中世の愛(後-2)<ロセッティの女たち> ~名画と名曲・35

この作品はダンテの「神曲」におけるパオロとフランチェスカをモティーフにした作品。水彩です(1855)。中央の二人がダンテとヴェルギリウスで、右がパオロとフランチェスカのさまよえる魂。左は二人が初めてのキスを交わすシーンです。
ベラスケスの項では、時間軸にしばられない絵画の自由さについて述べましたが、これは逆に時間芸術ではない絵画でストーリーを語ろうとする場合の不自由さを感じさせます。
(もっともアカデミックな教育を途中で放棄したロセッティは、空間表現が苦手でそのために背景が平板で装飾的にならざるを得なかったという部分があります。仮にやりたかったとしても、ベラスケスのような真似は、彼の能力では不可能ではあったのですが。)
1980年代にNYのメトロポリタン歌劇場で出されたザンドナイの歌劇「フランチェスカ・ダ・リミニ」の上演は、まさにロセッティの絵画の世界をそのまま舞台に現出させたようでした。といっても私は映像でしか見ていないのですが、もしかすると映像の方がアップがあるぶんだけより分かりやすいかもしれません。
このオペラは1914年に初演されたもので、ダヌンツィオの戯曲がもとになっています。オペラ用の脚色にはダヌンツィオ自身もからんでいて、ザンドナイの甘美な音楽のせいもあって、過剰なほどに耽美的な作品となっています。私は好きですけど。
ファッジョーニの演出、フリジェリオの装置、スクァルチャピーノの衣裳で新制作されたこの舞台、ロセッティの絵とキャプチャした画像との比較でみていきましょう。
(あまり写真をズラズラ並べるのもうざいので、別に開くようにしてますから、クリックしてください。)
1幕の装置がまず(広義の)ラファエル前派的です。(参照画像1)

平板であえて奥行きを拒否、しかも花をあしらった装飾的な装置。花を背景にあしらうというのはロセッティの最も好むところであり、またそれゆえに少女趣味と批判される由縁でもありました。(右は「ウェヌス・ウェルティ・コルディア」)
そんな背景に美しい金髪の乙女達が並んでいます。(参考画像はロセッティ作「愛しい人」。黒人少女はイゾラ・ジョーンズの起用にもかかわってるかもしれません。)
またこうした平板な背景に人々の立像というのは、ロセッティにもバーン=ジョーンズにもあり、いわば常套手段でした。
登場するヒロイン役のレナータ・スコット。この髪と衣裳はロセッティのもの以外のなにものでもありません。
3幕のパオロとフランチェスカのシーン。これは男女の位置と服の色が逆になっていますが、じつはロセッティが参考にしたと思われるW・ダイスの作品がこんな色になっています。参考画像は右からロセッティ、ダイス、METの舞台写真(左右逆転しています)。
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティが描き得なかった、パオロとフランチェスカの愛の世界を、フリジェリオ&スクァルチャピーノとファッジョーニのトリオは見事に再現したと言えます。
ダンテの名前をつけられ、宿命のようにヴィクトリア朝のダンテとして華々しい活躍をしたロセッティ。彼が憧れて、結局は得られなかった中世の愛の世界が、100年後のニューヨークで鮮やかによみがえったのでした。
このオペラはパオロとフランチェスカの死で終わり、死を超えて結びつく愛はドラマでは描かれていません。それを感じさせるか否かは、演奏者たちにゆだねられているのですが、ここでのスコットとドミンゴは、奇跡的な名唱といえます。何かが乗り移ったかのようなスコットの絶唱、それをがっちりと支えるドミンゴの安定感。
私たちが若い頃はザンドナイの「フランチェスカ・ダ・リミニ」というと手に入るのは、デル=モナコとマグダ・オリヴェロのハイライト盤だけで、全曲は入手不可能でした。(あるいはチェトラあたりにあったかもしれませんが。)
それだけにこの上演のライヴ録画のLDでの発売は、まさに渇を癒すものだったのでした。私はどうしてもレヴァインという指揮者が好きになれないのですが、これだけは別で多分レヴァイン以上にこの作品を演奏できる人はいないでしょう。しいてあげればシャイーがスカラ座でやればどうかというぐらいでしょうか。それでもここでのスコット、ドミンゴを超える歌手は集められないでしょうから(ヴィジュアル的にはアラーニャ夫妻あたりのほうが似合うかもしれませんが)、これはまさに永遠の命を持つ上演記録であると言えるのかもしれません。
芸術によって愛が死をも超えて永遠の命をかちえた一瞬。ロセッティの創作活動の理想そのものが、実現されたと言えるように思います。
(終り)
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コメント
お話のLD、ダンテの神曲に短い挿話があること以外、こういう経緯は全然知りませんでした。とても興味深いです。一、二度見たきりですので、いつかまた見てみたいです。
戦闘場面とか、フランチェスカの夫や、下の弟が凄まじかったですね。ドミンゴは確かに大した色男でした。スコット、好きなんですけど、もうちょっと美人だと、もっと感情移入が容易になるでしょうに、残念です・・(実際に舞台で見れば、問題ないんでしょうね、きっと・・)
投稿: edc | 2005年11月16日 (水) 00:40
オペラに関心を持って、間もない頃に見ましたので、ちょっとついていけませんでしたが、舞台、衣裳素晴しかったです。
演出,舞台衣裳はスカラ座の引っ越しみたいですね。
ジャンチョットでしたっけ、チョットじゃなくてかなり凄い夫、カップッチッリがオファーが来ても断る役の筆頭にあげてましたヨ。
投稿: keyaki | 2005年11月16日 (水) 01:54
euridiceさん
私、スコットはリサイタルやクラウスとのデュオ・コンサートなんかは聞いてるんですが、オペラの舞台は一度も見ることが出来なかったんです。それがすごく残念。
80年代のスコットは声楽的にはかなりの問題が出てきてたのですが、ヴェルディやベルカントもののような様式的じゃない作品で、しかもこういう息の長い旋律だと声の揺れがまったく気にならずに聞けますね。
この役をレパートリーにしていたカバイヴァンスカあたりに比べると、美貌という点では見劣りしますが、声的には圧倒的にいいし、これだけの情熱を込めて役になりきれる人というのは、いないでしょうねえ。
投稿: TARO | 2005年11月16日 (水) 10:13
keyakiさん
あ、これはスカラ座の舞台を持っていったものなんですか。どうりで!
いつもMETものには感心しない私が、めずらしく惹きつけられたので。
今、見直したらきっとついていけると思いますよ。ファッジョーニですしね。
>カップッチッリがオファーが来ても断る役の筆頭
カプ様はやらないでしょうねえ・・・(笑
なんの魅力も深みもないただの敵役ですもんね。
投稿: TARO | 2005年11月16日 (水) 10:24
わっ、完全なる誤解です。
>>演出,舞台衣裳はスカラ座の引っ越しみたいですね。
曖昧な書き方でした。
「まるで、あたかも、~ のようだ」というつもりだったんです。
お詫びに、
この公演は、メト100周年記念で、150万ドル(ほんとかしら!)かけた66年ぶりの新演出で、演出、舞台、衣装は、イタリア系で、望みうる最高のスタッフを揃えた・・・というLDの紹介文があります。
>今、見直したらきっとついていけると思いますよ。ファッジョーニですしね。
その通りですね。^^;
投稿: keyaki | 2005年11月16日 (水) 13:49
あ、そういうことだったんですね。すっかり誤解してしまいました。失礼しました。
ドミンゴはNYでカバイヴァンスカと演奏会形式で歌ってるようなんですが、スカラ座では演ってないはずだから、誰が歌ったんだろうと思ってたんです。
投稿: TARO | 2005年11月17日 (木) 00:29
TAROさんの記事、とっても興味深かったので、メトの映像を観てしまいました。記事にしましたので、TBします。
投稿: edc | 2005年11月17日 (木) 07:15
euridiceさん
TBありがとうございます。こちらからもTBさせていただきました。
続きのコメントはそちらに付けさせて頂きますね。
投稿: TARO | 2005年11月17日 (木) 20:09
オチがザンドナーイ(私もオリヴェロの抜粋盤で知りました)とは…、意外と同時に納得です!
1880-1914のイタリア・オペラは、「ヴェリズモ」で括られちゃって、ザンドナーイにまでその分類が適用されたりするけれど、彼を「ヴェリズモ」に入れるのは音楽のスタイルからも物語の題材からも明らかに無理がありますよね。シュトラウスの影響を受けた世紀末音楽・後期ロマン派音楽の一つと考えた方が解り易いから、ロセッティとの対照には膝を叩くものがあります。
マーラー・シュトラウスとイタリアのヴェリズモ世代は全く同時代人で、マーラーもプッチーニ、マスカーニ、フランケッティには関心を寄せ、「カヴァレリア」の伊外初演を手がけています。「ヴェリズモ」の音楽上の先祖は「カルメン」なのでしょうが、当時欧州中で威光が高かったシュトラウスにヴェリズモ世代のイタリアが無関心でいれたはずはなく、少し眼を凝らせばこの世代の伊作曲家のいたる所にシュトラウスに多かれ少なかれ触発されたであろう「世紀末的豊麗」を見出すことができると思います。モンテメッツィ「三王の恋」(原作・台本ダヌンツィオの同志ベネッリ、マスカーニ「パリジーナ」(原作・台本ダヌンツィオ)、ジョルダーノ「愚弄の饗宴La Cena delle beffe」(原作・台本ベネッリ)、フランケッティ「イオリオの娘」(原作ダヌンツィオ)、ちょっと時期は遅れるけどレスピーギ「炎」などが思いつきます。やはりダヌンツィオがこの傾向の結晶媒体みたいな役割を果たしたみたいですね。
仏でもシュトラウスの評判は高く、ドビュッシー・デュカス・ラヴェル等が同世代だけど、彼らは後期ロマン派的飽和感とは無縁なのは(一番独寄りのフローラン・シュミットでも)やはり国民性ということになるのでしょうか。仏ワグネリヤン達は、ヴァーグナーに対してはドビュッシーがその典型であるように愛憎半ばするところがあったようだし、普仏戦争敗北後の仏には嫌独感が強かった事情も(多くのヴァーグナー楽劇の仏語初演や、レイェール・ダンディ・シャブリエ・ショーソンらの仏ワグネリヤン・オペラ初演はブリュッセル)働いているのかも知れませんが。
英でシュトラウスや後期ロマン派の息が掛かっている作曲家というと、エルガー・ディリアスあたりでしょうが、やはりおとなしくて「世紀末的豊麗」ではないですねぇ。
ロセッティは、その「甘くトロンと」したところが嫌いではありませんが、特に絵に近付いてみると、小生も「マンガ的」という感想を抑えることが出来ません。その音楽上の対応物を考えて見ると、墺のシュレーカー・コルンゴルト(大好きです!そう言えばこの二人もプッチーニの賛美者でしたね)は俗物臭もふんだんにあるにしても、もう少し重厚かつ凛としたところがある気がしますし、仏のドビュッシーは(ロセッティがディスク・ジャケットに使われていそうな気もするけれど)もう少し透明感と品があり、英のディリアスは温容すぎるということになり、上に挙げた伊ヴェリズモ世代の「後期ロマン派的」諸オペラが、「甘くトロンと」していて、かつ「どこか薄っぺらくてマンガ的」で一番親和性がある気がしてきました。急いで付け加えますが、私もザンドナーイの「トロンと」した音楽は好きです。ディリアスでなくザンドナーイというのは、やはりロセッティのイタリアの血ということでしょうかね。イタリアはクワトロチェントの気品だけではなく、伊TV番組見れば瞭然のように、「マンガ性」「俗物性」も大いにある世界ですしね。ただイタリア絵画には、「世紀末的・象徴主義的」傾向は、後期セガンティーニ(彼は殆どスイスかな)を除いてほぼ皆無ですね。
話は飛び、ロセッティとも関係ありませんが、ダヌンツィオ、ベネッリ、マスカーニ(プロパガンダ・オペラ「ネローネ」)、未来派など(ザンドナーイもある程度そうかな)この世代の伊「先進的ないし反世間的芸術家」たちがファシズムに接近したのは一見奇妙なことです。まあリゾルジメントが既にリベラルな運動であると同時に、国民国家形成のためのナショナリズムと言う面を強く持っていた訳でしょうし(ヴェルディは政治的には「リベラルなナショナリスト」でしょう)、彼らの「モダンの追及」は「強力な近代国家の形成」への希求と結びつき易かったのかも知れません。クローチェでさえ初期はファシズム支持だったと言いますしね。ダヌンツィオらのデカダン趣味と未来派らの近代主義は一緒くたには出来ないでしょうが。
何だか取りとめないコメントになりすみません。ロセッティから始まって「マンガ的愚考」になってしまいました。
投稿: 助六 | 2005年11月20日 (日) 12:23
助六さん
う~む、ダヌンツィオ恐るべしですね。
「三王の恋」から「炎」(カバリエが歌ったときはバルセロナまで行きました)までの一連のポスト・ヴェリズモのイタリア・オペラ諸作品、おっしゃるように
>シュトラウスに多かれ少なかれ触発されたであろう「世紀末的豊麗」
に満ちていて、それでいてドイツ語オペラのようにしんねりむっつりじゃなくて、私はかなり好きなんです。
悪い意味じゃなくて気楽に(ヴェルディなんかと比べても、シュトラウス~シュレーカーらと比べても)聞けるというのもあって。
ロセッティの写真を見ると、禿げた髭でぶのおじさんで、三人の美女から愛されたというのがいまいち実感湧かないわけですが、黒髪で目はパッチリ系なので、もしかすると若い頃はラテン系の美男子だったのかもしれません。
3/4はイタリアの血ですから、ディーリアスらに対照されるべき英国風テイストよりも、濃い感じがぬぐえないのは、やはりそのせでしょうか。
で、本当言うとこの手の「濃くてべったり」な色遣いはあまり好きじゃなくて、映画だとヴィスコンティの色遣いなんかも実は苦手なんです(ヴィスコンティではモノクロの映画は好きですが)。
投稿: TARO | 2005年11月21日 (月) 22:26