
全体    任期で辞める54%、引き続き担当46%。

(3時間以上が足し算、合いませんが、おそらく52.5と47.5でどっちも四捨五入したのかと。)

この調査について、詳しい結果は読売新聞のHPに載るそうですが、さきほど見た限りではまだ掲載されてないようです。(前回の調査までしか、載ってませんでした。)

今回の選挙、劇場型じゃなくて、私は「TV番組型」と、ヴァランシエンヌさんはもっと過激で「ワイドショー型」と命名しましたが、まったくその通りな結果が出てきています。

私は今は報道はもちろん、政治関係の番組にはまったくからんでいませんが、それでもやはりTVの世界で働いているものとして、かなり考えさせられるものがあります。
まあ、どちらかと言えば私が考えるんじゃなくて、局で働く方に考えてほしいわけですが。

写真:落日。別に心象風景というわけじゃなくて・・・

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2005年9月18日 (日)

ニュースの落穂拾い・2~鳩山さんといえば Watch What Happens

20050918SendaiJP民主党の幹事長が鳩山さんに決まった。

新党首の前原さんという人は、若いというだけでもてはやされているが、若けりゃいいのか?いったいどんな考え方をする人で、どの程度の能力の持ち主なのか、リーダーシップはあるのか。全国の民主党員の人たちはちゃんと分かってるのだろうか。(まあ私は別に民主党の支持者というわけでもないから、あまりどうこうも言えないのだが。)

とりあえず伝わってくるのは改憲論者だということだけ。1項はそのまま残し、自衛権の明記をなどと言ってはいるが、改憲ということになれば数の論理で民主党案など一顧だにされないに決まっている。つまり、改憲案が提出されるとすれば、結局それは自民党案で決定ということになるわけで(無論今の時点でそれがどんなものになるかは、わからないが)、この人はそういうことをどう思っているんだろうか。

菅さんとわずか2票差だったことを考慮してか、幹事長にはいまや旧世代(?)ということになる元代表の鳩山さん。

鳩山さんで、一番印象深いのはBSEにからむ発言。
「狂牛病の『狂』という字は、人間には使わない字なので、牛の権利を侵害している」
牛の権利だぁ?だったらお前、牛肉食うなよ!――とあの時思ったのは、私だけではあるまい。

野党第1党、本当に大丈夫なんだろうか。

写真:仙台駅前

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005年9月17日 (土)

巨人~名画と名曲・30

20050917Goya1JPゴヤ(1746-1828)という人はいったいどういう人だったのか、本を読んでもいまいちよく分かりません。

全てに秀でた上に美貌まで兼ね備えた万能の天才でも、苦悩と恍惚の人でも、バランスのとれた紳士でも、永遠の少年でも、狂気の画家でもなく、かといってひたすら職人技を磨いたわけでもなく、そんなことはあるまいとも思うのですが、もしかしてわりと普通の人だったのかもという気もします。
(苦悩と恍惚=アゴニー&エクスタシーというのはミケランジェロの伝記映画の原題。日本語題名は「華麗なる激情」。)

ゴヤの生地というのはスペインでも本当に何もない貧しい地方だったらしく、なぜこんな所から絵画史に残る天才が登場したのか、説明できた人はいまだかつていません。

若い頃のゴヤは誰もが才能を認めると言うわけでもなかったらしく、地位の獲得というのが、その時期のゴヤの最も大きな目標だったようです。しかし世俗的には最高の栄誉である宮廷画家になるにも(周囲の人の嫉妬などもあって)、けっこう回り道をしたようです。

一部の貴族や王族のひきたてがあった他、マドリッドの経済界とのつながりもあって40代にしてようやく宮廷画家になれたゴヤですが、それまで肖像画や宗教画を描き続けていたのに、60代に入ると突如何かに目覚めることになります。
これも「何が」ゴヤの「何を」目覚めさせたのか、よくわかりません。

きっかけは1807年。フランス軍がスペインを侵略しスペイン王フェルナンド7世を退位させて、ナポレオンの兄ジョーゼフがホセ1世としてスペイン王位についたのです。
ナポレオン軍の支配下に置かれたスペインでは、民衆が蜂起し1808年から1814年にかけて対仏独立戦争が行われます。

20050917Goya2JPゴヤはこの民衆蜂起の様子を絵画にすることを決意します。そうして生まれたのが有名なナポレオン軍に虐殺される人々を描いた「マドリッド、1808年5月3日」(右)に代表される作品の数々。
縮小された図版でみるとマンガちっくに見えるかもしれませんが、プラドでみると暗闇から浮かび上がってくる、殺されていく人々の表情は異様な迫力でせまってきます。

それまでは絵画史上最高の才能の一人であるベラスケスにはどうしても及ばなかったゴヤが、これらの作品によって美術史上の巨人となったのでした。

上に載せた「巨人、パニック」も同じ時期の作品で、画面下部には戦火に逃げ惑う人々、そしてこぶしを握りしめた怒れる巨人の姿。あまりにも印象的で「裸のマハ」を除けばゴヤの最も有名な作品となっています。
マドリッドのプラド美術館にありますが、日本でも公開された事があります。

この巨人が何を意味してるのかは二説あります。
一つは圧制者ナポレオンの象徴。
もう一つは祖国を救うために立ち上がった巨人というもの。
同じ絵で全く正反対の解釈が出てしまうと言うのも面白いですが、私はもちろん後者をとります。なぜ「もちろん」なんだと問われると、困っちゃうんですが。

*******

ということでマーラーの交響曲第1番「巨人」です。ただし巨人は巨人でも英語だと、ゴヤの方はColossus、マーラーの方はTitanなので、ちょっと違います。

この曲の忘れられない思い出は、バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルの来日公演。忘れられないと言った先から、矛盾することを言うようですが、あまりにも昔のことでディテイルはすっかり忘れてしまいました。

このときの来日公演での別プロのショスタコーヴィチ5番は、ライヴ録音が残されてるので、思い出すよすがになるのですが・・・

| | コメント (14) | トラックバック (1)

2005年9月16日 (金)

陸奥国分寺薬師堂

20050916Mutsu1JP陸奥国分寺は741年、聖武天皇の詔により、現在の仙台市若林区木ノ下に建てられました。最北の国分寺ということになります。しかし1189年、源頼朝の藤原氏征伐のさいに焼失してしまいました。

その際にはわずかに草堂に仏像だけが残ったと言われています。その後、室町時代には徐々に彫刻なども増えていったようですが、往時の繁栄を取り戻すことはありませんでした。(仏像・彫刻、重要な資料などは宝物館に納められていますが、現在は改修のため休館中。)

藤原氏征伐からおよそ四百数十年あまりたった1607年、仙台に居城を移してまもない伊達政宗は陸奥国分寺の復興を決め、3年がかりで薬師堂や仁王門などを建設します。

蝦夷を征伐した大和朝廷の力と仏教文化との広がりをまざまざと示す国分寺が、源氏による奥州征伐という中央権力と地方自治勢力との再度の衝突でいったんは焼失。それが20年早く生まれていたら天下を取ったかもしれないと言われながらも、外様大名の位置に甘んじることになった伊達政宗によって復興される。なんとなく歴史上のねじれた因縁みたいなのを感じなくもありません。

さて、薬師堂は瓦葺の堂々たる建物で、大崎八幡宮とともに仙台における桃山様式をしめす代表的な建造物となっています。もとの陸奥国分寺の講堂跡に建てられました。20050916Mutsu2JP上の写真はついこのあいだ撮影したものですが、冬の雪景色だとこうなります

焼失した南大門があった場所には、かやぶきの仁王門が建てられました(右の写真)。正面からみた写真は、いろんなサイトでよく見かけるので、裏側から撮ってみました。

入場は無料。広い敷地はほとんど公園のようで、散歩の老夫婦などが素敵な雰囲気をかもしだしてます。先日私が行った時は、ほかに女子高生の集団なんかもキャッキャ、キャッキャ言いながら遊んでました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月15日 (木)

ロバート・ワイズ監督が逝去

20050915Wise1JPロバート・ワイズ監督が亡くなられました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。

ワイズ監督についてはいまさらご紹介するまでもないと思いますが、映画「ウエスト・サイド物語」「サウンド・オブ・ミュージック」などの名監督。ネットニュースにもあるようにワイズは編集者出身で、「市民ケーン」の編集を担当したことでも知られています。

1944年に監督に転向。カンヌ映画祭で国際批評家連盟賞を受賞した「罠」、
SF映画の古典として知られている「地球が制止する日」、
ポール・ニューマン主演で当時新人のスティーヴ・マックイーンが端役で出演したことでも知られる「傷だらけの栄光」、
スーザン・ヘイワードがアカデミー主演女優賞を受賞した「私は死にたくない」、
クラーク・ゲーブルとバート・ランカスターが共演した「深く静かに潜行せよ」、
再びジュリーと組んだ「スター!」、
これもいずれSFの古典として君臨するであろう「アンドロメダ・・・」、
ついさきごろ十瑠さんのサイトでも取り上げられていたピーター・フォンダとリンゼイ・ワグナーの「ふたり」、
スタジオ撮影と実際のニュース・フィルムとを絶妙に組み合わせた「ヒンデンブルグ」、
まだ若かったアンソニー・ホプキンスの底知れない深い瞳が印象的な「オードリー・ローズ」、
そして「スター・トレック」などなど。

二つのミュージカル大作は別格として、ワイズの傑作群の中から、あくまでも私が見た範囲内でということで、最高傑作を選べば、それはなんといっても「砲艦サンパブロ」でしょう。

20050915WiseJP「もしハドソン川に中国の軍艦が浮かんでいたら」というスーパーで始まるこの映画は、1966年の製作。
舞台を1920年代の中国にとりながらも、ワイズがヴェトナム戦争への痛烈な批判をこめて作り上げたものでした。
大国の海外派兵の陰で犠牲になっていく、名もない兵士たち。スティーヴ・マックイーン(アカデミー主演男優賞ノミネート)、リチャード・クレンナ、リチャード・アッテンボロー(ゴールデン・グローヴ助演男優賞受賞)、マコ岩松(アカデミー助演男優賞ノミネート)、サイモン・オークランド、キャンディス・バーゲン。
役者も完璧に揃って、気骨ある社会派の巨匠、ロバート・ワイズが渾身の力を振り絞って作り上げた名作でした。

(ヴェトナム脱走兵として世界を転々としていた男が、やがて故郷に帰る話を甘美なラヴ・ロマンスをからめて描いた「ふたり」は、いわば大作の交響曲「砲艦サンパブロ」に対するチャーミングなアンサー・ソングのようなものでした。)

この「砲艦サンパブロ」のロケ地探しなどが難航して、クランク・インできない状態でいた時に持ち込まれたのが「サウンド・オブ・ミュージック」の話(当初予定されていたワイラーのキャンセルによる)だったというのも、面白いところです。
もし「サンパブロ」が予定通り撮影されていたら、ワイズは「サウンド・・・」を監督することはなく、誰か他の監督にまわっていったでしょうから。
(もしジョシュア・ローガンあたりにいっていたら、もっとずっと舞台よりの作品になっていたことでしょうねえ。)

ワイズという人はワイラーやフォードほどではありませんが、アカデミー賞にめっぽう強く、全監督作品39作をあわせると(たぶん)62部門で候補(☆)にあがり、(おそらく)20部門で受賞(★)しています。

1953 砂漠の鼠(1部門候補) ☆脚本賞
1954 重役室(4部門候補) ☆助演女優賞、撮影賞、美術賞、衣裳デザイン賞
1956 傷だらけの栄光(3部門候補、2部門受賞) ★撮影賞、美術賞、☆編集賞
1958 私は死にたくない(6部門候補、1部門受賞) ★主演女優賞、☆監督賞、脚色賞、撮影賞、編集賞、録音賞
1961 ウエスト・サイド物語(11部門候補、10部門受賞) ★作品賞、監督賞、助演男優賞、助演女優賞、撮影賞、美術賞、衣装デザイン賞、ミュージカル映画音楽賞、編集賞、録音賞、☆脚色賞、
1962 Two for the seesaw (2部門候補)☆撮影賞、歌曲賞
1965 サウンド・オブ・ミュージック(10部門候補、5部門受賞) ★作品賞、監督賞、ミュージカル映画音楽賞、編集賞、録音賞、☆主演女優賞、 助演女優賞、撮影賞、美術賞、衣装デザイン賞
1966 砲艦サンパブロ(8部門候補) ☆作品賞、主演男優賞、助演男優賞、撮影賞、美術賞、作曲賞、音響賞、編集賞
1967 スター!(7部門候補) ☆助演男優賞、撮影賞、美術賞、衣裳デザイン賞、ミュージカル映画音楽賞、歌曲賞、音響賞
1971 アンドロメダ・・・(2部門候補) ☆美術賞、編集賞
1975 ヒンデンブルグ(5部門候補、2部門受賞) ★特別業績賞(視覚効果) 、特別業績賞(音響効果)、☆撮影賞、美術、音響賞
1979 スター・トレック(3部門候補) ☆作曲賞、美術賞、視覚効果賞

ワイズ個人としての受賞はプロデューサーとして「ウエスト」と「サウンド」(作品賞はプロデューサーが受賞する)、監督としても同じく「ウエスト」「サウンド」であわせて計4個。ノミネートはそのほかに監督として「私は死にたくない」、プロデューサーとして「サンパブロ」、さらに編集者として「市民ケーン」で編集賞にノミネートされています。

91歳。もう長いこと現役ではありませんでしたが、亡くなったとなるとさすがに寂しいものが・・・

| | コメント (16) | トラックバック (3)

2005年9月14日 (水)

ニュースの落穂拾い Watch What Happens

20050914YoshinoyaJPその1

アメリカの上院議員が、日本産牛肉の輸入再開に反対する書簡を、農務長官に送ったのだとか。ネットニュースです

現時点での牛肉問題ですが、昨年10月、日米の両政府は、日本側が『可能な限り速やかに国内の承認手続きに着手し、双方の貿易を再開するよう努力する』ということで合意しました。
しかし、実際には作業は進んでおらず、それに再開されてもほんの一部の牛肉だけしか輸入されないということになりそうです。

ご承知のようにアメリカはBSE発生を理由に、日本産牛肉の輸入を禁止しています。それなのに、日本がアメリカ産牛肉の輸入をストップすると、怒り出して圧力をかけてくるわけで、日本人からみるとなんとも困った国なわけですが。。。
しかしまあ日本産牛肉の一部輸入再開は日本に対する大きな圧力になるわけで、これによって日本側のアメリカ産牛肉輸入全面解禁は、きっとじきに実現すると思います。なんか、この上院議員は頭が悪いんじゃないでしょうか。脳の中にストラテジーというものがないんですね、きっと。

写真は今年2月11日。吉野家、1日だけの牛丼復活デー。

その2

SONYとサムスンの合弁会社による液晶パネルを使った製品がいよいよ発売になります。

日本企業はどんな画期的な発明をし、どんな特許をとってもクロス・ライセンス契約で骨抜きにされてしまうという印象があります。
なかでもSONYとサムスン電子の契約は、サムスン側に使いものになる特許などほとんどなかったとさえ噂されていて(うわさ段階です。裏はとっていません)、最悪と言う評価が出来ています。

SONYが逆転満塁ホームランを目指すには、リーズナブルな価格で、なおかつ現在のクオリアを越えるような画質の製品を送り出さなくてはならないわけですが、さあてどうでしょうか。興味津々です。

その3

セントバーナード郡の老人ホームの痛ましい事件ですが、驚いたことに
「ホームは行政当局から入居者救助の申し出を受けていたが、拒否していたという」とのことです。
ネットニュースです
なんということでしょうか、救助の申し出受けてたら全員助かったんじゃないですか・・・。あまりにも酷すぎます。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年9月13日 (火)

言葉狩りはなぜいけないのか

20050913SendaiJP9月4日に「雑犬ヒロの半生」という記事を書きましたが、このタイトルの「雑犬」という言葉について、ある愛犬家の方からクレームがつきました。
ちょうどよい機会なので、これを例にとって「言葉狩り」の問題について考えてみようかなと思います。

雑犬とは雑種の犬ということで、秋田犬とかラブラドールとかいった純血種ではなく、いくつかの血が混じっている犬のことです。
雑種ではなく雑犬では「まるで雑多な犬」といわんばかりで、差別されているようだというのが、クレームの趣旨だと思います。しかし、誤解をおそれずにあえて言えば私は意図して差別したのです。

その理由は2つあります。

まずヒロが例えば今人気のチワワだったらどうでしょうか。おそらく犬を飼えなくなった元の飼い主は、ペットショップに売りに出したことでしょう。ゴールデンやラブラドールならどうでしょうか。公園に放置されることなく、近所の人がすぐにしかるべき役所に連絡したのではないでしょうか。

ヒロが哀れな状態に陥らざるを得なかったのは、彼が雑犬だからです(しかも歳取った)。そこには明らかに差別が働いています。元の飼い主の差別と、公園の近所の人の差別という2種類の差別です。
その「差別されてる」という状況を明らかにするには、それにふさわしい単語を選択しなければなりません。キレイ事の言葉遣いでは伝わらないものがあるのです。

数年前に「週間金曜日事件」というのがありました。雑誌「週間金曜日」(2001年6月号)が東郷健氏のインタビューを載せた際に、『伝説のオカマ』というタイトルをつけたところ、同性愛者の団体からクレームがつけられ、週間金曜日は結局謝罪したというものです。

これは実に典型的な例だと思います。このタイトルには、東郷氏が「オカマ」と呼ばれて蔑まれてきた過去と、にもかかわらず毅然として自らの生き方を貫いてきた歴史が現れています。無論、東郷氏本人が了承したタイトルでした。
その背後には「人の歴史」と「自らの生き方への矜持」、そして「いつかオカマと呼ばれて蔑まれるような社会がなくなる事」への遥かな希望が込められています。
それを「表現の問題」を全く無視して、単語だけ見てクレームをつけた同性愛者団体の知性のレベルと、謝罪した週間金曜日のヘタレぶりは、当時ネットのBBSでさんざん批判の対象になりました。

そうです。絶対に「伝説のオカマ」でなければ、伝わらないものがこのタイトルにはあったのです。

(話がずれますが、だからと言って誰でもオカマを連呼していいのではありません。また2ちゃんねるなどのBBSで見られる、ホモ・セクシュアルの人たちが自分たちはオカマと自称しつつ、ヘテロ・セクシュアルの人間にはそれを許さないというダブル・スタンダードは、私はおかしいと思います。おかしいというのが言い過ぎなら、控えめに言えば吐き気がするほど不快です。)


2つ目の理由は、その雑犬ヒロは今、新たな飼い主の下で幸せに暮らしています。(まあ正確には幸せかどうか犬に聞いてみないと分かりません。勝手に決め付けるのもなんですが、少なくとも耳ダレをおこし、ダニにまみれ、空腹に耐えて公園に放置されていた状況が幸せとはとても思えないので、このぐらいは決め付けてもいいと思います。)

その落差を出すためには、ある種の表現的な言葉遣いをしなければなりません。ではなぜ落差を出す必要があるのでしょうか。

それは、誰にもふりむかれないような雑犬でも幸せになる権利はあり、人間には犬を不幸にしない義務があることを表現したいからです。(なぜなら犬は人間がペットとして飼うことが前提とされた動物ですから、人に責任があります。たとえば野生の狼の幸せに、人は責任がありません。)
私が訴えたかったのはそこです。
血統書付きの犬だけが幸せになる権利を持っているんじゃないということ。どんな雑多な犬であろうと、人は責任を持って面倒を見てやらなければならないのだということです。

こうした根本的なことを訴えるのに、「雑犬」という言葉が絶対に必要なのです。上に述べたような理屈を理屈として主張しても、はたして訴えかけに説得力があるでしょうか。
それは単に「青年の主張」に終わり、「ご立派なことを言ってますね」だけで、なんの説得力ももたないのではないでしょうか。

つまり言葉狩りは、思想の本質や根本を薄味にして、単なる自己満足の主張の開示に陥らせてしまう恐れが大いにあるのです。
(もっと悪いことに、言葉狩りによって逆に差別そのものは温存されることになってしまうかもしれません。その危険性も大いにあると思います。多分さがせば実例もみつかると思います。いまその時間はありませんが。)

まあ、私の文章などなんの文学性もありませんが、多くの文学作品が単語の変更によってその表現の落差を奪われ、芸術性を薄められている、そして思想の根本を破壊されているのです。

そこが言葉狩りの一番の問題点です。

一般的に差別用語とされている言葉を使う必要が出てきた場合、それは他ならぬ社会で発生している『その言葉で表される差別に絡んでのこと』なのが普通です。
たとえば「オカマ」という言葉を使った場合、それは同性愛者がおかれた差別的状況を物語るシチュエイションにおいてのことと考えるべきでしょう。(そうでなければ、それはたぶん蔵王の話です。)

その種の単語をまさしく差別的に使う場合もありうるかもしれませんが、差別をなくすことが文章の主目的である場合がおうおうにしてあり、そのための文学的表現としての唯一無二、のっぴきならない単語選択の結果である場合が多いと思います。

言葉狩りの人々は自分たちの主張を通すために、実はその主張をより強力に後押ししているはずの思想を含んだ表現を破壊して、そのことに気づかずじまいになっているのです。

本来差別用語などというものはありません。差別する人の心があるだけなのです。
知性のうちのほんの何分の一かでもいいから、表現の問題の考察に向けていただきたいと思います。

ついでに書いておけば、背後に思想をともなわずに、おそらく自分はそんな社会の決まりごとなんか、気にかけない豪胆な人物なんだとアッピールするためだと思いますが、わざと差別用語(とされているもの)を連呼する人もいます。それはあえて言うまでもなく単なる下品です。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2005年9月12日 (月)

徒然草~選挙編

20050912RokugouJP(※私は小泉嫌いなので、小泉さん大好きとか小泉さん素敵!とかいうような人は、この先は読まないでください。)

とても良くないと思います。選挙の結果のことです。
私は郵政民営化問題に関しては実を言うとどっちでもいいのですが、その他の部分(経済無策&ブッシュの犬)で完全に反小泉になっているので、かなりショックです。非常に危機感を感じます。

これでは小泉&竹中のやりたい放題(ということは何もしないということかも知れませんが)。ダブルスコアでは野党なんかいないも同然でしょうし。
今回当選した自民党議員に良識を期待するしかないわけですが、個々の政策に反対の自民党議員がいたとしても、はたして今後は反対行動をとれるものなのか・・・

今回の選挙では得票数で見ると自民は民主の1.3倍程度しか取っていないのに、議席数は2. 6倍にもなっていることが指摘されました。小選挙区制の弊害です。そもそもこの多様化の時代に、アメリカの猿真似で二大政党制をなどと宣伝した責任は民主側にもあるのだから、そら見たことかという気もするのですが。
(民主党の岡田代表は辞めるそうですが、その前にまずあの不気味なTVコマーシャルを作った代理店をクビにすべき。あれじゃ誰も投票しないと思う。)

テレビ朝日の番組では、今回若い人が投票所に足を運んだと言う話題にからめて、古館さんが「今の若者は勝ち馬に乗りたがる」というようなことを言っていました。なるほどと思いました。結局その風潮がすべてだったのかなという気がします。
色々ネットのブログやBBSをさぐると、若者だけでなく30代のオヤジや40代のジジイも、なんだかんだもっともらしい理由をつけつつ、必死で勝ち馬に乗りたがったようで、やれやれです。

| | コメント (16) | トラックバック (3)

2005年9月11日 (日)

ダフニスとクロエ~名画と名曲・29

20050911milletjpラヴェルの「ダフニスとクロエ」の全曲版と言えば、いまでこそ何種類ものCDが出ていますが、私たちの世代だともうほとんどクリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団のEMI盤が唯一の選択肢のようなものでした。いや他にも初演者モントゥーとかミュンシュ=ボストンとかあったはずなのですが、なぜか目立たず・・・

しかしこの曲、今のようにポピュラーになったのは、クリュイタンスではなくミュンシュのおかげなんだそうですね。
なんでもこの曲はまったく人気がなく、名曲とも認知されていなかったのですが、ある時ミュンシュが素晴らしい名演をして、それ以来名曲としての評価が定まったんだそうです。

幸いなことにクリュイタンスもミュンシュも第2組曲の映像が残されていますが(ミュンシュは市販のDVD,クリュイタンスはNHKで放映)、指揮姿はもう全く2人に対する一般的イメージそのままに、ミュンシュの情熱、クリュイタンスのエレガンス。どちらも実に魅力的です。いまはこんな指揮者はいなくなりましたね。いや、いるんだけど私が知らないだけかもしれませんが、でも私でも知ってそうな有名どころでは、いなくなりました。

さてこの曲、生ではなんといっても70年代のブレーズ指揮BBC響の来日公演。私が聞いたのは第2組曲の日だったんですが、FMでライヴが放送された全曲の日も素晴らしい演奏だったようです。
この後しばらくしてブレーズはニューヨーク・フィルと全曲版を録音しましたが、なんかBBC響とのライヴの方が良かったような・・・

上の絵はミレーの作品「ダフニスとクロエ」。この主題ではシャガールが本の挿絵として制作した連作版画集が有名です。が、シャガールはまだ著作権が切れてないと思うので、ミレーをとりあげました。ちなみにシャガールはこんな感じ。
http://www.chss.montclair.edu/classics/petron/chag7.gif

ジャン・フランソワ・ミレー(1814~1875)は、たいへん有名な人ですから、いまさら解説めいたことを書く必要はないかもしれません。
これまでに取り上げたクールベやドーミエらと同時代の画家で、彼もまたリアリズムの画家といってもいいんじゃないかと思います。
ただしパリの南にあるバルビゾンを本拠にしたミレーは、「バルビゾン派」と呼ばれます。絵を描きながらも農民でもあったミレーは、終始一貫フランスの農民たちの姿を描き続けました。

この作品も「ダフニスとクロエ」というタイトルは付けられているものの、実際に描かれているのはフランスの田舎の森の中で戯れる幼い2人の子供です。(ちなみに「ダフニスとクロエ」は、2人の捨て子ダフニスとクロエが森の中で出会い、ニンフたちの助けを得て成長し、やがて結婚するという古代ギリシャを舞台にした話です。)
1845年ごろの作品で、山梨県立美術館にあります。

20050911Millet2JPさてミレーと音楽といえば、やはり「晩鐘」。これもフランスの農村地帯を描いたものですが、果たしてこの作品からフランスの音楽、マスネの管弦楽曲とかシャブリエの交響詩とかを連想するかと言えば・・・。しませんよね。
なぜでしょう。この絵にはやはりドヴォルザーク「新世界より」の第2楽章、というより「家路」。10人中9人はきっとこっちを連想するんじゃないかと。
日本語歌詞の「♪響き渡る鐘の音が」というのも、なんかますます「晩鐘」との親和性を高めていて――。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年9月10日 (土)

定禅寺ストリート・ジャズ・フェスティバル開幕

Q「仙台市が世界に誇るケヤキ並木のストリートと言えば――」
A「じょ、定禅寺ストリート!」
Q「残念!問題の続きをお聞きください。
仙台市が世界に誇るケヤキ並木のストリートと言えば定禅寺ストリートですが、ではその定禅寺ストリートを舞台にしたジャズ・フェスティバルと言えばなんでしょうか?」
A「・・・?」
Q「タイム・オーバー!残念。答えは定禅寺ストリート・ジャズ・フェスティバルでした」
A「まんまや~ん」
――みたいな。

20050910JJFJP定禅寺通りは大通りだし、ヨーロッパっぽい雰囲気もあるので、ストリートよりもブールヴァールと言いたいところですが、それはともかく。定禅寺ストリート・ジャズフェスティバルが今年も開幕しました。今日(10日・土曜日)と明日(11日・日曜日)の2日間、定禅寺通りを中心に仙台の街はジャズに埋め尽くされます。

この催しも今年で15回目、第1回が始まった時は私は仙台にいなかった時期なのですが、定禅寺通りで、仙台のアマチュア・ジャズ・ミュージシャンたちが青空ライヴを、というような催しだったようです。

青空ライヴというと、よく繁華街で夜中に若者がやってるしょぼいのを連想するかもしれませんが、このジャズ・フェスは勿論ちがいます。定禅寺通りの中央分離帯の部分は広い遊歩道になっていて、ベンチなども置かれ、小規模なライヴが出来るようになっています。(法律上、道路になってると無理なんですが、この通りの中央分離帯は、道路じゃなくて公園になってるんですね。)

PAもちゃんと設置され、演奏も本格的というわけで、徐々に仙台駅前や東二番町通りなど、仙台市中心部全域を巻き込むイベントに発展してきたようです。

20050910JJFJP2今年はステージ数は90ステージ、参加バンドは640グループ。なかでも仙台市役所前の市民広場の特設ステージでは、今夜と明日の夜の二日間は世界的に有名なミュージシャンも参加して(今夜はアコーディオンのCobaさんも出演)盛り上がる、はずです。

ジャズの都、ニューオーリンズがあんなことになってしまい、なんとなく気分が沈んで能天気に楽しいねという気にもなりませんが、ま、それはそれとして。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 9日 (金)

フィデリオ・7 Fidelio

20050909FidelioJPもし「フィデリオ」のテーマが『レオノーレ、夫婦の愛』だとすると、決定的瞬間を導くのはレオノーレでなければなりませんが、もしそんなにこだわらなくてもいいのであれば『フィデリオ、あるいは民衆の自由』などという主題にしてもいいんじゃないでしょうか。

その場合、やはりつましい生活を送っている庶民の代表として、ロッコとヤッキーノに活躍の場を与えても良いかもしれません。
ロッコの人格はレオノーレの影響力で、明らかに変貌しているわけですから、最後の一瞬になにか積極的な活動をしても、かならずしも不自然ではないと思います。

たとえばレオノーレが銃でピツァロを狙ってる間に、ロッコとヤッキーノが政治犯たちが収監されている監獄の扉を開け、ピツァロは集団の力によって排除されるとか。(レオノーレ序曲第3番を有効活用)その場合ドン・フェルナンドも政治犯たちの一人として捕らえられていたという設定になるでしょうか。つまり
○台詞の中でしか出てこない査察に来る大臣フェルナンドAと
○歌うパートを持つ政治犯フェルナンドBの
2人体制ということになるのですが。

まあ、どうしてより大物のフェルナンドが雑居房で、フロレスタンが独房なんだという矛盾点が出てはきますけども。

前回のはレオノーレがピツァロを撃ってしまうという問題点があるので、私としてはこっちの方に惹かれるものがなくもありません。

これで「フィデリオ」は終了です。

(完)

と強引に「フィデリオ」を終わらせたのは、実はわけがあります。

明日以降9月いっぱいぐらい、個人的な事情で、これまでのようにひんぱんには投稿できなくなるかもしれません。特に来週後半以降は更新が出来ない日が多くなるかもしれないので、その前に「フィデリオ」だけ終わらせておきたかったのです。
(昨年暮れにブログを開設してから、毎日更新してきたので、もし穴が開いたら自分としてはかなり残念なのですが。)

それからコメントをいただいた場合も、すぐにレスが出来ないかもしれません。もし失礼がありましたらお許しください。

--なんですが、とりあえず明日の分は予約投稿しておくつもりですので、よろしければ明日もぜひおいでください。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年9月 8日 (木)

老人ホームの危機管理はいったい・・・

20050908PacificJPいったいで止めたのは、いったいどうなっているのかと、いったいどうすればと二つの意味なんですが・・・

日本でも台風14号の被害、深刻ですが、それにしてもハリケーン。入ってくる話しは悲惨なものばかり。細菌感染で亡くなる人もじわじわ出てきています。最初のうちはよもやこんな事態になるとは思いもよりませんでした。

しかしニューオーリンズがハリケーン等で洪水に見舞われた場合の危険性については、前から指摘されていたのだそうです。(このためハリケーン発生後の対応のまずさとは別に、アメリカ政府の怠慢が糾弾されています。)
でもそんなことを知らなかった私は、まさかアメリカでこんなことになるとはと、ひたすら驚くばかり。

今日のネットニュースに乗っていた老人ホームの件。

「ハリケーン、老人ホーム置き去りの32人死亡――

(中略)この老人ホームは、ニューオーリンズ中心部から約30キロ南東のセントバーナード郡にあり、建物の屋根近くまで水没したとみられる。

 逃げ遅れた高齢者たちは、テーブルを窓に打ちつけたり、電動車いすでドアを破ろうとしたりして脱出を図ったが、建物を出ることができず、約60人の入所者のうち、32人が逃げ遅れて死亡したという。

 ルイジアナ州議会議員のニタ・ハッター氏はAP通信に対して、32人が死亡する前に、ホームの職員は高齢者たちをベッドに置き去りにして建物を出ていたと述べた。」

あまりに悲惨で、想像しただけで胸がつまります。

ちょっと話がずれますが、このセントバーナード郡に関しては、連邦政府はニューオーリンズは救済しようとしたが、セントバーナード郡は無視され、米軍より先にカナダ軍が到着したという話もあります。


それにしても、この老人ホームの問題はどうすればいいのでしょうか。
この問題には二つの側面があると思います。国・州(日本なら県)・市など行政がどう事前に危機に備え、指導するか。
そして施設がどんな避難訓練をし、職員がどのように指導されていたのか。

私は危機管理に関してはアメリカが先進国で、日本はかなり遅れていると思いこんでおりました。(阪神・淡路大震災の時には、ロスの大地震の時のアメリカ政府の対応の速さ・スムーズさと比べて、日本の政府はかなり批判を浴びました。)

しかしどうもこういう見方は一面的だったのでしょうか。アメリカの危機管理も、かなり穴があるのですね。(あるいは穴が出てきたというべきか。テロ対策中心になり、指揮・命令系統が変わって、ちゃんと機能しなくなったという側面もあるようですが。)

施設側・職員側の問題もどうすればいいものやら・・・
もちろん最終的には自分の命を助けるべきですから、職員に逃げるなと言っても無理なことです。問題の老人ホームは川が決壊した近くだったそうですから、あまりにも事態が急で対応できなかったのでしょうか?

ニュースで大きなドームに集まった被災者が映ってますが、とりあえず危険になる前に避難勧告がでたら学校の体育館などへというのは、日本独自のシステムなのでしょうか?

避難訓練を徹底することと、危険になる前に避難することぐらいしか考え付きませんが、いずれにせよこれを他山の石(こういう言い方はちょっと良くないかもしれませんが)として、日本でも老人施設の危機管理を徹底してもらいたいものです。

| | コメント (4) | トラックバック (2)

2005年9月 7日 (水)

トラ!トラ!トラ!~あるいは幻想のヴェネツィア

20050907VeneziaJPアメリカの大地はカントリー&ウエスタンで!というヴァランシエンヌさんのブログに合わせたのか、こんなネットニュースが。

 「渋滞時に癒やし系音楽を――。豊田通商グループは7日、情報容量の多いデジタルラジオ放送 とカーナビの位置情報を利用し、海や山などドライブ中の情景に合わせ自動選曲された音楽が聞けるサービスの開発を、エフエム東京などと始めたと発表した。 2007年のサービス開始を目指す。癒やし系音楽のほか、朝の海辺を走る時はさわやかな曲をといった具合に、状況に合った音楽を楽しめる。」

最初に感じたのは「渋滞時に癒し系って、逆にイライラしないか?」だったんですが。
実は私、昔はよくカセットテープにそれぞれ旅行する場所にあった曲をいれて、ウォークマンで聴きながら街をさまよい歩いたりしたのでした。
ああ、その選曲たるや・・・。今考えたらなんて恥ずかしいんでしょうか。

たとえばヴェネツィアではマーラーの5番のアダージェットとか(ベタ!)。
夜のケネディ空港を飛び立った時には、映画「バグダッド・カフェ」の主題歌「コーリング・ユー」とか(もっとベタ!)。

そういえば夜のサン・マルコ広場をアダージェットを聞きながら歩いていた時でした。
私は特にこれというあてもなく、サン・マルコからダニエリのほうに回って、ずっと歩いていきました。すると公園でしょうか?鉄の柵がぐるっと周りを囲んだ広場のようなものにぶつかりました。

もしかするとここは映画「ベニスに死す」のロケ地になってたかもしれないなどと思いながら、周囲をぼんやりと見渡しました。あたりは暗く、広場にも道路にも人っ子一人いません。

広場の向かいの家の2階の窓にだけ、ぼんやりと灯りがともっています。そこを見上げると、一人の金髪の青年が窓際に出てきました。
上半身は裸でジーンズをはいています。ちょっと若い頃のヘルムート・バーガーを思わせなくもありません。

彼は私の方を見ると、突然右手で「おいで、おいで」のポーズをするではありませんか。
つい後ろを振り向きましたが、誰もいません。やはり私を呼んでいるのでした。あれはいったいなんだったのでしょう?彼は男娼だったのでしょうか。

幸か不幸か金髪の美青年などというものには、興味も関心もない私は、当然その場を離れました。ただ、あまりに思いがけないことで、いささか動揺しながら・・・

ヴェネツィアという街は運河が縦横に走っている、いわば小さな島の集合体のようなもの。昼でも地図がないと歩くのはなかなか大変です。そのときは夜で、繁華街でもないとあって、私はいつしか道に迷ってしまいました。
こう行けばきっとここに出ると思ったところに出なかったのです。

誰かに聞けばいいのですが、聞きたくても歩いてる人がいません。
そのときです。コツ、コツ、コツ。石畳を歩くハイヒールのような音が聞こえました。
あ、誰かが来る。と思った瞬間、一緒に「ウ~」という唸り声も聞こえてきました。

「えっ?なに?」

角を曲がって現れたのは、マントをまとった女性。
しかし紐につないだ犬のかわりに、虎を連れていました。
言葉もだせず、呆然として見送る私の脇を過ぎていくマントの女と虎。

錯覚?幻想?それとも本物?

ふらふらと路地をまがり、橋を越え、やがて小さなBARの灯りが目に入ってきました。その時私の頭に浮かんだ言葉は、なぜか「救われた・・・」でした。

| | コメント (12) | トラックバック (0)

2005年9月 6日 (火)

N響と共演したソリストたち

20050906mgJPこの写真は我が家の朝顔なんですが、euridiceさんのお宅の朝顔は昨日突然、色がブルーからピンクに変わってしまったそうです(今日は元に戻ったそう)。理由は以下の3つのうちのどれでしょうか。

A)酸性雨のため
B)ブログで全国に紹介されたので、頬を赤らめた
C)実は朝顔じゃなくて、アジサイだった

回答(推測)はeuridiceさんの9月6日のエントリのコメント欄に。

 * * * * * * * *

さて、表題の件です。
この問題については、以前(3月8日<SONYとNHK>)にも全く同じようなことを書きましたが、しつこくまた書きたいと思います。
日曜日に表題のような番組がNHK FMで放送されました。
午後3時から6時まで、3時間枠。
放送されたのは今年前半にN響の定期公演に登場したソリストたちが演奏する協奏曲。
全部、楽章の抜粋でした。

たとえばレオニダス・カヴァコスの弾くコルンゴルトの協奏曲は、第2、第3楽章のみ。この曲の第1楽章を放送しないって、嫌がらせ?(でも誰への?)
松崎さんが演奏するシェックのホルン協奏曲も第1楽章だけ。シェックの曲なんてめったに聞けないんだから、全曲放送すればいいのに。

NHKが日曜午後の3時間枠をつかって、こんな切り貼り番組を放送するようになってからかれこれ2年ぐらいになるでしょうか。最初のうちは毎月1回、第1日曜日が切り貼り番組の日だったので、今は毎月じゃなくなっただけ、まだましになったといえるかも知れません。

あらためて抗議と疑問が一つずつあります。
抗議は作曲家と演奏者に対して失礼であること。
疑問は視聴者がはたしてこんな番組を望んでいるのかということ。

NHKがFMを音楽放送から災害時の緊急放送用のメディアに変えたいと考えているという話は、相当前から噂に出ていました。(真偽の程についてはわかりませんが。)
このためにFMの音楽ファン離れを画しているのだとすれば、それはかなり成功しているといえるでしょう。

私はmp3の音質がどうも好きになれず、めったにネット・ラジオは聞かないのですが、もうそんなことも言ってられないのかもしれません。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2005年9月 5日 (月)

ペット二題&人一題

20050905SendaiJPそういえばeuridiceさんのワグナーのエピソード(昨日のコメント欄参照)で、つい思い出してしまったペットの不思議なエピソードを書きとめておきたいと思います。

戦前の話です。岩手県の海辺の寒村にオハナばあさんという人がすんでいました。オハナばあさんは猫が好きで、昔は何匹も飼っていたそうです。
しかし歳をとって働けなくなると、身寄りのないオハナばあさんは段々生活に困窮するようになりました。当然貧しい生活の中でペットを飼うことなど出来ず、一匹、また一匹と、可愛がっていた猫を手離さざるをえなくなったのです。

それでも一番可愛がっていたタマだけは、どうしても別れることは出来ず、最後まで手元においておきました。
戦前なので生活保護のような社会保障は、ちゃんとしてなかったんだと思います。
最後の米を食べつくした時、オハナばあさんはタマに言いました。
「タマや。もうお前にやるご飯も一粒もなくなってしまったなあ・・・おらは後は死ぬばかりだからな。野良猫になってもいいから、元気で暮らせよ」
そのままオハナばあさんとタマは空腹を押さえて、じっと部屋の中に座っていましたが、夕方になると突然タマは家を出て行きました。

もうろうとした意識の中で、ばあさんはタマが出て行ったのを見て、ホッとしていました。自分の言うことが分かって、この家を離れてどこかに行ってしまったと思ったのです。猫ならネズミを取ってでも生きていけるし、どこかで元気で生きていてくれれば、自分は安心して死ねると思いました。

ところが30分ほどして、タマは戻ってきました。なんと・・・
タマは口に財布をくわえていたのです。

いったいどこの家から持ってきたのか、オハナばあさんがその財布のお金を持ち主に返したのか、それとも使っちゃったのかについては、分かっていません。


戦時中の宮城県の農家の話です。
その家は豪農で、犬や猫を何匹も飼っていました。なかでも秋田犬のポチはその家の跡取りつまり長男のAさん(事情により匿名)が、少年時代からとても可愛がっていました。犬としてはもうかなりの年齢でしたが、元気でよく吠える犬でした。

Aさんは徴兵されて中国に戦争に行き、ポチはそれ以来かなり身体が弱った様子だったようです。来客が来てもあまり吠えなくなりました。

ところが終戦になる何ヶ月か前のある日の夜、突然ポチがまるで血を吐くような声で遠吠えを始めました。家族が叱ってもなだめてもやめないのです。

そして翌朝、ポチはフッと姿を消しました。最初はすぐに戻ってくるだろうと思ったのですが、何日しても戻りません。皆で手分けして探しましたが、ようとして消息はつかめませんでした。

それからしばらくして、Aさんの戦死の通知が届きました。皆、あのポチが遠吠えをした日のことを思い出しました。ポチには遠く離れた中国で、主人のAさんが死んだことが分かったのです。

遺体が無いままに簡素な葬儀が営まれ、先祖代々の墓に卒塔婆がたてられました。戦時中とあって、跡取り息子をなくした両親といえども、おおっぴらに嘆くことなど許されない時代でした。でもAさんが亡くなってから、両親は一日も墓参りを欠かしたことはありませんでした。

遺体がみつからない多くの戦死者がいますが、Aさんの場合は終戦後に遺体か遺骨かが戻ってきたそうです。そしてあらためて供養され、お墓に納骨されました。

納骨された翌日にも、Aさんの両親はお墓参りにいきました。
するとお墓の前に何かが倒れていました。
どこでどう生きていたのか、やせ衰えたポチでした。

Aさんの両親はポチを抱きかかえて家に連れて帰りましたが、翌日息を引き取りました。
ポチのためにも立派なお墓が建てられ、手厚く葬られたそうです。


終戦後の話です。
まだ幼い2人の姉妹がいたんですが、妹の名前はリンコちゃんと言いました。ある日、台所にいたお母さんが、居間にいるお姉さんにむかって言いました。
「そこのリンゴ食べていいよ」
お母さんは、おやつにりんごを用意していたのです。

すると、いきなりリンコちゃんの激しい泣き声が聞こえました。
おねえさんがリンコちゃんの腕をかじっていたのです。
「だってお母さん、食べていいって言ったから」

アレ?おかしいな。感動的な動物のエピソードを紹介するつもりだったのに、どうしてカニバリズムめいた話で終わるんだろう?筆の勢いって怖い・・・

写真:仙台市郊外の田んぼ

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2005年9月 4日 (日)

雑犬ヒロの半生

20050904HIRO1JPヒロは仙台市太白区にある鹿野公園に捨てられていました。もう6~7歳の成犬でしたが、つながれていたわけでもないのに動こうともせず、毎日じっと公園のかたすみにいたそうです。

餌をやる人もいないので、やせ細り、保護されたときには体中ダニだらけで、耳ダレもおこしていました。

たぶん近くに住んでいた人が(あるいは遠くからわざわざ鹿野まで来て)、事情で飼い続けられずに捨てたんだと思いますが、最近こんな形で捨てられる犬が増えているようです。

それでもヒロはまだ幸せな方でした。
近所に住む人が市役所だか保健所だかに連絡して、保護されました。しばらく保護して引き取り手が見つからないと、犬は処分されます。ヒロはなぜか2箇所ほど捨て犬の施設をたらいまわしにされたようですが、最後にボランティアのグループにまわってきました。

そのボランティア・グループは捨て犬を保護して、新しい飼い主を見つける活動をしているのですが、そこでヒロは新しい主人をみつけました。


実は先日、ばったり友人と出会ったら、犬を連れてるので驚きました。
「あれ?犬、飼ってたっけ?」
「もらったの」
「え?もらった?誰に?」
ということで詳しく聞いたら、上のような話を教えてもらったのです。前から犬を飼いたがってた私の友人が、そのボランティア・グループの開いた捨て犬の里親募集の展示会(っていうんでしょうか?デモンストレーションとかディスプレイとかいうのも変だし・・・)で、ヒロを見て、飼うことにしたというわけです。

ヒロは人懐こくて、はじめてあった人でもすぐに腕や顔をペロペロなめたりするんですが、物凄く臆病なところもあって、飼い主から20メートル以上は絶対離れません。
私が出会った時も、広い場所で放し飼いにされていたのですが、すこし走っては振り返り、飼い主の友人が追いつくのを待っています。

あまり物や動物を擬人化して考えるのは好きじゃないのですが、やっぱり長年飼われた人に捨てられて、公園のかたすみで汚れて衰弱しながら、主人が戻るのを待ち続けるというような経験をすると、また捨てられるかもしれないという不安があるのかもしれません。

それにしても生まれたばかりの子犬を捨てるとかいうのなら、まだ分かるのですが、成犬では人を噛んだり、最悪の場合は凶暴化したりすることもあると思います。ヒロはたまたまおとなしい犬だったので、良かったのですが、本当にやめてほしいと思います。

ただ、私の家の近所で以前火事があって、家が全焼したことがありました。そこは貸家で借りていた人が火を出したのですが、その一家はアパートに引越し、そのためそれまで飼っていた犬を飼い続けることができなくなりました。

大型犬でしたが、結局処分されることになって保健所の人が連れて行きました。それまでの何日か焼け跡にポツンとつながれて、とても寂しそうでした。

前の飼い主がどんな事情でヒロを捨てたのかは分かりません。でも、どうにも処分するのはしのびなく、もし公園に捨てておいたら誰かが引き取ってくれるかもしれないという、一縷の望みをつないでおいていったのだとすれば、(無責任のそしりは免れえないとしても、)心情的には分かるような気もします。

前の飼い主がたまたまこのブログを見る可能性があるとはとても思えませんが、もし万一見ることがあったら、安心してください。ヒロは新しい飼い主のもとで幸せに暮らしています。

* * * * *

20050904HIRO1-1JPで、その友人からボランティア・グループのHPを聞いたので、ご紹介します。もし仙台市かその周辺で犬を飼おうと思ってる方がいらっしゃったら、参考になさってみてください。
「150匹犬猫ボランティア」
http://150dcv.fc2web.com/
です。

名前の「150匹」とはなんぞやですが、HPを読むと分かります。(宮城県の、しかも午前中にTV見れる人しかわからないと思いますが、以前KHBのナマイキTVで白沢アナウンサーがボランティアしていた、あの家のことだと思います。)

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2005年9月 3日 (土)

ドン・キホーテ~名画と名曲・28

20050903daumierjp19世紀フランスの画家、オノレ・ドーミエ(1808-1879)の「ドン・キホーテ」です。ドーミエはドン・キホーテに基づく絵を数多く残していて、これは1868年の作品。ミュンヘンのノイエ・ピナコテークにあります。

ドーミエはクールベらとともにリアリズムの画家として分類されています。しかしまるで写真で撮ったように写実的な絵を描くクールベにたいして、ご覧のようにドーミエは、そういう意味でのリアリティの持ち主ではありません。

ドーミエの画家としての人生は、まず新聞の挿絵画家として始まりました。
政治風刺新聞に当時の政情や権力者たちをカリカチュアライズした挿絵を次々と描きつづけて言ったのです。その数なんと4000点以上。

当然、政府から目を付けられます。ドーミエは6ヶ月間も投獄されたりしましたが(ルイ=フィリップを、フランスの富を貪り食うガルガンチュアにたとえた科により)、出獄後もひるまず風刺画を描き続けます。

20050903Daumier2JPそんなドーミエが風刺画から油絵の世界に踏み出したのは、なんと49歳の時。結婚が契機と言われています。
なにしろ4000点の挿絵で鍛えたデッサン力。油絵でも造形力の素晴らしさは、十分に発揮されました。
そして本格的な絵画を描くようになってからも、ドーミエが取り上げる題材はつねに庶民であり、労働者であり、町々を渡り歩く大道芸人たちであり、三等車に押し込められた市井の人々でした。

新聞がキャンバスに変わっても、権力におもねることは決してなかったのです。そんなドーミエが特に晩年に好んで取り上げたテーマの一つがドン・キホーテでした。
ペンをもって権力という巨大な風車に挑んでいった自らの姿を、ドン・キホーテになぞらえていたのかもしれません。

右上の絵は「アトリエの画家」という作品。自画像という説と、それは間違いという説と2説あって、どっちが正しいのかよくわかりません。自画像だとしたら、少なくとも体型はサンチョ・パンサに近そうです。

20050903Daumier3JPドン・キホーテとサンチョ・パンサ2人を描いたのも、もちろんあります。これはロンドン大学付属コートールド・インスティテュートにあるもの。自らをドン・キホーテと信じて生涯を突き進んだ、ドーミエの凛とした気迫が感じられるのではないでしょうか?

△▼△▼△▼

ドン・キホーテに取材した音楽といったら、これはもう枚挙に暇がありません。きっと「ファウスト」「ロミオとジュリエット」と並んで、音楽の題材になった文学作品ベスト3を形成するのではないでしょうか(聖書は別として)。

まずオペラではマスネの「ドン・キショット」があります。これは幸いに日本でも新国立劇場でライモンディ主演ファッジョーニ演出で上演されました。ということはkeyakiさんがオーソリティということで、ぜひこちらをご参照ください

イベールの曲もあります。シャリアピン主演の映画「ドン・キホーテ」のために書かれた音楽で、この映画はDVD化されています。

しかし一番有名なのはR・シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」、そしてクラシックに限らなければミュージカル「ラ・マンチャの男」でしょう。たぶん「見果てぬ夢」を聞いたことがない人はいないんじゃないかと思います。

バロックにもあります。テレマンの組曲「ドン・キホーテ」。今、私の手元にあるのはマリナー指揮アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズによるCDですが、なかなか変化にとんだ面白い曲です。

これを取り上げようかなと思ったんですが、ドーミエはフランスの画家だし、ラヴェルにしました。

ラヴェルの歌曲集「ドゥルシネア姫に思いをよせるドン・キホーテ」(全3曲)は彼の遺作となった曲ですが、それだけでなくなかなかいわく付きの作品なのです。詩はポール・モラン。

もともとこの曲は(結果的にはイベールの音楽が使われた)映画「ドン・キホーテ」のために作曲されました。
しかし使われること無く終わったわけですが、その理由は分かっていません。EMIの全集の解説によりますと、ラヴェルの遅筆が原因という説と、シャリアピンが好まなかったという説があるようです。
映画のプロダクションは付随音楽の作曲を、ラヴェルだけでなく二股・三股をかけて委嘱していたらしく、結果的にイベールの曲がつかわれました。
ラヴェルと作詞のモランはこの背信行為に強く反発し、損害賠償の訴訟を起こしたのですが、報酬はついに得られなかったようだとのことです。

ということでラヴェルはこれを映画音楽ではなく、全3部の歌曲として発表しました。
第1曲は「ロマネスクな歌」
第2曲は「叙事的な歌」
第3曲は「乾杯の歌」

それぞれスペイン舞踊のグァヒーラ、バスク民謡のソルツィコ、そしてホタのリズムを使い、スペイン色を打ち出してはいますが、それよりもむしろ沈潜した感情のようなものが強く印象づけられます。

| | コメント (12) | トラックバック (4)

2005年9月 2日 (金)

朝吹登水子さん逝去

20050902ArahamaJPまるで昨年鬼籍に入ったサガンの後を追う様に、朝吹登水子さんが亡くなられました。88歳だったそうです。
ネットニュースです。

『第2次世界大戦前のパリに留学。1950年に再びパリに渡り、オートクチュールのデザイナーの資格を取得。作家ボーボワールと親交を結び「娘時代」「女ざかり」、サガン「悲しみよこんにちは」などを翻訳して日本に紹介。』

朝吹さんのお名前、ずっとお見かけすることも無く、久々に見たと思ったら訃報とは・・・
戦前の上流階級に生まれ育った自身の生活を描いた作品など、作家としても知られていましたが、なんといっても朝吹さんといえばサガンとボーヴォワールの翻訳でしょう。
ボーヴォワール、サガン。高校生ぐらいでしょうかねえ。読みましたねえ・・・
なんだかすごい感慨・・・

ご冥福をお祈りいたします。

写真:九月、誰もいない海

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 1日 (木)

グレン・キャンベル、カントリーの殿堂入り(後)

20050901CampbellJP「恋はフェニックス」、「ガルヴェストン」、「ウィチタ・ラインマン」といったご当地ソングの連続ヒットの後、75年の「ラインストーン・カウボーイ」まで、キャンベルはビッグ・ヒットには恵まれませんでした。この時期を低迷期ととらえる人もいるようですが、それは違います。

アルバム「夜霧の別れ」「アイ・ニュー・ジーザス」「ヒューストン」そしてアン・マレーとのデュオアルバム(マレーはカナダのカントリー歌手、オペラ歌手とは別人)などはいずれも高い水準の仕上がりであり、キャンベルのヴォーカリストとしての実力をいかんなく発揮したものといえます。

この時期に特に注目されるのは2曲のゴスペル・ナンバー。
「夜霧の別れ」の中に収められた「兄弟の誓い(He ain’t heavy, he’s my brother)」と、同名のアルバムからの「アイ・ニュー・ジーザス(I knew Jesus before he was a Superstar)」です。

「兄弟の誓い」はオリジナルヒットは1967年のホリーズですが、後にスタローンが「ランボーⅢ・怒りのアフガン」に使ったことでも知られています。グレン・キャンベルはスケールの大きなバラードとして歌い上げていて、見事です。シングルカットされなかったにもかかわらず、ベスト盤に収録されることも多く、名唱と評価されているんだろうと思います。
「アイ・ニュー・ジーザス」は、ミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」の大ヒットを受けてのアンサーソング(?)みたいなもので、キャンベルは彼にしては珍しい軽やかなロック調で盛り上げています。

1975年の「ラインストーン・カウボーイ」「カントリー・ボーイ」のヒットに続いて、翌76年に出したアルバム「兄弟の掟(ブラッドライン)」はジャケット写真が、ファンを驚かせました。
あのさわやかな好青年だったはずのグレンが、顔中濃い髭に覆われていたのです。

この時期、キャンベルは不倫の愛に苦悩していたのです。相手はマック・デイヴィス夫人のサラ。2人とも、妻・夫がいるW不倫でした。同じ歌手仲間の友人から妻を奪ったとして、グレンはマスコミから相当叩かれていたようですが、77年(たぶん)に2人とも離婚が成立し、晴れて結婚することになります。

この時期の苦しい胸のうちは、77年のアルバム「哀愁の南(サザーン・ナイツ)」の中の「ゴッド・オンリー・ノウズ」「サラの歌」などで聞くことが出来ます。

そういえばバーンスタインが髭を生やしたのも、フェリシア夫人と別居した時でしたし、男の髭にはメンタル面での不安定さや、内面の苦痛を和らげる効果があるのかもしれません。

ところで不倫の苦悩と関係があるのかどうか分かりませんが、「兄弟の掟」ではグレン・キャンベルの歌は明らかにそれまでと変わっています。変わっているというより、やはり深みを増したと言うべきでしょう。このLPから目立ったシングルヒットは生まれませんでしたが(「恋のかけひき」はカントリーチャートで、1桁台までのぼりました)、私はこのアルバムこそグレン・キャンベルの最高傑作だと思っています。

中でも(LPの)B面、「レイ・ミー・ダウン」、「ボトムライン」、「シスコは寂しい街」などの、なめらかで叙情的な表現の中に、痛切な思いがにじみ出る歌唱は、ヴォーカリスト・グレンのピークと言っても良いでしょう。

あれほどの大恋愛の末に結ばれたサラとの結婚生活ですが、そう長く続かず2人は離婚。グレンはタニヤ・タッカーと3度目の結婚をします。

この時期から彼は、活動の場所をヒット・シーンからラスヴェガスのショーへと移します。そしてラスヴェガスのステージがない時期は、田舎に引っ込んで暮らすようになりました。

以降のグレン・キャンベルのCDについては、ちゃんとフォローしてませんが、カントリー色が強くなっているような気がします。

敬虔なクリスチャンで、熱心な共和党の支持者という、私の嫌いな要素を2つも持ってるグレン・キャンベルですが、歌手としてはオーティス・レディングとダイアナ・ロスを別格とすると、最も好きな人かもしれません。
殿堂入りおめでとう。

| | コメント (21) | トラックバック (2)

« 2005年8月 | トップページ | 2005年10月 »