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2006年8月

2006年8月28日 (月)

今週前半は

都合により更新できないと思います。
もしかすると後半も。
コメントぐらいでしたら大丈夫だと思いますので、皆さんのブログにはおじゃまさせていただくかも。

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2006年8月25日 (金)

映画「バッシング」の続き

20060825bashingjpどうもバッシングという言葉が悪いんじゃないかという気もしてきました。

匿名の電話をかけたり、やんわりと退職を勧めたり、この映画に出てくるようなバッシングの行為は、昔は「嫌がらせ」と言われていました。
嫌がらせという言葉を使う限り、やってる本人にも多少の後ろめたさはあったかと思いますが、バッシングというカタカナ用語を使うことで、もう良心の呵責がサッパリと消えうせてしまってるような気がします。

ちょうど首切りをリストラという言葉に置き換えたことで、労働者を気軽に解雇できるようになったように。
「あの会社は何百人の首を切ったんだって」という噂は、昔は会社が傾いていることを示していたのに、今では「あの会社は何百人リストラしたんだって」と言うことが、まるで健全経営の会社であるかのような印象を与えるように。

さて言葉の問題はともかく、「バッシング」と「批判」、「抗議」、「意見」とはどこが違うのでしょうか。Bashingという単語の意味は、強く叩くことですが、今現在日本で使われている意味は、
1.叩く側が不特定多数であること。
2.嫌がらせになっていること
の2つの要素を含むように思います。

さてここで映画からちょっと離れてみたいと思います。最近のバッシングの例では、モーグルの上村愛子選手のブログの事件が思い出されます。

これは今月2日に行われた亀田兄のタイトルマッチについて、上村さんが自身のブログに「感動した」と書いたら、あっという間に数百件(当時)の批判的な、あるいは罵倒するコメントが集中したもの。
翌日、上村さんは反省記事を出し、そちらには今度は上村ファンと思しき人たちからの擁護コメントがまたもや数百件(当時)集まり、一応二日間で収束しました。

私は二日目の反省記事の日に,初めて上村さんのブログに行ってみたんですが、その時には数百件だったコメントの数が、昨日再び行ったら一日目の分が1700件以上、2日目の分は2千数百件に増えていました。
ずっと後から、2ちゃんねるあたりで上村ブログが炎上中という書きこみを見て、遅れて行ったチャネラー(2ちゃんねるに恒常的に書き込んでいる人々)がコメントを付けてるケースもあるんだと思いますが、どうやら上村さん本人とは別のところで、コメントを書き込んでいる人同士のバトル(という程でもないグチャグチャ)が起きていたようです。

上村愛子さんは顔も可愛いし、性格も素直そうな印象を与えるので、ファンが多く、一応の収束も速かった方だと思いますが、それでもいまだにだらだらと変なコメントをつける人たちがこれほど多くいるのは驚きです。

この上村ブログの問題は2点に集約されると思います。

1. ブログである以上、批判的なコメントが書き込まれることは当然予想され、そうしたコメントは場合によっては、ある問題について考える良いきっかけとすらなります。コメントに対して上村さんが反論するなり、あるいは賛同して自身の考えを変更するなりすれば、そこからさらに議論が深まる可能性は大いにあります。こういう場合は批判的コメントは有効だったといえるでしょう。

しかしこの炎上事件にあっては、コメントに対する上村さんのレスが出ない時点で、次から次へと同じような内容のコメントが付けられていきました。しかも批判というより罵倒というべきものが大半でした。これは人の意見を数や圧力で封じ込めようとするもので、まさにオーソドックスなバッシングの形だったと言えそうです。

2. あの試合について、亀田本人やTBSに批判や抗議が殺到するのは、やむをえないといえます。少なくとも試合前から暴力団とのつながりが指摘されていた以上、TBSが槍玉に挙げられるのは当然といえるでしょう。

しかし上村さんは単に素直な感想(しかも彼女はボクシングの専門家でもなく、まったく畑違いのスポーツ選手)を書いたわけで、抗議や罵倒はまるで筋違いといえるでしょう。しかしこのブログを荒らした人たちは、とにかく自分たちと意見の違う人たちは、なんとしてもやっつけてやれということだったのだと思います。「感動した」というような『心の問題』を数で押しつぶしてしまおうという思想の人々が、ネットに非常に多く生息しているというのは、分かっているつもりでしたが、あらためて実感させられました。

こうしたネット上のバッシング、あるいは野沢尚さんの言う「ネット・ヴァイオレンス」は、いったいどうすればいいのでしょうか?

日本人全体の倫理や道徳の向上に期待することは、とても出来ないと思います。自分自身は匿名で安全圏に置いておいて、相手に対してだけ罵倒を極めるという行為を覚えた人々が、その快感(?)を容易に手離すとは思えないからです。

となるとネット・ヴァイオレンスとはありうるもの、発生する可能性が常にあるものとして、防衛していくしかないのかもしれません。

野沢さんは(時代的なこともありますが)あまりにもナイーヴで、上村さんは比較的見事に対応したと言えるかもしれません。

イラク人質事件のバッシングは、「おかみ」にたてついてイラクに残ったとされた人々に対するバッシングでした。上村ブログ事件は何にたてついたとしてバッシングされたのでしょうか。「チャネラー」にということでしょうか。薄ら寒いものを感じます。

映画「バッシング」の話からは、かなり離れてしまいましたが、一度この上村ブログの件も書いておこうと思ってましたので、ちょうどチャンスと思って。
続く

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2006年8月24日 (木)

もう惑星じゃない! ~ニュースの落穂拾い Watch What Happens

20060824plutojp「プラハで開かれている国際天文学連合(IAU)の総会は24日、従来の太陽系惑星9個から冥王星を除外し、水星から海王星までの8個とする新しい定義の決議案を出席者の賛成多数で可決した。冥王星は他の8惑星より格段に小さい上、軌道が傾いていることなどが決め手になった」(ニュース全文

話題になっていた冥王星。結論がでました。
これからは太陽系の惑星は、水金地火木土天海になります。

冥王星はご存知のように太陽系の――惑星を、もっとも一般的な9つと数えた場合――一番外側を回っている惑星です。じゃなくて過去形で「でした」。
1930年に発見された惑星で、太陽系の惑星としてはアメリカ人が発見した唯一の星。英語ではプルート Pluto 。プルートはギリシャ神話に登場する冥界の王なので、日本語では冥王星となりました。(なおプルートは英語で、ギリシャ名ではハーデス。)

ネットニュースにもあるように、決め手となった理由の一つは他の惑星より小さいということ。実際月よりも小さく、今後は質量の大きい小惑星と見なされることになります。
また理由の二つ目の軌道ですが、冥王星の軌道は楕円で、公転周期の248年のうち20年は海王星よりも内側に入ります。最近では1979年から1999年まで、海王星よりも太陽に近い側を回っていました。

教科書は全部書き換えらしいです。

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2006年8月23日 (水)

い、嫌味だったかも・・・

20060823sakasitajp今日の電車の中はお太りになられた方が、異常に多かった不思議な状態。――かどうか、もしかすると普段と変わりなくて、これまでは私があまり気にしてなかっただけかもしれませんが。

私は今、シェリー・ベネットの、原題が Life in the Fat Laneという小説の邦訳文庫本を読んでいます。その日本語題名がなんか凄くて「ラーラはただのデブ」。よくこんな題名を小説につけるなと思うんですが、しかもこの集英社文庫の表紙は、脂肪のお化けみたいな女の人のイラストが。

スリムで美女、成績はオールA、学園祭の女王にもなったラーラ。ところがある日、原因不明でどんどん太り始めます。どんなにダイエットしても効き目なし。53kgだったのが(170cm)、58kgへ61kgへ、71kg、どんどんどんどん太り続け・・・81kg、94kg、95kg。

電車を待ってホームに並んでいる間、私は「ラーラはただのデブ」を熱心に読んでいました。カヴァーも付けずに、脂肪のお化けの表紙をむき出しにしたまま。

そして電車が来て乗り込んだんですが残念ながら座れません。座席の前に立って片手でつり革に捕まり、もう片手で文庫本を読み出そうとした瞬間。私の目に映ったのは、目の前に座る30代ぐらいの女の人。とっても太った。

ゲゲッ!この人に表紙を見られたら、あまりにもあまり。私は蟹のように横ばいして2メートルほど移動しました。
そして読み始めたのですが、ん?
なんか目の前の座席に座っているのは、2人で3人分ぐらいの座席を占領してる20代の青年二人。柔道部と相撲部の中間ぐらいの体型の。。。。。

むむ、、むむ、、、またもや私は移動して、ようやく骸骨っぽいオジサンと普通体型の高校生が並んで座っているのを見つけて、その前でこころおきなく読書にはげみました。

でも良く考えてみると。逆に嫌味だったかも・・・

写真:よく利用するJR陸前原ノ町駅付近の交差点

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2006年8月22日 (火)

ヴィスコンティとゼッフィレッリ(中)

20060822lvfzjpゼッフィレッリは「夏の嵐」の撮影に入る前に、スカラ座からロッシーニのオペラの舞台美術を依頼されます。

耳を疑うようなチャンスだった。ルキーノが支配する狭いローマの演劇界から抜け出すことが出来る。

仕事が始まるのはちょうど「夏の嵐」の撮影が終わってからで、ゼッフィレッリは助監督の仕事を終えてから、スカラ座へ向かうことが出来ます。これはゼッフィレッリにとっては大きな飛躍であり、まだスカラ座に登場してなかったヴィスコンティは少々複雑な思いにかられたようです。

そしてその「夏の嵐」の撮影中に、ヴィスコンティとゼッフィレッリの間に決定的な亀裂が入ります。というよりこれまで我慢を重ねてきたゼフィレッリの忍耐が限界に達したといった方がよさそうです。

ゼッフィレッリの自伝を100%信用すれば、ヴィスコンティという人はどうやら他人に対しては自分を最大限のデリカシーをもって扱うよう要求するくせに、自分自身は他人の心にはまったく鈍感というタイプの人だったようです。別に貴族じゃなくても、たまにそういう人はいますね。

いくつかの屈辱的な経験を重ねた挙句、結局ゼッフィレッリは永遠にヴィスコンティとの共同作業を解消することに決めます。

スカラ座に飛躍したゼッフィレッリは、まずシミオナート主演、ジュリーニ指揮、パヴォリーニ演出の「アルジェのイタリア女」の舞台装置を担当。このとき病気がちだった演出家の代わりに舞台監督のような役もつとめたようです。

そしてこの大成功を受けて、次に同じシミオナートとジュリーニの組み合わせで、今度は「ラ・チェネレントラ」を、装置だけでなく演出も担当します。オペラ演出家ゼッフィレッリの誕生です。

以上が53-54年のシーズン。
続いて54-55年のシーズンには、ゼッフィレッリは同じくスカラ座で「愛の妙薬」と、カラス主演の「イタリアのトルコ人」の演出も依頼されます。

ところが今度は自分のもとから羽ばたいた弟子の後を追いかけるように、ヴィスコンティがスカラ座に乗り込んでくることになるのです。

ゼッフィレッリの「愛の妙薬」と同じシーズンの開幕公演に、スカラ座はヴィスコンティ演出、カラス主演でスポンティーニの「ラ・ヴェスターレ」(ヴォットー指揮)を出すことにしたのでした。
自伝にも書かれているように、スカラ座はヴィスコンティ家の劇場と言ってもいいほどで、二十世紀のはじめに劇場の経済的危機を救い、トスカニーニを迎えてスカラ座を世界最高のオペラハウスに復帰させたのは、他ならぬヴィスコンティ家だったのです。それにそもそも傍系(※)とはいえミラノ大公ヴィスコンティ一族の流れをくむ家系なのですから、ルキーノがスカラ座で演出したいといえば、簡単に実現できたことでしょう。

※ 本家筋は15世紀に嫡男に恵まれず、娘婿のスフォルツァに乗っ取られるのは、世界史に出てくる通り。

さらにヴィスコンティはこのシーズン、カラスと共に「夢遊病の女」(バーンスタイン指揮)「椿姫」(ジュリーニ指揮)も出し、その権威と存在感とを見せ付けます。

ゼッフィレッリにとって幸いだったのは、比較されるにしても「愛の妙薬」も「イタリアのトルコ人」もヴィスコンティ担当の3作品とは違って、軽やかなコメディだったということでしょうか。前者はディ・ステファノ、後者はもちろんカラスの主演で、両作品とも絶賛されたようです。

ヴィスコンティが担当した3つの作品のうち、「ラ・ヴェスターレ」と「椿姫」は絶賛だったものの、「夢遊病の女」は新聞批評ではカラスの歌唱以外はあまり好評ではなかったというのは、かなり意外なところです。ゼッフィレッリはこの「夢遊病の女」の演出を非常に高く評価していて、彼は今でもあれ以上の舞台は作れないので、「夢遊病の女」は演出しないことにしているそうです。(それに対して「椿姫」の演出については、ゼッフィレッリはあまり高く評価していない。)

ヴィスコンティはすでに「ヴェスターレ」でのスカラ座デビューの前に、エウリピデスからサルトル、アーサー・ミラーまで、25本もの演劇を演出していますので、オペラであったとしても失敗することはおそらく無かったのではと考えられます。いまどきの読み替えその他の大胆な演出とは違い、おそらくオーソドックスな舞台なんでしょうし。

どうも「夢遊病の女」については新聞批評が間違っていて、ゼッフィレッリの感想が正しいんじゃないかとも思われますが・・・

「夏の嵐」でゼッフィレッリとヴィスコンティの関係は、少なくとも仕事上は切れ、ライバル関係へと変わるわけですが、人間関係はどうだったのでしょうか?

実はこれがどうもよくわかりません。それぞれが相手に対して愛憎半ばする感情を抱いていたように、感じられるのです。

仕事の協力関係を解消すると同時に、ゼッフィレッリはヴィスコンティとの個人的な関係も解消しますが、色々あったにしては、必ずしも憎みあって別れたという感じでもなく、またゼッフィレッリのヴィスコンティに対する愛や尊敬が失われたということでもなさそうです。
ヴィスコンティがゼッフィレッリを追いかけるかのようにスカラ座に登場した話は、ちょっと「ベニスに死す」のアッシェンバッハを髣髴とさせるところすらあります。

「じゃあルキーノと別れたってわけ」彼女は言った。「あの人にはつらいことだったでしょうね。私が成功を望むように、彼には愛が必要なんだから」
(自伝より。ココ・シャネルがゼッフィレッリに言った言葉)

ヴィスコンティが亡くなった時に、ベッドサイドにはとても美しいヘルムート・バーガーのポートレイトが置かれていたのですが、たしかにヴィスコンティは愛を必要としていたのかもしれません。たぶんそれはヘルムート・バーガーの無償の愛。野心と才能に満ちみちていたゼッフィレッリでは、所詮最初から別れる運命に決まっていたのかも。
(続く)

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2006年8月21日 (月)

続・ヨコハマメリー

20060821yokohamajp18日の続き)
ということで、映画「ヨコハマメリー」(中村高寛監督)を見ました。
この映画の感想を一口で言うとすると、いつまでも心に残る忘れがたい作品ということになるでしょうか。

横浜では劇場の観客動員の記録を作ったらしいですし、この映画を取り上げたサイトは感動の言葉で埋め尽くされています。
もちろん勝因は素材。メリーさんだけでなく、周囲の人々にも丁寧な取材をしていて、しかも登場する人たちが、皆揃って味があります。

当時のメリーさんの動画は二つほど残っていて、最初に登場した時から驚きが走ります。
以下メリーさんの時代を知ってる横浜市民だったら、きっと最後までウルウルものでしょう。(なお、監督は単にメリーさんの人物像を追いかけるのではなく、戦後の横浜の街の移り変わりをも描きたかったそうです。)

編集・構成など監督の技量についても絶賛されていますが、私は大方の意見とは逆に、作りに関しては、見ている間は違和感を感じる部分が、少なからずありました。
シーンの順番を変えた方がドラマティックかつ判りやすくなる部分もあるし、切り詰められすぎてる箇所、逆にカットした方が良かったのにと思う部分もあります。見ながら「もう一歩突っ込めよ」とか「画作りが甘い」とか、つい心の中で叫んでしまう所も時にあるのですが、感動のラストシーンを見てしまうと、「ま、いっか。監督には監督の考えがあるんだろうし」と大甘になってしまうのが不思議。


メリーさんが最初に街に立ったのは、1950年ごろ、メリーさん30代のことで、横浜ではなく横須賀のドブ板通りだったそうです。その頃は絶世の美女だったという話です。

40代になって横浜に来ます。そして30年以上、横浜の街に立ち続けるわけですが、住まいがなくホームレスのようにビルの通路などで寝ていたようです。知りませんでした。
ガラガラ引きずってたあの大きな旅行鞄に入っていたのは、生活用品一式だったんでしょうね。
メリーさんを追い出さずに寝場所を提供していた宝飾店には、メリーさんからお中元とお歳暮が届いて、皆を驚かせたというエピソードも出てきます。
なんでもメリーさんは70を過ぎて腰が曲がって、「住む場所がほしい」と言っていたそうですが、住民票がないので、家を借りられなかったようです。


ところでメリーさんはなぜ横浜にこだわってたのでしょうか?映画ではまるで「蝶々夫人」のようなエピソードが紹介され、その答えとしていますが、なんとなく不満を残します。横浜という街そのものの魅力が、彼女をしていつまでもこの町にとどまらせたのではないかとも思うのです。(あるいは思いたいのです。)

映画ではメリーさんを支えた人、メリーさんと何らかの関係があった人を追いかけつつ、戦後横浜の風景を浮かび上がらせているのですが、それは歴史の表舞台には出てこない景色なんですね。伊勢崎町、その裏通り、長者町から黄金町にかけて。JR根岸線かあるいは東横、京急でしょうか。ガード下にしもた屋の店が立ち並ぶ風景。

それはそれで戦後日本のもう一つの象徴として、十分に追いかける意味のあることだとは思いますが、メリーさんにとっての横浜って、そうなんだろうか?という疑問もまた感じずにはいられません。メリーさんの生活のベースはそこにあったかもしれないけれど、メリーさんを引き止めた彼女にとっての横浜とは、たぶんもうちょっと違う風景だったということはないでしょうか。それは例えばホテル・ニューグランドの横浜だったり、赤レンガ倉庫や大桟橋の横浜だったり。だからこそ「港のメリーさん」じゃなかったのかなとも思うのですが。

最後にどうしても不満を残すことが二つ。
一つは経費の点でしょうがなかったのかもしれませんが、VTRで撮られているということ。なんとしてもフィルムで撮影して欲しかったと思います。

もう一つはなぜあの年齢まで街に立ち続けたのかという疑問が、残されたままになっていること。多くの人はそれをこそ知りたいんじゃないかと思うのです。しかもそれを解明するチャンスはあったのに。

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2006年8月20日 (日)

映画「バッシング」 小林政広監督

20060820bashingjp「バッシング」を見ました。
もっと早く見たかったんですが、病気だったので最終日にようやく。
この作品については、6月4日の記事でご紹介してますので、ご記憶いただいてる方が多いかと思います。

あらためて簡単に書くと、イラク人質事件で政府・マスコミ・くずちゃねらーと、日本中からバッシングされた3人にヒントを得て作られた映画です。といってもドキュメンタリーとか、その3人の実際の体験を忠実に追ったものとかではなく、あくまでもそれをヒントにしたオリジナルの話です。
ヒロインの人物像、周囲の人々と人間関係、実際の行動や状況など、まったく作り変えられています。映画の最後で主人公は「もう(日本には)戻らない」と、再び彼の地へ旅立っていきます。

なお主人公がなぜバッシングされてるのかについての詳しい説明はなく、それはもう観客がイラク人質事件を前提に見るであろうとして作られているようです。


主人公はバッシングの嵐の中、北海道の実家に帰ってきて、とりあえずの生活費を稼ぐために、ラブホテルでベッドメイクの仕事をして働いてるという設定。

映画の冒頭は自転車で職場にやってくる主人公の姿をとらえますが、カメラは三脚に固定されず、担ぎで撮ってるようでかすかに揺れています。
この最初のシーンで作品は、通常の劇映画であることを拒否して、ニュース的あるいはドキュメンタリー的な迫真性をめざすのだと宣言します。

またカットバックなどのいかにもドラマ的な編集もほとんど行われず、複数台のカメラをスウィッチングして場面を作っていくテレビドラマ的な印象を与えるのを拒んでいる感じを受けます。

ワンシーン・ワンカットに近い長回しのシーンも多く、なかには主人公の後をずっとカメラがついていくために、家に帰るときにもドアを閉めないで、家の中に入っていってしまうなどというシーンも見られます。劇映画ではありえませんが、TVのドキュメンタリーや報道番組では時に見かける映像です。

ところでこの主人公の女性・有子(占部房子)は父(田中隆三)、継母(大塚寧々)と一緒に住んでいます。住まいはアパートの3階にあるのですが、階段を上っていく途中、主人公は踊り場で角を曲がる時に、必ず足を進めるのに一瞬のためらいをみせます。自分の家のドアを開ける時にすら、やはりほんの一瞬だけためらうのです。
これが有子が置かれている状況、その怖さを鮮やかに観客に伝えていて見事です。

以下、ストーリーの詳細は省略しますが、有子はホテルを解雇され、コンビニで買ったおでんはたむろする少年たちにメチャメチャにされてしまいます。父親も30年勤めた職場を解雇され、自殺。行きつけのコンビニでは店長から、お前が父親まで殺したと罵倒されます。

(ところで映画からは離れるんですが、このコンビニ店長のような論旨というのはよく見かけるような気がします。実は殺したのはバッシングした世間であり、そういう意味ではその店長も殺人者の一人なのですが、そういうことをそういう人たちに分からせるって、無理なんでしょうか。というかそういう考え方自体がもしかして、バッシングと同じ構造なんでしょうか?ちょっと自分でもよく分かりません。)

ロケは苫小牧でおこなわれ、何もない殺伐とした背景が、主人公をとりまく荒涼たる状況をダメ押ししています。
続く。25日に

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2006年8月18日 (金)

ヨコハマメリー

20060818yokohamajp私は90年代は横浜に住んでいました。仕事は東京メインだったので、別に横浜じゃないといけない理由は無かったんですが、港のそばに住みたかったというのと、神奈川の方が東京のベイエリアより家賃が安かったので、中華街と山下公園の間のマンションに部屋を借りていました。

当時はまだ大桟橋が改装される前で、夏になると毎年、崎陽軒のビアガーデンが大桟橋の2階の送迎デッキに設けられます。
夏の朝早くなど、原稿を書いていて行き詰ると、いつも大桟橋に行ってはビアガーデンの椅子に座って、夜明けを眺めたりしていました。ちょうどベイブリッジの方角から朝日は昇ってくるんですが、空の色は濃紺から次第にパープル、ピンク、オレンジ、白そしてブルーへと、ゆっくり変わっていきます。

同じ太平洋側でも三陸の海よりも、色彩の変化がゆっくりのように思うんですが、気のせいでしょうか?

あれ?なんだか話がズレてますが、そんなこんなで私の横浜での行動範囲は、ほとんどが有名な横浜の観光スポットと重なっていました。

引っ越して最初のうちはガイドブックに載っているような店に行ってみたりもしましたが、さすがに毎日そんな食事やお茶ばかりしてるわけにもいきません。
ま、すぐに私のお気に入りは、ガクッと下がって、馬車道のドトールの2階ということで落ち着きました。

ここから馬車道を通る人を見ているのは、かなり楽しいんです。原稿にチェックを入れながら、疲れた目でふっと通りに目をやると、なんかもう色んな人が通っていくんです。

メリーさんを初めてみたのも、そんな時でした。
とても有名な人だったらしいんですが、私は全く知らず最初は大道芸人の人かと思いました。
その女性は白いドレスに、顔を白塗りして、大きな旅行用鞄みたいなのをガラガラと引いて歩いていたのです。
あるいはサーカスのピエロ?でも横浜は毎年、野毛で大道芸のフェスティバルも行われるくらいですから、やはり大道芸の人?

次にまた会った時には、今度はすぐ間近で道路をすれ違いました。
驚きました。とんでもない老人だったのです。最初にドトールの2階から見たときも、腰が曲がってるのがちょっと気になりましたが。私は遠くのものが二重に見えるので、顔の皺とか表情とかは、ちょっと距離が離れるとよく分からないのです。

なんだろうこの人は・・・

疑問が解けたのは、それからしばらくたったある日の京浜東北線の中でした。
向かいの席に座ってる人が読んでいたスポーツ新聞の記事に、彼女のことが載っていたのです。

「七十○歳、現役の娼婦
   女ですもの・・・」

あの婆さんが現役の娼婦???しかも、なんじゃこのふざけたサブタイは。
さっそく横浜生まれの友人・知人に聞いてみましたが、皆彼女のことを知っていました。

「ああ、港のメリーさんでしょ」

友人から聞いた話では、彼女は終戦直後から、進駐軍相手の街娼をしていたようでした。でもなぜこの年まで?客がいるのか?などと私は月並みな質問をしてみましたが、その答えはもちろん誰も分かりませんでした。

メリーさんは95年ごろに、横浜の街から姿を消したそうです。そういわれてみると、確かに私が横浜にいた後半の時期には、彼女を町で見かけることはなかったような気がします。
バブル崩壊後の不景気の時期で、伊勢崎町からちょっと裏に入った通りには、中国か韓国かカタコト日本語の女性たちがたむろするようになっていました。


そんなメリーさんのドキュメンタリー映画が出来たんだそうです。
タイトルは 「ヨ コ ハ マ メ リ ー」
ドキュメンタリーといっても映像はないと思うので、静止画と証言で綴るという感じなんでしょうか。なんでも最後に現在のメリーさんが登場するという話です。
東京ではこの春に既に公開済みと思いますが、仙台では明日19日(土)からセントラル劇場で公開されます。(9月1日まで)

ということでこの続きは映画を見た後で。

※ この記事は映画の内容や質を保証するものではありません。なにしろまだ見てないので。

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2006年8月17日 (木)

ヴィスコンティとゼッフィレッリ(前)

20060817lvfzjpはじめに:私、以前に映画「ベニスに死す」のタジオ役の少年が、二十歳前に亡くなったなんて書いたことがあると思うんですが、実はそれはガセだったらしいということが分かりました。何かの雑誌に昔そういう記述があってすっかり信用していたんですが、最近ビョルン・アンドレセンの近影というのがネットで出回っていて、それが確かに本人だとすれば(まだ確認は出来てませんが)大変失礼なことをいたしました。その場合は、お詫びして訂正いたします。

         

さてゼッフィレッリなんですが、彼がヴィスコンティ――わずか2、3年のキャリアで既にイタリア映画・演劇界のスター演出家となり、また社交界の花形でもあったその師と初めて出会ったのは、1945年か46年にフィレンツェのベルゴラ劇場で舞台の背景画家の助手をやっていた時のようです。当時ゼッフィレッリは小さな劇団で俳優をしながら、アルバイトで美術助手の仕事をやっていたのでした。

この時のエピソードはゼッフィレッリの自伝に詳しく、後の演出家としての才能を彷彿とさせるものでもあります。
そのときヴィスコンティは、ミラノでイタリア初演を行う「タバコロード」の舞台のために本物の狂女を捜していたのですが、それをゼッフィレッリが連れて来たのです。

「奇跡だ」彼は本気だった。「誰が見つけて来たんだ?」
 ステージ・マネージャーの助手が喜色満面で一歩前に出た。自分の手柄にしようとしているのは明らかだった。
「僕です」と私は言って舞台の袖から出て行き、ヴィルジニアに手を貸して立ちあがらせた。
「君は誰だ」
「役者です」
「その顔立ちなら、そうだろう」
「建築も勉強中です」しかしそれは私の外見ほど彼の気を引かなかった。

「ここで何をしているんだ」
 私は階上で背景を描いていること、彼の言葉を盗み聞いたことを話した。
「私をスパイする奴がいるとはな!」彼は怒鳴った。「たまらんな。しかし彼女はよく見つけてくれた。何の芝居に出てるんだ?」
私はメンバーの家でジャン・コクトーの「恐るべき子供たち」を稽古中だと教えた。前の年の十一月に、ヴィスコンティが大成功を収めた芝居である。彼は明らかに気分を良くした。
「明日稽古を見に行こう」彼は言った。すごいことになった。やったのだ。私は障壁を取り払い、当時のイタリア演劇界で最も興味ある人物の注意を引いたのだ。

自伝によれば、この出会いは46年の春ぐらいのように読めるのですが、私の手持ちの資料ではミラノでの「タバコロード」のイタリア初演は45年12月になっていて、どっちかが間違ってるんだと思いますが、どっちが正解かはちょっと分かりません。

それはともかくヴィスコンティはゼッフィレッリに興味を抱き、このあと二人は昼食を共にし、ファーストネームで呼び合う仲になります。

この自伝は大変に率直に書かれてはいますが、率直ということは小学生にも分かるように懇切丁寧に解説してあるという事ではないので、所々行間を読まなければなりません。

ヴィスコンティの美青年趣味。ゼッフィレッリが――今でもダンディですが――若い頃は大変な美男子だったこと。この二つを忘れてしまうと、上に引用した箇所は、理解が出来なくなります。
もちろんヴィスコンティの前に姿を現したとき、ゼッフィレッリは自分の容貌が彼を惹きつけるであろう事に、十分な自信を持っていたに違いありません。

やがてゼッフィレッリは、ヴィスコンティが演出し、パオロ・ストッパが主演した「罪と罰」で、俳優として小さな役を与えられます。この頃には昼食だけでなく、しばしば夜食と朝食をも共にするようになっていたようです。

この「罪と罰」にはやはり小さな役でジョルジョ・デ・ルッロも出演しています。60年代のスカラ座の「アイーダ」がゼッフィレッリの演出、70年代にスカラ座で出された「アイーダ」の新演出がデ・ルッロですから、なんか凄い因縁です。

ゼッフィレッリは続いて47年にフィレンツェで上演されたヴィスコンティ演出のアヌーイの「ユリディース」にも俳優として出演しました。この時デ・ルッロはオルフェを演じています。

そしてヴィスコンティとの舞台がない間は、ゼッフィレッリはいとこの脚本家ピエロ・テリーニのつてでチネチッタに出入りし、アメリカ映画のダビングやら宣伝用ロゴのデザインやらの仕事をしていたようです。

そうこうしているうちにアンナ・マニャーニの「婦人代議士アンジェリーナ」という映画に俳優として出演することにもなったようで、たぶんそれがゼッフィレッリの映画デビューということになるんだと思います(日本未公開だと思います)。ゼッフィレッリの映画界へのデビューは監督としてでも、装置家としてでもなく、実は俳優としてだったのでした。

面白いことにこのラッシュ・フィルムを見たハリウッドの関係者から、ゼッフィレッリは週給500ドルで、俳優としてハリウッドに来ないかと誘われます。
結果的には断ることになるのですが、この話はハリウッドに「密かに憧れを持っていた」ヴィスコンティを激しく嫉妬させることになったようです。

彼はあらん限りの冷淡さを装いながら、自分の計画している新作で、君に助手の一人になってもらうつもりだと言ったのである。

ということで、シエナでヴィスコンティとは無関係のヴィヴァルディの舞台の装置を担当した後、ゼッフィレッリは1947年にいよいよヴィスコンティの2作目の映画、「揺れる大地」の助監督として本格的にヴィスコンティ組に参加することになります。

映画は48年に公開されましたが、いまでこそネオ・レアリズモを代表する歴史的作品として知られるこの「揺れる大地」も、当時は失敗作と見なされていたようで、挫折したヴィスコンティは(少なくともゼッフィレッリによれば)ますます友人として、助手としてゼッフィレッリを頼るようになっていきます。

舞台に戻ったヴィスコンティのサポートもゼッフィレッリが行うようになり、48年にローマで上演されたシェイクスピアの「お気に召すまま」で、ゼッフィレッリは舞台監督をつとめます。ヴィスコンティの演出、ダリの装置と衣裳。音楽にはパーセルやトマス・モーリーの曲を使用したようです。
ダリを起用できたのは、若い頃にヴィスコンティと関係が合ったのではないかとも噂のあった、ココ・シャネルの尽力によるものだったそうです。
終始一貫強風が吹き荒れ、枯葉が舞い続け、あげくに本物の山羊まで登場する予定になっていたダリのリアリズム(笑)の装置に、ゼッフィレッリは大いにてこづったようです。

この時劇場で同時に上演されていたのがカラスがクンドリーを歌う「パルシファル」で、ヴィスコンティにとってもゼッフィレッリにとってもこれがカラスとの最初の出会いになりました。

1949年のローマでのヴィスコンティ演出による、テネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」では舞台装置のためのスケッチを提供。この時はヴィットリオ・ガスマンがスタンリー、マストロヤンニがミッチを演じていますが、51年のミラノでの再演のときにはマストロヤンニがスタンリーに昇格、デ・ルッロがミッチを演じています。ミラノでの上演の際には、スケッチだけでなく実際にゼッフィレッリが舞台装置を担当したようです。
(なおブランチはどちらの上演もリーナ・モレッリ。)

この「欲望という名の電車」が、ゼッフィレッリが舞台美術家として一人立ちした最初の作品ということになるようです。この舞台装置は絶賛され、テネシー・ウィリアムズをも大いに喜ばせたようです。

また49年にフィレンツェのポポリ庭園で屋外上演されたシェイクスピアの「トロイラスとクレシダ」でも、ゼッフィレッリは装置を担当。音楽はプロヴァンスの吟遊詩人の歌が使われたようです。

51年にローマで上演されたアーサー・ミラーの「セールスマンの死」では演出助手。
52年、同じくローマでのチェーホフの「三人姉妹」では装置を担当しています。

映画の世界では52年公開の「ベリッシマ」、55年公開の「夏の嵐」で、ゼッフィレッリはヴィスコンティの助監督をつとめます。「揺れる大地」も含めてこれら3本にはいずれもゼッフィレッリと共に、フランチェスコ・ロージが助監督として参加しています。
(続く――来週あたりに)

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2006年8月16日 (水)

「魔笛」 野沢尚(さらに続き)

20060816matekijp野沢さんの第3期は、第2期の最後の3年と重なり合う97年から始まります。この年、野沢さんは小説「破線のマリス」で江戸川乱歩賞を獲得しました。
乱歩賞への野沢さんの応募はこれが3回目で、文字通りの3度目の正直だったわけです。
すでに野沢さんは自作脚本のノヴェライズなど幾冊もの本を出版していましたから、新人のためのミステリー作品のコンクールである乱歩賞への応募はかなり意外なものでした。野沢さんとしては単にネームヴァリューで出版してもらうのではなく、コンクールという場で賞を得て、正当に評価されてからミステリー作家として立って行きたいという気持ちだったようです。

「破線のマリス」のマリスとは、malice悪意のことです。ここではTVニュースの女性編集者を主人公に、TV界の内幕を描きながら、その女性が次第に外部からの悪意に絡めとられ、後戻りすらできない窮地に追い込まれていく、その様子が緊迫感を持って描き出されています。

しかしこの作品は、ミステリーとしては、十分に完成度が高いものとはいえませんでした。なによりもヒロインの心理の変化があまりに唐突で、ああここから主人公が変になっていくんだなあというのが、はっきりわかってしまうのです。そのほかにも水際立ったヒロインの造形に対して、周囲の人物がステレオタイプにとどまっていることなどの欠点も見受けられました。

3年後の2000年に発表された「深紅」は驚くべき傑作で、「破線のマリス」からわずか3年とは思えないほどの完成度の高さを示しています。
この作品は賛否両論、読者を二分したようですが、2001年の吉川英治賞を受賞しました。しかしこの「深紅」の文庫版の解説で、選考委員だった高橋克彦さんが率直に述べているように、当時は選考委員すらこの作品の本質をつかんでいなかったようです。

この「深紅」は一家惨殺事件の生き残りの少女と、その犯人の娘という二人の女性の話ですが、真価が理解されなくてもなお受賞してしまうほどに魅力溢れる作品だったと言えるのでしょう。
ネットで誰かが書いていた「これは癒しの物語だ」というのがもっとも簡単にこの小説を要約していると思いますが、そう、確かにこれは「癒し」の物語です。なんだか今の日本では「癒し」という言葉は手垢にまみれてしまったの感がありますが、一見何気なさを装われたラストシーンは、作中の登場人物だけでなく、私たち読者の心をも深い感動で満たしてくれます。そして確かに野沢さんは「物語」の書き手であるのです。

M A T E K I

2002年に発表された「魔笛」は、オウムの地下鉄サリン事件をヒントに、大量虐殺事件を犯した新興宗教の教団の、逃亡中の幹部の女性と、それを追う刑事というストーリーです。

作品の冒頭で、その女性は白昼の渋谷スクランブル交差点で、またしても無差別大量殺傷事件を引き起こします。
追う刑事の人物像が出色で、こんな刑事像がありうるなんて想像もつきませんでした。追われる女性の方は生まれながらにして異常な人格の持ち主で、そういう点ではこれまでの野沢作品のヒロイン像とはまるで違っています。

そしてここに、なにげにモーツァルトの「魔笛」がからんでくるというわけです。ただし作中にオペラのシーンが出てくるなどというわけではありません。タミーノの魔法の笛に相当する小道具も、これといってオペラでの役割について懇切丁寧な説明があるわけでもなく、判る人だけ判ればいいということなのでしょうか?

そのほかにも女主人公の境遇や人物像、怪しい教団やその他の団体の存在などなどに、モーツァルトのオペラの影をちらつかせています。前々回の記事に「モーツァルトの歌劇を知らない人には作品の全体の姿は見えない」などと書いてしまったのですが、これは間違いでした。「オペラを知らなくても全体の姿はわかるんだけれども、作者の意図を100%理解は出来ない」と書くべきでした。

「破線のマリス」でヒロインは、外部から与えられた悪意によって、徐々に行動を狂わされていき、自らもTVの525本の走査線にあいだに悪意を染み込ませていきます。
「深紅」のヒロインは想像を絶する体験によって、心の中に押さえ込んできた鬱屈した思いが、次第に悪意として芽生えていきます。
そして「魔笛」は生まれながらにして、心に悪意を抱え込んでいる女性。

このあと野沢さんは遺作となった「ひたひたと」で、何気ない普通の人々、まったく私たちと同じような一般市民のなかにひそむ悪意をとりだしてみせます。ストーリーテリングの名手、野沢さんらしい実に鮮やかなやり方で。
そして悪意は受け継がれ、輪廻し、、、、

この「ひたひたと」は5編の短編(中篇?)による連作集となる予定でしたが、作者の死によって中断され、最初の2編だけが残されました。

2004年6月28日の未明、野沢尚さんは事務所で首を吊って自殺しました。享年44歳。

事務所には遺書とみなせるメモがあり、そのうちの1通は鶴橋さんにあてられていました。自殺の動機を示すような内容はなく、「夢はいっぱいあるけど失礼します」と書かれていたそうです。

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2006年8月15日 (火)

「魔笛」 野沢尚(続き)

20060815matekijp野沢さんの第2期は、第1期の終わりと重なる92年から始まります。
この年、彼はフジテレビの「親愛なるものへ」で連続ドラマ、それもトレンディ・ドラマと呼ばれていたジャンルに挑戦しました。

当時内館牧子や野島伸司らの脚本で、若い女性の圧倒的な支持を受けていたトレンディ・ドラマへの野沢さんの参戦は、業界内でも軽い驚きをもって受け止められたように思います。主役にはトレンディの女王浅野ゆう子をむかえ、野島ドラマのような驚異的な視聴率を叩き出すという事こそなかったものの、批評の面では期待は十分に達せられたように記憶しています。

もっとも当時トレンディという言葉自体が一種の流行語になっていて、いま振り返ってみると、果たしてトレンディ・ドラマって何だったんだろうという気はします。いったい「親愛なるものへ」はトレンディなのか?――少なくともその典型と見られていた内館ドラマとは(当然ですが)、随分と感触の違うものではありました。

96年のフジテレビ「おいしい関係」では、プロデューサーと意見が合わずに、途中から他のライターとの共同脚本の形をとるというようなアクシデントもありました。

この第2期の連ドラの時代は1999年まで続きます。その最後の2年間に野沢さんはフジテレビから2つのミステリ・ドラマを送り出しました。それが「眠れる森」(98)と「氷の世界」(99)です。

「眠れる森」はキムタクの主演で、視聴率は約束されたようなものでしたから、脚本家はさほど視聴者におもねることなく、ある程度書きたいように書くことは出来たんじゃないかと思います。犯人探しという連ドラにはなりにくい素材で、明らかにチャレンジと呼ぶにふさわしいものでした。

「氷の世界」は松嶋菜々子と竹野内豊でいわゆる『月9』の枠。
しかしこの二つのドラマでは、別種の問題が出てきました。テレビドラマ・データベースの記事から引用させてもらいます。

「1998年にはミステリードラマ『眠れる森』を発表。綿密なコンストラクションによる精巧な脚本づくりをモットーにする野沢氏らしい連続ミステリードラマの傑作で放送当時、『犯人は誰か』が巷の話題をさらいました。作品自体も出色の出来映えと評価する向きも多かったのだが、ネットを中心に犯人捜しという点だけを見て批判を寄せる向きも少なからずあったようだ。こうした声に野沢尚氏は敏感に反応、次作のミステリー『氷の世界』では予想を覆す犯人を用意したものの、逆に全体の作品構造のまとまりに欠ける仕上がりとなってしまった。」

こうしたことも、野沢さんを小説に向かわせた原因のひとつなのでしょうか。

この2つのドラマではもう一つ、野沢さんとインターネットとの係わり合いという意味で、無視できない事件が起きています。

「眠れる森」で局のHPに寄せられる視聴者からの声に触れた野沢さんは、続く「氷の世界」では、自らも番組のHPに設けられたBBSに作者として実名で登場することにしたのです。

しかし本人が出てきたと知った時、匿名の発言者たちは、野沢さんに対する誹謗や中傷、人格攻撃を始めたのです。

「『お前の作品はひどすぎる』
『作家なんかやめちゃえ』
 私はそう書いた人と話したいと思った。『何でそこまで言うのか』『なぜやめなきゃいけないのか』と。しかし実際の本人と話すすべはない。ネットの世界では、結局言われっ放しで会話ができないのかと、もどかしい思いばかりが募る日々だった。
 私は自分の名前を出して発言した。しかし相手はそうではなかった。匿名性というなかでは、どんな人間でも演じられる。自分の発言に責任を持たずに、どんなことを言っても攻撃されはしないという安全地帯にいる。私が『本当のお客さんなんじゃないか』と思っていた人は、実はどんなふうにでも化けられる。この人たちの生の声はいったいどこにあるのか。」
(「野沢尚のミステリードラマは眠らない」より引用)

私はそのBBSを読んでいませんが、2ちゃんねるのいわゆるお祭り状態になったのであろうことは、十分に予想がつきます。
野沢さんにはその種の免疫が無かったのでしょう。上記の引用した部分だけを読んでも、あまりにもナイーヴであった様子が伝わってきます。

「ハンドルネームを持つ人々が自由な意見で意見交換をする匿名社会は、人々の心に悪意を増殖させている。発言に責任を取らなくてもいい。てっとり早く相手を攻撃できて、憂さ晴らしができてしまう。」(同)

今だったら「そこでブログですよ」とお薦めしたいところですが、1999年ですから、まだブログは存在しなかったですよね。
(続く)

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2006年8月14日 (月)

「魔笛」 野沢尚

20060814nozawajp「魔笛」は野沢さんが2002年に発表した小説です。タイトルの通りモーツァルトのオペラ「魔笛」を思わせる幾つかの要素がさりげなく登場する他、作品全体も善と悪、光と影が背中合わせになっていて、ある意味ではモーツァルトの歌劇を知らない人には作品の全体の姿は見えないようになっています。

しかし、かといって野沢さんがオペラ「魔笛」にインスパイアされたとか、オペラのストーリーをある程度なぞっているとか、はたまたオペラそのものの見直しを迫るとか、そういった本質的な部分まで「魔笛」に取り込まれているのかと言えば、そういうわけでもなくて、さりとて歌劇「魔笛」を便利な小道具として使っているというのでもなく、オペラ好きにとってはなんとも不思議な読後感に誘われる作品です。

NOZAWA  HISASHI

野沢尚さん(1960-2004)は多くの方がご存知かと思いますが、まず映画とTVドラマの脚本家としてスタートしました。
後に映画化される「Vマドンナ戦争」(1985)の脚本で、城戸賞(※)に準入選したあと、「マリリンに逢いたい」(1988)などの映画用脚本を書く一方、TVの世界ではかつての読売テレビの名ディレクター鶴橋康夫さんと組んで、優れたドラマを数多く生み出しています。

(※ 松竹の社長だった城戸四郎氏を記念して設けられた新人のための脚本コンクールで、国内ではもっとも権威あるシナリオ関連の賞の一つ。)

一般的には鶴橋さんが野沢さんを育てたなどという言い方をされることが多いように思いますが、もちろん育てるにしても育つにしても才能があるからで、鶴橋さんは野沢さんの才能を的確に引き出したという言い方でも良いのかもしれません。

二人のコンビによる作品は1985年から1992年までの8年間に十数本(たぶん15本)。その後しばらく途絶えて2000年と2004年に、それぞれ野沢さんの小説のドラマ化という形で1本づつあります。この92年までの鶴橋さんとの時代を野沢さんのキャリアの第1期と考えてもいいんじゃないでしょうか。

ここで野沢さんが単に熟練のシナリオライターとなるべく、鶴橋さんに鍛えられたということなのか、それともそれ以上に思索の方向や問題意識の持ち方、人が生きるとは何なのかということ、自らの「業」を探り当てるということ、などなどそういった事柄について鶴橋さんの影響を受けているのか、いないのか、大変に興味のあるところです。
この時期の最後の作品にあたる「雀色時」(すずめいろどき)などは、どこまでが鶴橋ワールドでどこまでが野沢ワールドなのか区別がつきません。いずれにしてもテレビドラマの枠をはるかに超えた驚くべき作品でしたが。

この第1期における映画関連での重要な「仕事のエピソード」としては――という日本語はちょっと変で、普通は『重要な仕事は』でいいわけですが――、北野武の第1回監督作品「その男、凶暴につき」の脚本というのがあります。

小説「破線のマリス」の後書きに自ら書いている通り、この作品の撮影中に野沢さんは、どうやら北野監督が脚本を滅茶苦茶変えてるらしいという噂を聞きつけます。そして完成した作品を試写で見た野沢さんは、それが事実であること、そしてにもかかわらず映画は傑作であったことに大きなショックを受けます。

野沢さんの心は傷つき、北野監督の2本目の作品のための執筆依頼も拒絶してしまいます。野沢さんの生涯を振り返ると、この人は人並みはずれて傷つきやすい人なんだなあと思ってしまうのですが、この件に関してはその気持ちは察するにあまりあります。

一方北野監督の方も、その後自ら台本を書くようになり、「脚本は監督が自分で書くもの」と公言するようにもなりました。いま思ったんですが、書くこと自体は、あくまでも自分の思い通りに書きたいから書いてるんでしょうけれど、わざわざ「監督が書くもの」と発言してるのは、あるいは野沢さんに対する気遣いもあったのかもしれません。
(続く)

画像の一部に、いつもの東京発フリー写真素材集さまからお借りした、渋谷の写真を加工して使わせていただいています。

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2006年8月13日 (日)

シャングリラ ~芸能&スポーツ・ニュースの落穂拾い

20060812chinajp_11.映画「PROMISE」ロケ地環境破壊で罰金

「中国建設省は、日本でも公開された中国の巨匠チェン・カイコー(陳凱歌)監督の映画『PROMISE』の撮影チームに対し、ロケ地の雲南省シャングリラ県の景勝地で環境を破壊したとして、罰金9万元(約130万円)の支払いを命じた。」(ニュース全文

ニュースの中身はまあどうでもいいとして。
ヒルトンの「失われた地平線」の中に出てくる、シャングリラのモデルはここだった!というニュースが駆け巡ったのはいつごろだったでしょうか。
その場所は雲南省の最北部なのですが、地理的には東チベットと言ったほうが判りやすいのかもしれません。住んでいるのもチベット族のようです。
ここは昔は中甸(ジョンディエン)と言っていた所で、2年ぐらい前だったと思いますが、ついにシャングリラ(香格里拉)に名前を変えてしまいました。なんとなく中国の県の名前にシャングリラなんて付けて欲しくないと思うのは私だけでしょうか。まあ幻の南セントレア市よりはマシだとは思うんですが。

2.これが具志堅流のサプライズや!(<とは言ってませんが)

「プロボクシングWBA世界ライトフライ級王座に就いた亀田興毅選手(19)=協栄ジム=に対し、東洋太平洋同級王者、嘉陽宗嗣(かよう・むねつぐ)選手(23)=白井・具志堅ジム=が挑戦相手として名乗りを上げた。嘉陽は、亀田批判が元で協栄から“絶縁状”を叩きつけられたWBA元世界Lフライ級王座、具志堅用高・同ジム会長(51)のまな弟子。場外バトルはリングで決着するか。」(ニュース全文

具志堅さんはこれまで、かませ犬方式で上がってきた亀田兄のやり方について、厳しく批判していて、亀田が所属する日本最大の協栄ボクシングから、交流停止を言い渡されていました。

しかし今回の試合結果に関しては一切の発言を控えていて、ネットではどこかから圧力がかかってるんじゃないかなどと、心配する人もいました。
まさかサプライズを準備していたとは。

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2006年8月11日 (金)

福耳

20060811viviennejp右の耳が福耳になってしまいました。

冗談ごとではなくて・・・。昨日から突然右の耳が赤く腫れてきて、おまけにリンパ腺まで。右の耳が左の耳の1.5倍くらいになっちゃいました。
医者にいったら、なんだか恐ろしげな病名を告げられました。入院一歩手前だったみたい。
昨日、ただの海水浴場の写真に、いいかげんなキャプションをでっち上げた報いでしょうか。

ところでこの福耳ですが、ただ耳たぶが大きければいいというものではありません。口の方、というんですから手前に向かってということだと思いますが、すこし傾いていて、米粒一つぐらいが乗るのが、一番福を呼ぶ耳とされているんだそうです。

たしかに布袋さまも大黒さまも恵比寿さまも、みんな米粒の3つや4つは軽く乗せられそうです。

福助もそうなのかなと思って「福助」株式会社のHPにアクセスしてみましたが、福助の場合はそうでもなくてダラーンと垂れてるのが多いようです。

(ついでながら「福助」では、先月ヴィヴィアン・ウエストウッドの男性用インナーの製造・販売のライセンスを取得、来年1月から売り出すんだそうです。
ヴィヴィアンって、昔は「いかにもロンドン」っていう感じの先鋭的デザイナーでしたが、いまや大量生産の男性用インナーウェアまで手がけてるんですね。まあ私なんかは絶対に着れないようなのと想像いたしますが。だってヴィヴィアンのメンズってこんなですからねぇ・・・)

お盆期間中、更新が途切れ途切れになるかもしれません。

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2006年8月10日 (木)

話題4件~ 芸能ニュースなどの落穂拾い

20060810sendaiwanjp1.瀬川瑛子さんは語る

今日のフジテレビ「ごきげんよう」に歌手の瀬川瑛子さんが出演していました。そのときのお話を、ご紹介します。

瀬川さんはオープン・カフェが好き。その日も都内のカフェで何人かとお茶を飲んでいました。話が弾んだのか、結構な時間がたったらしく、ウェイトレスの女の子がお冷を替えに来たそうです。
瀬川さんは、気をつかって
「すみませんね。長居しちゃって」。
そしたらその女の子は、<え?>という表情。なんだか微妙な顔をしてこう言ったそうです。
「いえ、、、、いつまでも長生きして下さい」

2.レイザーラモンHGが鈴木杏奈と結婚

ええーーーーーーっ!鈴木杏ちゃんが!何が哀しくてHGと結婚なんて・・・
と思ったら杏じゃなくて杏奈か。ああ、びっくりした。
――つうか、鈴木杏奈って誰よ。

3.オオワシをアパートで!?

「国の天然記念物に指定されているオオワシを盗んだとして、警視庁八王子署は10日、東京都八王子市の無職少年(19)を盗みの疑いで緊急逮捕した。
 オオワシは無事だった。」(ネットニュース

売買が禁止されてるはずの国の天然記念物が、なぜにペットショップにという疑問はともかく、この19歳の無職少年。アパートのベランダでオオワシ飼うなんて、いくらなんでもあんまりでしょ!

4.白い影

ところで皆さんは白い影を見たことがあるでしょうか?私はあります。

普通は影というのは黒いですよね。まあ、黒いというより暗いんですけど。
この黒い影は当然、物質が光を遮るために出来るわけです。物質じゃないものが光を遮ると白い影が出来ます。

私が白い影をみたのは数年前の冬のことで、山形に行った帰りでした。そのとき私は最終に近い夜のJR仙山線に乗りました。山形駅を過ぎるとすぐに、線路の周囲は深い雪につつまれます。

白い影を見たのは途中の作並駅でした。すっかり眠っていた私は、なにげにふっと目を開けました。すると雪かきされて、1メートル以上の雪の壁が出来ていたホームを、白い影がスーッと通って行ったのです。
私はすぐに判りました。「あっ、白い影だ!」

白い影は雪の壁の上を越え、向こうの山の方に向かっていきました。降りて追いかけようとしましたが、残念ながらそのとき電車は発車してしまったのです。まあ深い雪だし、すでに周囲は真っ暗になっていたので、無理なんですが。せめて写メールだけでも・・・残念です。

そのまま電車は走り、私は少し居眠りをしました。愛子(あやし)駅を過ぎた頃、うつらうつらしている私の耳に車内アナウンスが聞こえました。ここからの続きは実は去年4月12日にコメントで書いたのですが、すみませんが同じものを再掲させていただきます。

>普通「次は○○、降り口は右側です」とか「降り口は左側です」とかアナウンスしますよね。
その時の車掌は「次は北仙台、次は北仙台、降り口は適当です」って言ったんですよ!信じらんない。

信じらんないでしょう?どっちも。でも本当ですから。。。。。

写真:仙台湾沖に出現したUFOと、見物に集まった人たち。

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2006年8月 9日 (水)

伊達(だて)

20060809nishikouenjpまずこちらをクリックしてみてください。>クリック!

このちょっとジャパネスクが入った、素敵なガウン。誰のデザインでしょうか?カステルバジャック?キキ・フェロー?

実はこれ伊達政宗の陣羽織なのです。中には政宗よりもう少し後の時代じゃないかという研究者もいるようですが、いずれにしても伊達家のお殿様の陣羽織であることは間違いありません。

陣羽織はもちろん戦争の時に着ていったわけですが、江戸の世になってからは大阪夏の陣は別として、戦など無くなったわけですから、あるいは鷹狩の時にでも着たのでしょうか?
私が初めてこの羽織を見たのは、たぶん伊達家から仙台市博物館に寄贈され、一般展示された時だったと思いますが、あまりのカラフルさとポップな意匠にビックリしてしまいました。

仙台市博物館の解説によりますと、この羽織は「羅背板(らせいた)という薄い毛織物で作られ」ていて、「模様は地を円形に切り抜き、そこに色を変えた円形模様をはめこむ切嵌(きりばめ)という技法で表している。円の輪郭は紐でくくっている」ということです。

でも考えてみると、よく知られている政宗の兜の三日月のデザインも相当強烈ですから、このぐらいの陣羽織の模様でつりあってるのかもしれません。


もともと伊達政宗は、ある種派手好みということで知られていました。

秀吉の朝鮮出兵の際に、政宗は秀吉から割り当てられた人数の倍の3000の兵を連れて京都に入ったのですが、その時の伊達軍のいでたちは、見物していた町の人々を驚かせるほど豪華絢爛で奇抜なものだったと伝えられています。
これが「伊達者」(そして「伊達男」)という言葉の起源と言われています。

絢爛はまあいいとして、江戸時代の侍の軍装で「奇抜」って、いったいどんなだ?と思いますが、よくわかりません。

仙台市博物館の所蔵品の中から、こんなおとなしいのを発見しました。これは衣服や甲冑の上からはおる上着で、家臣の片倉家所蔵だったもの。随分と地味な非・伊達者風だなと思ったらやっぱり。秀吉から拝領したものだそうです。

写真:仙台市民プール

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2006年8月 8日 (火)

広瀬川に流したもの――

20060808tanabatajp1.七夕飾り

この写真は宮町にある老舗の味噌醤油屋さんの七夕飾りなんですが、一番前にあるオレンジの何か分かりますよね。
和紙でつくった紙衣(文字通り紙で作った着物)です。

七夕飾りというと華やかなクスダマと吹流し、そして願い事を書いた短冊が代表的ですが、実は昔ながらの竹飾りには他にも欠かせないいくつかの飾りがあります。

その一つがこの紙衣です。着物のほか、半纏なんかもありますが、これは裁縫が上手くなるようにという願いをこめて飾られたもののようです。子供がいる家庭では、七夕が終わるとこれをまず子供に着せ、それから広瀬川(右下の写真)に流していました。病気をしないで健康でくらせますようにということだったようです。

20060808hirosegawajp紙衣にかぎらず、戦前までは七夕飾りは全部広瀬川に流すというのが習慣だったようです。
仙台市内で飾られる竹飾りをすべて広瀬川に流すなんて、想像しただけでも「!?」ですが、でもそうしていたみたいなんです。最後は海に流れ着くわけですが、和紙と竹ですから、結局は分解されるということでしょうか?

2.人型

戦前の仙台市内の小学校では、夏休み前の終業式の日、センセイから子供たちに人の形を印刷したわら半紙が渡されたそうです。
実はこれは水難よけのおまじない。この人型を切り抜いて、全身をくまなくペタペタペタと叩いて、そのあと広瀬川に流すという風習だったそう。
学校で渡すっていうのが面白いですね。

3.お盆のお供え

お盆の時に仏壇(盆棚)に供えた食べ物も、広瀬川に流していました。おおきな蓮の葉にお盆期間中に供えた物をくるんで、下に棒を2本さした茄子を置いて流していたそうです。
ようするに精霊流しなんですが、ナスは牛を意味していて、お盆に帰ってきた先祖の霊が、戻る時には牛に乗ってできるだけゆっくり帰るようにということなんだとか。

4.胡瓜の初物

キュウリの初物が出回ったときも、「お河童さま」といって、最初の1本を広瀬川に流すのが風習でした。これはもちろん水難避け。河童はやはり胡瓜が好きだった!
この行事は仙台のほかにも各地であって、なかには自分の名前をキュウリに書いて流すという地域もあるみたいですね。

仙台ではお正月の注連飾りも、ゴミとして捨てたりせずに「どんと祭」で燃やすのが普通ですし、この手の行事が好きな土地柄なのかもしれません。
また、徹底的に合理的に暮らそうとしないで、言ってみれば無駄な行為を、風流な習慣として根付かせることが出来たというのは、ある意味でそれだけ余裕があったということ、つまり伊達藩の豊かさを示していたとも見れそうです。

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2006年8月 7日 (月)

裏通りの七夕

20060807tanabata3jp仙台七夕、昨日は日曜日だったこともあって、82万5千人の人出を記録しました。
まあこうなると七夕のメインストリートは、げんなりするような人の波。中央通りから脇にそれた裏通りでは、疲れ果てた観光客が地べたに座り込んで休んでいます。

この通りから角を曲がって東二番町に抜ける路地は、ここ数年すっかり様変わりして「仙台のフォーブル・サントノーレ」とまで呼ばれる(<すみません、今作りました)ブティックやオープン・カフェテラスが並ぶオシャレな通り。普段歩道と車道の段差に座り込んでる人なんて、見るわけもないのですが、みんなで座れば怖くない?

20060807tanabata4jp一方表通りでも、これだけ見物人が多いと裏方さんは大変です(この写真は一番町三越の前に出来てた屋台の列)。勾当台公園に作られた屋台村をしばし観察してたんですが、ばんばん売れてる屋台とそうでもないところがあるんですね。亀父みたいなちょっとアッチ系風貌の人が、威勢よく声を張り上げるというパターンが、意外と売れるみたいです。

下の写真は宮町通りの七夕。この通りの突き当たりに東照宮があって、その門前町なので宮町という名前がついていますが、戦前の人は「お」をつけて「御宮町」などと言うのが普通だったみたいです。

20060807tanabata1jpここは裏通りじゃなくて表通りなんですが、そのわりにはちょっと閑散としてますよね。この通り、昔は結構盛大に七夕飾りを飾っていました。もちろんメインの中央通や一番町ほどではありませんが、狭い通りに大きな竹飾りを並べて、それなりに賑やか。&メイン・ストリートほどでもない落ち着いた人出ということで、私は割りと気に入っていました。
なにしろ七夕期間中は路線バスが経路変更して、別のルートを通っていたくらいだったのです。

20060807tanabata2jpところがどのぐらい前になるでしょうか。この宮町通りが拡張整備されたら、なぜかいきなりショボくなってしまいました。
今は各商店がそれぞれ飾りを飾っているものの、通り全体としてはなんとも寂しく、かつなんの風情も感じられなくなってしまいました。
まあしょうがないことなんでしょうけど、ちょっと残念です。

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2006年8月 6日 (日)

仙台七夕開幕

20060806tanabata1jp仙台七夕がきょう開幕しました。期間はあさって8日までの3日間。
仙台市内の商店街にはおよそ3000本の竹飾りが並び、定禅寺通りではパレードも行われます。――というかこの写真を撮った帰りに定禅寺通りのパレードも見に行ったんですが、凄い人出で(まあ予想通りだったんですが)、パレードのパの字も見えませんでした。

20060806tanabata2jpところで七夕の歴史は去年の日記に書いてしまったし、もう書くことがありません。やはり写真でごまかすしかなさそうです。

共同通信によれば、
「ことしは拉致被害者家族会の横田滋さんらが事前にしたためた短冊も飾られた」とのことですが、メインストリートじゃなく脇の通りを歩いて時々、七夕通りに入り込んでたので、横田さんの短冊がどこにあるのか見つけられませんでした。

ところできょうの日本列島は各地とも猛暑に見舞われ、岐阜県下呂では38.6度を記録したそうです。
東京も今朝は最低気温が30度を超え、熱帯夜(最低が25度以上)なんてもんじゃないですね。亜熱帯だからしょうがないとはいえ。

20060806tanabata3jp
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宮城県地方はこの後1週間、晴れか曇りの良い天気が続きそうです。明日が最高30度が予想されてるほかは、27~29度とまあまあ過ごしやすい日になりそうです。まあ、最近の週間予報はあまり当りませんけども。

もしなにもなければ明日は裏通りのしょぼい七夕をご紹介します。

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2006年8月 4日 (金)

シュヴァルツコップ逝去

20060804schwarzkopfjp_1エリーザベト・シュヴァルツコップが亡くなりました。享年90歳でした。


さきほど前日分の記事へのコメントで助六さんに教えていただいた、フランス「ル・モンド」のサイトを再掲しておきます。
http://www.lemonde.fr/web/article/0,1-0@2-3382,36-800894@51-800896,0.html

それからこちらはヴァランシエンヌさんに教えていただいたオーストリア放送協会の記事です。インタビューも聞けます。
http://oe1.orf.at/highlights/62805.html


エリーザベト・シュヴァルツコップ(シュワルツコップ)は20世紀を代表するソプラノ歌手で、なかでもモーツァルトとR・シュトラウスのオペラ、そしてシューベルト、シューマン、ヴォルフなどのドイツ歌曲の解釈に関しては、後に続いたすべての女性歌手の規範となるような歌唱を残しています。

シュヴァルツコップはドイツ人で、1915年現在はポーランド領になっているヤロチンの生まれ。ベルリンで学び、1938年に「パルシファル」の花の乙女でデビュー。

彼女は最初はアルトだったらしいんですが、有名なマリア・イヴォーギュンとその夫のラウハイゼンに師事、コロラトゥーラ・ソプラノに転向したと言われています。またこの二人からはリートの指導も受けていて、後にシュワルツコップがドイツ・リートの女王となる下地を作りました。

1942年にはウィーンで歌曲リサイタルを開いたのをきっかけにカール・ベームに認められ、ウィーン国立歌劇場の第一コロラトゥーラ・ソプラノに招かれます。
ということで初期の彼女のレパートリーは、ツェルビネッタや「セビリャの理髪師」のロジーナ、「仮面舞踏会」のオスカルなどなど、後年のシュワルツコップしか知らない我々にはちょっと想像しがたい役柄が並んでいます。

戦時中のシュヴァルツコップはナチの支持者だったと言われていますが、女性ですし具体的にどういうことかよくわかりません。入党の申請をしていたというのは事実のようですが、後に「歌手としてのキャリアを築くためだった」と弁明しています。このあたりはカラヤンと一緒で、ある種ブラックボックスになっているんじゃないでしょうか。

戦後の1946年にリサイタルで絶賛を博した後、1947年のザルツブルク音楽祭で「ドン・ジョヴァンニ」のドンナ・エルヴィーラを歌ったことが、彼女のキャリアの大きな転換点になります。この時コロラトゥーラからリリック・ソプラノへと進み、我々が知っているシュワルツコップが出現するというわけです。

この時代のシュワルツコップの声は、フルトヴェングラー指揮の「ドン・ジョヴァンニ」の、古いほうのライヴで聞くことが出来ます。ゴッビのドン・ジョヴァンニ、クンツのレポレッロ、リューバ・ヴェーリッチのドンナ・アンナにシュワルツコップのエルヴィーラというキャストで、むかしは有名な海賊盤だったのですが、いまCDで入手可能かどうかちょっと不明です。

1951年にはバイロイト音楽祭でフルトヴェングラー指揮でベートーヴェンの第九交響曲に出演。この演奏のライヴ録音はEMIから発売され、長いあいだ第九の決定盤的レコードとされていました。

またこの頃カラヤンの指揮でスカラ座で「薔薇の騎士」の元帥夫人を歌い、いまだに他の歌手の追随を許さない生涯の当り役となります。

シュヴァルツコップのレパートリーでは、元帥夫人とドンナ・エルヴィーラのほかモーツァルトの「フィガロの結婚」の伯爵夫人、「コジ・ファン・トゥッテ」のフィオルディリージ、「カプリッチョ」のマドレーヌなども、絶対的ともいえる評価をうけていて、こうした役柄だけをつい思い出してしまいますが、実は彼女はストラヴィンスキーの「レイクス・プログレス」やオルフの「トリオンフィ」などの世界初演にも参加するなど、想像以上の幅広いレパートリーの持ち主でした。

またリート歌手としてはシューマン、ヴォルフ、R・シュトラウスなどに、最高の解釈者という評価を確立しています。

シュヴァルツコップは度重なるファンからの要請、プロモーターからの勧誘にもかかわらず、日本にこないことで有名でした。しかしついに重い腰をあげて初来日したのは1968年。

(ちょっと記憶が定かじゃないのですが、彼女は東洋人にドイツ・リートがわかるわけがないと信じていて、来日する気などまったくなかったのにもかかわらず、フィッシャー=ディースカウが日本のリート・ファンの素晴らしさを彼女に伝えて、それで翻意したとか。)

ところが来日してみたら、日本が気に入ったのか、その後70年、72年、74年と来日公演をおこなっています。

74年の秋に全国7カ箇所で行われた、一連のフェアウェル・コンサートは私も聞きました。
12月10日の東京での最後の公演は「薔薇の騎士」の一幕のモノローグも歌ったようですが、私が聞いたのはその日ではなく11月の公演で、プログラムはシューベルト、グリーグ、マーラー、ヴォルフ、R・シュトラウス。ディテイルはすべて忘れましたが、アンコールの最後に歌った「献呈」の素晴らしさだけは別格でした。この頃のシュヴァルツコップはさすがに声は衰えていて、本プロはレコードから想像していたような輝きも艶もなくなっていましたが、なぜかこの「献呈」だけはそれまでのすべてを吹き飛ばすような絶唱。誰かが「ろうそくの炎が消える瞬間に最後にパッと輝くような」と形容したのを覚えています。

シュヴァルツコップは非常に真面目で厳格な人という印象ですが、意外と少し変った人ではないかという気もします。なんとなく風変りなエピソードが多少あるのです。

詳しいことはわかりませんが、彼女のマスター・クラスに参加したルネ・フレミングが二度と思いだしたくないと語っていること。
やはり彼女の元で学ぼうとしたテレサ・ベルガンサが、あなたは才能がないからいますぐスペインに帰りなさいといわれたこと。
フルトヴェングラーの「トリスタンとイゾルデ」で高音が苦しいイゾルデ役のフラグスタートに代わって最高音だけを歌ったこと。
初来日の時に日本の音楽雑誌が「オペレッタの女王」と書いたら(彼女はオペレッタの録音にも参加して名唱を聞かせていたが、オペレッタはオペラにくらべて一段格落ちなので、舞台では歌ったりしていない)、「私はオペレッタの女王ではない」と言って怒ったこと。

別にどうってことないと言えばどうってことないんですが、なんかどこかがチラッとズレてるような気も。

つい先日NAXOSから、古いほうの「四つの最後の歌」(アッカーマン指揮)とマタチッチ指揮の「アラベラ」の抜粋が復刻されてるのを見つけて、買ってきたばかりでした。セル指揮のEMI盤と比べると、若々しく艶やかな声の響きが魅力でした。

どうぞ安らかに。

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2006年8月 3日 (木)

食べられない2題 & やっと夏がやってきました

20060803hirosedorijpTVもネットも亀田一色。私はあの兄弟の顔を見てるだけで不愉快になるので、当然見ませんでしたが、こんな騒ぎになるんだったら見ておけば良かった・・・。ブログのネタになったのに。

それにしても視聴率が42%!驚異的ですね。しかも瞬間最高は50%をこえたとか。
日本人の半分以上があのヤン顔を見たがってたとは。もうビックリです。それにしても今後は弟たちの試合まで、全部「どうせあいつらは八百長だから」という目で見られることになるのでしょうか。

さてようやく東北にも夏がやってきました。天気予報だとこのまま晴れた暑い日が続く予想。今日出た7月31日現在での米の収穫予想(米穀データバンクによる)では、東北は宮城など4県が作況指数が94以下の不良のようですが、持ち直して欲しいものです。

青 森 92 
岩 手 93
宮 城 94
秋 田 97
山 形 98
福 島 93

      

ところで・・・

皆さんはすごくケチな家にきたお嫁さんの話をご存知でしょうか?

昔むかしあるところに・・・だと思うんですが、場所もいつのことかも私は知りません。
あるところに、物凄くケチな男の人がいました。この人、ケチでケチで・・・。奥さんが欲しいのですが、もらった嫁に飯を食わせるのが、もったいない。考えただけでも、悔しくて仕方ありません。

なんとかしてご飯を食べさせないで済む方法はないかと考えていたら、ある日のことです。
なんと隣町に口の無い女の人がいるというではありませんか。

口が無ければ飯は食わないに違いない。この男、さっそくよろこんでその人と結婚しました。
なんと彼女は、予想通りまったく食事が出来ません。なにしろ口が無いんですからね。
男に輪をかけたケチのお姑さんも大喜び。

でも彼女、毎晩夫が寝静まった頃、なぜか布団を抜け出すのです。
その夜も夫がぐっすりと寝込んだ丑三つ時、彼女は布団を抜け出して台所に向かいました。

ちょうどその時、その輪をかけたケチのお姑さんが、厠から戻ってきてその姿を見かけたのです。
なにをしてるんだろう・・・そっと覗いてみたお姑さんの目に映ったのは・・・

長い黒髪を振りほどいた彼女の頭には、ぱっくりと大きな口が開いていたのです。。。でもって、米びつからご飯をガッポガッポと頭の口に放り込んでいましたとさ。

ところで・・・

みなさんはすごく高貴な方が、何も食べられなかった話をご存知でしょうか。

そう、そこはある大衆的な料理店でした。ふだんはやんごとなき人など来るわけもないような店なのですが、でもとても美味しい店ということで評判だったのです。

その方は一度大衆的な店というもので、食べてみたかったのかもしれません。
しかし店の方は大変です。いまだかつてただの一度も高貴なかたなど、迎えたことはなかったのですから。

でもご主人は緊張しながらも思う存分腕を振るって、最高の料理を作りました。
やがてテーブルに料理が出されます。女将さんやお店の従業員も最高に緊張して、その高貴なかたを見つめています。

しかしその方はしばらく料理を見つめていた後、口もつけずにひとこと言っただけでした。

「食べられない・・・」

ど、、、どこかお気にめさないところがございましたでしょうか?女将さんはおそるおそる聞きました。

「箸がない」

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2006年8月 1日 (火)

きょうから8月

20060801tougarashijp

なのに・・・。

きょうの仙台は最高気温が21度ぐらい。昨日の予報では午後からは晴れになるはずだったのに、ずっと曇り。つい先日、日焼けによる皮膚ガンの心配をしたばかりですが、どうも日焼けするほどの日照すらないような・・・。まあ水不足の心配だけはなさそうですが、いやですねえ。

また93年のような冷害の年にならないといいんですが。宮城県はいうまでもなく米どころなわけですが、今年は冷夏に加えてイモチ病の流行も心配されていて、著しい不作になりかねないと予想されているようです。なんとかパーッと晴れて暑い日が続いて欲しいものです。

翌年に米輸入騒動となった1993年は、ご記憶の方が多いと思いますが、まれにみる冷夏で、米の作況指数は全国平均が74。コシヒカリの新潟は98でまあまあだったものの、宮城はなんと37!壊滅的な不作だったようです。ようですというのは、このころ私は宮城県にいなかったからなんですが。
まあ今年は仮に不作だったとしても、あの時と違って備蓄があるので、94年のタイ米騒ぎのようなことは起きないそうです。

でもあの細長いインディカ米というのも、あれはあれで炒飯とかにはバッチリだったんですが、まあ毎日炒飯ばっかり食べるわけにもいきませんしねぇ。

インディカ米で思い出したんですが、清水義範さんの短編集「12皿の特別料理」にパエーリアという項目がありました。スペイン旅行で食べたパエリアがあまりに気に入って、作ってはみたものの日本のウルチ米を使ったために、すっかり水っぽくてぶよぶよのパエリアになっちゃって・・・というOLの話。
でもそれを食べた彼氏はなにしろパエリアを食べたことがなかったので、洋風おじやだと思って美味い美味いと――。
「ああおいしかった。この、味噌の味が微妙に洋風になってて最高だったよ」サフランの味を味噌だと勘違いしたというオチまでついて。

写真:自給自足を目指して唐辛子を・・・

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