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2006年5月

2006年5月31日 (水)

今村昌平監督が逝去

20060531imamura今村昌平監督が昨日(30日午後)亡くなられたそうです。

今村昌平さんは、1926年東京都生まれ。日活で川島雄三監督の助監督をつとめ、1958年「果しなき欲望」で監督デビュー。遺作となったのは、世界の11人の監督がそれぞれの911を撮ったオムニバス映画「11'09''01/セプテンバー11(イレブン)」でした。

監督作品はあわせて20本になり、「楢山節考」と「うなぎ」で、2度のカンヌ映画祭パルム・ドールに輝いています。(ちなみにカンヌのパルム・ドールを2回受賞したのは今村監督の他には、コッポラ、クストリッツァ、ビレ・アウグストとダルデンヌ兄弟のみ。)
監督作品のほかに企画・製作・脚本に携わった映画も多く、川島監督の「幕末太陽伝」、浦山桐郎監督の「キューポラのある街」などの脚本も担当しています。
日本映画学校(開校時の名称は横浜放送映画専門学院)を開校し、校長、その後理事長を務められていました。

私は今村監督の作品はそんなに数多くは見てないんですが、見たなかでなんといっても圧倒的だったのは「神々の深き欲望」でしょうか。日本人を描いた日本映画のはずなのに、私自身とは100%関係ない世界が描かれていて、それなのにある根源的なものに触れているような。

ネットニュースによりますと「長年、糖尿病などを患っており、昨年、肝臓にがんが見つかって入退院を繰り返していた」とのことです。
ご冥福をお祈りいたします。

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2006年5月30日 (火)

新宿御苑を生かしてヒートアイランド抑制~ニュースの落穂拾い Watch What Happens

20060529gyoenjp_1記事を読んでもさっぱりなんのことやら分からなかったのですが、面白そうな感じはしたので。
まずネットニュースの引用。

「環境省の検討会は29日、東京都新宿区にある国の大規模緑地新宿御苑(面積58ヘクタール)を生かし、周辺の市街地の気温を下げる方策を示した報告書をまとめた。建物の屋上や壁面を緑化したり、空き地を設けて風の通り道をつくるなどの改善案を盛り込んでいる。2005年7月末~8月末の調査で、御苑内の気温は、100メートル北側の繁華街などに比べ1~2度低かった。」

なんかこのニュースで分かるのは新宿御苑の気温が周囲に比べて1~2度低いということと、検討会が報告書をまとめたということだけ。肝心の中身がよくつかめません。

屋上の緑化はやってるところも多いですが、いったい壁面の緑化ってどうやるんでしょう?
空き地を設けて風の通り道というけど、あの地価の高い新宿でどうやって空き地を確保するんでしょう?
それでいったい御苑を生かしてって、どう生かすんでしょう。環境省のHPに行って調べてきました。

詳しく知りたい方はこちらへどうぞ

それによりますと、夜から朝方にかけて御苑の上空30メートル程度まで「冷気溜まり」というものが存在してるんだそうです。・・・冷気溜まり!

これは市街地100mぐらいのところまで流出していて、冷気の厚さは10mぐらい。
これを市街地にもっとガンガン流出させてやればいいわけです。そのためには既存の緑地をつなぐ路線に、冷気の通り道を作ってやればいいのですが、現状ではそんな通り道は全然ありません。ビル等が邪魔してるんですが、
a)全面的に再開発
b)部分的に再開発(既存道路の脇に空き地)
c)現状をそのままに何らかの手段で改善

c は要するにいまさらビルの高さを減らせとは言えないし、再開発には金もかかるのでので、ではどうするかということですね。

ビル屋上に緑地を設ける。街路樹。散水。道幅を広げる。などなどによって、風(冷気)を誘導できるんじゃないかということのようです。
つまり冷気を冷たいまま、運ぶという感じ。

a はな、な、な、なんと100年前の緑被を再現する計画だそうです。100年前???だってそんな再開発したら、いったいいくらかかるんだ?(報告書には金額は無し。)
でもこれだと御苑の北側は、最上階に瀟洒なペントハウスを備えた超高級・低層マンションとかになるみたいで、それはそれで建設業界をひきつけるかも。

でもって残念ながら一番知りたかった「壁面の緑化」について、詳しいことは書いてありませんでした。ので、他のHPを調べてみたら、壁面の緑化って、いま話題の手法なんですね。
水の確保や植生の定着といった問題はあるものの、壁面緑化パネルなんかも売り出されていて、今注目の方法みたい。もっとも蔦の絡まるチャペル(byペギー葉山)とか、大昔からの古典的壁面緑化もありますが。

でもあたり一帯のビルの壁面全部が植物で埋め尽くされていたら、それはそれで気持ち悪いような・・・

写真は東京発フリー素材写真集様から。加工いたしました。

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2006年5月29日 (月)

フリードリヒ大王のフルート・コンサート ~名画と名曲・50

20060527menzel1jpこのシリーズもハッと気がついたらもう50回。――というのは嘘で、ハッとどころか50回目には、この「フリードリヒ大王のフルート・コンサート」を取り上げようと、ずっと前から決めていました。

以前に取り上げたフランスはロココの華、ポンパドゥール侯爵夫人が、大っ嫌いだった男。それが今回の主人公のフリードリヒ大王ことプロイセン王フリードリヒ二世(1712-1786)です。
ポンパドゥール夫人が嫌ったのは、自分の魅力が通じない実直なプロイセン人だったから。それに加えて、後には当時の複雑なヨーロッパ情勢の中で(といっても古代ローマこのかた、ヨーロッパ情勢が単純になったことなどあるのか?という感じですが)、外交音痴のポンパドゥール夫人が手玉に取られることにもなりました。

しかし芸術の愛好家であったポンパドゥール夫人と同様、フリードリヒ大王もまた音楽芸術の守護者でした。自らもフルート奏者であり、作曲もしたフリードリヒ大王は、サンスーシ宮殿の広間で、高名な音楽家と共に、アンサンブルを楽しんでいたのです。

この有名な絵は、ドイツ・リアリズムの画家、アドルフ・フォン・メンツェルによっておよそ100年後に描かれたものです。フルートを演奏するフリードリヒ大王を中心にカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(以下C・Ph・E・バッハ)やクヴァンツなどの当時フリードリヒ大王に仕えていた音楽家たちが一堂に会したこの絵は、もちろん画家の想像の産物ではありますが、寸分たがわず――はおおげさにしても――このとおりのコンサートが、サンスーシ宮殿では開かれていたはずです。

DAS FLOETENKONZERT

20060527menzel3jpC・Ph・E・バッハ(1714‐89)は、鍵盤楽器を弾いているこの人(→)。
彼とフリードリヒ大王とのエピソードで有名なのは、なんといっても父親のJ・S・バッハをフリードリヒ大王に引き合わせたことで、もしもC・Ph・Eが親孝行な息子でなかったら、「音楽の捧げもの」という音楽史上の最高傑作のひとつは誕生しなかったかもしれません。

日本語では多感様式とか感情過多様式などと言われるC・Ph・E・バッハの音楽は、父バッハともハイドンとも異なる独自の魅力を持っていて、熱烈な愛好家も多いようです。

C・Ph・E・バッハがフリードリヒ大王に仕えていたのは、1740年から1767年までといいますから、結構長いですね。彼は作曲家としてだけでなく、チェンバロ、フォルテピアノの奏者としても有名で、当然鍵盤楽器のための作品は数多く、有名なプロイセン・ソナタなどはフリードリヒ大王に献呈した作品です。もちろんフルートのための室内楽もあります。
ただこの絵で弾いているのがチェンバロなのか、フォルテピアノなのかちょっと分かりません。少し調べてみたのですが、明記してあるサイトは見つけられませんでした。

20060527menzel5jp画面、右端に控えめに立っているのが、作曲家のヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ(1697-1773)です。
(←)クヴァンツはフルートの名手でフリードリヒ大王のフルートの師匠でもありました。またフルート教本を書き表したことでも有名です。
クヴァンツはアマチュアのフルート演奏家であるフリードリヒ大王のために、数多くの作品を作りましたが、テクニック的には易しく、でも作品内容は充実したものをということで、なかなか苦労したようです。

フルート教師としてフリードリヒ大王に仕えたのは1728年ですから31歳の時。
大王の即位は1740年ですから、まだ皇太子時代からということになります。
しかしフリードリヒ大王の父親のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世はやたら質実剛健の軍人タイプ。洗練された文化人だった母親の影響を受けたフリードリヒが音楽を習って、内輪のコンサートなどを開いたと聞くと、怒って彼を杖で打ちすえたと言います。

クヴァンツとは関係ありませんが、フリードリヒが牢獄のような生活に耐え切れずに父親の元を逃亡しようと図った時には、事前に計画が漏れ、逃亡の手引きをした近衛騎兵少尉の一人がフリードリヒの目の前で処刑されるという、陰惨な事件も起きています。
父親が亡くなって、晴れてフリードリヒが国王に即位した後は、クヴァンツは専属宮廷音楽家となり、その後もずっと大王に仕えています。

クヴァンツが作曲したフルート協奏曲は300曲を超え、フルートを含む室内楽曲も200曲以上というんですが、フルート協奏曲300曲って、いったいそんなに作曲できるもんでしょうか。テーマを変えて、あとは同一パターンと言う感じで処理するのなら、出来るものなんでしょうか?

20060527menzel4jpそれからヴァイオリンを持っている人が二人。よく分からないんですが、どっちかがヴァイオリニストのフランツ・ベンダ(1709‐1786)のはずです。もう一人はヨハン・ゴットリープ・グラウンでしょうか?そこまで書いてある解説が見つけられなかったので、ちょっと分かりません。

ちなみにベンダ家もバッハ家と同じく有名な音楽一家で、フランツの弟には作曲家のゲオルグ・ベンダ(1722-1795)がいます。彼も一時フリードリヒ大王の宮廷オーケストラの一員でしたので、もしかするともう一人のヴァイオリニストは弟ベンダという可能性も。

私は室内楽しか聞いたことないんですが、このゲオルグ・ベンダは本来はジングシュピールやメロドラマなどの劇音楽で有名な作曲家で、モーツァルトのオペラにも影響を与えたといわれています。
フランツはヴァイオリンの名手で、クヴァンツに認められてフリードリヒ大王の宮廷オーケストラに加わった人で、後にコンサートマスターをつとめるようになりました。

ADOLF VON MENZEL

前回取り上げたムソルグスキーの肖像を描いたレーピンが、ロシア・リアリズムの代表なら、この「フルート・コンサート」を描いたメンツェルは、ドイツ・リアリズムを代表する画家です。

アドルフ・フォン・メンツェル(1815-1905)は、現在はポーランドになっているブレスラウ(ポーランド語でヴロツラフ)に生まれました。ミレーの一つ下でクールベより4つ年上ということになりますから、まさにフランスのリアリズム全盛の時代と同時期に活躍した人ということになります。

メンツェルの一家は、ベルリンに移って石版画の工房を開き、メンツェルも稼業を手伝うことになります。しかし17歳のときに父親が死亡、メンツェルはその若さで石版画の仕事で一家を支えることになりました。

メンツェルは成人してからも子供の体格だったのだそうで、そのような劣等感を梃子に彼の旺盛な創作力が生まれたとする解釈も読んだことがありますが、それはどんなもんでしょうか。個人的にはそういうのは、あまり好きじゃない解釈なんですが・・・

版画工房時代の彼の作品の中にはクーグラーという歴史家の「フリードリヒ大王伝」という書物のための400点にのぼる挿絵もあり、これは後に「フルート・コンサート」を描くときにに大いに役に立つことになります。

「フルート・コンサート」は1852年の作品で、リアリズムの画家メンツェルのことですから、フリードリヒ大王を描く際には、先人の作品を研究し尽くしたと言われています。
そして上にも書いたように登場人物は全員、フリードリヒ大王の宮廷にいた音楽人であり、実際にこのような光景がサンスーシ宮殿で見られたであろうことは確実です。
勿論会場となっている広間は、サンスーシ宮殿にあり、現在もサンスーシに見学に行くと見れるようです。

この絵で注目すべきところはもう一つあって、それはシャンデリアです。というかシャンデリアと演奏者のそばに置かれた蝋燭による光の効果の追求。メンツェル自身この作品について「シャンデリアのために描いた」と語っているそうですが、メンツェルにはこのほかに外光が窓から入り込んでくる効果を描いた作品もあり、明らかに印象派を予告する特徴が伺えます。

もっとも1905年まで生きたメンツェルの活動時期と、印象派の時代とは重なっているわけですが、メンツェル自身はあまり印象派の作品に対して、良い印象は持ってなかったようです。

MUSIK IN SANSSOUCI

20060527menzel2jpさてこのコンサートでどんな曲が演奏されていたんでしょうか?
実はまさにこの絵をもとに企画されたんじゃないかというCD(初出はアナログ・レコードです)があります。

それがハルモニア・ムンディから出ていた「サンスーシ宮殿の音楽」。
ハンス・マーティン・リンデのフラウトトラヴェルソ(バロック時代のフルート)に、フーゴ・ルフのチェンバロ、ヨハンネス・コッホのヴィオラ・ダ・ガンバによって演奏される曲目は、まず

1 フリードリヒ大王作曲のフルートと通奏低音のためのソナタ ホ短調
2 C・Ph・E・バッハのフルートとチェンバロのためのソナタ ニ長調
3 弟の方のゲオルグ・ベンダのフルートとチェンバロのためのソナタ ト長調
4 そしてクヴァンツのフルートと通奏低音のためのソナタ イ短調

この絵だとヴァイオリン奏者は演奏してませんが、
a)フルートと通奏低音のための室内楽作品なのか
b)コンチェルトのカデンツァ部分なのか、どっちでしょう?
a だったら、まさにこのCDにおさめられた曲のいずれかであった可能性もあります。
と言っても、大王は自作かクヴァンツの曲以外は決して演奏しなかったんだそうで、C・Ph・E・バッハとベンダの曲は除かれるんですが。

せっかくエマヌエル・バッハのような大作曲家をかかえていたのにもったいないと思いますが、バロック音楽のスタイルを越えて、多感様式にむかったエマヌエル・バッハの曲を、どうやら大王はあまり好んでいなかったらしいのです。C・Ph・Eは結局フリードリヒ大王のもとを離れ、テレマンの後任としてハンブルクの教会のカントールと音楽監督に就任することになります。

リンデにはもひとつアウグスト・ヴェンツィンガー指揮バーゼル・スコラ・カントルムと共演したフルート協奏曲集(フリードリヒ大王、C・Ph・E・バッハ、クヴァンツの作品)もありましたが、いまは国内盤は出てないみたいです。上記の室内楽集も国内盤はAmazonにはないみたいで、廃盤なんでしょうか?

なおC・Ph・E・バッハ、クヴァンツ、ベンダらの作曲したフルート協奏曲は、たしかブリリアントから出ているフルート協奏曲集5枚組みには、揃って入っていたと思います。私は聞いてないんですが。

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2006年5月28日 (日)

Thriller featuring Sonoko!

20060528thrillerjpまずはスポニチの記事をどうぞ。一部省略して載せます。

『雨が降りしきる午後6時40分すぎ。レッドカーペットに横付けされたリムジンから、マイケルがゆっくりと現れた。

 「ギャーッ!」「マ ジかよ!」「歩いてるよ!」。耳をつんざくばかりの大声援とカメラのフラッシュを全身に浴び、恍惚(こうこつ)とした表情。そして、いきなりカメラに向 かってピースサイン。思わぬパフォーマンスでファンの興奮度が増していくのに合わせ、その真っ白な顔はみるみるうちに紅潮。全長36メートルのカーペット を1分以上かけて歩き、その間にファン数人の手を握った。

 授賞式ではさらに仰天のパフォーマンス。いきなり司会の久本雅美(45)にキ スをし、観客にも投げキス。偉大な功績を残した歌手に贈られる「レジェンド賞」のトロフィーを手に「一番言いたいのは日本の皆さんを心から愛しているとい うこと。ここに出る前、きょうは泣かないと自分に約束したけど、日本の人は優しく心が広くて…」と涙ぐんだ。声を詰まらせるスーパースターに客席で涙ぐむ 人も。「世界の皆さんと日本の皆さんに愛していると言いたい。私の子供にも、いつもそばにいてくれてありがとうと感謝したい。私を信頼してくれる世界の人 々を私も信頼したい」とアピール。熱い声援にイメージばん回の手応えをつかんだ様子で、その後の記者会見にも登場し「日本が好き。愛してます」と繰り返し た。

 雨の中“生マイケル”を待ち続けた40代の主婦は「体に触れました!元気で良かった。まだ実感がわかない」と興奮冷めやらぬ様子。 最前列で見た都内在住の女子高生(17)は「驚きの白さ。カッコイイ」と泣きじゃくった。滞在中は養護施設の慰問も予定。復帰に向け、日本から世界へ、クリーンイメージをアピールする。』

「驚きの白さ。カッコイイ」この女子高生の感想、素敵すぎる。

マイケルが登場したのは、昨年3月から今年2月までに日本で発表された音楽ビデオの中から、優秀な作品を表彰する「MTV VIDEO MUSIC AWARDS JAPAN」。
 午後8時前、司会者が「伝説のアーティストに与えられるレジェンド・アワードを発表します」と紹介。自身のヒット曲「スリラー」が流れる中、ジャクソンさんが舞台に姿を現す。――ということだったようです。(以上読売による)

その場でスリラーのパフォーマンスでもやってくれれば、さすが偉大なエンターテイナーということで名誉回復(?)は決定的だったと思うんですが、それは無理だったんでしょうね。惜しいかな。

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2006年5月26日 (金)

ヨン様、不眠症に

20060526yonspajpなんとあのヨン様こと韓国の俳優ペ・ヨンジュンが不眠症になって、投薬治療を受けているとか。
ご興味がおありの方は、こちらを

「精神科医から『緊張が続き、神経が休まっていない』と指摘され」たのだそうで、大変ですねえ・・・

全然大変でないのに、なぜか私も、たまに不眠症になります。ヨン様と違ってストレスとかあまりないと思うんですが、原因は分かりません。
全く眠れないということは無く、睡眠時間はだいたい3時間か4時間半ぐらいでしょうか。
1年ぐらい続いても体の不調とかは感じません。せいぜい昼間も眠いくらい。でももともとぼんやりキャラなので、周囲には(眠いのは)あまり気づかれてないようです。

前にもちょっと書いたことがあるんですが、ある年やはり不眠症が数ヶ月続いた時に、旅行番組の仕事があって、ロケハンで東北6県の温泉地を回りました。
毎日、毎日各地の温泉に入っていたら、あら不思議。不眠症治っちゃったのです。そう考えると私の場合もやはりストレスじゃなくても、何か精神的なものが関係してるのでしょうか?自分ではナポレオンの生まれ変わりじゃないかとも思ってるんですが。

ということでヨン様にもお薦めしたいのは、温泉。1ヶ月ぐらい、ゆったりとどこかの人里離れた温泉で湯治でもしてはどうでしょうか。
でも、、、、、そう。温泉ということは裸になるんですよね。日本のおばちゃんたちが大挙してカメラもってやってくることは必至。やっぱり駄目か。

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2006年5月23日 (火)

え?

20060523shitigojp日曜日の教育テレビ、新聞の番組表にはルツェルン音楽祭管弦楽団の文字。
オッとTVを、、、、あれえ??なんで、若杉さんが振ってるの?――と思ったらアバドでした。なんか凄く似てるんですけど・・・

なお明日は更新できないと思います。もしかすると明後日も。

写真:仙台市郊外の水田。夕陽。

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2006年5月22日 (月)

グッドナイト&グッドラック Ⅵ

20060522gngljpこの作品について何か感想めいたものを書こうとしたら、当然まずそのテーマや、監督であるクルーニーの志のことから書き始めるのが筋でもあり、礼儀でもあるでしょう。

それは分かっているのですが、にもかかわらずどうしても、まず素晴らしいモノクロ映像のことから書き始めずにはいられません。

映画の冒頭、サックスの演奏するヴィクター・ヤングの名曲「ウェン・アイ・フォール・イン・ラヴ」のジャージーな響きにのせて、軽く飛ばした白に、深く艶やかな黒で描かれた正装の男女たち。
このタイトルバックだけで完全に作品世界に引き込まれてしまいますが、そこにこの映画の主人公エド・マローが登場してスピーチを始めると・・・会場に集う人々と同様に、私たち映画の観客も身の引き締まる思いを味わわざるを得ません。

映画は実在のニュース・キャスターであるエド・マローとフレッド・フレンドリー(番組のディレクターでクルーニー自身が演じている)を中心に、ロバート・ダウニーJr.らのスタッフが、いかに赤狩りに疑問を投げかけ、マッカーシーの実像を暴いていくかを、ほぼTV局内に舞台を限定して描いています。

アカデミー主演男優賞にノミネートされたデイヴィッド・ストラザーンのマローが、やたらかっこよくて惚れ惚れします。(フレッド役のクルーニーも、マローとはまた別の意味でかっこいいんですが。)

もちろんクルーニーがこの作品を作ったのは、アメリカの現状に対する批判・警告であることは言うまでもありません。

一つは赤狩り時代の再来とさえ言われている、今の社会への警告です。イラク戦争が始まった時には、戦争に反対した女子高校生が村八分になったり、転校しようとしても校長が入学を許可しなかったりという事件がありました。

現在はむしろもっと酷くなっているようで、リベラル派の学者に対する圧力は相当のもののようです。
今は新しい号に変ってしまったかもしれませんが、先日まで書店に出ていた「COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 5/18号」に、現在アメリカの学者が置かれた状況がレポートされています。

そしてクルーニーのもう一つのテーマは、現在のテレビ放送あるいはジャーナリズムのあり方。
映画は1958年のマローのスピーチを、冒頭と終わりに置いたブックエンド方式になっていますが、ここには現在のテレビ界へのクルーニーの痛烈な批判があります。
政権寄りのFOX‐TVのみならずアメリカの放送メディアが、イラク攻撃の時にはイラクに核が見つかっていないこと、911のテロとイラクは関係がないことなどをすべて無視して、無批判に国民を鼓舞する側に立ったことは忘れられません。

あの時はブッシュ礼賛のいさましい報道が視聴率を取り、批判的な放送には視聴者の拒否があったため、結局ほとんどの放送が大政翼賛的にブッシュ肯定報道に傾いていきました。

といっても、この映画の時代と今とは、TVをめぐる状況はかなり違ってはいますので、即座に「なぜいま当時のマローのような報道が出来ないのか」とも言い切れません。

視聴率が弁明になるとは思いませんし、アメリカの放送ジャーナリズムは毅然とした態度を貫くべきだったとも思いますが、そこはこの映画に出てくるマッカーシー報道と、委員会の中継放送とが、いずれも60%、59%という視聴率をとったというのとの大きな違いではあります。マローの放送は数字から見る限り、的確にその時点で視聴者の求めるものをとらえていました。

最初に疑問を投げかけた番組は53年の秋だったから成立したものであり、マッカーシー批判の番組は54年だったからこそ成立したものであって、これが52年とか51年とかだったら、逆に押し切られて(その時押し切る役目を果たすのはマッカーシー本人よりも、政府や議会よりも、むしろ国民そのものである可能性が高い)マローやフレンドリーがTV界から抹殺されていた可能性もあると思われます。

そういう意味ではマローもフレンドリーも、彼らのボスであるフランク・ランジェラ扮するCBS会長も、プロフェッショナルであったと思わざるを得ません。(あのセクシー・ドラキュラが今はこんなになっちゃって・・・)

当時の視聴者がTVに求めたものと、今の視聴者の求めるものとは全く違っています。
当時はテレビの草創期でしたし、視聴者は新しいもの、新しい事実、それから真実をテレビに求めていたんじゃないかと思えます。

CNNのようなニュース・チャンネルの台頭、ネットの興隆、環境は色々変っていき、テレビ・報道のありかたも記者のあり方も変ってきていて、これからも変っていくでしょう。
そしてここが大事なんですが、でも絶対に守らなくてはならないもの、変えてはいけないものもあるわけです。クルーニーが作り出した1時間33分は、それを鮮やかに示しているように思います。

 * * * * *

テレビ界の赤狩りのことをレッド・チャンネルというのだそうですが、もちろん当時テレビ局でも左翼的傾向の人物の解雇などは行われていました。
ところが面白いことにハリウッドを赤狩りで追われた人が、NYにいってテレビ局で仕事をするなどということも起きていたようです。

1969年に製作されたキャサリン・ロス、ロバート・レッドフォード共演の「夕陽に向って走れ」という映画があるんですが、この作品の監督エイブラハム・ポロンスキーは、実はトランボ同様に赤狩りで追われた脚本家の一人でした。
トランボはほぼ亡命状態でメキシコに移り住み、偽名でハリウッドに脚本を提供していましたが(ワイラーは1953年の映画「ローマの休日」で、トランボの脚本を映画にしている。ただしトランボの名前は出せず、別人の名前になっている)、ポロンスキーはこちらも偽名でCBSテレビで番組の台本を書いていたのだそうです。

もっともポロンスキーがテレビの仕事をしていたのは一時期で、59年には人知れずハリウッドに戻り、変名での仕事を始めたようです。彼のひそかなハリウッド復帰の第1弾はロバート・ワイズ監督の「拳銃の報酬」で、ワイズにポロンスキーを紹介したのは、ハリー・ベラフォンテだったということです。(ワイズが「私は死にたくない」で組んだネルソン・ギディングの名前が挙がってますが、ギディングの仕事は一部の修正にとどまるそうです。)

このポロンスキーのエピソードは映画評論家の上島春彦さんが「エスクァイア」日本語版に連載している「ハリウッド・ブラックリストライター列伝」に詳しく載っています。大変な力作ですし、ネットでも読めますので、赤狩りとハリウッドの関係に興味おありの方は是非お読みください。


ブッシュになってから、アメリカは反動の嵐のようなものが吹いてるわけですが、その中で赤狩り再評価の風潮すら起きているようです。
アン・コールター(「リベラルたちの背信」の著者)のような超・保守派によるマッカーシー再評価は、その一例です。マッカーシーのリストの中に実際にスパイがいたからというのが、マッカーシー評価の根拠らしいですが(アン・コールターの本を買って1円でも印税を増やすようなことはやりたくないので、私は本屋で部分的な立ち読みしかしてません。従って引用は出来ないのですが)、クルーニーは「キネマ旬報」誌上でのインタビューで、まさにそのような風潮こそが、彼にこの映画を作らせたのだと話しています。

「それこそまさに僕がこの映画を作った理由なんだ。たしかにスパイはいた。2人ね。」

2000人もの人が不当なやり方で人生を奪われたことを無視して、たまたま後日の再調査でスパイが出てきたからといって、マッカーシーを再評価するというのはコールター式の思考回路みたいですが、どうも彼女に影響された意見を持つ人は、日本にも出てきたようです。ネットで色んなサイトやBBSを検索してみると、かなりヤバイものを感じるんですね。

仮に主義がどうであろうと、どんな思想を持ってるかで、議会の委員会が犯罪を犯したわけでもない人の人生を破滅させることが出来るということへの疑念も、ましてやそのやり方の不当さも、この人達の念頭にはないようです。
「ホテル・ルワンダ」の愚かな現地ラジオと同じような役割を、ネットで果たそうとしてる人々がいるようにも思えます。

この映画「グッドナイト&グッドラック」がドラマとして完成度が高いかというと、ちょっと疑問なところもあります。登場人物に悩みや葛藤がほとんどないので、ドラマというよりも、番組制作に密着したドキュメンタリーを見ているような感じもあります。

ただ日本の現状のこともあるし、映像や音楽などは実にスタイリッシュでセンスもいいので、できるだけ多くの方に見ていただきたい映画だと思います。
CBS内のスタジオでレコーディングしているという設定で、ダイアン・リーヴスがJAZZの名曲を歌うシーンが、随所に挿入されいかにも50年代といった雰囲気を高めています。
では Good Night, and Good Luck.

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2006年5月21日 (日)

グッドナイト&グッドラック Ⅴ

20060521gngljpどうもやはり日本人が、しかも50年後に理解しようとすると限界があるような気がします。それはカザンの件だけでなくて、マッカーシーについても同じです。

いったい何故にこの田舎出の新人議員が、あっという間に国務省の人事をも左右するほどの権力を手にすることが出来たのか。文献を読んでも、どうも完全には納得できないのです。

ジョセフ(ジョー)・マッカーシー(1908‐1957)はウィスコンシン州の出身(ミルウォーキーの北100マイルの町)で、アイルランド移民の3代目。(ジョーは愛称)

若い頃は鶏を飼って卵を売って歩いたものの、20歳の時に鶏に病気が発生して破産(!)。その後(!)高校に入って、13~4歳の子供たちと一緒に勉強し、なんと高校4年のカリキュラムを9ヶ月(!)で終えて卒業。
大学に入った後、ロースクールに入り、弁護士、さらに判事になります。
そして1946年には、(2度目の)上院議員選挙に打って出て初当選(38歳)。

かなり驚きのキャリアですが、問題は彼の人間性にありました。このマッカーシーという人はなんというか、性格的に色々と問題を抱えてる人だったのです。

1)まず飲酒癖。マッカーシーは失脚した後、アル中で死んでいて、結局この飲酒癖が彼にとって命取りになってしまいます。
2)それから借金癖とギャンブル癖。選挙にお金がかかるというだけでなく、若い頃から借金をするクセがあったようです。上院議員時代には小切手が不渡りになる直前にペプシコーラから2万ドルの賄賂をもらって、ペプシの有利になるような発言をしたり、住宅関連の法案を骨抜きにすることでプレハブ住宅の会社から、「原稿料」1万ドルをもらったりしているのが、わかっています。
3)それからハッタリと恫喝。これは赤狩りの時の有効な手段となりました。
それに平気で嘘をつくこと。軍歴の詐称とかもしていますが、これも聴聞の際には有効な手段となりました。

そんなマッカーシーが共産主義をテーマにすることにしたのは、1950年1月7日のことで、マッカーシーと仲間3人が2年後の再選のための目玉となる争点を探していたときのことでした。いくつかあげられたテーマはどれもマッカーシーの気に入らなかったものの、最後に提案された反共産主義というテーマに、彼は飛びつきました。--ということでこの会合が、マッカーシズムの誕生の時とされているようです。

そして前に書いた「国務省に205人の共産党員がいる」というセンセーショナルな発言へとつながっていきます。

マッカーシーという人はとにかくマスコミに出るのが好きだったようで、宣伝効果というものを十分に知っていたようです。そしてデマゴーグの何たるかも十分に知り尽くしていました。

また上に書いたように、聴聞会の席上では、恫喝や偽のデータを並べ挙げて相手を引っ掛けることなど、朝飯前でした。といってもこれはマッカーシーだけではなく、証人が嘘をつけば偽証罪、応えなければ議会侮辱罪だったのに対して、議員は議員特権に守られていたため、どんな発言をしても良かったのです。裁判ではないので証拠もいりませんでした。

(なお前に「委員会が裁判所の役目まで果たしてしまった」と、ちょっと誤解を招くような書き方をしてしまいましたが、これは裁判所で証拠をもって争うのではなく、委員会で証拠もなしに断罪して社会的に抹殺してしまったという意味です。議会侮辱罪は本会議で決定し、裁判所に送られて正式に決まるので、聴聞会で決定して、即牢屋へという意味ではありません。)

さてそれでもやはりマッカーシーが、何故にほんの短期間で権力を拡大し、大統領も顔色を伺うほどになったのかというのは、判りません。
赤狩り自体は、下院の委員会は言うまでも無く、州政府レベルでの非米活動委員会もあったので、マッカーシーの上院の委員会は新たに参入してきた小さな委員会に過ぎなかったのです。

ただ彼のターゲットのメインは政府機関だったので、大変にセンセーショナルではありました。映画監督やら俳優やら脚本家やらが共産主義者だろうと、何主義者だろうと、国家の安全にはとりたてて影響はないでしょうが、国務省に共産主義者がうじゃうじゃいるというのは、相当にショッキングなことだったでしょう。ましてやソ連のスパイがいるとなったら一大事です。

それにマッカーシーの情報源が誰だったのかというのは諸説あるようですが、FBIのフーバー長官の知り合いだったらしく、フーバーではないかという説もあります。FBIが情報の出所だとすると、これはかなり正確な情報である可能性が高く、召還した証人は――控えめに言っても左翼的な人物ですからー-パニックになるのも無理はありません。マッカーシーの委員会に呼ばれることが、魔女裁判のような恐怖を引き起こしたというのは、分かるような気がします。

またマッカーシーが応援した候補者が選挙に勝ったりということもあって、マッカーシーには逆らえないという風潮も出来上がって行ったようです。
さらに国務長官の罷免を要求してみたり、色々と派手な発言が続くのですが、大衆の圧倒的人気があったので、政府側も無視できないものがあったのかもしれません。とにかく事実としてマッカーシーは物凄い権力を、短期間で持ち、赤狩りのアイドルとなりました。

しかし別の視点から見ると、つまり赤狩りに反対する立場から見ると、スーパースターの誕生は、ある意味でチャンスでもあります。赤狩りを終わらせるためには、スーパースターを引き摺り下ろせばいいわけです。赤狩り全体に打撃を与えるためには、マッカーシー一人を狙い撃ちすればいいのです。


1953年11月、マッカーシーは彼の右腕であったスタッフの一人が徴兵されたため、陸軍に特別扱いを求めますが拒否されます。再三の要求に応じないため、マッカーシーは陸軍を赤狩りの調査の対象に加えると脅します。
しかし上院をバックに背負って、個人になら大きな恐怖を与える彼とその委員会の存在も、陸軍には通じませんでした。
またもう少し後のことになりますが共和党にも共産主義者がいると発言して、アイゼンハワー大統領の不興をかったりしています。
つまり「マッカーシー上院議員って、いくらなんでもちょっとウザくない?」という気分が、政府内部にも出てきた時期、それがどうも53年の秋ぐらいからのように思われます。

そしてようやく。ここで、赤狩りをめぐるシーンに、映画「グッドナイト&グッドラック」の主人公、我らがエド・マローが登場するのでした。
(続く)

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2006年5月20日 (土)

グッドナイト&グッドラック Ⅳ

20060520gngljp「政府から軍部、そしてハリウッドまで、根拠の有無にかかわらず、共産主義とみなした者を次々に告発。数千人が地位や職を追われ、自分を守るために友人や家族を密告する者もいた。」

これは映画「グッドナイト&グッドラック」の宣伝チラシからの引用ですが、ここにあるようにマッカーシーの上院の委員会にしても、ハリウッドを標的にしたことで有名な下院の委員会にしても、その目的は狙った相手の地位を剥奪し、職場から追い出すことにありました。

犯罪者として逮捕することが目的ではなかったのです。
というか本人がどのような思想を持っていようと犯罪ではないわけで、国家やアメリカ社会に批判的な考えを持っている人々を、社会のメイン・ストリームから追放することに、目的はありました。
そして現実に、実際に共産主義者であるとか党員であるとかとはかかわりなく、委員会から召還されただけで、それらの人々は職場から追い出されるようになっていきます。

上に引用したコピーの中にあるような政府・軍部・ハリウッドだけでなく、TV界から大学まで、それは広範囲にわたりました。

聴聞会に呼ばれて証言を拒否したり、知人を密告することを拒否したりすると、議会侮辱罪に問われて投獄され、そもそも聴聞会への呼び出し自体が、罰則付きの召喚状によっていたため、出席を拒否できなかったのです。

「転向」した映画監督エリア・カザンによってリストされた11人のうちの1人となる、劇作家のリリアン・ヘルマンは、証言拒否をしたにもかかわらず、例外的に収監されませんでしたが、これは女性だったので大目にみられたのかもしれません。

ところで、このカザンこそアメリカの赤狩りを語るときにはかならず登場する、マッカーシーとならぶもう一人の象徴的人物です。


エリア・カザン(1909-2003)はトルコ出身で幼い頃、父親に連れられギリシャ移民としてアメリカにわたってきました。トルコといってもアナトリア人なので、人種的にはアジア人ではなくインド・ヨーロピアンということになります。

アメリカに移住する前のトルコにおけるカザンの父親の半生は、自伝的映画「アメリカ・アメリカ」に詳しく描かれています。この映画を見たのは高校生のころで、もうディテイルは忘れましたが艱難辛苦という言葉が似合うような大変な思いをして、彼の父親はアメリカにたどり着いたようです。

しかしアメリカ移住後の一家はわりと裕福だったようで、エリア少年は比較的恵まれた環境で育つことが出来たようです。
有名大学を卒業し、NYでストラスバーグの下で舞台演出家兼俳優をつとめていたカザンは、この時期に一時アメリカ共産党に入党していたことがあったそうです。

ハリウッドに移ったカザンは1945年に監督としてデビュー、2年後の47年「紳士協定」でアカデミー作品賞と監督賞を受賞していますから、新進監督とはいえ業界内の評価はすこぶる高かったと言えるのでしょう。
続く「影なき殺人」ではNY批評家協会の監督賞を受賞。さらに続く「暗黒の恐怖」ではヴェネツィア映画祭の国際賞を受賞。

そして1951年には大女優ヴィヴィアン・リーをむかえて、テネシー・ウィリアムズの戯曲「欲望という名の電車」の映画化に挑みます。この作品はアカデミー賞で11部門にノミネート、作品・監督賞こそ取り逃がしたものの、演技部門では主演女優・助演男優・助演女優の3部門を占め、カザンの演出力の凄さをまざまざと世間に知らしめます。

映画作家としてあらゆる意味でピークに立とうかという1952年の1月、前の年にハリウッドの映画人に対する聴聞が再会されていた、下院の非米活動委員会からカザンは召還されます。
カザンはたしかに過去に共産党に入っていたことがありましたが、それは1930年代のことで、この時点では関係は全く切れていました。
この1月の聴聞会でカザンは当然のように、友人・知人の共産主義者の名前を挙げるように求められますが、この時は証言を拒否したようです。

しかし4月に行われた2度目の聴聞会で、彼は知人11人の名前を「密告」します。
この聴聞会にカザンは周到な準備をして望んだようで、彼が密告したメンバーのうちの一人とは、聴聞会に呼ばれたら互いに名前を挙げようと打ち合わせていたとされています。(カザンの告発によって聴聞会に呼ばれたその一人は勿論、打ち合わせ通りカザンの名前を「密告」した。)

その中にはダシール・ハメットと劇作家リリアン・ヘルマン夫妻(正式には結婚してなかったが事実上の夫婦だった)も含まれています。
しかしハメットはその前の年に証言拒否によってすでに投獄され、出所していました。ヘルマンもハメットとの関係で召還は目前で、特にカザンの『密告』は関係なかったとおもわれませす。

52年の5月に開かれた聴聞会に、ヘルマンは出席したものの、他の人物の名前をあげることは一切拒否しました。
「私には、良心をその年の流行に合わせて裁断するようなことはできません」
カッコいい台詞だなんてつい思っちゃいますが、もちろんこれは命がけの言葉でした。
このリリアン・ヘルマンの半生は後にフレッド・ジンネマン監督、ジェイン・フォンダ主演で映画化されています(「ジュリア」)。

友人・知人を告発した人は数多くいました。なかには155人もの人の名前を挙げたり、とにかく難を逃れようと全く知らない人の名前を挙げたりする人もいたといいます。
告発側に回った人は山ほどいたのに、そんななかで、11人の名前をあげたにすぎないエリア・カザンがなぜ赤狩りの象徴とまでされてしまったのでしょうか。

実はそれについて説得力のある解説を読んだことはありません。カザン自身、他の人と同じことをやったのに、なぜ自分だけこんなに叩かれるのかという気持ちも持っていたかもしれません。(彼は自伝の中で自分が移民の息子で、それゆえにワスプ中心の社会で大変に苦労してきたことを、非常に強調しています。まるで裏切りへの弁明のごとく。)

本当に何故なんでしょうか?

いったい何故にエリア・カザンだけが今に至るまで、許されず、非難され続けているのか。いくつかの解説のうち、記憶に残ったものをあげておくと、

1) カザンが名前を挙げたのは、よりにもよって自分で自分の身を守れないような弱い立場の人々が多かった。

 これは初期のハリウッド・テンの一人、ダルトン・トランボが語っていることです。カザンが名前を出した11人の中には、ハメット&ヘルマン夫妻など、すでに非米活動委員会ににらまれていた人も入っています。ですから全員が弱い立場ということでもないと思いますが、でもトランボが言うんですからきっと正しいんでしょう。

2) カザンが聴聞会の後、新聞に広告を出して、自分は共産主義者ではないと主張を繰り返し、さらに密告をまで勧めたのが、極めてえげつない行動と取られた。

「ハリウッドとマッカーシズム」の著者、陸井三郎さんは、「この広告に見られるようなかれの態度が、かつての友人・同僚たちや公衆一般にもかれ自身の強迫観念じみた“品性”を要求したところに」(カザンだけが叩かれている理由が)「あったと見るべきであろう」と語っています。

3) 54年には「波止場」でアカデミー賞8部門を独占するなど、他人に密告された人たちが職を失ったり、中には自殺する人までいた中で、カザン一人が華々しい活動を続けたこと。

確かにに共産主義者であるという事実があって追放されるのならまだしも(それだって本当はおかしなことですが)、単にリベラル・進歩派であるというレッテルだけで、ハリウッドを追われた人にとっては、人間としての品位を保った自分たちが困窮し、友人を平気で裏切った下品な人間が活躍の場を持てるというのは、怒りのやり場がないものだったことでしょう。

などなどですが・・・。どうもいまひとつ決定打に欠ける様な気がします。

1) は、なぜ今に至るまで許されないのかという説明にはなってますが、なぜカザンだけがという説明にはなってないような気がします。他にも弱い立場の人を密告した人はいるでしょうから。

2) と3)は逆に「なぜカザン『だけ』が」、という説明にはなってますが、なぜ今に至るまで許されないのかという説明にはなってないように思います。
(続く)

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2006年5月19日 (金)

グッドナイト&グッドラック Ⅲ

20060519gngljp_1マッカーシー旋風がアメリカ中を吹き荒れる1951年、下院の非米活動委員会はハリウッドの映画人に対する2回目の聴聞会を開きました(マッカーシーの委員会は上院)。

1947年の第1回の告発では皮肉にもハリウッド・テンの毅然とした姿勢だけがクローズアップされるはめになりましたが、こんどは違いました。世間には完全に反共ヒステリーの風が吹き荒れていたからです。

ハリウッドは唯々諾々として要求に従い、左翼的な思想を持つ人だけでなく進歩的な映画を作っていた人々、社会批判の映画を作ってきた人々を、次々とブラック・リストにあげていきます。
会社側だけでなく、映画人自らも協力します。率先してそれを積極的に行ったのがセシル・B・デミル。ハリウッド初期からの大プロデューサー・監督で、チャールトン・ヘストンがモーゼを演じたあの「十戒」の監督です。

これに対してウィリアム・ワイラーらによって組織された、赤狩りに反対して表現者の自由を守るためのグループは、先細りのまま時代の風に流され機能しなくなっていました。ワイラーほどの大物をもってしても抵抗しきれないほどの圧力だったと見るべきなのか、しょせん楽天的なヒューマニストだったワイラーにかなう相手ではなかったと見るべきか。

ここいらへんのワイラーについては、吉村英夫さんという方が「ローマの休日――ワイラーとヘプバーン」という本で、作品を分析することで詳しく検証しています。あくまでも作品分析から導き出しているので、著者の推測という部分も多いんですが、非常に面白いのでワイラー・ファン、ヘップバーン・ファンの方にはご一読をお薦めします。

ハリウッドの監督協会の集会では、「自発的に公の場で忠実さを告白しよう」という『忠誠の誓い』が採択されようとしましたが、この時もワイラーですら反対できない状況になっていました。というか誰も反対は出来ませんでした。反逆とみなされ、仕事を失うことになるのは分かっていたからです。

しかしこの時敢然と反対の挙手をした監督が二人いました。一人は終始一貫赤狩りに反対し続けてきたジョン・ヒューストン。これはまあ予想されなくもなかったと言えるでしょう。そしてもう一人がビリー・ワイルダー。ワイルダーはオーストリア移民で、非米活動委員会でコミュニストと断罪された外国人は国外追放が決まっていましたから、彼の立場としては、驚くべき勇気ある行動だったと言えます。

有名なエリア・カザンのエピソードは、2回目の聴聞会がスタートした翌年、52年に起きた事件です。
事件というのは相応しくないかもしれません。ただ単にアカデミー賞も受賞していた有名映画監督が聴聞会に呼び出され、十人あまりの知人の名を「密告」したというだけの話ですから。

どんどんどんどん映画「グッドナイト&グッドラック」からも、マッカーシーからも離れて行きますが、カザンの話にちょっと寄り道したいと思います。
(続く)

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2006年5月18日 (木)

グッドナイト&グッドラック Ⅱ

20060518gngljpマッカーシーが振りかざしたメモに、いったい何が書いてあったのかは実のところ判りません。というのもこの205人という人数は、やがて57人になったり81人になったりして、そのたびごとにマッカーシー本人が弁明してるからです。

しかし205人だったのかどうかとは別に、このマッカーシーの言葉はアメリカ国民の間に一種の集団ヒステリーを引き起こしたようです。
そして彼本人は反共の闘士として、国民的人気者になっていきました。

アメリカの赤狩りのやり方には、3つの特徴がありました。
(イ)まず告発する範囲を共産主義者に限らず、次第にリベラルな意見を持っている有名人や、政府に批判的な人物にまで広げたこと。
(ロ)次に誰かを告発して委員会に呼んだら、知っているコミュニストの名前を吐くことを求めたこと。つまり本物の共産党員には仲間への裏切りを。そうでない人には密告を求めたのでした。
(ハ)そして委員会で調査した後、適正な司法の裁きにゆだねるのではなく、委員会が裁判所の役目まで果たしてしまったことです。

特に最後の点は「グッドナイト&グッドラック」の批判の重要なポイントになっています。

1950年にマッカーシーが鮮やかに登場する前(本人もメディアの反響の大きさに驚いたと言われています)、すでに下院の非米活動委員会は共産主義者を各界から排除する動きを着々と進めていました。

その中には1947年、ハリウッドで活躍していた有名な監督や脚本家など11人をコミュニストとして非米活動委員会が告発した「ハリウッド・テン」の事件があります。
なぜ11人なのにテンかというと、このうちの一人ブレヒトは「私は共産主義者ではない」という言葉だけ残して、さっさと東ドイツに帰ってしまったからです。
そして残りの10人は証言を拒んで投獄され、出獄してもハリウッドからは実質的に追放されることになります。(このうちの一人、監督のエドワード・ドミトリクは獄中で転向し、ハリウッドに復帰する。)

しかしハリウッドではウィリアム・ワイラー、ジョン・ヒューストン、ハンフリー・ボガートらを中心に、リベラル派の映画人がグループを結成し、思想と信条の自由を守るための活動をはじめます。
つまりこの「ハリウッド・テン」の事件が起きた当時は、まだまだ赤狩りに対抗する気風は、ハリウッドの映画人には強くあったと考えていいんじゃないでしょうか。

ということはおそらくアメリカの社会全体に、自由を求める同様の考えが広くあったと推測できるように思います。


マッカーシーが赤狩りの闘士として登場したのは、こうした時期でした。彼の意図の中には、当時全国的には無名だった自分の名前を売ること、そしてそれによって選挙の基盤をより強固にすることというのがあったようです。もちろん後には、得た権力を維持・拡大することというのもあったことでしょう。

ですから告発対象をどんどん拡げていくのは、ある意味必然ではあります。(例えば本物のソ連のスパイだけを目標にしていたのでは、少数者を告発したらそれで役目は終わってしまう。)それにしても何故それほどまで共産党が怖かったのでしょうか?

昨日あげたように、アメリカがソ連・中国の脅威にさらされていたことは事実としても、アメリカ共産党自体はまったく力のない党でした。ここも日本の赤狩りと状況を異にする部分です。

日本では戦前非合法だった共産党は、戦後合法とされそれとともに急速に勢力を伸ばしていました。労働運動の高まりが背後にあるのは言うまでもありませんが、知識人の支持もとりつけるようになり、1949年の総選挙では35議席を獲得するほどの一大勢力になります。(そのあと下山事件、レッド・パージなどの影響で勢力を削がれるが、ここでは関係ないので省略。)

これに対して戦前・戦中のアメリカ共産党は、当初は反ファシズムの立場から国家と歩調を合わせていました。基本的に共産党の存在は容認され、支持者も多かったそうです。
特に知識人には共産党にシンパシーを感じる人が、かなりいたようです。

ところが1939年にソ連とドイツが独ソ不可侵条約を結ぶと、アメリカ共産党は反ファシズムの立場をとっとと止めてしまいます。
今考えればなんてバカなんだろうと思いますが、当然ソ連の意向の方が重要だったわけです。

これはそれまでアメリカ共産党にシンパシーを持っていた知識人たちに、大きな失望を与えることになります。
多くの知識人が共産党に落胆して離れて行き、多くの党員が離脱しました。現在も続くアメリカ人の共産党に対する不信感は、この時から始まったとも言われています。

結局終戦の時点でのアメリカ共産党員の数は、わずか2000人にまで減っていたと言われています。あの広いアメリカで2000人といったらちょっとしたカルト宗教程度ですから、国内勢力としてはまるで恐れる必要はなかったものと思われます。

しかしマッカーシーの煽動によって、集団ヒステリーは起き、それと並行してリベラルの間にはいつ告発されるかわからないという恐怖がひろがっていきます。「私は共産主義者ではない」と言っても信用されないからです。人々は逃れるためには嘘でも他人を密告しなければならないという状態に置かれたのでした。

しかもたとえば戦時中に同盟国であり、一緒に戦っていたソ連に対し、衣服を送るための集会に出席したりしただけで、もう「アカ」と決め付けられるのでした。そして容疑を晴らそうと思えば、ただ「転ぶ」だけでは駄目で、一緒に集会に出席していた人の名前を密告しなければならないわけです。

いま我々が他人事として見る限り、「赤狩り」のやり口は、あたかも人間性をとことんまで引き摺り下ろし、どんな人間でも身を守るためには下劣になりうるということを証明しようとしたかに見えます。
しかし当時マッカーシーを賞賛したアメリカの一般大衆は(無論みんなが賞賛したわけではなく、批判的な人々も多くいました)、このようなやり方をどう考えていたのでしょうか?なぜマッカーシーが、少なくともある時点まではスターで居続けたのか不思議です。

マッカーシーは政府機関に勤める人のみならず、告発の範囲を陸軍にまで広げていきました。

公務員だけで止めておけば良かったのです。
なぜなら現実に彼が告発した人々の中には、党員もいればソ連のスパイもいたからです。
無論、無実の人々が数多く含まれていたということを忘れるわけにはいきませんが、それでもやりすぎなければマッカーシーは今も英雄でいられたかもしれません。

いずれにしても魅入られたかのように、マッカーシーは次々と範囲を拡大していきます。
(続く)

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2006年5月17日 (水)

グッドナイト&グッドラック Ⅰ

20060517gngljp「ジョージ・クルーニー、誰それ?」
「あの『ER』の小児科医の」
「ああ、ロス先生」
程度の認知度から、
「ローズマリー・クルーニーの甥なんだって」
「へえーっ!」
というびっくりを経て、あっという間にハリウッドのトップスターへ。

そのジョージ・クルーニーの監督第2作。
1950年代の赤狩りの時代にTVを通じてマッカーシーと対決。宣伝文句をそのまま使わせてもらうと「『赤狩り』と呼ばれた時代に終止符をうった伝説的なニュースキャスター」CBSのエド・マローの話。

前にもちょっと書きましたが、私は今はアメリカ映画を観ないことにしているのですが、スピルバーグの「ミュンヘン」と、この「グッドナイト&グッドラック」だけはどうしても見たいと思っていました。でも「ミュンヘン」はハッと気がついたら、上映が終わっていて大失敗。
この作品と、先週ポイントがたまってタダで見れるようになったので、見に行った「ブロークバック・マウンテン」が、私にとっては数年ぶりで見たアメリカ映画になりました。

「ブロークバック・マウンテン」は、根本から映画の見方の革新をせまるような作品で、今年のアカデミー作品賞をとり逃しましたが、そんなことは問題にすらならない、もしかすると数年に一度出るか出ないかというような映画かもしれません。(「市民ケーン」も作品賞はとってないし、「2001年宇宙の旅」にいたってはノミネートすらされてない。)
でもちょっとよく理解できない部分もあるし、日本語字幕に疑問があるところもあって、いずれ英語字幕と日本語字幕両方が見れる国内盤のDVDが発売されたら、見直して感想を(書ければ)書いてみたいなと思っています。

いずれにしても学校を卒業してから、ずっと民放業界で仕事をしている私にとっては、作品の完成度はともかく問題の切実さという点では、もちろん「グッドナイト&グッドラック」。

クルーニーは自宅を抵当にいれて制作費を捻出したんだそうで、その情熱が確かに画面から伝わってくるような映画です。

ただこの作品は「赤狩り」という過去の歴史的事実についてよく知っていて、マッカーシーの映像等もおそらくはTVで幾度となく見ているであろうアメリカ人を対象にしています。

ですからポンポン、ポンポンと主人公マローの場面が出て、ニュース映像をつかったマッカーシーの場面が流されてという展開でも、アメリカ人観客は十分に事態の推移を掴め、怖さを実感できるのかもしれません。
加えてほとんどカメラはTV局内から出ず、登場人物たちを取り巻く状況の変化についても最低限の台詞だけで、それ以上の説明じみた描写は無く、登場人物たちに迫る恐怖はただひたすら出演者の表情から推し量るしかありません。

ですから予備知識があっても分かりづらいところがあるのですが、予備知識がなかったら多分、ぜんぜん判らないんじゃないかと思います。

ということで若くてかつアメリカ現代史に関心のない方のための予備知識です。

「赤狩り」というのは一口に言うと、1940年代の終わりから始まった共産主義者の追放なんですが、背景には冷戦の激化や、中国での共産党の国民党に対する勝利、朝鮮戦争などがあります。
日本でも同じ時代に、赤狩り<レッド・パージ>というのはありました。しかし日本とアメリカではかなり違う様相を見せていて、その決定的な違いはマッカーシー上院議員の存在です。

日本での赤狩り<レッド・パージ>は、共産党の非合法化を目論んだマッカーサー元帥のもと、GHQの指令によっておこなわれました。日本共産党員やそのシンパ(同調者)が公職を追放され、さらにその動きはマスコミなどにも広がり、その数は1万人以上と言われています。

一方アメリカの赤狩りで活躍したのは、下院の非米活動委員会と上院のマッカーシー議員率いる委員会でした。
日本の赤狩りが「レッド・パージ」と呼ばれるのに対して、アメリカの赤狩りは「マッカーシズム」と呼ばれます。

1950年2月、マッカーシー上院議員は共和党の集まりの後、メモを振りかざして「国務省内に205人の共産主義者がいる」と告発します。アメリカの多くのインテリゲンツィア、なかでもハリウッドの映画人の間に、今も深い傷跡となって残っているマッカーシズム<赤狩り>の主人公がその時誕生したのでした。
(続く)

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2006年5月16日 (火)

万寿寺の清水

20060516manjuji4jpマンジュジです。ジュマンジじゃありません。正しくは難しい方の漢字を使って「萬壽寺」。

仙台市青葉区と宮城野区のちょうど境目ぐらい。東照宮の近く、小松島小学校裏手の小高い丘の中腹にあります。

本堂とか山門(写真)とかいずれも新しい建物で、これまでご紹介してきた仙台市の他のお寺のような由緒ある建築物ではありません。しかしもともとこのお寺の前身は四代綱村公が建立したもので、綱村公夫人の千姫の菩提寺でもあるという、仙台でも大変に格式の高いお寺の一つでした。

綱村公は歌舞伎の「伽羅先代萩」に登場する幼君のモデルですが、長じてからは非常に信仰心の篤い人になったらしく、お城の青葉山の南側に当たる茂ケ崎(もがさき)に大年寺を、仙台の街をはさんでそれと対置する北側の丘陵に万寿寺を建立しました。いずれも広壮な伽藍をもつ大規模な寺院だったようです。

両寺とも大変に壮麗なもの(大年寺は七堂の伽藍があった)だったようで、今の姿を知るとちょっとイメージがわかないのですが、きっとミニ比叡山みたいな感じじゃなかったかと想像しています。

戊辰戦争の時に、城下町を守るために兵が集結したのも、この大年寺と万寿寺でした。そして戊辰戦争の後は、両寺とも荒廃し、大年寺は焼失。万寿寺も建物一つを残すだけとなり事実上廃寺に等しくなります。

20060516manjuji3jp大年寺はいまも惣門を残すだけですが、万寿寺の方は大正七年、廃寺を惜しむ声に応えて、唯一残った建物の三昧院を万寿寺と名称変更し、再興されました。

現在の本堂(右の写真)は平成になってから建てられたもの。唐風の三層の山門も、平成に建立されたもので、そうそうたしか昔は相当にシャビーな門でした。

と、激動の歴史をくぐり抜けてきた万寿寺なんですが、たった一つずっと変らないものがあります。

20060516manjuji1jpそれがこの清水。「野田の清水」という名前が付けられているんですが、水質が非常に透明で、しかもいかなる旱魃の時にも枯渇したことがないんだそうです。

昔はこのあたりに伊達家御用達の金箔屋があって、この水を使っていたそうです。また伊達家のお茶の水としても使われていたんだとか。お寺の説明書きによれば井戸からコンコンと湧き出てるとのことです。

松尾芭蕉が奥の細道の道中に立ち寄った「玉田」というのが、この万寿寺の清水のことじゃないかとも言われています。もっとも現在はこんなふうに庭園の池のようにしつらえてありますが、江戸時代にどうなっていたのかはわかりません。

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2006年5月15日 (月)

写真について

20060515ohkajijp前に写真についてメールで問い合わせがあり、記事の方にも書こうと思ってたんですが、すっかり忘れてました。

このブログに掲載されている写真のうち、私自身が撮影したものについては、個人サイトに使われる限り原則フリー(下記の条件を除く)です。著作権は放棄しませんが、こんな写真でよければ勝手にお使いください。
加工も自由、通知も不要です。

ただ管理人本人の撮影ではないものもあります。今のところ、
(a)プロのカメラマンが撮影したもの。
(b)フリー素材のサイトからお借りしたもの。
の2種類です。
aの方は著作権は私にはありませんし、このブログに掲載するということで許可を得たものですので、複製・転載は固くお断りいたします。なおその旨、当該記事中に明記しています。
bの方ですが、必ず記事中にフリー素材のサイト名を明記、もしくはリンクしてますので、そちらの方からダウンロードしてください。なおその際はそれぞれのサイトで設定している使用条件を守ってくださるよう、私からもお願いいたします。

また個人の顔が特定されるような写真についても、使用はお断りいたします。
特に芸能人の場合はブログ掲載という条件で、撮影の許諾を得ていますので、複製・転載は固くお断りいたします。
風景写真などで、偶然誰かの顔が写ってしまったというものは、後でトラブルになると困るので、使用をご遠慮ください。今の所問題になるようなものはないと思いますが、これから出てこないとも限らないので。

また下記のようなサイトに関しては使用をお断りいたします。
1) 犯罪を奨励するようなサイト
2) 詐欺的商法のサイト
3) 差別を助長する内容のサイト
4) 宗教サイト

私自身の立場は、必ずしも宗教を否定するものではありません(私自身は無宗教ですが)。しかし中には狂信的カルト集団との線引きが難しい(自称)宗教もありますし、その線引きは私の知識や判断力では無理だと思うので、宗教がらみは全部お断りということにしておきます。
といっても、宗教家・宗教団体はみんなお金持ちだから、HPに写真を掲載したかったら専門のカメラマンに依頼するでしょうし、まあフリー素材を探すとは思えません。ましてやどう考えても、狂信的カルト信者が私のブログを訪れるなんてありそうもなく、いらぬ心配とは思いますが。

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2006年5月14日 (日)

ああ勘違い、、、、、&沖縄が梅雨入り ~ニュースの落穂拾い・4 Watch What Happens

20060514nanakitagawajp「マダイ」投資、配当金滞る…キュート社を刑事告訴へ(読売新聞)
私は投資にも鯛の養殖にも関心はないんですが、ご興味おありの方はこちらをどうぞ
、、、
なんか最初にこの見出しが目に入ったときに「『マタイ』投資、配当金滞る」と読んじゃったんですね。
マタイ受難曲に投資ってなにそれ?それとも福音書そのもの?そういえばユダの福音書とか話題になってるし・・・と思ってクリックしてみたのでした。

アナン事務総長が訪韓(共同通信)
ご興味おありの方はこちらをどうぞ
、、、、
アンナ事務総長って誰?梅宮?――と一瞬思ってしまった私は・・・

ボンズ、本塁打なし=斎藤は1回無失点-米大リーグ(時事通信)
、、、、、、
さすがにボンズをポン酢とは読みませんでしたよ。

* * * * * * * * *

沖縄が梅雨入りしたそうです。気象台によれば去年より12日、平年より6日遅いとか。

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2006年5月13日 (土)

「偽りの名画」 アーロン・エルキンズ

20060513elkinsjpモン・サン=ミシェルの写真を表紙につかった「古い骨」で、さっそうと日本の読者の前に登場したアーロン・エルキンズ。今やすっかりミステリ界の巨匠になってしまいましたが、そのエルキンズのギデオン・オリヴァー教授とは別のもう一つのシリーズの主人公は、なんと美術館の学芸員。

ありか?そんなのは。と思いますが、結構面白いんですね、これが。
主人公のクリスはサンフランシスコ郡美術館の学芸員で、17世紀の美術が専門。。突然ベルリン出張を命じられます。ベルリンで開かれる展覧会のために、なぜかいきなり呼び出しがかかったのですが・・・

その展覧会というのが「ナチ略奪名画展」。イタリアの富豪のもとからナチスによって奪い取られ、戦後困難な捜索の末に発見され戻ってきた作品を集めたものです。
ところがクリスをベルリンに呼び出した上司は、「出品作品の中に贋作がある」と言い残したまま、殺されてしまいます。

誰が殺したのか、何故?贋作はあるのか?あるとすれば、それはいったいどの作品なのか?
クリスにもせまる魔の手。そしてロマンス。

ということでナチに略奪された作品というのも、贋作ものというのも、それ単独でなら、すでにどこかで読んだような題材ですが、いろいろと美術史の細かい知識が繰り出されるし、組み合わせてうまく作ってあるのはさすがエルキンズと言ってもいいんじゃないでしょうか。

それにベルリンだけでなく、フランクフルトやフィレンツェ、ヒトラーの別荘があったバイエルンのオーバー・ザルツベルクなど、ヨーロッパ各地を舞台にしています。

ちなみに「サウンド・オブ・ミュージック」が地元の人たちから非難されている理由の一つに、ロケ場所の地理的関係がめちゃくちゃだというのがあるんですが、彼らがラストシーンでスイスに向かって山を越えている場面が、実際にはオーバー・ザルツベルクに向かって(つまりヒトラーの鷲の巣山荘に向かって)進んでいたというのが、槍玉にあがっています。あのラストシーンを思い出していただければ、この小説の舞台の一つが、多少イメージできるかもです。

ま、「古い骨」が登場した時の新鮮さがないのは、しょうがないですが、美術好きには楽しめる作品です。
この「偽りの名画」、アメリカでの発表は日本で最初に紹介された「古い骨」よりも前で――というか「古い骨」自体もオリヴァー教授シリーズの3作目だったわけですが――アメリカでは1987年、日本では91年に出版されています。

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2006年5月12日 (金)

朝マック ~ニュースの落穂拾い・3 Watch What Happens

20060512fukumurojp勿論マックはマックでもハンバーガーの方です。
日本マクドナルドの1~3月期の純利益は前年同期比の99%減だったんだとか。前年同期比99%じゃないですよ。99%減です。
詳しくはこちらを。

減損処理というのは、固定資産について地価が下落したり、収益性が低下したりして投資額の回収が見込めなくなった時などに行う帳簿上の処理です。つまり前年同期比99%減といっても、即、売り上げの落ち込みということではありません。

とはいえ経常利益も30%減、マックの苦戦が続いてるようです。
明日から値上げするみたいですが、大丈夫なんでしょうか。マックは前にも値上げして客が離れたという前科があるわけですし。

ということで2ちゃんねるのニュース速報板にいってみたら、朝マックを一日中やってたほうが売り上げが上がるんじゃないかと言ってる人がいました。なるほど。(朝マックのことを関西の人は朝マクドって言うんでしょうか?)
もしかしてそれはいいかも。朝に時間のない時なんか朝マックは食べるけど、昼間にマックに入ることはまずないですもんね。

理由は朝マックの方が一般メニューよりはましなのと、もひとつ、マックに入るんだったら、モスに行っちゃうからなんですが。
で、誰しもがマックよりモスの方が美味いと思うだろうと、勝手に考えていたんですが、そして大人からは同様の反応が帰ってくるんですが、子供たちはちょっと違います。

モスよりもマックが好きという子が、圧倒的に多いんですね。まあ私の周囲限定調べですが。なぜそんなことを調べたかというと、前にマックの店内で小学校低学年ぐらいの子供たちが「モスは不味い。マック好き」とか言ってたのを聞いて、ショックを受けて周りの子供たちに聞いてみたんですけども。

そもそもマックがおこちゃま向けの味を狙ってるということなのか?それともファスト・フードで育った若い世代は、我々とは味覚が違ってきてるのか?

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2006年5月11日 (木)

モデスト・ムソルグスキー ~名画と名曲・49

20060511mussorgskyjp「病室に入った時、私の胸は打たれた。ムソルグスキーが図らずも死んだその環境、この天才が絶命した時の様は、人をして身ぶるいさせる。本当のボヘミアンがここで死んだのだ」(ムソルグスキーの友人の音楽家イワノフ)

ムソルグスキーは1839年、バルト3国に近いカレヴォ村の裕福な地主の家に生まれました。10歳の時に中学校に入るため、ペテルブルグに移ります。ロシアは革命にはまだほど遠かったものの、農奴制に基盤を置いた社会の歪が頂点に達し、社会不安は極限にまで高まっていた時代でした。

さらに1850年代にはクリミア戦争で英・仏に敗北、ロシアの後進性は為政者にも切実な問題となり、近代的改革の必要性は誰の目にも明らかになってきます。
こうしてムソルグスキーが22歳の時に当たる1861年、皇帝アレクサンドル二世は、ついに農奴解放に踏み切ります。もともとは富裕な地主だったムソルグスキーの家は、農奴解放によって次第に没落していきます。
ムソルグスキー自身も金持ちのお坊ちゃんから一転、下級官吏として働くことになり、経済的にもかなり逼迫した生活を送らざるを得なくなりました。

1844年――ということはムソルグスキーより5歳年下ということになりますが――後にロシア最大の画家となるイリヤ・レーピンは、ウクライナの屯田兵の家庭に生まれました。
身分の点ではムソルグスキーとは比べ物にもなりませんが、若い頃から絵の才能を発揮したレーピンは64年から71年までペテルブルグの美術アカデミーで学びます。

そして29歳の時(1873年)に発表した「ヴォルガの舟曳き」がセンセーショナルな成功を呼びます。
過酷な労働に耐える最下層の舟曳き人夫たちを描いたこの絵は、今もなおロシア・リアリズムの最高作品とされる傑作です。この作品が評価されたのは、単に社会性を持っているからというのではありません。登場人物の一人一人は背後にストーリーを持ち、そして全体は透き通るような透明な叙情性に満ち満ちています。

「ヴォルガの舟曳き」は、発表と共に一躍評判を呼び、レーピンは若くして第一人者としての地歩を固めたのでした。73年から76年にかけてはフランス・イタリアに留学するなど、大変に恵まれたスタートをきったと言えるでしょう。

一方、ムソルグスキーも貧しい生活の中で、官吏を続けながらも作曲家として生きていこうと決意します。
地主階級の出身であるにもかかわらず、ムソルグスキーはロシアの民衆に強い共感をよせていました。そして良く知られているように、西欧風の洗練には背を向け、ロシアの魂そのものを描き出そうとします。

しかし今でこそその独自の魅力とドビュッシーへの影響などの先見性が評価されるムソルグスキーですが、生前はあまりにも多くの無理解に晒されたのでした。

中でも1869年に完成した歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」初版の上演拒否と、その5年後に行われたマリーナの場面を加えた第二版の初演における厳しい批評は、ムソルグスキーを打ちのめすに十分でした。
特に友人のキュイの批判は、彼を落胆させ、ムソルグスキーはキュイやリムスキー=コルサコフなどのかつての友人とも離れ、孤独にふけるようになります。

さらに「ボリス」は批評家筋の評判は悪かったものの、聴衆からは好評でようやくムソルグスキーも作曲家として一本立ちできるかと思った矢先、こんどは内容が権力者の不興をかい、上演打ち切りとなってしまいます。

つぎつぎと襲う打撃に、ムソルグスキーはもはや酒に逃げるしかなかったのでしょう。やがて貧困のまま安酒場に出入りし、酒におぼれていくムソルグスキーの姿が見られるようになります。

ところで音楽家仲間からは理解されなかったムソルグスキーの斬新さでしたが、天才は天才を知るということなのか、別のジャンルには理解者が、というより崇拝者がいました。それが画家レーピンです。
レーピンとムソルグスキーは深い友情につながれていましたが、どちらかというとレーピンが5歳年上のムソルグスキーを敬愛していたという感じじゃないかと思われます。

とはいえ完全に地位を確立し、上り坂のレーピンと、堕ちていくムソルグスキー。あまりにも対照的な二人・・・

1881年、ムソルグスキーが42歳の誕生日を迎える一月ほど前の2月、レーピンはムソルグスキーが病気でペテルブルグの陸軍病院に入院していることを知ります。
当時モスクワにすんでいたレーピンは、3月の初めにペテルブルグに赴き、病室にキャンバスをたててムソルグスキーの肖像画を描きます。それがこの作品。

前年に公務員の地位を追われたムソルグスキーは、経済的に完全に困窮し、友人に「もはや物乞いするしかない」と語っていたそうで、その後4度にわたる心臓発作におそわれ、入院させられていたのでした。

入院生活によって一度は良くなったかに見えた健康状態も、見かけだけだったのかやはり駄目で、レーピンが肖像画を描いてまもなく、ムソルグスキーはわずか42歳の若さで病院で亡くなります。死因は極度のアルコール依存症。

20060511mussorgsky2jpリアリズムの画家レーピンの描いた肖像画は、アル中で赤ら顔になっている病人のムソルグスキーを、実にリアルに描いていますが、それ以上にその澄んだ目から放射される作曲家の精神の輝きが、見る人をひきつけます。

――といっても私は残念ながらこの作品は図版でしか見たことがないのですが(このシリーズでメインで取り上げた作品はすべて実物を見たことがあるので、この「ムソルグスキーの肖像」だけが唯一の例外)、図版でもその素晴らしさは伝わってきます。一度はどうしても本物を見ておきたい作品です。

PICTURES AT AN EXIBITION

さてムソルグスキーと名画といったら、もちろん組曲「展覧会の絵」です。
この曲のもとになった絵画については、どれなのか判っているのもあり判っていないのもあります。それについてはかつて團 伊玖磨さんがNHKの番組で、絵を追跡したことがありました。本になっていてNHK出版から出ています。

これはなかなか面白いので、普通の人にはお薦め、ムソルグスキー・ファンは必読(美麗なカラー写真も多いので、必読というよりむしろ必見か)です。

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2006年5月 9日 (火)

NHK削減対象はBS・AM・FM ~ニュースの落穂拾い・2 Watch What Happens

20060509aobadorijp「竹中総務相の私的懇談会「通信・放送の在り方に関する懇談会」(座長・松原聡東洋大教授)は9日、これまでの議論の論点を整理した中間とりまとめを公表した。

 NHKのテレビとラジオ合わせて8つあるチャンネルのうち、テレビのBS放送、ラジオのAM、FMのなかから削減対象を選ぶことで一致した。

 また、メディア企業による複数のテレビ局などへの出資を制限した『マスメディア集中排除原則』については、大幅な緩和の方針を打ち出し、民放キー局が親会社となり、地方局を子会社化したり、純粋持ち株会社を作り、傘下にキー局や地方局、BS局がぶらさがる形態が考えられるとした。懇談会は今月中に報告書をとりまとめる見込みだ。」(読売新聞

これはあくまでも竹中総務相の私的懇談会の中間とりまとめであって、今すぐこうなるということではありません。
小泉首相が退陣したら竹中総務相の続投はないでしょうし、影響力が全く無くなることも予想されます。この場合、
▽このとりまとめが全く白紙状態に戻る
▽これを叩き台に次の政権がNHKの整理を進める
という両方の可能性があります。


ということでFMです。音楽好きとしては削減候補の中にFMが入っているのが、なんとも不快なわけです。
いくら最近のNHK FMは音楽ファンの要求に背をむけ、奇妙な細切れ番組やら、一部割愛放送やら変なのばかり放送してるといっても、民放FMがクラシックに背を向け、CS‐PCMもさほど普及しなかった状態で、FMをなくしたらどうなるのか。放送によって聴けるクラシックは映像付きの素材だけということになってしまいます。

本当にそれでいいのでしょうか?いくらCDが安くなり、LP1枚が大卒の初任給にも匹敵していた時代とは違うといっても、放送がクラシック音楽を伝える手段でなくなるというのには、疑問を持たざるを得ません。

CDはあまりにも強く市場原理に支配されるし、映像付きの音楽だけではあまりにも範囲が限定されます。またたかだか2時間の「椿姫」をハイライトで放送する教育TVの音楽番組は、すべて事実上の初心者入門講座になり下がっています。本格的な音楽番組がBSに限定されるなら、日曜の夕方にやっている「現代の音楽」や、土曜日に移った吉田秀和さんの「名曲のたのしみ」のような、映像抜きにしか成立しえない番組は、無くなってしまうでしょう。

たしかに国民を知性も教養も低いレベルにおくことは、支配のためには大切で(「衆愚政治」をやりやすくする)、権力強化の重要な手段ではあります。情操教育もせず、何かといえば煽りに単純に反応して燃え上がる国民性になれば、権力者にとっては大変に楽と言えます。(そのような傾向は次第に強くなってきており、小泉首相と石原都知事はともに、そこをうまく利用して個人崇拝的なものを築きあげてると思います。)
でも結局そういうのは国の発展を阻害するし、真の意味で国賊的と言えると私は思います。
なんだかFM放送の話から、国賊的なんてちょっと大袈裟な展開かもしれませんが。


後半にある「マスメディア集中排除原則」ですが、かいつまんで解説だけしておくと、これはこういうことです。

ある会社がある放送エリアで放送局を複数支配または所有できないというものです。

具体的にはある県でA社がa放送局の株を10%を超えて持っていた場合、同じ県にあるb放送局の株は10%を超えて持ってはならない。また他の県では20%以上持ってはならないというものです。

例えば仮に私がメディア王になろうと画策して株式会社TARO’S CAFÉ(登記上の名前はカタカナ)という会社を設立し、TBSの株の50%を買い占めたとします。
この場合完全にTBSを支配・所有していることになります。次にフジテレビの株も入手しようとします。この時10%までは許されますが、10.5%フジの株を取得すると「マスメディア集中排除原則」にひっかかって違反となってしまいます。
また別の放送エリアの場合でも20%以上は駄目ですから、大阪の朝日放送の株を20%取得したら、違反になります。
ベルルスコーニみたいなメディア王を作らないための規則(※)とでも言えばいいのでしょうか。(※放送局の開設の根本的基準〔昭和25年電波監理委員会規則第21号〕第9条等)

かねがね問題になっているところで、ネットを含めメディアが多様化されている今、時代遅れな規則だと批判する人と、報道が一色に染まらないためには原則を崩すべきでないという人と、2つの立場があるみたいです。

写真:ずっと冬枯れのままだった欅並木ですが、ゴールデン・ウィークが天気良くて暖かかったため、いっきに若葉が。ほんとうに鮮やかで明るい緑で、目を射るとはこのことですね。(仙台市の青葉通り)

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2006年5月 8日 (月)

映画館で見る・7 ~暗闇と光

20060508ncpjp前回ご紹介したように東京芸大前教授の小町谷朝生さんは「地の眼・宙の眼 視覚の人類史」の中で、スクリーンは網膜であり、映画館の中では観客自身が脳の役割を果たしていると述べています。

これは大変優れた考察だと思いますが、哲学的であり、比喩的です。もっと人間の生理にダイレクトに結びついた暗闇と視覚の関係について調べたいと思います。

「脳のはたらき 知覚と錯覚」という本の中に、暗闇での目の機能について書いてありました。

なんと!私たちは明るいところでものを見る場合、錐体(すいたい)で見ていて、暗いところでは桿体(かんたい)で見ているというのです。これは驚くべきことではないでしょうか。
――な~んちゃってですが、なんだかそういう事らしいんです。錐体と桿体って、いったいなんでしょうか?

視るという事は私たちの眼が光をとらえるということですが、「光をとらえる」ということは、つまり網膜上の視細胞が光を感じるということです。ですからこの視細胞のことを光受容細胞といいます。

20060508この光受容細胞には2種類あり、それが錐体と桿体です。この名前の由来はずばり細胞の形(桿とは棍棒のこと)から来ています(右図参照)。

錐体 明るい光の下で働く。網膜の中央部にある。色彩を感じる。人間の場合、細胞の数は数百万個。

桿体 弱い光の下で働く。網膜全体にある。色彩を感じない。約1億個。

外の明るい場所から、映画館などの暗闇に入ったりすると、最初は真っ暗闇で何がなんだかさっぱり判らないのに、段々慣れてくると座席にお客さんが何人ぐらい座っているかとか、あの席が空いてるとか判別できるようになります。

これは館内に入った瞬間は、それまでの外の世界の延長で「錐体」で見ているので、乏しい光量によるかすかな明るさを感じ取れないのに対し、時間が経つと段々桿体が働いて、わずかな光でも受容するようになるためです。
これを暗順応といいますが、完全な暗順応には20分から30分かかるのだそうです(その反対は明順応)。
ハリウッド映画だと大作ミュージカルや、歴史劇などでは、本編の前に数分間の序曲を流したりしますが、観客の目の暗順応のためには、なかなか良いことなのかもしれません。

錐体は目の中心部に集中していて、桿体は中心部には無く、そのかわり中心部を除く網膜の全体に分布しています。

結局明るい部屋でTVを見る場合には、中心部の錐体だけが働いているのに対し、暗い映画館(あるいは部屋を暗くして見る場合も)では、錐体でスクリーンを凝視し、同時に桿体も働いて目全体で光を受容しようとしているということになるのでしょうか?

仮に私たちの生理的反応が、心理的反応にダイレクトに結びついているとするならば、暗闇の中でむさぼるように光を求める行為は、どんなに集中していようとも明るい部屋でブラウン管を見る行為とは、まったく真剣度が違うものにいやおうなくなってしまうのかもしれません。
(続く)

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2006年5月 7日 (日)

荒川、競技生活にピリオド。新しい道へ晴れ晴れと

20060507arakawajp「2010年のオリンピックに選手として目指すことはございません」
「ここまで悔いなく競技生活をおくってこれましたので、プロ・スケーターとして胸を張ってリンクに立ちたいという気持ちからです」

トリノ・オリンピックで金メダルを獲得したフィギュア・スケートの荒川静香選手が、正式にプロへの転向を表明しました。

彼女はすでにオリンピック前に、「五輪終了後はプロに転向してアイスショーで滑りたい」という意向を示していましたが、金メダルをとったことで、情勢が変化。今後の進路についての明言を避けていました。

特に来年の世界選手権が東京で開かれるため、ファンの間からは「本人の意思とは無関係に、スケート連盟サイドの現役続行の圧力がかかってるんじゃないか」などともささやかれていました。

フィギュアの場合、正式にプロ転向してしまうと、基本的には競技会には出られません。(ただしプロに転向した場合でも、一度だけはアマチュア復帰が認められています。)ただプロでもアマでもアイスショーに出ることは可能なので、アマの資格でアイスショーに出場するという選択肢もあったわけです。それを潔しとしなかったのか、あるいは競技に対してはすでにモチベーションが保てなくなったのか。

荒川選手は今夜8時から新横浜プリンスホテルで記者会見して、現在の気持ちと今後の抱負について語りました。

「ここまで競技生活に悔いが残ることなく生活してこれて、ここでやっとピリオドを打つことが出来て、また新しい道へと晴れ晴れとした気持ちで出発できることを、すごく嬉しく思っています」

「リンク事情が良くない中練習するスケーター達に、夢と希望を与えられるようなスケーターとしてい続けることが、――プロとしてでもアマチュアとしてでもなくスケーターとして居ることが大切なことだと思うので、――これからの選手たちの夢となれるように、引っ張っていければいいなというふうに、プロとかアマチュアとかいう境ではなく、頑張ってスケーターとして生きていきたいなというふうに思っています」

「新しい技を、プロになってももっと良くなったねと言われるように、見つけて生きたいと考えています」

「トリノ・オリンピックが一番思い出に残っています。あの期間は不思議と凄く心も穏やかに、ただ気持ちを強く持てた事が凄く良かったですし、やはりオリンピックの舞台に立つまでにいろんなことがありましたけども、そこに最終的に立って、幸せな気持ちで演技できたということが、ほんとにここまで続けてきて良かったなあと、感謝の気持ちと幸せな気持ちで舞台に立てたことが一番の思い出です」


今年の世界選手権では村主が銀メダル、中野が5位と好成績をあげ、さらに浅田真央がジュニアから移ってくるという事で、荒川なしでも開催国に恥じない成績を上げることが可能だという予測。荒川が当初の希望通り今季でプロ転向すれば、東京での世選の出場者3人はすんなり選考できるという事情。連盟のゴタゴタで荒川に対する圧力が弱まったなど、いろいろ邪推はできますが、一番はやはり本人の気持ち・希望を貫いたということでしょうか。

色んな意味で真に強い女性なんだなあと思います。

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2006年5月 6日 (土)

「炎に消えた名画(アート)」 チャールズ・ウィルフォード

20060506tbohjpジョン・ケージが、もしプリペアード・ピアノのための「ソナタとインタールード」も、「易の音楽」やチャンス・オペレーションのいくつかの作品も、「HPSCHD」も発表せずに、ただ「4分33秒」だけを世に出して、あとは一切沈黙を守ったとしたら。――それでもケージは20世紀現代音楽のスーパースターたりえたでしょうか?

答えはきっとYesじゃないかと思いますが、もしそれが画家だったらどうでしょう。いっさい作品を発表せず、誰も見たことがない、けれど20世紀の美術史に燦然と輝く巨匠。そんな存在は可能なのか、否か。

この「炎に消えた名画」の副主人公であるフランス人画家のドゥビエリュー。彼こそ、まさに誰も作品を見たことがないという類まれな巨匠なのでした。
正確に言えば、その処女作「No.One」だけは世間に公開されたのでした。それは広告もされずにひっそりと展示され、しかもそれを見れるのは一度に一人ずつ。なのに口コミで評判は伝わり、「No.One」の存在は美術史を揺るがすほどの大事件となります。そして処女作の公開が終わったあと、画家は一切の作品を公にすることをやめてしまいます。いかなる作品の図版が出回ることもなく、その後のドゥビエリューの作品を見たことがあるのは、本人以外はわずか数人の批評家だけ。
それらの批評家の言葉を頼りに人々は彼の作品にたいする想像をたくましくするしかないのでした。

そんなドゥビエリューに与えられたキャッチフレーズは「虚無的シュールリアリズム」。シュールとニヒルが合体した時に――そもそも合体しうるのか?――そこに生み出されるものは?

この作品は同じ美術をテーマにしたミステリでも、よくある絵画の贋作やら、盗難やらといった事柄を題材にしたものではなく、もっと創作という場面の核心に切り込もうとした作品です。しかもその創作とはニヒルでシュールなのです。虚無的シュールリアリズムという言葉を編み出した作者は、その言葉にふさわしい創作の姿勢をドゥビエリューに与えるのですが、それがどのようなものかはもちろん読んでのお楽しみです。
巻末の解説者によれば、作者はデュシャンでさえ実現できなかったダダの究極を、ドゥビエリューに託したということになるみたいです。

この小説の作者、チャールズ・ウィルフォードはいわゆるパルプ雑誌に刑事ものなどの犯罪小説を書いていた作家。これも犯罪小説ではありますが、なぜにこんな風変わりなものを書いたのでしょうか?しかもどう見てもパルプ・フィクションなどというレベルではないのです。

ウィルフォードは1953年から犯罪小説を書き始めて、この作品は1971年の発表。権威ある書評からは(当然のように)無視されて、1999年に詩人のデイヴィッド・リーマンが文芸誌でとりあげ、あらためて注目を集めたようです。日本では2004年に出版されました。

原題は The Burnt Orange Heresy。わけわかりませんが、最後の方で意味がわかります。思わせぶりで中身と違う日本語題名よりは、原題そのままの方が良かったような。

最後になぜかひとつだけ、額縁の謎が解決されないまま小説は終わります。まさかこんな矛盾点に作者や編集者が気がつかなかったわけはないので、わざとだろうと思いますが、不可解です。

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2006年5月 5日 (金)

龍泉院の六地蔵

20060505ryusenin2jp六地蔵といえば京都の六地蔵巡りが有名ですし、江戸の六地蔵巡りというのもあります。

六地蔵信仰というのは「六体の地蔵を六道にまつり、衆生の救済を願う」というもの。(六道というのは天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄。)江戸時代には素朴な庶民信仰の一つとして、六地蔵巡りは大流行したようです。

こうした地蔵信仰をうけて、京都や江戸だけでなく、各地それぞれで六地蔵巡りが行われたり、あるいは六道にあわせて六体の地蔵菩薩がセットで作られたりしました。

20060505ryusenin3jp_1仙台市の新寺小路にある龍泉院の六地蔵もまた、そうした庶民の信仰を支えてきたお地蔵さんです。作られたのがいつか正確なところはわからないんですが、江戸時代より古いことは確かなようです。

龍泉院はもともとは青葉山のふもとにあって(当時の名前は龍川院)、藤原秀衡が開いたという歴史のあるお寺です。しかし伊達政宗が青葉山にお城をたてることにしたため、現在の場所に引っ越しました。

20060505ryusenin4jpで、理由はよく判らないんですが、この時に六地蔵だけはお寺と一緒に移らないで、そのまま青葉山のふもとに残っていたようです。それが幕末に北目町と東六番町の交わる交差点に移されました。

これもどうしてかはちょっと判らないんですが、その辺りは北目町と東六番町、東五番町、清水小路などの通りが交差する「六道の辻」になっていたので、その六と六を掛けたんでしょうか?

20060505ryusenin5jpで、この六地蔵さんはしばらくの間、この場所で人々の行き来を見てきたわけですが、その後この一帯に鉄道が通ることになったため、再び龍泉院のもとに戻ってきました。現在はお寺の山門の前に3体ずつ並んで置かれています。

龍泉院には本堂の前に大きな布袋さんの像が立っていて、なんとなくユーモラスな趣を添えています。

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2006年5月 4日 (木)

トンガでM8.1、津波の恐れ >警報解除

20060504pacificjp「南太平洋・トンガ付近でM8・1、広域に津波の恐れ(読売新聞)

 気象庁に入った連絡によると、4日午前0時26分ごろ、南太平洋のトンガ付近で地震が発生した。震源の深さは約30キロ、マグニチュードは8・1と推定される。
 太平洋の広域にわたって津波が発生する恐れがあり、同庁で日本への津波の有無について調べている。」

とのことです。太平洋沿岸にお住まいの方は、十分にお気をつけください。

※午前4時過ぎに警報は解除されました。Mは7.8に修正。大きな被害は出なかった模様です。

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2006年5月 3日 (水)

アバドの「魔笛」

200600503zauberfloetejp最近はなかなかCDショップに行けなかったので、アバドの「魔笛」が発売になったのに、買わずじまいになっていました。
ようやく購入したので昨日その感想を書こうと思っていたのですが、ちょっと一回聴いただけで軽々しく感想をかけそうもないということに気づいて、今日に延ばしました。でもむしろ「憲法記念日」の話題にアバドの「魔笛」というのはふさわしいかもしれません。

前にネットでこのCDについて「これまでの録音に何も付け加えるもののない演奏」などと書いてた人がいて、ふうんと思っていたのですが、それを書いたのは多分アンチ・アバドの人で、どうせそんなとこだろうなどと思って聴きもしないで書いたんでしょう。実際には何もないどころか、非常に付け加えるところの多い演奏です。

最初の序曲は颯爽としたテンポで、心地よく始まるのですが、その後時々耳慣れない音や響きが出てきて(あるいは出てこなくて)ハッとさせられます。
ただ詳しくない私には、それらが、

(1) 自筆譜の研究結果によるもの
(2) モダンのオケにオリジナル楽器のスタイルを導入したアバド得意の折衷的演奏法によるもの
(3) 指揮者の表現
(4) 私が無知なために新しく感じているだけ

のいずれによるのか、区別がつかないのが残念です。
(1) については最新の研究結果に基づく演奏というのは、アバドのポリシーみたいなもので、いずれ国内盤が発売されたあかつきには、金子健志さんあたりが音楽雑誌で解説してくれることを期待しましょう。
聴いてのお楽しみということで、場所は書きませんが、なかには一瞬編集ミスかと思って「え!?」と叫んで、ネットで調べてしまったところもありました。
(COEとのシューベルトの「グレート」のように、あまりに新奇で思わず笑っちゃうようなことは幸いありません。)

演奏の全体は生き生きとしたダイアローグに音楽への推移も自然。アバドはこの、珍奇なドラマというか、はちゃめちゃな物語というか、話はどんなに不自然であろうとも、モーツァルトの音楽は最初から最後まで、完璧に完結した世界という信念で演奏しているように思われます。
彼のロッシーニと同じようにこの「魔笛」も、最初の一音が始まった途端に、ゆるやかな盛り上がりと絶妙なバランスを持って、フィナーレへと向かいます。

この完全なる音楽に包まれた世界で、あるいはうごめき、あるいは苦悩し、ヴィヴィッドに生き続けるのは、人間たち。ですからルネ・パペの歌うザラストロは全く威圧的なところがなく知性で説得するような感じ。対する夜の女王(エリカ・ミクローシャという話題の新星)もグルベローヴァやドゥセのような超絶的な歌唱ではありません。
そして当然のように素晴らしいのはパミーナのドロテア・レッシュマン。どんなにアバド嫌いの人でも、この魅力的なパミーナを聴くためだけにCDを買っても後悔はないと思われます。この録音はモデナのテアトロ・コムナーレでの上演のライブで、ここだけレッシュマンとパペ、パパゲーノにはハンノ・ミュラー=ブラッハマンが迎えられて、なんかやけに豪華だなと思っていたらDGの息がかかってたんですねぇ。

オーケストラはマーラー・チェインバーで、だからこそアバドの意図が徹底されたと聞くか、やはりウィーンやドレスデンの弦じゃないと物足りないと聞くか。ううむ。

Amazonのリンクを貼っておきますが、値段が6445円とバカ高いので、おすすめしません。HMVかタワーだと輸入盤が3900円弱で買えます。

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2006年5月 1日 (月)

明日は八十八夜。お茶の話でも。

20060501cameliasjp東京は30.3度の真夏日になったんだそうで、まだ5月1だというのにすごいですねえ。というか関東にお住まいの方は暑くて大変だったことでしょう。
明日2日は八十八夜。でもいまや「夏も近づく」どころじゃないですね。「夏も盛りの八十八夜」みたいな。歌詞変えないと。

さて八十八夜といえばお茶ですが、日本茶、紅茶、ウーロン茶。いろいろありますが、皆さんはこれが全部種類としては「チャ」という同じ植物であることをご存知でしょうか。というかここにおいでくださってる方は皆さん物知りだから、「常識じゃん」状態かもしれませんね。

同じとはいっても実際には日本で栽培されてるものと、インドで紅茶用に栽培されてるものとでは、微妙な違いはあるのですが、本質的には日本茶、紅茶、ウーロン茶の違いは「発酵の違い」に由来します。

日本のお茶はまず葉っぱを摘み取った後、発酵させずに蒸して乾燥させるんですが、紅茶とウーロン茶は摘み取った後発酵させます。その発酵を途中で止めて、炒って作るのがウーロン茶、そして完全に発酵させてしまうのが紅茶です。実際にはもっと複雑な工程がありますが、でもまあおおまかに言うとそうなります。

と聞くと、誰しもが思うんじゃないでしょうか。じゃあ日本のお茶の葉でも、紅茶ができるはずだ!
出来るんです、これが。もちろん乾燥させてしまった商品のお茶では無理ですが、摘み取ったばかりのお茶の葉なら。

昔、子供向けの科学番組で、静岡県の金谷町を訪ねて、実際に日本茶の葉から紅茶を作ってもらったことがあります。ただし発酵にもその他の工程にも、それなりの機械が必要で、残念ながら家庭で緑茶の葉っぱから、気軽に紅茶を製造しようというのは無理みたいです。

茶の学名はカメリア・シネンシス。お茶はカメリアだったんですねえ。ということはデュマ・フィスの La Dame aux Camelias を最初に訳した人が、もしおっちょこちょいな人だったら、勘違いして「椿姫」を「お茶姫」と名付けてしまうことも絶対にありえないことではなかった。うん、ありうる。

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