« 中田 | トップページ | うわ~~~~・・・B&Wの新製品のデザイン ~オーディオ・ニュースの落穂拾い »

2006年10月23日 (月)

さ、寒い  いろんな意味で ~ニュースの落穂拾い・2 Watch What Happens

20061023keigojp寒いです。明日の仙台の最高気温は12度。最低じゃなくて最高ですよ。これじゃまるで冬。中田選手のような4メートルぐらいの超ロングマフラーが欲しいところです。

もっとも北海道はもっとすごくて、札幌の朝の予想最低気温は1度、旭川の予想は氷点下2度(!!!)だとか。

それはともかく。

目上に「ご苦労さま」NG=敬語使用で初のQ&A指針案-文化審(時事通信)

などというニュースが。

 「目上の人をねぎらう時に『ご苦労さま』はふさわしくない。『お疲れさま』を使いましょう」。文化審議会の国語分科会(阿刀田高会長)は23日、敬語の使用法をQ&A方式で示した指針案をまとめた。一般からの意見も聞いた上、来年2月に文科相に答申する。文化庁は国民向けの初の具体的指針として広く活用を呼び掛ける」

それはまあ、その通りなんだけど、そんなことわざわざ文化審議会がいうことか?という気も。
それにこの書き方だと「お疲れさま」とだけ言う人が増えそう。「お疲れさまでした」と「でした」か「です」を付けなければ。

敬語の使い方というのは、本来は家庭で教えるべきなんでしょうが、まあいまや家庭にそんなことを期待するのが無理ということなんでしょうか。でも、会社で間違った使い方してる人がいたら注意してやるとか、そんな程度で済む問題じゃないのでしょうかねえ。わざわざ文化審議会が。

それに私は敬語は重要だと思ってますが、だからといって国が敬語の使い方に積極的になるというのも、ちょっといやな感じが。
まあ、文科省としては、各家庭や、学校、職場、団体、あるいは地域によって、異なる敬語の使い方があり、異なる「よりどころ」を持っているので、「よりどころのよりどころ」として使って欲しいと言ってるんですが。

文化審議会の国語分科会というのは、昔の国語審議会のことで、過去に敬語にかんしては昭和27年と平成12年の2回、審議を行い建議/答申を行ってきたようです。

昭和27年と平成12年の間がすごく時間があいていて、平成12年と平成19年(に答申が出されるので)の間が7年しかないというのは、面白いところです。

今回に関しては、昨年3月に文部科学大臣が文化審議会に諮問したもので、「敬語がコミュニケーションを円滑に行い、確かな人間関係を築いていくために欠かせないものであるという基本的な立場に」立ち、その上で、「敬語が必要だと感じているけれども現実の運用に際しては困難を感じている人たち」を主な対象として、「具体的な場面における敬語の適切な使い方」などをまとめることになっているようです。

「敬語が必要だと感じているけれども現実の運用に際しては困難を感じている人たち」。

これって「敬語使わないとまずい場面でも、使い方が分かんない」ということですよね。どちらかというと、こういうまわりくどい言い方を、お役所の文書から排除するような指針とか出して欲しいかも。

※ 文科省の写真はいつものように「東京発フリー素材写真集」さまから

|

« 中田 | トップページ | うわ~~~~・・・B&Wの新製品のデザイン ~オーディオ・ニュースの落穂拾い »

コメント

>国が敬語の使い方に積極的なるというのも、ちょっといやな感じ
ちょっとどころか、ある種の「深謀遠慮」を感じちゃうのは、過剰反応かしら?

人間として対等な関係の中で、親しき仲にも礼儀有り という意味での敬語なら大いに賛成ですけど、上下関係を明確にすべきだという方向に
なっちゃう嫌な予感。

審議会とやらも、今までだったら、静かに本でも出して、国語の先生とか関係者が個人的に目を通すだけのことなんでしょうけど、ここでマスコミ(メディア)が悪乗りすると嫌な感じになる可能性もなきにしもあらず....かもしれません.....

投稿: edc | 2006年10月24日 (火) 09:50

敬語は重要だ ― これは日本語・日本文化の特徴だと思いますが、実際必要なのでしょうか?洗練された丁寧語で十分だと思うのですが。

敬語を使うと言うのは、社会の中での上下関係を容認して、それを確定する行為だと一義的に考えているのですが、どうでしょう。儒教文化が悪とは言いませんが、敬意を表することと使用用語とは微妙に食い違っている面もあるように見受けられます。

その代表的なものが、メディアでの敬語の使用であり、官庁等からの用語指導ですね。また、社会内でも、労働者が例えば取締役に対して敬語を使うのは実はおかしな雇用関係ではないでしょうか?謙譲語と言うようなこれまた美しい封建主義的な日本語もある。

「円滑に行い、確かな人間関係を築いて」には、敬語廃止がもっとも良いような。もちろん英語学習には、幼児教育よりも何よりも、敬語の人間関係を全廃することがもっとも手っ取り早いでしょう。

議論を吹っかけるようなコメントとなりましたが、ここは日本語文化継承に目を瞑って敬語全廃するだけで、社会は遥かに良くなると考えます。志賀直哉のように日本語を廃止せよとは言いませんが。

投稿: pfaelzerwein | 2006年10月24日 (火) 14:01

euridiceさん

昭和27年-平成12年まで、特に何もなかったというのが意味深な感じはしますね。
この件に関しては文部科学省の真意がどこにあるのかは判りませんが、国がやることは大概(教育改革だの農政改革だののように)、余計なお世話、やらないほうがマシだったになりますからねえ。
「お疲れさま」という例を出したこと自体、メディア受けを狙ってるのかなという気が。

投稿: TARO | 2006年10月24日 (火) 20:50

pfaelzerweinさん

おっしゃるように一義的には「社会の中での上下関係を容認して、それを確定する行為」だろうと思います。
でも私は社会の中に上下関係があることを容認してるので、敬語に対する抵抗感というものが無いのですが。というより上下関係のない社会と言うのを、うまくイメージできません。

仮に日本語における「敬語」が、階級や身分の確定・固定化を呼んでいると言うのなら、また話は別です。これは廃止しなければなりません。
しかし実際はそれとは逆ではないかと思います。この種の区別がゆるい日本社会であるからこそ、これほど謙譲表現を含む敬意表現が複雑かつデリケートに発達したとは言えないでしょうか。
(江戸時代には固定された階級というものがあったわけですが、にもかかわらず士農工商で下にいる商人が、農民に敬語を使っていたとは思えません。)

日本語のような敬語がない、あるいは希薄なヨーロッパは、逆に日本とは比較にならない階級社会と聞きます。
階級があらかじめ変えられないものとして、厳然として存在する社会では、敬語の必要性はないのではないか。そのかわりに身分を示す単語に、異常にこだわるようになっているのでは。

例えばイタリア人の場合、博士だったらかならずドットーレを付けなければなりませんし、ましてその人が大学教授だったらプロフェッソーレ・ドットーレと重ねなければなりません。
(アメリカの場合は「階級」ではないかもしれませんが、「階層」の越えられない壁が出来つつあるような気がします。)
日本は逆でどんなに偉い人でも「先生」ですみます。
指揮者も日本なら朝比奈さん、小澤さんで問題ないけれど、イギリスだったらサー・サイモンとか、サー・コリンとか呼ばなければならない。

日本ではサラリーマンの上役が昨日まで偉そうにいばってたのに、これまでの部下が昇進して追い抜かれた途端に、敬語にせざるをえない状況が出てきたりとかあります。

つまり日本語の敬語表現は、階級・身分社会の固定化を示しているのではなく、上下関係の流動性を示しているものと私は考えます。

さらに敬語に代表される敬意表現には、感謝の意を示すというような側面があったり、おっしゃるように「謙譲語」という(封建的)美しさを形作っているものもあったり、「一義的」な上下関係を示すというだけではなく、もっと日本語の本質にかかわってくる事柄ではないかと感じます。となるとやはり目は瞑れないかなと。まあ私は国語学者ではないし、間違ってるかもしれませんが。

>洗練された丁寧語

ちょっと理解できてないんですが、小津映画の原節子みたいなのをイメージしてよろしいんでしょうか?
「洗練」という言葉に違和感を覚えます。一般的には洗練とは、地域や集団の多様性を均一化するものではないかと思うのですが。

投稿: TARO | 2006年10月24日 (火) 21:28

昔、某言語学者氏から授業で聞いた話です。「国語審議会委員になり初めて会合に参加した。自分(50代)は最年少委員だった。規則に『委員長は互選により決定』とあったので投票するのだろうと思ってたら、何もなくある人が既に決まっているという雰囲気になってきた。発言を求めて『ここにこう書いてあるが』と言ったら水を打ったような静けさ。『ここは国語の正しい使い方を審議する会だが、何故書いてあることを守らないのか』と続けたら皆困ってしまい、80過ぎの長老が『マァマァ』で落着。別の方法で委員長を決めても構わないと思うが、だったら規則にそう書くべきだ」というものでした。
まあ問題になってるのは、「公文書言語においてタテマエとホンネの二重性は許されるか?」と言うことで、審議会の第一議題である「規範的国語表現はどうあるべきか?」という問題とは微妙にズレてるかも知れませんが、「言葉の正しい使い方」の問題の一面(意味・統語面ではない語用面)ではあるから審議会が扱ってもおかしくないでしょう。「上役には『ご苦労様』ではなく『お疲れ様』を」なんてのは正に語用論の問題ですしね。いずれにせよTAROさんの仰る「こういうまわりくどい言い方を、お役所の文書から排除するような指針」みたいな「公的場面で制度化したある種の奇妙な語用」という問題については、審議会は殆ど関心を持っていないことを示すエピソードかも。まあ私は、審議会がそうした問題を積極的に扱ってくれと思うわけでもないのですけど。

言語の規範性とその国家による収監は、大変微妙な問題と思います。

1)「国語」は政治的存在である

ある言語が「方言」でなく「独立した言語」として認識される根拠は、言葉そのものには内在せず、殆ど政治的意志によると言ってよいと思います。
具体的には、
―正書法の確立
―規範文学の存在
―学校教育を通じた使用強制
―公文書での使用
といったことです。
ドイツ語と強い類縁関係にあるオランダ語、ルクセンブルク語の内、オランダ語は「独立言語」で、「ルクセンブルク語」は「モーゼル方言」に過ぎないのは、オランダは政治的意志によって、上の諸要件を遂行したからだろうと思います。
中世フランスで軍事的征服によりオック語が滅亡しオイル語が国語としてのフランス語になり、19世紀末の日本で、関西語ではなく東京語が「国語」になったのも中央政府の政治的意志によるものでしょう。
規範性を持つ「国語」から政治性・国家管理の要素を完全に抜き去るのは、不可能ではないかと思います。

2)日本語は一部欧米語に比べ、規範性・国家管理性が薄い

国語の規範性の追求とその国家管理が顕著な例の典型はフランス語でしょう。17世紀の中央集権確立に伴って「フランス古典文学」(モリエール、ラシーヌ)が規範として確立し、アカデミー・フランセーズという公的機関が「国語」を収監し、正書法や学校教育等を通じてその規範性の維持を厳格に管理するというシステムです。勿論プロヴァンス語等地方語の賞揚と言う形での「異議申し立て」も存在しますが。
フランスに比べ国語の規範性の確立や国家管理が遅れたドイツでも、ゲーテらドイツ古典主義文学やグリムの辞書編纂による規範性の追求は存在するし、似たような状況のイタリアでもダンテらの古典文学が規範視されたから、トスカナ方言が「国語」としてのイタリア語になったのでしょう。

この点、日本語はまず「国語」を規定する規範文学が存在しているのか疑問です。17世紀江戸文学に「これぞ美しい日本語の典型」なんてのはあるんでしょうか? 明治期以降でも漱石だって、あの歯切れの良い文章の愛好者は多いけど、学校で暗誦や反復的朗読の対象になるほど規範視されてる訳ではなさそうです。

私を含めて日本人は、「国語」の規範性に愛着や信頼が薄く、ましてやそのお上による強制には非常に警戒的なメンタリティーかつ言語感覚だと思います。「言葉は世につれ人につれ」絶えず移り変わっていくもので、結局それで構わないと思っているような。「国語審議会」の指針も「余計なお世話」というのが大方の直感的反応でしょう。
現代フランス語の知識で、17世紀後半のパスカルのフランス語は一応読解可能(17世紀前半のデカルトは難しいす)だけど、17世紀末の元禄文学なんか今の日本人には素手では読めないし、漱石・鴎外でさえ我々には註なしでの完全読解は既に難しくなってます。画一化された規範性が強いイメージの新聞の文体でさえ、つい数十年前昭和20年代の朝日を見てみれば、その違いに驚くと思います。それほど日本語の流動性は高く、規範性は薄い。

もし我々一人一人が現在「正しい日本語」「美しい日本語」が存在するという感覚をほんの少しでも持ち、かつそれが一定時間維持されて欲しいと思うならば、私はそれは個人が家庭や会社で努力するだけでは難しいと思うのです。やはり学校教育や公共放送等を通じた政治的意志が必要なのではないかと。ただ私はそうすることへの無条件の賛成はためらうという非常に矛盾した感覚を抱いています。

「ご苦労さま」にしても、審議会が注意を促さなければ「誤用」が一般化・定着する可能性は皆無ではないかも知れません。個人的にはそうした「誤用」には感覚的に抵抗がありますが、「でもみんながそれでヘンと感じなくなるのならばそれでよいのかも、日本語ってそういうもの」という気持ちも一方であります。という訳で審議会の「よりどころのよりどころ」というごく緩い囲い込みは、至極マットウと思います。

オペラでも、もう随分前から「幕間」を「マクマ」と読む人が珍しくなくなってますよね(70代の文学教授でも。爺さんの言語感覚もアテにはなりません)。私は背筋がゾクッとしますが、「細かいことを言うな、もうフツーになってきてる、そういうことをワァワァ言うのは似非インテリの思い上がり」かなとかも思い、「『マクアイ』と読んで下さい」とか言う勇気はないですねぇ。

pfaelzerwein 大兄とTAROさんのコメントも大変興味深く拝読致しました。元気があれば後日にでもコメントさせて頂きます。(私の感覚では「大兄」「拝読致しました」「させて頂きます」は、「社会的・階級的・能力的上下関係の確認」というよりも「人間関係を円滑にするための高低イメージを借りたジェスチャー」という感じですが(笑)。


投稿: 助六 | 2006年10月25日 (水) 11:28

折角ですので、丁寧語の洗練から考えてみます。

原節子の山の手風の敬語は、VIDEOで確かめませんでしたが、良くも悪くも人間関係の比較的安定したステレオタイプの均一化されたイメージはもっています。終身雇用制のお勤め人と当時の男女の社会的役割の世界が表れています。ついでながら、小津の男たちの会話は好ましいですが、現在では存在しませんね。

さて洗練ですが、これは対人関係において、相手への距離感や意思を客観化する事と考えます。丁寧語は、状況を探りつつの意思表示でしょうか。つまり社会環境の認知と云うか、知的な作業を含みます。そこでは、千差万別の状況から、ここで批判している敬語の自動化された用法は存在しません。ですから、丁寧語の用法が退化する原因に「敬語の固定」があると思われます。

反対に欧州における「タイトル」などの用法は、1960年代の権威の喪失以降も固定化され形骸化しているので、ますます具合が悪いものになっています。実際に「階級があらかじめ変えられないものとして、厳然として存在する社会では、敬語の必要性はないのではないか」の旨は、欧州のタイトルの用法に反照として今でもこうした形で表れているかもしれません。

ですから現代において「目上」とか封建的上下関係と云う言葉は甚だ遺憾ですが、様々な個性の差異の認知は社会的なものまで含めて重要と思います。問題は、その形骸が敬語と云う形でそうした封建的社会関係を継承していることで、上の「タイトル」の使用にも相当します。助六さんのコメントにも関わりますが、今回の反応を見ていて思うのは、まさに「権威無きところに権威を打ちたてよう」とするおかしさを皆さんが感じているからではないかと思います。

権威の無い敬語など必要なのか、やはりどうしても理解に苦しみます。こうした典型的に官僚主義的な対処療法姿勢に対して、実体のない敬語の廃止を専門家が図らないのはなぜか?思想的な問題には立ち入りませんが、簡易化と改正をせずに回顧・修正主義に至る様相は、敬語対象の権威が壊滅的状態なのではと危惧します。反対に丁寧語が退化した例として文革世代の人民教育を挙げれば、いかにこうした無理強い姿勢が理不尽で、丁寧語の洗練こそが重要であるかが解ると思うのです。

因みに「拝読致しました」、「させて頂きます」を、文法的解釈とは別に敬語としてではなくどちらかと云えば丁寧語の一種と考えます。これを目上とか上下関係と規定されるのを防いで、さらに其々を「コメントを読みました」、「商品を送付します」と簡素化して公文書基準にしていくのが文化審議会の仕事ではないのでしょうか。西欧におけるタイトルの用法にも共通しています。

投稿: pfaelzerwein | 2006年10月25日 (水) 19:28

助六さん

国語審議会って、いかにも「なれあい」で進行していきそうですね。――って、これは酷い偏見なわけですが、でもどうやらお話を聞くと偏見でもない・・・。

さて規範性・国家管理性といえば、フランスでの英語の単語を全部フランス語に置き換えるというのが、すぐに思い出されます。日本でも真似したのか、国立国語研究所が似たような試みを行ってブログにも書きましたが、
http://taroscafe.cocolog-nifty.com/taroscafe/2005/10/post_dc92.html
少なくとも現時点では全然効果ないような。

ところでヨーロッパ諸国で言語の規範性・国家管理性が強い理由ですが、これは単なる思い付きで書いてるんですが、

1)各国が地続きで放っておくと他国の言語にどんどん侵食されかねないこと、そして
2)ラテン語の存在によるということはないでしょうか?

言語の侵食というのは、おそらくちょっとしたきっかけで起きるんじゃないでしょうか。まあこれはあくまでも兄弟の言語の例ですが、低地ドイツ語が廃れて、中高ドイツ語が標準のドイツ語として確立したのが、ルターの(中高)ドイツ語訳聖書が全ドイツに普及したのが原因という件などが、その例として挙げられると思います。

またラテン語は死語ではなく宗教関係者&知識階級の言語としては生きた言語ですし、ローマ教会に対抗すべく世俗の言語も強大な権力によって集中管理せざるをえなかったというのは、どうでしょう。

そう考えてみると、日本の場合
1)国境を接した国はない(アイヌは北海道に追いやられていて、アイヌ語に侵食されることはありえないので。)
2)漢文はしょせん教養の一つにとどまっていて、外国語としての中国語が普及したわけではない。(読み方が日本語読みということもあり。)
なので、あえて規範を作り上げることも、国家管理をする必要性もなかったのではと考えられます。(というか考えてみました。)

となると、今なぜに国家が敬語を?というのが、やはり問題になってくるんでしょうね。

>「正しい日本語」「美しい日本語」

が存在するのかというのは、難しい問題ですよね。
幕間はいくらなんでもマクアイと読んで欲しいですが、マクマと言って意味が通じればいいじゃないかというのも一理はあるかもしれません。(浴衣をヨクイと読んだり、風鈴をカゼスズと読んだりする人はいないわけですが、これらは物体があるので発音が先に来てるんでしょうね。)
「正しい日本語」「美しい日本語」というのが錯覚で、無知・無教養な人々が言葉の変化の原動力になることに対する、教養人の抵抗に過ぎないという見方は十分に可能だと思います。

>「人間関係を円滑にするための高低イメージを借りたジェスチャー」

なんだか敬語の「第二義的」な理由として、あまりにも適切な表現なので笑ってしまいました。確かに私もその理由で使うことが多いようです。

投稿: TARO | 2006年10月26日 (木) 00:55

pfaelzerweinさん、丁寧なご回答ありがとうございます。
やはり私は先のレスの段階では、pfaelzerweinさんのおっしゃる「洗練」の意味をよく分かってなかったようです。
ただ現在も「洗練された丁寧語」の意味をちゃんとは理解できてないんですが(後述)。

>その形骸が敬語と云う形でそうした封建的社会関係を継承していること
>簡易化と改正をせずに回顧・修正主義に至る様相は、敬語対象の権威が壊滅的状態なのでは

封建的かどうかはともかくとして、目上というような感覚が特に若い人たちからどんどん無くなっているのは、そうなんだろうと思います。またたしかに敬語対象の権威は壊滅的かもしれません。
たとえば老人を考えて見ましょう。目上の人としての老人はかつては敬語を使われるべき立場でした。そしていまや権威は壊滅的です。
しかし権威があるとないとにかかわらず、年長者に敬語を使わないというのは、私には考えられないのですが。

また「権威の無い敬語など必要なのか」という部分だけに反応するならば、権威がある人には敬語を使うべしということにも読めて、もっと変なことになりそうな。(勿論pfaelzerweinさんは全廃を主張されてるのだから、そうではないわけですが。)

さて仮に敬語を全廃したとして、その時つかわれるべきものが「洗練された丁寧語」であると。
(文革世代の人民教育によって丁寧語が退化したという件については、ちょっと知識がなくて分からないのですが、どの相手に対しても丁寧表現がなくなって、代わりに形骸化された”タイトル”だけ残ったということでよろしいんでしょうか。)

しかし私にはまだよく洗練された丁寧語と言うものがどのようなものか、分からないのです。
つまり上下関係をも含む人間関係にあわせて、丁寧語を使い分けていくということなのか、それとも上下関係をなくす方向で使っていくということなのか。
千差万別の人間関係によって丁寧語を使い分けていくのだとすれば、それは敬語のような単語の問題ではなく、文章の問題になるに過ぎないのではないかという疑問もあります。
また現実に上下関係(上役と部下など)があるにもかかわらず、上下関係をなくす方向で使っていくのだとすれば、ご説明のあった「洗練」とは違うものになるのかと。

あと前に原節子の例をあげたように、私は丁寧語というのは相手の問題よりも、むしろ自分のポジションの問題が大きいと思います(山の手風とか)。無論相手による使い分けはありますし、下町のベランメエ口調にはベランメエなりの丁寧語があるんでしょうけれど。

投稿: TARO | 2006年10月26日 (木) 02:56

>TAROさん

国語の成立は国民国家の確立に対応しており、日本語(明治期、言文一致運動を背景に、東京山の手言葉を元に確定された標準語)もそうでしょうが、そうした標準語の規範的品格を高めその変化を国家が監視するという要求が、日本では知識層からも強く昇ることがなかった理由は、私はやはり言葉のイデア性・恒久性を信じていない日本人の言語観にあると考えてましたが、確かになるほど、その背景には兄弟言語による侵食可能性も、欧州諸語が直面した高級古典語との競合(これは現に16世紀にトスカナ語の公用語化かラテン語使用続行かで議論があったイタリアに顕著)も皆無という背景はありそうですね。
江戸国学同様、国語審議会も、主要な関心事は従来仮名遣い(「むずかしい」か「むづかしい」か)や送り仮名(「現われる」か「現れる」か)といった正書法問題で、敬語用法等「正しく美しい日本語」の護持という仕事が突出することはなかったようですね。

「マクマ」にしても、戦前浅草の小劇場関係者が用いた例があるそうで、「民衆的活力による正嫡言語転覆」の一つとも言えるかもしれません。そうした環境と接点がある東京っ子家庭育ちの人には「マクマ」は「マクアイ」とは違った語感のある「生ける言葉」なのかも知れませんが、それだったら政治風刺寸劇の「マクマにさっと一杯引っ掛けようぜ」という語感で、「オペラのマクマ」はやはりヘンか皮肉になると思います。テント小屋でのオッフェンバックならいいのかも。
ワープロ変換では「マクマ」では「幕間」に変換されず一安心しました。これから変換機能の誤読防止への貢献は、審議会の指針や、訂正してくれる「イヤミな上司・同僚」より益々大きくなりそう。変換に誤読教えてもらったのは、小生も身に覚えがあります。


敬語と社会的上下関係についてですが、

1) 西洋語にも尊敬・謙譲語はある

話者間に上下関係を設定する尊敬・謙譲語の発展は、儒教的人間関係に支配された日本社会特有というイメージが一部にあるかも知れませんが、フランス語にも日本語と文法的地位は異なっていても、尊敬・謙譲語に相当する表現はあると思います。
謙譲表現としては①「J’ai l’honneur de faire qch ・・・させて頂く」とか。
尊敬表現としては②「Auriez-vous l’amabilité de faire qch?」は、訳すと「・・・して下さいますか」になるけど、仏語の表現には上下関係イメージは薄いから丁寧語に近いと言えるかも知れません。他には
③「Monsieur le ministre! 大臣様」
④「Excellence! 閣下」(大司教等に対して)
など。
勿論日本語の敬語の数と複雑さとは比べ物になりませんから、日本語敬語の例外的な発展は儒教的社会構造と無関係ではないかも知れませんが、欧州だって近世初期までは、日本同様封建的身分秩序に強く支配されていた訳ですから、ある社会の位階性の強さと敬語の発達の因果関係を明確化するのは難しそうです。

2) 上下関係敬語と社交敬語

敬語は確かにその端緒においては、身分社会を背景に成立したのかも知れません。でも日本語の場合、社会構造の変化に伴って、日常生活における敬語は「身分的上下関係の確認」機能から「人間関係を円滑にするための高低イメージを借りた社交ジェスチャー」機能に移ってきていると思います。TAROさんの仰るように、社交敬語となった日本語の敬語にもはや階級固定機能はないと思います。pfaelzerweinさんの仰るように、社交敬語は丁寧語に近づいていると言ってもいいかも知れません。
これに対して、メディアにおける皇室関係者への敬語使用は「上下関係確認」機能でしょう。我々が目の前にいるフツーの隣人に対して「イギリスにいらっしゃるそうですね」と言い、面前にいない天皇については「天皇がイギリスに行くそうだ」と言って平気で、メディアの「陛下はイギリスにお出掛けになる」に違和感を覚える事実は、現代敬語が上下関係敬語から社交敬語に変貌している事情を如実に示しています。
これに対して、上に挙げたフランス語の敬語表現は、丁寧語に近い②を除いて、①③④すべて日常生活で使われることは殆どなく、その使用は公式の場、格式ばった場に限られています。つまりフランス語の敬語はなお「身分的上下関係の確認」機能を強く残しており、それ故現代の日常生活では居心地悪く使用されないということでしょう。例えば、大学教授に対しても、日常的には「Monsieur!」という呼びかけだけで、「Monsieur le professeur!」はまだ消滅はしてませんが、使われるのは大変格式張った場に限られています。
全体として確かに仏語には高低イメージを用いた「社交敬語」は少なく、人間関係の円滑化には水平的丁寧表現を多く用いる傾向はありそうです。

3)「身分的上下関係確認機能」は敬語だけのものではない。

では仏語がより「民主的」で、社会的階層関係を確認する言語表現が西洋語にないかと言えば、そうではありません。独仏伊語などにおける「敬称 Sie vous Lei」と「親称 du tu tu」の区別がそれです。
仏語のvousは「敬称」と言うより「普通称」で、tuを使う関係は、vousを使う関係に対して肯定的・否定的に「特別」であることを意味します。
否定的には、tu関係はvous関係より相手が一段低い社会階層に属することを確認させる手段となります。以前フランス人は、北アフリカ植民地原住民にはシステマティックにtuを使ったそうですし、今でも見知らぬ二人が喧嘩になるといきなりvousからtuに移行する場面があります。最近は若者暴動1周年を迎えて、都市郊外非行多発地域で、警官がアフリカ系若者にtuを使う傾向があるのが問題化されてます。これらは、vousを使ってもらえない「軽蔑的」tu関係です。
肯定的には、tu関係は、「特別親しい」関係であること、つまり特権者であることをvous関係に対して誇示する手段となります。会社や大臣官房では、社長・大臣からtutoiement (tuを使って喋る)してもらえる特権的サークルが出現します。これを嫌うリベラルな会社は、社員全員tutoiement制を導入したりしてますが、その場合でも掃除婦など社内で「tutoiementしてもらえない」階層がはみ出してしまうそうです。大臣等でも、この種のギクシャクを嫌って、職場では全員に絶対vousでしか話さない人もいます。

この肯定的「親称」については、日本語の敬語同様、「階層確認機能」から「社交機能」へ「毒抜き」しようとする傾向があります。
つまり「親称」を「打ち解け易さ」「気楽さ」を醸し出す手段と捉え、それを一定のコミュニティー全体に拡大する傾向です。初対面でもお互い学生と分かればいきなりtuになりますし、アマチュアのオケ・合唱に参加すれば、メンバーとは最初から年齢・親しさに関わらずtuとなります。リベラルとされるメディア・広告・ショウビズ関係などでは同業界人と分かると、直ちにtuになったりするようです。68年世代の牙城であるパリ第8大学では、教授と学生間もtutoiementが主流ですが、ソルボンヌでは、教師によりますが殆ど考えられません。
この傾向が日常語で進んでいるのはイタリアで、フランスではまだ考えられませんが、日常的に未知の人間間でもいきなり親称が珍しくなくなっています。フェニーチェの平土間で(貰ったチケットです)隣の品の良い婦人からいきなりtuで話しかけられ驚いたことがありますが、イタリア人に訊いても、バカにされた訳ではなく、好意の表現とのことです。イタリアの格安航空会社からのメールも親称、ヴェネツィアのヴァポレット船着場の「無賃乗船は、罰金XX」各国語表示も独仏語はSie、vousなのにイタリア語だけtuなのにヘェと思ったものでした。
このように「社交機能」が前面に出た親称使用は、本当の親しさの表現というより、約定的・形式的になってきている点も、本当の敬意の表明ではなくなってきている日本語敬語の形式化に類似しています。この「日本語敬語の約定・形式化」はpfaelzerweinさんが問題視されていることですが、私は上に述べたように、日常的社交語として「約定化」された敬語はすでに毒抜きされているから害はなく、問題となるのは、日常的には社交用として形式化している敬語が、天皇にだけは「上下関係敬語」としてあたかも実質があるかのようにメディア使われるケースのみだと考えます。

4)敬語・親称を除いても、なお言語の「上下関係確認機能」は残る

昔はラテン語や漢文が、話者の社会的優位を誇示する手段だったのでしょうが、今は、フランスではそれに変わって、語彙・修辞・文体面で「よいフランス語」を話せることが社会階層を示す指標の一つになったところがあると思います。社会学者ブルディウの謂う「階級構造の再生産」というやつで、言葉遣い、蔵書・美術・音楽鑑賞などの人文主義的教養、服装、食べ物、インテリアの趣味に至るまで、上位階級のスタイルは親から子へ家庭内相続によってしか自然に身につかず、ブルディウ自身のように「成り上がった」人間は、「努力により身につけたよいフランス語」故に到達階級内で異質視されるというものです。
日本でも「正しい敬語が使えること」や「洗練された丁寧語」が階層表徴になる可能性もあるかも知れませんが、フランスよりは薄いのではないでしょうか。ブランド品流通業で犬猿の仲のライヴァルである、ルイヴィトン・グループのアルノー社長(パリ16区のブルジョワ出身でピアノがうまくエリート校ポリテクニック出身)とプランタン・グループのピノー社長(材木屋から上昇)の仏語の違いが時々話題になりますが、日本では、貧しい出身から高級官僚になった人でも使う日本語から出自が分かってしまうことはないように思います。日本ではどこの母親でも子供を東大に入れることを考え、小生のように育った家にろくな蔵書やレコードはなくても音楽に興味を持つことは特に珍しくない訳ですが、フランスではグランドゼコールなど別世界で進学を考えもしない社会層が存在し、親に文化的習慣がない場合クラシック音楽に興味を持つ可能性は低いという驚くべき現実があります。まあ日本でも能・歌舞伎についてはこうした傾向もない訳ではないかも知れませんが。

結論的に言うと、
―日本語の日常的敬語は、「社交敬語」化していて、上下関係確認機能は薄い。
―メディアでの皇室関係者への敬語使用は、「上下関係確認機能」で、多くの人が違和感を抱く。
―仏語にも上下関係を伴う敬語表現はあるが、日常生活では確かに水平的丁寧表現が多い。
―しかし、仏語にも敬語以外の「階層確認機能」は存在している。
―従って日本語と仏語、どちらが「平等主義的」言語かは分からない。
といったアタリマエのことになるでしょうか。

毎度軒を占領してしまい、申し訳ありません。当方はお陰さまで、楽しく考えさせて頂きました。

投稿: 助六 | 2006年10月28日 (土) 10:48

TAROさん, 〆をお任せするためにも、助六さんへの同意と異議を少し書かせて頂きます。

1)の①②風はドイツでは比較的公式スピーチで好まれます。私の云う洗練に近い例と考えても良いかと思います。ただこれも4)の要素が強いことは同意します。しかしドイツ語の特に仮定法は、この意味だけにあるのではなく、思索の客観化に結びついていて、教育の高く無い人でも好んで使えるのはドイツ人のドイツ語への自負に通じています。プロテスタント教育や啓蒙教育にも関係しているでしょう。③④に関しては儀礼形式主義として残りますが、実体はないでしょう。そうしたゾンビが血色を取り返すことはない。TBからのリンクに「敬語の形式」として書きました。

2)に関して云えばその実体が、権威が残っているのは教皇を頂点とするカトリック圏でしょうか。私はいつもこの反映を特にイタリアの子供たちの年長者への態度などに見ます。この現象をどうみるかは見る人の視点によると思われます。この話題は、抽象的な世界観や宗教感が観察の前提として影響しているので、意外に難しい。

3)の敬称について身分的上下関係と見るのは、今日の視点からはドイツ語ではかなり難しい。シェークスピアの親称Thouなども印欧語族では同じ用法と思います。反対に典型的な例が軍隊の部下への敬称利用です。ですから助六さんの前半の例の説明は、ドイツ語では若干異議ありです。

また「神の呼称」やはたまた「独り言の話しかけ」とここで深入りしませんが、ここでのお話しの全景にも適合している事象が垣間見れるのは確かです。ただ後者の例は「小塩?教授の親称説」は必ずしも正しくないので、実際は揺らいでいる使用例として挙げます。

4)こそは、TAROさんの反証でした。マイフェアレディーを思い出しますね。しかし、日本語の問題を考えると、江戸時代のお国替えによる余所者支配者と土着の地方文化の間に文化的にもヒエラルヒーが発生していて、現在においても文化的に支配された地方の独立の困難な様子が想像出来ます。そうした嘗て下部層に甘んじていた言語の今日における文化的洗練を目指す文学などがもっと創作されて読まれても良いのではと思います。ドイツ語圏では地方文学は土地の書店に並び、方言による放送等は尊重されます。方言の尊重は、最も有意義な自主独立の意思とも取れます。

投稿: pfaelzerwein | 2006年10月28日 (土) 17:37

>pfaelzerweinさん、

いつもながら、丁寧な刺激的コメントありがとうございます。

>助六さんの前半の例の説明は、ドイツ語では若干異議あり

仰る通りと思います。現代語で親称が軽蔑的に使われる場合(警官が北アフリカ系若者に使う場合)は、上下関係敬語に類似した対話者間の上下関係確認機能は否定できないと思いますが、肯定的に特別親しい関係を示す時に使われる場合(社長が側近に使う場合)は、同一コミュニティー内の価値的ヒエラルキー付け機能な訳ですから、敬語の上下関係確認機能と対照するのはムリがあるとは思っていました。その理由は、1)敬語の上下関係は対話者二者間に成立するのものだが、親称使用による位階関係は、対話者間ではなく、コミュニティー内部の親称使用対話グループと敬称使用対話グループ間に成立する。 2)敬語の場合必ずしも双方向的ではない(年少者から年長者に対し敬語が使われても、逆方向では使われないこともある)が、親称使用は現代では双方向的(一方が親称を使い相手は使わないということはない) という違いがあるからです。つまり、敬語は対話当事者間のヒエラルキー化ですが、親称使用は対話当事者を逆に水平化し、対話当事者と非当事者間にヒエラルキーを設けることということです。まあ肯定的親称使用の場合も、「身分的上下階級確認」ではないにしても、「共同体内の価値的ヒエラルキー化機能」ではあるので、「上下関係確認機能」に入れてみました。

>軍隊の部下への敬称利用

戦前の軍隊ではどうだったのでしょうか?部下に対しduzen(もしかしたら、その場合も上役に対してはSiezen?)という習慣はあったのでしょうか?もしそうだとしたら、戦前事情への反発から、duzenの「軽蔑的上下関係確認機能」を避けるために、戦後Siezenになったとも考えられるかも知れません。
学生間も現在はduzenだが戦後60年代位まではSiezenで、これは戦前軍隊で兵隊仲間間でduzenを強制されたことへの反発があったと読んだことがあるものですから。

>「独り言の話しかけ」
>実際は揺らいでいる使用例

独り言で自分に話しかける場合duzenしなくなってきているということでしょうか?
フランス人が時々自分のうっかりミスに対して「Céline! Tu fais la bêtise! セリーヌ!あなた何バカやってるの!」とか自分に向かって呟いているのを聞くと、日本語にはない発想なので、一瞬ハッとします。「Qu’est—ce que je fais? 俺何してる?」とも呟いてますから、必ず二人称という訳ではないようですが。

昨晩ヤコープス指揮フライブルク・バロック管で、プラハ版「ドン・ジョヴァンニ」の演奏会形式を聴いてきました。
ジョヴァンニはレポレロに対し、親称使用ですが、逆は敬称使用で、18世紀イタリア語では親称/敬称使用は、やはり階級的上下関係に強く結びついていたようです。
面白いのは、ジョヴァンニのツェルリーナとマゼットに対する言語使用で、最初の出会いの際、ジョヴァンニはマゼットにはいきなり親称使用ですが、ツェルリーナに対しては敬称で話しかけ、「結婚しよう」と口説く場面から親称に移行してます。マゼットに対する親称は「階級的上下関係確認機能」で、ツェルリーナへの親称移行は「(特別の親密さという)特権的地位付与機能」ということなんでしょう。ツェルリーナはジョヴァンニに対し敬称で通しています。
難しいのは、エルヴィーラとジョヴァンニ、アンナとオッターヴィオ間です。ジョヴァンニはエルヴィーラとの不測の再会場面ではエルヴィーラに敬称使用ですが、エルヴィーラはジョヴァンニに親称使用、ジョヴァンニが窓上のエルヴィーラを口説く場面では、ジョヴァンニもエルヴィーラも親称使用ですが、承知して降りてきたエルヴィーラはジョヴァンニに(に化けたレポレロに)敬称を使います!地獄落ち前の場面では2人とも親称使用です。アンナとオッターヴィオは、騎士長暗殺の場では互いに親称使用ですが、アンナのジョヴァンニ強姦犯認知後は互いに敬称使用になり、その後は親称に戻ってます。軽蔑、親密さ、貴族間敬意などが交錯しているということなんでしょうね。
マゼットと(ジョヴァンニが化けた)レポレロ間は互いに親称使用でした。

因みに演奏は、インスブルクとバーデン・バーデンで上演を重ねた後だけあって、歌手達は譜面なしでかなり動きと演技を付け、ヤコープスの指揮もドラマの感覚溢れるものでした。これにはオケの優秀さの力も多く、アンサンブルの正確さにはコンマスのミュレヤンス女史のリードが大きく寄与しているように思えました。
翌日のヴィーン版上演の方が、珍しいツェルリーナとレポレロの二重唱を聞けて面白かったでしょうが、両方聴く元気はありませんでした。後者はマチネーでしたし。

>現在においても文化的に支配された地方の独立の困難な様子

確かに日本でも、標準語を文体的に正確に話せる人に関しても特に東北のズーズー弁とか方言アクセントによるヒエラルキー化はあるかも知れませんね。フランスでもジスカール・デスタン元大統領のオーヴェルニュ「田舎貴族」訛りが揶揄されたりとかあるから、似た事情も存在する形ですが、仰るとおりプロヴァンス語初め、一部地方語には文学として品格ある書き言葉に高めようとする試みがあるのが日本と違うところですね。
日本でも岡部伊都子氏の「わては誰やろ」(だったと思いますが)とか、書き言葉に高めた大阪弁で思弁する試みがあり、小生大阪弁・大阪的発想は苦手ですが、彼女の大阪語を読むと格調と個性ある大阪語が存在しうることが分かります。古典文化の首都を自認し、柔らかく美しい京都弁に誇りとノスタルジーを持つと思われる京都について、寡聞にしてこうした試みを聞いたことがないのは不思議です。

投稿: 助六 | 2006年10月30日 (月) 09:59

助六さん

週末にかけて出張してたので、レスが遅くなりました。失礼いたしました。

>「民衆的活力による正嫡言語転覆」

マクマという言葉が実際に使われていたとは驚き。
それにしても・・・上の様に書けばいいわけですねえ。『無知無教養な人が』とか書くのはムキダシ過ぎ。勉強になりました。(笑

最近では男性が自分の生家のことを「実家」というのも普通になりましたが、これなんかはユニセックス化による「正嫡言語転覆」というものでしょうか。

>メディアにおける皇室関係者への敬語使用

これはまた別個に考えるべき問題なんでしょうが、いまや朝日新聞以外は昭和の時代には考えられなかったほどの過剰な敬語表現を行っているような気がします。(気がするだけでちゃんとは検証してません。)
この理由については、きちんと考える必要があるのかもしれませんが、一応私の商売上の問題もからむので、それはおいといて・・・
このような皇室への敬語使用に敏感で、常に朝日を批判したがるのが、実は本物の右翼ではなく、ネットに巣くうエセ右翼であるというのは面白いことだと思います。

アメリカでのデータではアンチ・リベラルというのは、低学歴・低所得層が中心だそうですが、はたして日本のデータがどうなのかは分かりませんけれども、仮に同一傾向だとすると、おそらく敬語表現も丁寧表現も自分では満足にできない層であることは十分に考えられます。極端でなければ理解できない人、いわば激辛でなければ味と認識できない人、自分の力では相手との間合いを計って敬意表現や丁寧表現を使い分けることが出来ない人が、皇室への過剰な敬語表現を後押ししてるような感じがします。(これも気がするだけですが。)

>ヤコープス指揮フライブルク・バロック管で、プラハ版「ドン・ジョヴァンニ」の演奏会形式

インスブルックでの演奏は大変に高い評価を得たようで、日本の音楽雑誌にも批評が掲載されていました。パリでも演奏されたんですね。演奏会形式とはいえラクロワが衣裳を担当したとか。

そのドン・ジョヴァンニでの親称と敬称の使い分けは、実に見事ですね。なるほどという感じです。
私たちは外国語の授業で単純に親しい間柄かどうかでの使い分けと習いますが、先の移民の話とも考え合わせますと、決して単純ではないんですね。

もちろん日本語の一人称・二人称の複雑さと微妙な使い分けは(公の場所や、「目上」の人の前ではオレは使わないとか)、外国人にとってはもっと難しいことでしょうが。

>ズーズー弁とか方言アクセントによるヒエラルキー化

それはありますね。さすがに私たちの世代になると、かつての社会党の佐々木更三さんみたいなズーズー弁は日常でも使いませんけれども、仙台弁でブログを書くか?と問われれば、書きませんものね。

投稿: TARO | 2006年10月30日 (月) 23:20

pfaelzerweinさん

TBありがとうございました。段々faelzerweinさんの目指してるものが、分かってきたような気がします。
特に服装の変化のお話で、比喩的に分かりやすいイメージを作っていただきました。ただそれでもやはり私には敬語の無い日本語の世界というのは想像できないのですが。

弔電でよくお目にかかる、「ご尊父様のご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げます」という文句があります。
ご尊父様、ご逝去・・・尊敬
お悔やみ・・・丁寧
謹んで、申し上げます・・・謙譲
(「お悔やみ」は普通に「お」をつけて使われますから、もはや丁寧語ではなくそれで一つの単語でしょうけれど。)
一見空虚な決まり文句ですが、しかし例えばご逝去を死去にかえたら、文章全体のニュアンスに著しい変化が出てきます。
尊敬語と謙譲語を組み合わせることで――たとえそれが一度もあったことのない取引先の社員のお父さんだったとしても――、人が死ぬということ一般についての畏怖の気持ちを表してえてるはずだと思うのです。

それが封建的上下関係の象徴だったとしても、実体の無い幻の権威にしがみついた言葉だとしても、それを理由に敬意表現を廃止してしまった時の日本語の玄妙さの喪失は、計り知れないものがあるのではないかという予感がするわけです。

投稿: TARO | 2006年10月31日 (火) 00:02

>ラクロワが衣裳を担当

そうでしたか!ソロの歌い手さんたちはともかく、臨時編成の合唱の女の子たちのドレスがカラフルで、かつスカーフの色彩感がシャレてて、しかも全体としては「田舎娘の合唱」という雰囲気も何となく出てるので、「団員の自前にしてはなぁ…」とか思ってました。ついそちらに眼が行ってしまいましたが。

投稿: 助六 | 2006年11月 2日 (木) 08:31

助六さん

ああ、それは素敵ですね。なかなかコーラスまでデザインされた衣裳とはいきませんものね。
昔アリベルティが日本で演奏会形式の「椿姫」をやったときには、森英恵がその公演のためにデザインしたドレスを幕ごとに着替えてきましたが、それはヒロインだけで、男声(P・ドヴォルスキーとブルゾン)は燕尾、コーラスも普通の格好でした。

投稿: TARO | 2006年11月 2日 (木) 13:38

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/71167/12397378

この記事へのトラックバック一覧です: さ、寒い  いろんな意味で ~ニュースの落穂拾い・2 Watch What Happens:

» 言葉の乱れ、心の乱れ [Wein, Weib und Gesang]
レオノーレかそれともドンナ・アンナか、オペラ歌手のエッダ・モーザーが運動家としてドイツ語の守護神になろうと企てている。先日、ドイツ語のためのフェスティヴァル開催にやっと漕ぎ着けた。その彼女のインタヴューを読む限り、かなり原理主義的な感じもするが、納得する事例も多い。 さて何が彼女の気に食わないかと言えば、その例として挙がるTVのレポーターが彼女にした質問が良い。そのレポーターは、「一体、なにが貴... [続きを読む]

受信: 2006年10月28日 (土) 15:37

« 中田 | トップページ | うわ~~~~・・・B&Wの新製品のデザイン ~オーディオ・ニュースの落穂拾い »