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2005年11月

2005年11月30日 (水)

シャーロック・ホームズの素敵な挑戦

なぜかDVD化されない名画シリーズ・1

200511307solutionJP12月1日の「映画の日」にちなんで(??すごいこじつけ!)、まだDVD化されない名画を何作か取り上げてみようと思います。

まず「シャーロック・ホームズの素敵な挑戦」。LD時代には輸入盤で出ていましたが、国内盤はついぞ発売されなかったと思います。ホームズ映画ではワイルダー監督の「シャーロック・ホームズの冒険」が有名ですが、私はこちらの方が断然好きです。
才人ニコラス・メイヤーがその名を世界的にした小説「シャーロック・ホームズ氏の華麗な冒険」の映画化。なお原題は小説も映画も The Seven-per-cent Solution (7%溶液)。

コカイン中毒になったシャーロック・ホームズがウィーンに渡って、かのジークムント・フロイト博士の治療を受けるという、架空の人物と実在した人物とを巧みに組み合わせた傑作。この後、多くの作家たちによって同工異曲の作品が次々と書かれましたが、結局のところこれをしのぐものはありませんでした。ニコラス・メイヤーの第2作「ウエスト・エンドの恐怖」も、第1作目にはまるで及ばず。

そのヒット小説の映画化するにあたって、監督に起用されたのがハーバート・ロス。
「チップス先生さようなら」「ファニー・レディ」と話題のミュージカル大作を手がける幸運に恵まれたものの、どちらも間延びした演出で成功作とするにはいたらず、『しょせん振付師』という陰口もささやかれて・・・(ロスは振付師出身で、ワイラー監督の「ファニー・ガール」のミュージカル部分の演出を担当し、監督への足がかりを得た。)

そんななかでロスが第1級の映画監督へと飛躍したのが、この作品でした。この後、彼は「グッバイ・ガール」「愛と喝采の日々」「ニジンスキー」と、次々に傑作を生み出していくことになります。

もっともこの作品の成功には、素晴らしいスタッフと、凄い演技陣を集めえたというのもあります。
脚色はメイヤー自身が担当し、撮影にオズワルド・モリス(「屋根の上のバイオリン弾き」でアカデミー賞受賞)、美術にケン・アダム(「バリーリンドン」でアカデミー賞受賞)、編集にウィリアム・レイノルズ(「サウンド・オブ・ミュージック」でアカデミー賞受賞)、音楽にジョン・アディスン(「トム・ジョーンズの華麗な冒険」でアカデミー賞受賞)。
また脚色のメイヤーと衣裳担当のアラン・バレットはこの作品でアカデミー賞候補になっています。

出演はホームズにニコル・ウィリアムスン、フロイトにアラン・アーキン、謎の美女にヴァネッサ・レッドグレーヴ(「ジュリア」でアカデミー賞受賞)、こちらも謎のユダヤ人にジョエル・グレイ(「キャバレー」でアカデミー賞受賞)、モリアーティ教授にはなんと(!)ローレンス・オリヴィエ(「ハムレット」でアカデミー賞受賞)。そして最も意表をついたのはワトソン博士にロバート・デュヴァル(「テンダー・マーシー」でアカデミー賞受賞)。デュヴァルは撮影前に完璧なイギリス英語をマスターして臨んだそうです。

200511307solution2jp映画はコカイン中毒が嵩じて、熱にうなされわけのわからないことを言い出すホームズのもとに、ワトソン博士が駆けつけるところからはじまります。
ホームズは「犯罪界のナポレオン、モリアーティ教授を倒せ」などと叫んでいるのですが、実はモリアーティ教授は、ホームズの子供時代の家庭教師。難しい勉強で散々苦しめられた子供時代の思い出がおかしな妄想になって、モリアーティ教授を世紀の大悪人に仕立て上げてしまってるようです。

ホームズのコカイン中毒を心配したワトソン博士は、ウィーンになにやら画期的な論文を発表して話題になっている有名な博士がいると知り、ホームズを治療のためウィーンに連れ出します。そう、それがあの精神分析のジークムント・フロイト博士。

原作者のメイヤーの父親は、有名な心理学者なのだそうで、しかもメイヤーは少年時代にオリヴィエの映画を見て、熱心な映画ファンになったのだそうです。フロイトが登場して、オリヴィエが出演するこの映画、メイヤーにとっては夢の実現だったのかもしれません。
この後メイヤーは監督業に進出し、「タイム・アフター・タイム」やスタートレック・シリーズなどを撮ったのは、ご承知のとおりです。

オリエント急行の上でのアクションシーンあり、豪華俳優陣の共演によるゴージャス感あり、モリアーティ教授のからみやらフロイトとのからみやら随所に思わずニヤリとしてしまうシーンが満載。製作はユニヴァーサル。

で、問題は、こんな楽しい映画がなんでDVDになってないの?ということなんですねえ。

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2005年11月29日 (火)

人は顔なのか?~ニュースの落穂拾い・3

20051129Masue2JPこのところ更新を休みがちなのにもかかわらず、妙にアクセスが増えてると思ったら、なんと『横町シリーズ・2』の「姉歯横町」にやたらアクセスが。

姉歯って宮城県人にとってはなじみの苗字なんですが、全国的にはきわめて珍しいんでしょうね。

しかし日本中を揺るがしているこの問題、私たちにとってなんといっても気になるのは、これは姉歯設計事務所がからんだ建物だけの問題なのか?もしかして氷山の一角ではないのか?――ということでしょう。

武部幹事長の失言は、逆に考えると「突っついたらいくらでも出てくるよ」と云わんばかりで、空恐ろしいものがあります。
そして小泉首相は例によって我関せず。世間では何故こういう人を「指導力がある」とみなしているのだろうか?不思議だ。


さて建築業界には疎い私なので(ほとんど取材したことがない)、この問題についてコメントする資格もなさそうなのですが、ひとつだけ気になるのは登場人物の「顔」。

どう考えても全員グルとしか思いようがないのですが、姉歯一級建築士に代わって、最近もっぱら悪役を割りふられているのが「ヒューザー」の小嶋社長。

う~ん、たしかにねえ・・・
頭髪偽造疑惑はあるもののいかにも「一級」という職業にふさわしい、お上品そうなお顔立ちの姉歯一級建築士。
実直そうな地方の名士といった風情の「木村建設」社長。
普通のサラリーマンっぽさが意外な、「イーホームズ」の藤田社長。

こう並べるとすぐさま戸塚ヨットスクールの戸塚宏氏を思い起こさずにはいられない小嶋社長は相当分が悪そうです。
本人も「私はホリエモンのように可愛くもないし、オジャマモンみたいなもんですが」なんて言って逆に反感かってるし。(ん?ホリエモンって可愛いか?)

でもね皆さん、人はみかけによらないもの。
私なんか顔の作り自体は、イケメンからは程遠いんだけど、なぜかやけに誠実そうに見られるのですよね。自分で言うのもなんですが。
朴訥な感じとか言われたりするけど、それって田舎臭いってこと?
クラシックとか聞くようには(ましてオペラ)絶対見られないというのが、ちょっと不満。

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2005年11月28日 (月)

人間の言語のルーツ~ニュースの落穂拾い・2 Watch What Happens

20051128MasueJP印欧祖語という架空の言語があります。
英語やフランス語、ドイツ語、ロシア語、ギリシャ語、ペルシャ語、サンスクリット語などなど、いわゆるインド・ヨーロピアンの言語はもともとルーツを同じくすると考えられているわけですが、そのルーツに該当する言語。

これは現存する上記の言葉を使っている人々(かいつまんで言うとインド・イランと、一部を除くヨーロッパの白人)が、ユーラシア大陸中に散らばる前に使っていたとされているのですが、もちろん文字が残っているわけはありませんから、想像上あるいは理論上の言語ということになります。

私も詳しくは知らないのですが、現在残っている言語から復元していくわけですから、なかなか上手くいかないみたいで、印欧祖語なんて存在しなかったという主張もあるんだそうです。

しかしまあヨーロッパのことはヨーロッパ人にまかせて、私たちはもっと広く根源的なことを考えようではありませんか。
そう。いったい印欧祖語にとどまらず、モンゴロイドもネグロイドもコーカソイドも含めた「人類共通の声による合図」というのはなかったのでしょうか?(それを言語と呼ぶか否かは別として。)
そして言語というのは、いったいどんな風にして発生し、発達してきたのでしょうか。なにゆえに人種によって言語の違いはうまれたのでしょうか?

ということで、まずはこちらのニュースをどうぞ。
http://newsflash.nifty.com/news/tk/tk__yomiuri_20051128it14.htm?ref=rss

(ネットニュースが消えた時のために部分的にコピーしておきます。

鹿児島県の屋久島に生息する「ヤクニホンザル」と、愛知県犬山市にいる子孫のサルとでは、鳴き声に違いがあることを、京都大霊長類研究所の正高信男教授(動物行動学)らのグループが突き止めた。
 人間以外の哺乳(ほにゅう)類で鳴き声に地域差が確認されたのは初めてで、12月5日付の独学術誌「エソロジー」で報告する。
(中略) 生後6~8か月までは地域差はなかったが、9か月目から屋久島のサルが高い声で鳴き始めた。1~18歳までの各年齢ごとの鳴き声の高さは、屋久島のサルが平均780ヘルツ、大平山のサルが同670ヘルツで、屋久島のサルが110ヘルツ高いことがわかった。
 樹木が多い屋久島では、鳴き声がよく伝わるためには高い声が必要で、逆に樹木が少ない大平山では低い鳴き声でも遠くまで伝わったことから、それぞれのサルが環境に適応して鳴き方を変化させたらしい。
 正高教授は「サルの鳴き声に地域差があることや、子が親や集団から鳴き声を継承することなどから、人間の言語のルーツを示している」と話している。)

ふうむ。サルが「クー」という声で互いの存在を確認しているというのも初耳なら、人間以外の哺乳類で泣き声に地域差があることが『確認されたのが初めて』というのにもビックリ。

サルは他にもキッキッキとかキャッキャッキャとか鳴くでしょうから、「クー」というのも既に言語の類なのでしょうか?
また人間の場合、生まれたばかりの赤ちゃんでも、泣き声は千差万別ですが、サルは違うのでしょうか?だとすると、これはどうしてなのでしょう?
また記事には「人間以外の哺乳(ほにゅう)類で鳴き声に地域差が確認されたのは初めて」と書いてありますが、人間の赤ちゃんは地域によって異なる周波数で泣くというような事があるのでしょうか?おそらくないだろうと思いますが、、、あるにせよ、無いにせよ、いったいどうしてなんでしょう?

うん。次々と疑問が。

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2005年11月26日 (土)

追悼ジェイムズ・キング

20051126KingJP事情でPCがつかえず(正確にはLANがつかえず)、更新を休んでいましたが、その間に悲しいニュースが入っていました。

テノールのジェイムズ・キングが逝去されたそうです。
亡くなったのは20日で、詳しくはこちらを。

キングの歌を録音で初めて聞いたのは、多分高校生のころバーンスタインの「大地の歌」だったと思います。フィッシャー=ディースカウが上手いのは当然としても、F=Dとは対照的な情熱的な歌に魅了されました。といっても勿論イタリア・オペラの情熱ではなく、もっと暗く地の底から湧いてくるような・・・。
しばらくの間キングは私の最も好きなテノール歌手でした。

「大地の歌」の後は、ベームの「フィデリオ」とか、ショルティの「ワルキューレ」とか、クーベリックの「ローエングリン」とか、ブレーズの「パルジファル」とか、パタネーの「蝶々夫人」とか。

実際のオペラの舞台に初めて接したのは、ベームとの来日公演の「アリアドネ」バッカスと、同じ時の「エレクトラ」(クロブチャール指揮)のエギスト。
その後ハンブルク来日時の「影のない女」(ドホナーニ指揮)の皇帝。ほかにも聞いてるかもしれません。

テノールの場合、『スクエアなんだけど熱い』(?)みたいな歌い手が私の好みなんですが、キングはまさにぴったり。
バーンスタインとの「トリスタン」が計画されながら、実現せずに終わったのはかえすがえすも残念なことでした。(ウィーン国立歌劇場でヴィスコンティ演出、リゲンツァ、キング出演の新演出上演のはずだったが、バーンスタインが1年間の休暇をとるということでキャンセル。ウィーンがその代わりにエヴァーディングとカルロス・クライバーによるプロダクションを出したのは、ご存知の通りです。)

何年前でしたか、METのガラ・コンサートにちらっと姿を見せてましたが、「ずいぶん老けたなあ」と思った記憶があります。
ご冥福をお祈りいたします。
昨年から、プライとかロス=アンヘレスとかカップッチッリとか、私が特別に好きな歌手が次々と死去していきます。なんだかちょっと・・・

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2005年11月21日 (月)

ニュースの落穂拾い~中国に世界最高時速の地下鉄

20051121AutumnleavesJP表題の通りで、中国・広州に世界最高時速の地下鉄が誕生するそうです。設定最高時速は135キロ、ただし運行速度は時速120キロ。(ネットニュースはこちら

ちょっとびっくりしません?新幹線みたいに駅間が長くとってあって、それもなるべく直線に近いルートを行くように設定されたのとは違って、駅間の距離が極端に短いのが地下鉄。

たとえば仙台市地下鉄の場合、市中心部の駅間の距離はだいたい600メートルぐらい。時速120キロということは分速2キロですから、18秒で一駅間を走り抜けてしまうということなんですねえ。
各停だったら、加速する時間も減速する時間も足りなさそうです。

でまあ、理性的に考えると以上のようになるんですが・・・本当のことを言うと、私がびっくりしたのは「地下鉄って最高速度は120キロ程度だったんだ!」ということだったんです。なんだか車より速いような気がしてたんです。恥っ!
なんというスピード音痴な私・・・。

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2005年11月18日 (金)

サクサク作成くん、引退へ

20051118YoheiJP@niftyがweb上で提供しているホームページ作成ソフト「サクサク作成くん」が、来年の五月いっぱいで、終わることになりました。すでに新規の利用はこの8月で締め切ったようです。
理由はブログの普及。

ホームページをこの「サクサク作成くん」で作っていたので、少しショックかも。
しかし確かに私もブログにかまけて、本家のHPの方は放置状態。

でも、おそらく私だけじゃなくて、ブログ・メインにしてHP放置という人はかなりいそうな気がします。
いずれにせよこのHP作成ソフト提供終了のニュースから分かることは、多くのHPがブログに移行しているということ。(ここからHPのメインに据えてるのが、web上のコミュニケーションという人がとても多いという推測も成り立ちそうですが、それはともかく。)中でも掲示板/BBSに関してはかなりの部分がブログになったんじゃないかと思います。

ということでこれを機に、私もブログ・メイン、HPはあくまでもブログの補助という形に衣替えすることにしました。といっても今は、公私共に忙しいので、12月の下旬にやろうと思うんですが。ちょうど1周年になるし。

で、どんな形にするかというと、たぶんヴァランシエンヌさんのブログを参考にさせてもらうことになると思いますので、よろしく。
――ん?最後の2行は、ほとんど私信?

写真:与兵衛沼の紅葉(仙台市宮城野区)

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2005年11月17日 (木)

観慶丸

20051117IshinomakiJPこういうタイトルにするのはちょっと微妙なんですが、とりあえず「観慶丸」。「かんけいまる」と読みます。陶器屋さんです。

仙台がネタ切れになったわけじゃないんですが、ちょっと石巻まで足を伸ばしてみました。

宮城県石巻市は、もともとは「伊達政宗が城をかまえたかった町のナンバー・ワン」だったと言われるところ。
家康に、築城したい場所の候補を出した時に、1番目に挙げたら許可がおりないだろうと考え仙台を一番目に、石巻を二番目にしたところ、さすが家康。すっかりお見通しで第一候補の仙台をあっさり認めてしまったというエピソードが伝えられています。もちろん推測なんですが。

石巻市は江戸時代には、北上川をつかって運ばれてくる東北各地の米を江戸に運ぶ港として賑わいました。

で、この観慶丸、陶器屋さんなんですが、なぜ船のような名前がついているかというと--
ご想像通りもともとは、そうした米を運ぶ千石船の名前でした。しかし江戸の帰り、船の重さのバランスを取るために江戸から陶器を船に積み込んで石巻に戻ってきたのでした。
そして明治以降に陸上交通が主流になってからは、副業として行っていた陶器屋さんを本業として商売を続けることになりました。

この建物は――とりあえず旧・観慶丸商店と呼んでおきますが――昭和5年(1930年)に、当時の観慶丸のご主人だった須田幸一郎さんという人が建てたものらしいです。(で、事情で須田光夫さんという異父兄弟に譲ったみたいです。なんかよくわかりませんが。)

建物は「擬洋風建築」というらしいのですが、洋風の建物ですが木造です。そしてごらんのように表に見えるところは全部タイルで覆われています。
ちょっと写真では伝わらないかもしれませんが、実際にみるとかなりの迫力です。

当時は陶器を売るだけでなく、デパートのような店も兼ねていたようです。3階にはレストランがあって(石巻初の)カレーライスとか出してたみたい。たぶん昭和初期にみちのくの片田舎でカレーライスというのは相当な衝撃だったんじゃないかと想像しますが(違うかもしれませんけど)。

現在、観慶丸本店(つまり須田幸一郎氏の直系)は、別の場所で営業されていて、そちらには陶器の美術館も併設されています。(丸寿美術館)
で、こっちの昭和5年の旧・観慶丸商店のほうは、光夫氏の直系が経営していて、店の名前はひらがなで「かんけい丸」となっています。全くの別会社になっているということです。

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2005年11月16日 (水)

心よりも寒い朝

20051116IshinomakiJP寒い、、、寒い、、、寒いんです。
仙台はこのところ、朝の最低気温が3度とか4度とかいう日が続いているんです。
まだ11月中旬だっていうのに、3度ですよ、3度、さんど。じょるじゅ・さんど。

そう、そういえば。
昔、パリに行ったときです。きっかけ忘れましたが、何かの偶然でむこうに留学してるという女の子に出会いました。
すごっくパリ・ヴェテランな発言。街はもちろん音楽でも美術でも、なんでも私は知ってるの。知らないことあったら、聞いて。――みたいな。

顔は可愛くないこともないけれど、なんとなく鼻についてきたころ。
彼女はやってしまいました。

なぜかジョルジュ・サンドをジョルジュ・サンクと間違っているのです。ショパンの話をしてる時、そもそも話がショパンに流れる必要もなかったのですが、なぜか「愛人のジョルジュ・サンク」と連発。

あらら。しかも予想だにしない新説まで・・・。
「ジョルジュ・サンクっていうホテルあるでしょう。あのジュルジュ・サンクも、ショパンの愛人の名前からとったのね」

天然だったのかしらん。

写真:石巻市。北上川を河口から少しさかのぼったあたりにある稲井地区。

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2005年11月15日 (火)

中世の愛(後-2)<ロセッティの女たち> ~名画と名曲・35

20051115Rossetti1JP
この作品はダンテの「神曲」におけるパオロとフランチェスカをモティーフにした作品。水彩です(1855)。中央の二人がダンテとヴェルギリウスで、右がパオロとフランチェスカのさまよえる魂。左は二人が初めてのキスを交わすシーンです。

ベラスケスの項では、時間軸にしばられない絵画の自由さについて述べましたが、これは逆に時間芸術ではない絵画でストーリーを語ろうとする場合の不自由さを感じさせます。
(もっともアカデミックな教育を途中で放棄したロセッティは、空間表現が苦手でそのために背景が平板で装飾的にならざるを得なかったという部分があります。仮にやりたかったとしても、ベラスケスのような真似は、彼の能力では不可能ではあったのですが。)

1980年代にNYのメトロポリタン歌劇場で出されたザンドナイの歌劇「フランチェスカ・ダ・リミニ」の上演は、まさにロセッティの絵画の世界をそのまま舞台に現出させたようでした。といっても私は映像でしか見ていないのですが、もしかすると映像の方がアップがあるぶんだけより分かりやすいかもしれません。

このオペラは1914年に初演されたもので、ダヌンツィオの戯曲がもとになっています。オペラ用の脚色にはダヌンツィオ自身もからんでいて、ザンドナイの甘美な音楽のせいもあって、過剰なほどに耽美的な作品となっています。私は好きですけど。

ファッジョーニの演出、フリジェリオの装置、スクァルチャピーノの衣裳で新制作されたこの舞台、ロセッティの絵とキャプチャした画像との比較でみていきましょう。
(あまり写真をズラズラ並べるのもうざいので、別に開くようにしてますから、クリックしてください。)

1幕の装置がまず(広義の)ラファエル前派的です。(参照画像1)

20051115RossettiJP
平板であえて奥行きを拒否、しかも花をあしらった装飾的な装置。花を背景にあしらうというのはロセッティの最も好むところであり、またそれゆえに少女趣味と批判される由縁でもありました。(右は「ウェヌス・ウェルティ・コルディア」)

そんな背景に美しい金髪の乙女達が並んでいます。(参考画像はロセッティ作「愛しい人」。黒人少女はイゾラ・ジョーンズの起用にもかかわってるかもしれません。)

またこうした平板な背景に人々の立像というのは、ロセッティにもバーン=ジョーンズにもあり、いわば常套手段でした。

登場するヒロイン役のレナータ・スコット。この髪と衣裳はロセッティのもの以外のなにものでもありません。

スコットの2幕。

3幕のパオロとフランチェスカのシーン。これは男女の位置と服の色が逆になっていますが、じつはロセッティが参考にしたと思われるW・ダイスの作品がこんな色になっています。参考画像は右からロセッティ、ダイス、METの舞台写真(左右逆転しています)。

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティが描き得なかった、パオロとフランチェスカの愛の世界を、フリジェリオ&スクァルチャピーノとファッジョーニのトリオは見事に再現したと言えます。

ダンテの名前をつけられ、宿命のようにヴィクトリア朝のダンテとして華々しい活躍をしたロセッティ。彼が憧れて、結局は得られなかった中世の愛の世界が、100年後のニューヨークで鮮やかによみがえったのでした。

このオペラはパオロとフランチェスカの死で終わり、死を超えて結びつく愛はドラマでは描かれていません。それを感じさせるか否かは、演奏者たちにゆだねられているのですが、ここでのスコットとドミンゴは、奇跡的な名唱といえます。何かが乗り移ったかのようなスコットの絶唱、それをがっちりと支えるドミンゴの安定感。

私たちが若い頃はザンドナイの「フランチェスカ・ダ・リミニ」というと手に入るのは、デル=モナコとマグダ・オリヴェロのハイライト盤だけで、全曲は入手不可能でした。(あるいはチェトラあたりにあったかもしれませんが。)

それだけにこの上演のライヴ録画のLDでの発売は、まさに渇を癒すものだったのでした。私はどうしてもレヴァインという指揮者が好きになれないのですが、これだけは別で多分レヴァイン以上にこの作品を演奏できる人はいないでしょう。しいてあげればシャイーがスカラ座でやればどうかというぐらいでしょうか。それでもここでのスコット、ドミンゴを超える歌手は集められないでしょうから(ヴィジュアル的にはアラーニャ夫妻あたりのほうが似合うかもしれませんが)、これはまさに永遠の命を持つ上演記録であると言えるのかもしれません。

芸術によって愛が死をも超えて永遠の命をかちえた一瞬。ロセッティの創作活動の理想そのものが、実現されたと言えるように思います。
(終り)

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2005年11月14日 (月)

中世の愛(後-1)<ロセッティの女たち> ~名画と名曲・35

20051114RossettiJP
この作品は「レイディ・リリス」というタイトルなんですが、レイディといっても当時の貴族夫人とかではなく、伝説に登場する魔女です。

これまでに出てきた絵がジェインをモデルにしているのに対して、これはファニーがモデルです。
ロセッティは当然ですが、題材によってモデルを使い分けていて、「神曲」のベアトリーチェをはじめとする理想の女性役にはジェインを、娼婦や魔女の役にはファニーを選んでいたようです。
ごらんになってお分かりのように、ジェインとは随分違う感じですね。ただ波打つ美しい長い髪だけは共通していますが。

ファニーはリジーやジェインのような繊細な女性というよりは、おおらかで健康的・肉感的な女性だったそうで、ロセッティは彼女のことが大好きだったようです。でも(ファニーにとっては)残念なことに、大好きなのと愛してるのは違うんですね・・・。

それはともかくロセッティは、彼のヒロインたちをさまざまな役柄にあてはめ、それをキャンバスに固定していきました。
もしかするとロセッティが二十世紀に生きていて、ジェインに女優の才能があったら、彼は映画を監督したかもしれません。
ヒッチコックのグレイス・ケリーやワイルダーのヘップバーンのように、愛するヒロインを自在に使いこなして。

* * * * * * * * *

ロセッティが描いた作品の中で(当時の)現代を舞台にした風俗画は1作しかありません。あとは宗教的な作品などもありますが、ほとんどは過去の文学・伝説などを題材にした作品。特に登場人物にあてはめた女性の肖像画です。
中でもダンテと中世の騎士物語の二つは、最も重要なモティーフでした。

「中世志向」には当時のイギリスの「時代の趣味」という面もあったのですが、それにしてもちょっと偏執的なまでにこだわっているように思われます。

言うまでも無く19世紀人だからといって、中世という時代にたいする感じ方は一様ではないでしょう。ブルックナーの中世観とルードウィヒ二世の中世観は違うはず(はず、多分)。いったいロセッティにとっての「中世」とはなんだったのでしょうか。

「それは死に導く愛、死によって引き裂かれる恋愛、充足をあとへあとへと遠まわしにする情熱を求めることになるのである。」
「かれらは死を超えて、永遠に抱きあったまま愛し続けるのである。」

これは谷田博幸さんの「ロセッティ ラファエル前派を越えて」から勝手に抜き出したもので、(まったく前後の文脈も論旨も切り捨ててるので、もし本人に見られたら怒られると思いますが、)私にはここにロセッティの中世観も芸術観も恋愛観も集約されていると思います。特に下のほう。

中世とは死がもっとも身近にあった時代です。そして「愛」もヴィクトリア朝の偽善的で形骸化した恋愛ではなく、もっと生々しくむき出しのエネルギーをもっていた時代です。
騎士物語によって中世に親しんだロセッティにとって、中世と言う時代は、「愛が死をも超えて存在した」時代だったのでしょうか。
ワグナーのように死によって成就する愛ではなく、死をも超えて魂が結びつく愛。

ロセッティにはジェインをモデルにして描いたベアトリーチェの絵が、レプリカも含めれば10作もあります。
ということはつまり、ロセッティにとってジェインは神聖で理想的な女性ではありました。

しかし彼にとってジェインとの愛は(夫の黙認があったとはいえ)不倫であり、許されざる愛でした。もちろん彼は一応キリスト教徒なのですから、心に思っただけで、それは姦淫です。
つまりジェインはベアトリーチェであると同時に、フランチェスカ・ダ・リミニでもありました。

現実のロセッティとジェインは、トリスタンとイゾルデでもなければ、アーサー王(またはランスロット)とグィネヴィアでもなく、パオロとフランチェスカでもありませんでした。
死を超えて結びつこうにも、死んだのはリジーのほうでした。本人が自殺をはかっても未遂に終わりました。

ロセッティにはせっせと、彼のヒロインたちを中世的状況におしこんで、絵画を仕上げるよりほかなかったのです。
(続く)

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2005年11月10日 (木)

中世の愛(中)<ロセッティの女たち> ~名画と名曲・35

20051110
ロセッティが後に妻となるリジー・シダルと出会ったのは、彼が21歳、リジーが二十歳の時でした。画家志望の美しい少女だったリジーと、ロセッティはすぐに愛し合うようになり、ロセッティはまるで憑かれたように、リジーをモデルにスケッチを描きためていきました。

ところがまるでオスカー・ワイルドの小説にでも出てきそうな話ですが、ロセッティの素描が積み重なるごとに、生来病弱だったリジーは、目に見えて痩せ衰えていったのです。

経済的な事情もあって、結婚は先延ばしにされていましたが、その間もリジーの健康状態は良くならず、彼女はやがて父親の郷里に帰ってしまいます。

ロンドンに一人残されたロセッティの前に現れたのが、娼婦ファニーでした。
ファニーもまた美しい金髪をもった、セクシーな女性で、リジーが田舎に帰っている間、ロセッティと彼女は特に親しく付き合っていたと言われています。

そしてもう一人、この時期に登場し、ロセッティの生涯に大きな影響を与えることになった女性がいました。
それが美しいブルネットの髪を波打たせた17歳の少女、ジェインでした。ロセッティは劇場の客席で彼女を発見したといいます。
すでに紹介した「海の呪文」や「ラ・ピア・デ・トロメイ」など、その後ロセッティの絵画に繰り返し繰り返しモデルとして登場するジェインですが、この時ロセッティはいったん彼女をあきらめ、彼女に憧れていた同じ画家仲間のモリスにジェインを譲ることになります。
リジーの存在が影を落としていたのでした。

モリスとジェインが結婚した翌年、健康状態は回復していないにもかかわらず、ロセッティはリジーと結婚することを決意します。
しかし心はモリスの妻となったジェインにあったロセッティにとって、リジーとの結婚はいわば義務のようなものだったと伝えられています。

結婚した後も、リジーの健康状態はますます悪くなっていきます。翌年リジーは女児を死産。これが決定的となりました。リジーはやがて精神に異常をきたすようになり、誰も乗っていないゆりかごを揺らす姿が見られるようになりました。そして高ぶる神経を鎮めるために阿片チンキを常用するようになり、結婚の2年後その過剰服用によって突然の死を遂げます。

一人になったロセッティのもとに再びファニーが現れます。
ファニーはまるで主婦のようにロセッティ宅に出入りしていたと言うことですが、しかしファニーのロセッティに対する献身的な愛は、報われることはありませんでした。なぜならロセッティの心はいまもジェインに占められていたからです。

リジーが亡くなった6年後、ロセッティとジェインの仲が復活します。ジェインに愛されていないことを知った夫モリスの暗黙の了解のもと、ロセッティとジェインは同棲を始めます。

ところが今度はロセッティの神経が次第にやられていきます。
リジーに対する良心の呵責、目の病気に伴う失明の恐怖(父ガブリエーレは晩年失明した)、リジーの棺に入れた詩集を墓をあばいて取り出し出版したこと(この詩集によってロセッティは一躍文学界の寵児となる)、そしてそれらの煩悶の結果の不眠症・・・

ロセッティは1872年(44歳)自殺をはかります。これは未遂に終わりましたが、その後ジェインは身を引き、ロセッティは隠棲に近い孤独な生活を送るようになります。

1882年、ロセッティ、療養先のケント州の海辺の村で死亡。53歳でした。
親族によって、ファニーには葬儀の日程はひた隠しにされていたということです。

* * * * * * * * *

ロセッティの作品のテーマには、ダンテの「神曲」を題材にしたものと、中世の騎士物語を題材にしたものの二つが多くみられます。
愛が裏切られ幽閉されたあげくやがて塔から身を投げて死んでしまうトロメイ家のピア、死してなお離れられず魂がさまよいつづけるパオロとフランチェスカ、アーサー王の骸の前でランスロットを拒絶するグィネヴィア。

上の作品は「愛の杯」というタイトルがつけられたもので、上野の西洋美術館にあります。
最初見たときにはイゾルデかと思ったのですが、そうではなくて、中世には出陣前の騎士に、愛する女性が酒を入れた杯を渡す習慣があったのだそうで、そのシーンを描いたもののようです。

その騎士は帰ってくるのでしょうか?あるいは戦いで死んでしまうかもしれません。ここに描いてあるのは単にカップを持った女性ですが、実は彼女にとっても愛は死と背中合わせです。
(続く)

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2005年11月 8日 (火)

中世の愛(前)<ロセッティの女たち> ~名画と名曲・35

20051008Rossetti
1824年、イタリアの熱烈な愛国詩人でカルボナリ党員のガブリエーレ・ロセッティは、弾圧の始まったナポリを逃れて、イギリスに亡命した。

ガブリエーレはかの地で、やはりイタリア人の血をひく女性フランセスと結婚する。フランセスはイタリア語形ではフランチェスカなので、後にダンテ研究者としても有名になるガブリエーレには、運命的なめぐりあわせだったのかもしれない。

結婚の2年後、二人には待望の男児が誕生。子供は、父親の名前を英語読みにしたゲイブリエルに、敬愛するダンテの名前を続けてゲイブリエル(・チャールズ)・ダンテと名付けられた。(チャールズは名付け親の名前。)

父の才能とイタリア最大の詩人の名前を受け継いだ少年は、幼いころからウォルター・スコットの小説や、中世の騎士物語に親しみ、やがてヴィクトリア朝で最も有名な詩人の一人になる。
しかしそのまえにまず才能を発揮したのは、絵の分野だった。
4歳の時に木馬のドローイングを描き、出入りの牛乳配達夫が「ごらん!赤ん坊が絵を描いてるよ!」と驚いて叫んだと言うエピソードも残っている。

ゲイブリエル・ダンテは、当然のようにダンテの作品にも親しむことになり、後年自ら名前の順番を逆にして、ダンテ・ゲイブリエルと署名するようになる。そしてそれが示すようにダンテの作品は、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの重要なモティーフとなった。

  * * * * * * * * * * *

上に掲げた作品はロセッティの傑作の一つとして知られる「ラ・ピア・デ・トロメイ」。ダンテの「神曲」の中でも『パオロとフランチェスカ』とともに、最も有名なエピソードを題材とした作品です。

この『トロメイ家のピア』の話は、ドニゼッティがオペラにしていて(歌劇「ピア・デ・トロメイ」)、最近はチョフィ主演のCDもリリースされましたから、ご存知の方も多いと思います。

1) 女性の半身像
2) 奥行きが無く平板で装飾的な背景
3) 緻密に描かれた波打つような長い髪
4) アンニュイな表情でありながら、瞳にだけは異様なほどの熱っぽさ

といったロセッティの女性像の特徴を、すべて兼ね備えた作品です。

ダンテ・ゲイブリエルは父のガブリエーレがイタリア語の教授をしていたケンブリッジのセント・ジョンズ・カレッジに入学します。
画家を目指して、絵のレッスンもうけますが、当時のアカデミックな教育に我慢がならず、ミレイ、ハントなど同年代の画家の卵たちと、反アカデミーのグループを結成します。

それが有名な「ラファエル前派(ぜんぱ)」。

正式には「ラファエル前派兄弟団」(Pre-Raphaelite Brotherhood)略してP.R.B.と名乗りましたが、この「兄弟団」にはさしたる意味は無いようです。
当時の圧倒的な権威だったロイヤル・アカデミーの会長がPresident of Royal Academy 略してP.R.A. だったので、どうやらそれに対抗した微笑ましい稚気とでもいったものらしいです。

現在、ラファエル前派というと、
A) ロセッティらが結成したこのグループを指す場合と、
B) その後にロセッティを慕って集まったバーン=ジョーンズらも含めた広い範囲の人々に使われる場合とあります。

便宜的にAを「狭義のラファエル前派」、Bを「広義のラファエル前派」と言っておきますが(美術史上はそんな分類はないので、あくまでもここだけの便宜的なものです)、狭義のラファエル前派と広義のラファエル前派とではその作風は全く違っています。

狭義のラファエル前派は、当時のアカデミックな絵画を、芸術の堕落ととらえ、それはイタリア・ルネサンスの画家ラファエロ(英語ではラファエル)の「キリストの変容」から始まった。ゆえにラファエロよりも前の時代の絵画に、立ち戻るべきだという思想のもとに、創作活動を行いました。

では具体的にそれはどのようなものだったかですが、遠近法によらない平板な画面などは一目見れば分かりますが、そのテーマやテーマの表現に関してはキリスト教的なものがからんでちょっと難しいので、興味のある方は谷田博幸さんの「ロセッティ」(日経)か「ロセッティ ラファエル前派を越えて」(平凡社)あたりをお読みください。

いずれにせよロセッティは、狭義のラファエル前派の作風に必ずしもなじめず、一人新たな方向に踏み出していくことになりました。
それが上に述べたような特徴を持つ、女性像だったわけです。

ロセッティの絵は前に「セイレーン」の項目でも取り上げましたが(「海の呪文」)、これらの女性像はその雰囲気も顔も、なんとなく似ていると思われないでしょうか?

実はロセッティが描いた女性像を見ていくと、生涯を通じて三人のモデルが登場することに気づきます。
それは彼が愛し、そしてなぜか三人とも不幸な結末に至らざるを得なかった女性たちでした。
一見少女趣味にも見えかねない装飾的なその女性像には、いずれも悲劇に終わったロセッティの愛の軌跡と、おそらくは彼の「リーベストート/愛の死」の思想とが秘められているのです。
(続く)

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2005年11月 7日 (月)

続・ご挨拶

20051107YakushidouJP皆様、ご無沙汰しております。
都合でしばらくの間投稿を休んでいましたが、そろそろ再開したいと思います。

実はいま家族が入院しておりまして、先週2日がかりの大手術を行いました。多少リスクもあって心配したのですが、おかげさまで予想以上に早い回復で、喜んでいます。

というわけで、ホッと一息。なんとか更新を再開できるだけの時間と心の余裕が出来そうです。
前のように毎日とはいかないかもしれませんが、どうぞこれまでと同様ごひいきに!

p.s. 全国的に暖かい一日だったようですが、今日は立冬だったんですね。

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