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2006年10月

2006年10月31日 (火)

PCの話題 ~ Firefox2.0など

20061031catjpFirefox 2.0

Firefoxが2.0になりました。忙しかったのでつい無視していましたが、ようやくダウンロードしてインストールしました。1.5に比べて、大分使いやすくなったように感じます。
一番便利に感じるのは、一つ一つのタブに「閉じるボタン」がついたことでしょうか。

またタブを複数開いた時に、全部を表示するのではなく、一部を表示してあとはスクロールさせる機能がつきました。これも便利。

逆にこの手の機能は余計で、独自にカスタマイズしたいという方もいらっしゃると思います。少しネットを見てみましたが、この方のブログが分かりやすくていい感じ。
http://diary.noasobi.net/2006/10/diary_061025a.html

IE Tab

と、これだけで終わるのもなんなので、私が入れてるフリーソフトの話でも。

firefoxの魅力は多くの機能拡張(アドオン)が出来ることにある。――ということになっています。
といっても余計なものをあまり入れてもしょうがないんですが、一番便利だと思うのは特定のタブだけインターネット・エクスプローラー(IE)で開ける機能でしょうか。他にもアドオンが無償で提供されているようですが、私が入れてるのは IE Tab です。

あるタブをfirefoxで開いた後に、そのタブだけブラウザをIEに変えることも出来るし、特定のサイト(たとえばYouTubeのような)だけ常にIEで開けるように、事前に登録も出来ます。

ダウンロード前にこちらの記事をご参照ください。(ここからDLのページに飛べます)
http://www.forest.impress.co.jp/article/2006/01/16/ietab.html

EmEditor

このブログの記事は、いつもテキスト・エディターで書いてから、貼り付けています。
テキスト・エディターはWindowsに標準で付属している「メモ」がよく知られていますが、いくらなんでも使い勝手が悪すぎ。

ということで私はフリーのソフトを使っています。
私が入れているのはEmEditorというもので、シェアウェアもありますが、ブログの記事程度ならフリーので十分な機能を備えていると思います。

仕事では台本も企画書も、レイアウトしないといけないので、word を使ってるんですが、一度テキスト・エディターを使ってしまうと、word は重くてかなわないですね。

ダウンロードはこちらからいけます。
http://www.forest.impress.co.jp/lib/offc/document/txteditor/emeditor.html
この窓の杜のテキストエディターのページを見ると、他にも様々なフリーのテキスト・エディターがあって、それぞれ特色を持っているようです。

写真:日向ぼっこする近所の野良猫

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2006年10月27日 (金)

ワグネリアンは・・・以下略

20061027wagnerjp加藤浩子さんと守山実花さんの共著による「オペラを聴くコツ バレエを観るツボ」という本が、先月出たので読んでみたんですが、ちょっと不思議な本でした。

加藤さんはおなじみの音楽ライター。守山さんはバレエ評論家です。
全編二人の対談というかおしゃべりで綴られた内容で、対談集といっても、普通は後から手をいれて読みやすいものにするのに、おしゃべりの雰囲気をそのまま残したものというのは、芸術関係のジャンルでは、かなり珍しいんじゃないかと思います。週刊誌のタレント同士の対談とかではよくありますが。

加藤さんの書くオペラ入門書は、私はかなりいいと思ってるんですが、この本に関しては対談形式にしちゃったために、かえって散漫で読みづらいものになってるような。

それはともかく、ちょっと笑っちゃいそうな台詞が。加藤さんの言葉です。

ワーグナーを聞きに行くと、会場が男性ばっかりなんですよね(笑)。
でね、「ワーグナーに何でそんなにハマるんでしょうね?」って話になったら、「それはやっぱり音楽が官能的だからじゃないですか?」って言った人がいたんですね。それにしては「ワグネリアン」って、あんまりセクシーじゃないかも?(笑)

そう。確かに。

キムタクがワグネリアンだったら凄く似合わない感じ。モーツァルトやプロコフィエフだったらありかなという気もしますが。

ということで思い出したのが、私の学生時代の同級生です。

そう。彼はワグネリアンで、あろうことか卒論でワーグナーを取り上げるという話だったのでした。
といっても私が通ってたのは音大ではなく、普通の大学の文学部だったのですが。

私はその頃はすでにワーグナーには興味は無く、フランス音楽とイタリア・オペラが好きでしたが、例によって中学生から高校生ぐらいにかけて、ワーグナーはさんざん聴きましたから、多少の話は出来るぐらいの心得はあるつもりでした。
当然訊きました。「どの作品が好きなんですか?」と。

すると彼はギロっと睨んで、そっぽをむいたのです。(ただでさえとっても怖そうな顔の人だった。)

ハァ・・・?
なんか悪いこと聞いた?

口が聞けない人かと思ったのですが、そうではなくて、その人は教授・助教授としか話をしない人だったのです。
まあ、なんつーかビックリ。同級生はおろか院生ともいっさい話をしない人がいるとは。
いったい卒論でどんなワーグナー論を展開するのか、大変に興味があったのですが、残念ながら彼は段々研究室には顔を見せなくなり、結局同じ年には卒業しなかったので、卒論の中身はわかりません。

そんなこんなで、ワグネリアンというと私はついその人のことを思い出して、かなりネガティヴな気分になるのです。

男性のセクシーさについて論ずるには、私はかなり不適ではあると思いますが、彼もたしかにセクシーとは無縁の今で言うオタク系だったような。

といっても他人のことはいえず、私自身もセクシーとかセックス・アピールとかいう言葉とは、まるで無縁なヴィジュアルなので、ワグネリアンの資格は十分なんですが。でも違いますけど。

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2006年10月26日 (木)

「さらば死都ウィーン」 ダニエル・シルヴァ

20061026silvajp美術修復師ガブリエル・アロン シリーズ』という副題がついています。

このタイトルで、しかも主人公は美術(絵画の)修復師。当然、ウィーンを舞台にハプスブルグ家秘蔵かなんかの失われたマスターピースが見つかって、それをめぐって殺人の嵐かなんかが巻き起こるんだろうと。――普通そう思わないでしょうか。

読んでびっくり。確かに主人公は絵画の修復師(それも一流の)なんですが、それは世を忍ぶ仮の姿。実はイスラエルのエージェントだったのでした。
それに最初の殺人はウィーンで起きるものの、すぐに舞台はヴェネツィアやらイスラエルやら、アルゼンチンやら、アメリカやら、ミュンヘンやら、チェコやら、ポーランドやら世界中に広がります。(バビ・ヤールの谷のこともちらっと出てきます。)

テーマは美術とは何の関係も無く、ホロコースト。
あとがきを読むとこの作品はホロコーストの未解決の問題をテーマにした三部作の完結編ということで、その第一作(未読ですが)はナチスによって略奪された美術品がテーマだったのだそう。それで主人公を絵画の修復師に設定したのかもしれません。

作者のダニエル・シルヴァはUPI通信の記者の後、CNNで報道番組のプロデューサーをつとめた人。ユダヤ系なのかどうかは書いてないので分かりません。
作品自体がつまらないわけではなく、ホロコーストの問題を扱うことは重要だとも思いますし、歴史に立脚してるので知識も得ることができます。
ただ、現在のイスラエルの立場も疑うことなく100%の正義として扱っていて、そこにどうしても抵抗を覚え、素直に楽しめない部分があります。

なお原題は A Death in Vienna。もしかするとDeathは民主主義の死とか正義の死とか、そういう意味も込めてるのかもしれません。それにしても『デス・イン・ヴィエンナ』って、ちょっと恥ずい題名かも。さすがに邦題を「ウィーンに死す」とは出来なかったんでしょうね。

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2006年10月25日 (水)

クインシーが北京五輪の音楽を ~ニュースの落穂拾い・3 Watch What Happens

20061025quincyjp音楽家ジョーンズさんを任命 北京五輪の文化芸術担当に共同通信
「北京五輪組織委は25日までに、米国の音楽家クインシー・ジョーンズさん(73)を文化芸術コンサルタントに任命したと発表。映画監督の張芸謀氏が総監督を務め、スティーブン・スピルバーグ氏(米国)などもメンバーとなっている五輪開閉会式担当作業グループにかかわるという。」

オリンピックの音楽担当といえば、なんといってもバルセロナの時の坂本龍一を思い出します。あの時もへえ~、スペインの五輪で日本人を!と思ったものですが、今回はもっとびっくり。
でもこの共同通信の記事のタイトル「ジョーンズさんを」って、それじゃどのジョーンズなんだか。

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2006年10月24日 (火)

うわ~~~~・・・B&Wの新製品のデザイン ~オーディオ・ニュースの落穂拾い

20061024audiojp昨日の日記に今日の予想最高気温のことを書きましたが、なんと予想の12度までもあがらず、仙台の最高気温はわずか9.8度でした。真冬だ・・・


さて、東京国際フォーラムでは、20日から22日まで「東京インターナショナルオーディオショウ」が開かれていました。そのニュースがwebでも詳しく紹介され始めています。
各社の新製品、いろいろと興味深いものが並んでいますが、なんといっても関心を集めたと思われるのは、B&Wの新しいスピーカーでしょう。

B&Wは録音スタジオにおけるモニター・スピーカーのジャンルでは、世界で最も高い評価を受けているイギリスのスピーカー・メーカーです。民生用でも常に日本のオーディオ雑誌のベスト・バイ記事の常連ブランド。特にクラシック・ファンだと、お持ちの方は多いと思います。

マトリックス・シリーズにしてもノーチラス・シリーズにしても、驚くような斬新なデザインを提案するブランドですが、それらはいずれも最新の音響理論に基づいて設計されたもので、この会社の製品に関する限り、斬新と思われていたものも、いつのまにか業界標準になってしまうのが常です。

そしてその新製品。
なにしろ名前がSignature Diamond。シグナチュアというのはB&Wの場合、最高級の記念碑的モデルに付けられる名前。しかも今度の新製品は40周年記念モデルということで、第一線を退いていたあの「オリジナル・ノーチラス」のデザイナーが、現場復帰してデザインしたというものなのです。

オリジナル・ノーチラスは真っ黒いカタツムリを重ねたような奇怪なデザインでありながら、それは音質を極限まで追求することから出てきたもの。奇異と機能性が重なり合って、奇跡的に美しく見えてくるという、不思議な、しかし全世界で絶賛されたスピーカーだったのでした。

鳴り物入りの登場といってもいいでしょう。
そして出てきた新製品の写真は・・・>クリック

え。。。。。。なに、このビニール製の土管みたいなのは?上にちょこんと乗っかってるのはノーチラス・トゥイーターなんですが、それを大理石でくるんでるとか。

あらためて輸入もとのマランツのHPをみてみたら、プロトタイプではあるようですが、う~ん、これって、売れるの???

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2006年10月23日 (月)

さ、寒い  いろんな意味で ~ニュースの落穂拾い・2 Watch What Happens

20061023keigojp寒いです。明日の仙台の最高気温は12度。最低じゃなくて最高ですよ。これじゃまるで冬。中田選手のような4メートルぐらいの超ロングマフラーが欲しいところです。

もっとも北海道はもっとすごくて、札幌の朝の予想最低気温は1度、旭川の予想は氷点下2度(!!!)だとか。

それはともかく。

目上に「ご苦労さま」NG=敬語使用で初のQ&A指針案-文化審(時事通信)

などというニュースが。

 「目上の人をねぎらう時に『ご苦労さま』はふさわしくない。『お疲れさま』を使いましょう」。文化審議会の国語分科会(阿刀田高会長)は23日、敬語の使用法をQ&A方式で示した指針案をまとめた。一般からの意見も聞いた上、来年2月に文科相に答申する。文化庁は国民向けの初の具体的指針として広く活用を呼び掛ける」

それはまあ、その通りなんだけど、そんなことわざわざ文化審議会がいうことか?という気も。
それにこの書き方だと「お疲れさま」とだけ言う人が増えそう。「お疲れさまでした」と「でした」か「です」を付けなければ。

敬語の使い方というのは、本来は家庭で教えるべきなんでしょうが、まあいまや家庭にそんなことを期待するのが無理ということなんでしょうか。でも、会社で間違った使い方してる人がいたら注意してやるとか、そんな程度で済む問題じゃないのでしょうかねえ。わざわざ文化審議会が。

それに私は敬語は重要だと思ってますが、だからといって国が敬語の使い方に積極的になるというのも、ちょっといやな感じが。
まあ、文科省としては、各家庭や、学校、職場、団体、あるいは地域によって、異なる敬語の使い方があり、異なる「よりどころ」を持っているので、「よりどころのよりどころ」として使って欲しいと言ってるんですが。

文化審議会の国語分科会というのは、昔の国語審議会のことで、過去に敬語にかんしては昭和27年と平成12年の2回、審議を行い建議/答申を行ってきたようです。

昭和27年と平成12年の間がすごく時間があいていて、平成12年と平成19年(に答申が出されるので)の間が7年しかないというのは、面白いところです。

今回に関しては、昨年3月に文部科学大臣が文化審議会に諮問したもので、「敬語がコミュニケーションを円滑に行い、確かな人間関係を築いていくために欠かせないものであるという基本的な立場に」立ち、その上で、「敬語が必要だと感じているけれども現実の運用に際しては困難を感じている人たち」を主な対象として、「具体的な場面における敬語の適切な使い方」などをまとめることになっているようです。

「敬語が必要だと感じているけれども現実の運用に際しては困難を感じている人たち」。

これって「敬語使わないとまずい場面でも、使い方が分かんない」ということですよね。どちらかというと、こういうまわりくどい言い方を、お役所の文書から排除するような指針とか出して欲しいかも。

※ 文科省の写真はいつものように「東京発フリー素材写真集」さまから

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2006年10月21日 (土)

中田

20061021nakatajp地下鉄仙台駅のコンコースにCANONの巨大な広告が。
さすがは中田、引退してもカリスマぶりを発揮してます。

日本ではファッションリーダー、欧米ではもろにゲイ・ファッションと見なされてるらしい彼は、マフラー遣いの名手でもあるらしい。そう、あの誰もが忘れもしない2002年帰国時の成田空港での超ロング・ロング・マフラー。

ということで今回のキヤノンの広告でも、やはりマフラーは手離しません。
でも、、、、マフラーするほど寒いんだったら、上になんか着ろと思ったのは、私だけ?

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2006年10月20日 (金)

松雪泰子もひろゆきも? ~ニュースの落穂拾い Watch What Happens

20061020nakaejp発端は昨日のこのニュース

タイトルは「リスク回避にネット監視活況 メールから取り付け騒ぎも」。
これだけ見ると普通に読み流してしまいそうな記事ですが、以下の部分がある種の人々の心をグッと掴んだみたい。

佐賀県庁の「危機管理・広報課」の仕事は、毎朝1000件前後届く「書き込み」情報に目を通すことから始まる。
 「佐賀」という言葉が含まれる情報で、前夜までの1日に書き込まれたものだ。個人のホームページや「2ちゃんねる」などの掲示板、メールマガジンからニュースサイトまで。ネット上のあらゆる場所から検索され、東京都渋谷区の監視会社「ガーラ」から送られてくる。「佐賀」を含む三つのキーワードを拾い出す契約で月10万円弱。
 佐賀に好印象を寄せたブログを見つけるとお礼のメールを送るなど、「ポジティブに活用している」というが、導入のきっかけは危機管理のためだった。

というわけで、ご想像通り。いまや2ちゃんねるの各種スレッドでは、何の関係もないのにやたら佐賀の文字。
「下がった」と書けばいいのに「佐賀った」と書いてみたり。およそ脈絡も無く「それじゃ佐賀だよ」とか。

INTERNET Watch の「やじうまWatch」欄によれば、「現在1万以上のスレッドに「佐賀」の文字が。ほとんどがこの1日で投稿されたもので、その数は今も増え続けている」とか。

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2006年10月19日 (木)

洪水(後) ~名画と名曲・56

20061019sisleyシスレーが76年に描いた洪水の絵は全部で6点あるようなんですが、私は残念ながら5点しか写真を持ってません。パラパラ動画にして見ました。

1枚目は昨日掲載したオルセーのもの。
2枚目は少し水位が下がっています。これはセーヌ川をさらに下ったところにあるルーアンの美術館が所蔵しています。
3枚目は水位は同じくらいですが、すっかり天気は回復して青空が見えています。これもオルセー美術館にある名作です。
4枚目は少し水溜りが残っている程度になりました。この作品はマドリッドのティッセン=ボルミネッサ美術館にあります。
5枚目はすっかり水がひいた後の様子。これだけは、逆方向から描かれています。ケンブリッジのフィッツウィリアム美術館所蔵で、1985年に開かれた日本で初めてのシスレーの回顧展で本邦公開されています。

さてシスレーはこのぐらいにして、音楽で洪水と言えば――当然のようにサン=サーンスの「洪水」が思い浮かびます。
ただしこちらの洪水は、洪水は洪水でも、そんじょそこらの洪水じゃなくて、洪水中の洪水ともいうべきノアの洪水です。

2. ノアの洪水

サン=サーンスの独唱、合唱とオーケストラのための「ノアの洪水」Op.45は、1876年3月にパリで初演が行われました。
なんという偶然。ポール=マルリーが洪水にあって、シスレーがこれらの絵を描いたのも、76年の3月。まさに同じ年の同じ月です。

作曲自体は74年ごろに行われましたが、サン=サーンスの作品の中ではチェロ協奏曲第1番やピアノ協奏曲第4番と同時期。69年から72年にかけて作曲された歌劇「サムソンとデリラ」に続いて手がけられた『旧約聖書もの』ということになります。

ソプラノ、メゾソプラノ、テノール、バリトンの4人の独唱者と、混声合唱、管弦楽による大規模な作品で、全曲45分近くかかります。

全体は前奏曲と3部に分かれ、
第1部 人の堕落、神の怒り、ノアの契約
第2部 箱舟と洪水
第3部 鳩、箱舟からの脱出、神の祝福

と、ノアの箱舟の話が歌われます。
ただし4人の独唱者は全部状況を説明するだけで、一人一人にノアとか神とか、オペラのように役がついているわけではありません。独唱も、合唱も基本的に物語を説明する役目にとどまっています。

CDの解説によれば、サン=サーンス自身この曲をオラトリオと呼ぶべきか聖書カンタータとすべきか、ポエム・リリックとすべきか迷っていたのだそうで、批評家による「劇的交響曲」あるいは、台本を書いたルイ・ガレによる「交響楽的ドラマ」という分類が、どうやら適切なようです。

サンーサーンスによる音楽は、初演時は旋律の欠如が指摘されたということですが、ちょっとそれが信じられないような美しさです。
ワグナーの影響が強く見られ、というよりも聴いているうちに一瞬「これってワグナーだったんだっけ?」と、混乱してしまう部分すらあります。
――ということで、私のようにワグナーの旋律は嫌いじゃないんだけれども、あの押し付けがましさがイヤという人には、ご一聴をお薦めします。

ジャック・メルシエ指揮イル・ド・フランス国立管弦楽団のCDは、独唱にフランソワーズ・ポレらを迎えています。ポレは日本ではN響定期などでワグナー歌いとしておなじみのフランスのソプラノ。『ワグナーの影響が強いフランス音楽』には、まことにぴったりと言えそうです。
なお前奏曲のヴァイオリン独奏はジェラール・ジャリが担当しています。

ついでながらこのCD、フィルアップされたカンタータ「夜」Op.114は、若き日のナタリー・ドゥセ(デッセー)が美声を聞かせていて、かなりお買い得感が。(国内盤が発売されたのは2003年ですが、録音は90年。)

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2006年10月18日 (水)

洪水(前) ~名画と名曲・56

20061018sisley1jp1. ポール・マルリーの洪水

1876年にセーヌ川沿いのポール・マルリーは洪水の被害にあい、当時近くのマルリー・ル・ロワに住んでいたシスレーは、さっそくキャンバスを持ってポール・マルリーに向かいました。

シスレーはこの時、6点の絵を描きました。床上浸水ぐらいから完全に水がひいたところまで、それぞれ時間を変えて、水と空の様子が描写されています。

中でも一番有名なのが上の作品で、オルセー美術館にあります。ただこの作品の色彩の美しさは、図版では100分の1も伝わらないと思います。ぜひとも多くの方に実物を見ていただきたいものの一つ。名品揃いのオルセーの中でもひときわ目立つ作品です。

洪水と言うのは、災害ですから当然に悲惨ですし、排泄物とかも全部一緒くたになってしまうので、すごく汚いものでもあるわけですが、これがなぜか一幅の抒情詩になってしまうあたりが、シスレー。

これがクールベなら、水没した家々を前に悲嘆にくれる人々が描かれたでしょうし、ミレーなら洪水を乗り越えてたくましく再建に向かう人々を、ドラクロワならなすすべもなくひたすら自然の脅威に翻弄される人々を描いたはずですが、シスレーの手にかかると水と空が織り成す美しい風景の絵になってしまうんですね。

舞台のポール・マルリーというのはセーヌ川のパリより少し下流にあります。
そうそう下流と言えば・・・ 私だけかもしれませんが、太平洋側に住んでいると、川って地図の左から右に向かって、または上から下に向かって流れるものと言う変な思い込みがないでしょうか?東京の川は全部そうですし、仙台も広瀬川はそうです。(まあ日本海側の石狩川や雄物川流域にお住まいの方は逆の感覚でしょうけれど。)

200610182このため私はセーヌ川も、なんとなく左上から右下に向かって流れてる(つまり昔の日航のホテル―今はノヴォテルになっちゃったそうですが―の方が上流で、ノートルダム大寺院の方が下流)と、勝手に思い込んでいました。
でも良く考えてみたら、というか考えるまでも無く、逆なんですよね。大西洋に注ぐわけですから。

ポール・マルリーはちょうどセーヌ川が大きく蛇行するところに当っていて、ここからセーヌ川の水を引き上げ、ヴェルサイユに送っていたんだそうです。こういう川が蛇行してる場所というのは、洪水がおきやすくて、広瀬川も江戸時代には今の西公園付近の蛇行してる所では、しょっちゅう水害が起きていたそうです。

明日は何もなければこの連作のうち他の4点をご紹介します。
(続く)

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2006年10月17日 (火)

内申書

20061017nakaejp2、3年前にある番組の取材で宮城県の山間部の小学校に行ったことがあります。
生徒数があわせて50人にも満たない小さな小学校ですが、ほんの数人しかいない若い先生たちが昼休みには、子供たちと一緒になって校庭を走り回って遊んでいて、「ああ、こんな学校ではイジメ問題なんか起きないだろうなあ」とつくづく感じさせられたものでした。

もちろんこれはある種ユートピアであって、もはや今の日本ではほとんど失われた光景に等しいのでしょう。いったい全国の教育現場というのはどうなってるのでしょう?

福岡県の中学生イジメ自殺事件。きょうはTVで父親と祖父がインタビューに答えていました。お葬式に問題の教師が来た時の声を荒げた映像とは違い、きょうは落ち着いて静かな口調で話していました。
お祖父さんによれば、教室のこの中学生の机には『バカ』などと書かれていて、自殺後に落書きされた可能性もあるのだそう。告別式に列席した同級生の中には、手も合わせずにニヤッとして顔を見合わせ帰っていったのが何人かいたとか。中学生が自殺というだけで十分衝撃的なのに、その後の展開がつぎからつぎへと憤りを感じずにはいられない話ばかりで、実に憂鬱になってしまう事件です。

と、この事件のショックもさめやらぬのに、今度は千葉県で、中学校の教師が高速道路の高架橋から飛び降り自殺するという事件があったそうなんですが、その原因がどうやら校長のいじめにあったらしいというのが判ったそうです。さきほどのニュースでやってましたが、自殺したのは千葉市の中学校教諭で、赴任した当時から校長とそりがあわず、校長が何度も大声で叱責していたとのこと。校長はその教師の自殺以降は体調不良で休んでいるとのことです。

私は教育関係には全く疎いので、いったいどうすれば解決にむかうことが出来るのか、まったくわかりませんが、文部省が調査しますとか、そんなんじゃなくてもっとドラスティックな解決法が求められてるような気がします。

たとえば内申書を廃止すると言うのはどうでしょうか。
とりあえず最初の1歩として。――さっそく今年度から。
教師が権威を確立するのに、「内申書にひびくぞ」という脅し文句を使うと言うのは、よく聞く話です。これまでにも反対の運動をしてきた人もいらっしゃるようです。教師の個人的感情で内申書にひどいことを書かれたという人のサイトも見つけました。

もちろん内申書の当初の目的は、そんな変なことにあるのではありませんでした。
受験の際に、たった1発の試験で実力を判断される、まるで「運試し」のようなシステムに対する救済措置として考えられたわけです。
あるいは成績と同時に出欠の記録、人物評価、クラブ活動や生徒会活動なども評価に加えることで、勉強一本やりじゃないバランスのとれた人間形成をというのもあったかもしれません。

内申書制度が実際に高校受験・大学受験の場で、デメリットよりもメリットを主張できるだけの効果を発揮できているのかどうか、私は知りませんが、なんだか副作用の方が強くなってきたような気がします。

教師が絶対的に信頼できる人たちで占められているのであれば、主観的にならざるを得ない人物評価も、ある程度は信用して任せてもいいのかもしれませんが、教師の質がここまで低下してしまうと、多少でも恣意的になりうる要素は一切省いてしまった方がベターのような気がします。

一発勝負の試験では失敗したり、当日に調子が悪かったりした生徒が可哀想と言う意見もあるでしょうし、実際可哀想なんですが、いまや一発勝負のデメリットと内申書のデメリットでは、後者の方が被害が甚大ではないのかと言う気もします。もちろん上に書いたように、私は教育問題には疎いので、これは十分に調べて出した結論ではありません。あくまでも「そんな気がする」という程度の意見なんですが。

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2006年10月13日 (金)

シスレー(3)

20061013sisley1jp_1印象派の画家たちというのは仲が良く、よく一緒にパリ郊外に制作のための小旅行をしていました。

モティーフが一緒で、制作の場所・時期が一緒、絵画に対する考え方も同じということになると、当然作品は似てきます。
初期のうちはモネもシスレーもピサロも、みな似通った絵を描いていました。
その中でモネは究極を目指して先鋭化し、ピサロはやがて点描の道を模索し、シスレーは最後まで元の場所にとどまったとも言えそうです。

もちろん似てるとはいっても個性はあって、シスレーが他の画家たちから際立っていたのは、遠近法を使った奥行きのある画面、地平線を低く取り全体をほどよくまとめた安定感のある構図、はっきりとした輪郭、美しく透明感をも感じさせる色彩バランスなどでしょうか。

これらは基本的には、初期から最晩年まで、失われることはありませんでした。
このような特長は、やはり若い頃のロンドン生活で親しんだ、イギリスの風景画家、カンスタブル、ターナーといった人たちの影響によるものと思われます。というよりむしろその流れを汲んでいるという言い方をした方が適切かもしれません。

なかでも70年代は、こうしたシスレー芸術が最も美しく花開いた時期といえます。

上の絵は「サン・マルタン運河」(オルセー美術館)。1972年の作品ですが、同じ運河を描いていても昨日紹介した2年前の2つの作品とは随分タッチが違っていて、すでにコロー風を脱しているのがわかります。

20061013sisley2jp右の作品は「ルーヴシエンヌの庭―雪」と言う作品。74年に描かれたもので、ワシントンDCのフィリップス・コレクションにあります。

どちらもとても美しい作品なんですが、しかし。そうした美しさにもかかわらず、とにかくシスレーの作品は売れなかったのでした。そのためでしょうか。特に色使いに関しては、シスレーは次第に補色の並置などモネのやり方を取り入れ、自身の洗練された色彩感覚を捨ててしまったような作品も見受けられるようになります。
薔薇色の使用も70年代終りごろからの作品の特徴で、これは仲間内でも不評だったらしいのですが、何故かこだわっていたようです。

構図も安定感を欠くものが出てきます。下の作品はシスレー晩年の作品の中では最も良く知られている「ロワン河」(1892、オルセー美術館)ですが、ねじれた樹の幹はまるでシスレー自身の不安定な境遇が表れているかのごとく感じさせます。しかもピンクをはじめ暖色系の柔らかな色使いをしているにもかかわらず、漂う寂しさはなんでしょうか?(もっともシスレーはあくまでも風景を描いたのであり、心象風景を描いたわけではないので、そんな見方をされたら本人は嫌がるでしょうけれど。)

20061013sisley3jp前回も書いたように90年代に入ると、印象派はようやく批評家にも世間にも認められるようになり、友人のモネもルノワールも確固とした地位を築くことが出来るようになりました。
しかし仲間の画家とごく一部の批評家を除いて、シスレー一人だけはやはり認められず、不遇のままでした。当然のように経済的にも貧困のままでした。(これは80年代のエピソードですが、シスレーはなんとか収入を増やすために扇に挿絵を描くと言う仕事までしていますが、これは肌に合わなかったらしくすぐに止めています。)

1895年、シスレーは喉頭癌にかかります。このため制作もはかどらず、経済的にはますます困窮することになりました。
やがて糟糠の妻マリーも舌癌となり、シスレーは献身的に看病しますが、1898年10月、亡くなります。

妻を看取った後、シスレー自身の健康も急速に悪化します。翌99年1月、シスレーは生涯の友人であったモネを呼び、二人の子供の後見を依頼。そして1週間後の1月29日、フォンテーヌブローの森の近く、当時住んでいたモレ・シュル・ロワンの地で亡くなったのでした。

シスレーが死んで数ヵ月後から、その作品の値段が上がり始めます。
亡くなって1年後、最初はわずか180フランでしか売れなかった「ポール・マルリーの洪水」が4万3千フランの値をつけ、これを契機に他のシスレー作品も爆発的な値上がりを記録、天井知らずの高値をつけていきます。

死んで1年後に認めるくらいなら、1年前に、せめて妻マリーが生きているうちに認めてやればよかったのにと思いますが、世の中って概してこんなもんなんですね。

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2006年10月12日 (木)

シスレー(2)

20061012sisley1jpシスレーの1860年代の代表作である「マルロットの村の道(森へ行く3人の女)」は、66年のサロンに出品され入選します。
1870年には「サン・マルタン運河の眺望」(左、オルセー美術館)も入選。これはプロとしてやっていくための大きな自信となったに違いありません。

また右下の作品は同じく70年に描かれた「サン・マルタン運河の船」(ヴィンタートゥア、オスカー・ラインハルト・コレクション)です。
この1870年の2作品と、60年代の2つの「マルロットの村の道」(ブリジストン、バッファロー)を比べると、作風が大分変わってきていることがわかると思います。

すぐにわかるのは60年代の2作品には作風にクルーベの影響が見られること。そして70年の2作品には、コローの影響が色濃く表れていること。水面や冬枯れの並木に見られるデリケートで精緻な表現は、コローそのものと言っても過言ではありません。

20061012sisley2jpコローの影響を脱したその後の作品では、これらはもっと大胆なタッチで扱われることになりますが、にもかかわらずいささかも乱暴になることがなく、ソフトな繊細さを失わなかったのは、シスレーの美点の一つではないでしょうか。

(クールベ風からコロー風へと変化したのが、66年と70年の間のいつの時点だったのかは、よく判りません。前回書いた事情で、60年代の作品のほとんどが残っていないからです。)

そしてより印象派風のタッチへと変化したのは、翌71年の作品からです。その71年から約10年間が、シスレーの最盛期と私には思えます。
70年から71年にかけては私生活では戦争の影響で、財産を失ってしまったこと。そして父親の破産と死という、シスレーにとっての運命の変転がありました。

このために経済的にも破綻してしまい、シスレーはこの後、生涯困窮生活を送ることになります。絵が売れればよかったのですが、シスレーの絵はさっぱり売れませんでした。売れてもとても安い値段で、食事代として絵を提供したなどと言うエピソードすら残っています。

シスレーは同じ画家仲間からは非常に高く評価されていましたが、批評家からは相手にされず、また一般の美術愛好家、いわゆる目利きにもシスレーは一顧だにされませんでした。
当初は前衛的と見られていた印象派の画家たちが、90年代に入って地位を確立してからも、シスレーだけは不遇のままだったのです。

シスレーの詩情あふれる風景画の数々を知る現代の私たちには、かなり不思議な感じがします。絵が売れないと言えばゴッホが代表的ですが、生前に1作しか売れなかったゴッホよりはましとしても、まるで評価されなかったと言う点ではゴッホもシスレーも一緒だったのです。

ゴッホの場合はなんとなく分かるような気がします。ゴッホの表現主義的な絵はいくらなんでも新しすぎたし、その強烈さは見る人をたじろがすに十分だったと思われます。音楽にたとえるなら、ゴッホは絵画のハードロックと言えるかもしれません。でも常に温和で心地よく、叙情的なシスレーの絵は、いわば絵画のカーペンターズ。どう考えても一般受けしそうな・・・

理由の一つはシスレーは「二流のモネ」と思われていたことでした。モネほどの大胆さと前衛性を持ち合わせていれば、絵画の未来を切り開くといった視点からも、批評家はどんなに貶しても、無視することだけは出来なかったでしょうが、シスレーはその観点からも価値は無いと考えられていたのでしょう。

もっとも二流のモネと思われた責任は、確かにシスレー自身にもあって、特に80年代以降の作品では自らの美意識を捨て、モネの後追いをするような作品が多く見られるようになっていくのです。

理由のもう一つは、これは西洋の美術の歴史の中でも全く新しいことではなかったかと思いますが、シスレーの絵の中には一切の「ドラマ」というものがありませんでした。

ヨーロッパの絵画には常にドラマがありました。ラスコーの壁画ですら、そこにはまさに獲物を捕らえようとする古の人々のドラマを感じることが出来ます。
西洋美術史上で最も静かで、見ていると時が止まったかとすら感じさせるフラ・アンジェリコの「受胎告知」は、にもかかわらずその静謐な画面の奥に人類史上最高のドラマの誕生が隠されています。

ドラマとは時間であり、時間がある以上有限です。永遠は獲得できないのです。シスレーの絵はドラマを拒否し、時間がありません。

モネは一瞬の光のゆらめきをキャンバスに固定しましたが、ゆらめきということはゆらめく前後の時間を想起させます。モネの絵はそういう意味で一瞬をとらえたのではなく、揺らめく光の時間を、つまり光のドラマをとらえています。

もしかすると「モナリザ」には時間もドラマもないかもしれませんが(だから謎の微笑みは永遠の微笑みになる)、あれは特殊な例で、レオナルドの他の作品はドラマを欠いているわけではありません。

シスレーの風景画はドラマも時間もありません。なぜでしょうか。

シスレーはまさに一瞬の光と大気の状態をとらえ、それをキャンバスに正確に見たとおり描いたのです。
その前も後も無く、光が最も美しく風景を描き出すただ一瞬の状態を、冷静に観察し、それをそのまま一切のドラマも前後の時間もなく描ききること、それがシスレーにとっては印象派(と後に呼ばれる)の精神の実現でした。

シスレーの風景画に登場する人物は、あくまでも風景を引き立たせる役目を担っているだけで、モネのように風俗的な興味を惹くものではありません(それがまたシスレーの絵をさっぱり売れなくした要因でもありました)。
人物を描きこめばどうしてもそこにドラマは発生し、視たものを視たとおりに描くことでただ一瞬の風景を固定するという、シスレーの絵の本質からはずれていってしまうのです。

ただひたすら冷徹に、ひたすら視覚的に観察することで、描く対象の本質にせまるということ。それがシスレーの風景画です。

そしてその冷徹さがあったからこそ、シスレーの風景画の詩情は生まれてきます。
それはちょうどモーツァルトの音楽の抒情が、センチメンタルな感情移入からでも、耽美的なまでの響きの研磨からでもなく、カール・ベームの堅固な造型感覚と厳格な音作りからこそ生まれてくるのに似ていないでしょうか。

シスレーの場合はたまたま具象的な風景画と言う形をとりましたが、スタイルを変えれば、それは後半生のセザンヌやピカソにも通じる精神かもしれません。つまりシスレーの一見平凡な風景画は、実はその精神においては20世紀を準備するものであり、19世紀と言う時代には早すぎたのだとも思えます。19世紀の人々が、画家仲間を除いてちっともシスレーを評価できなかったというのは、逆に言えば画家仲間だけがシスレーを評価できたと言うのは、ある意味では当りまえのこととも言えるかもしれません。
(続く)

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2006年10月11日 (水)

シスレー(1)

20061011sisley1jp『名画と名曲』シリーズで、シスレー最盛期の傑作「ポール=マルリーの洪水」を取り上げようと思ったんですが・・・ ん?ちょっと待てよ、と。

世間的なイメージとしては、「シスレーって生涯ずっと同じような風景画を描いていた人。最盛期なんてあるの?」――ではないでしょうか。

シスレーに限らず、印象派の絵画は日本にもかなりありますし、シスレー作品も図版だったら誰でも見ていると思うんですが、しかしそのわりにはその生涯はあまり知られてないように思います。作品も個別にどうこういうよりは、印象派最大公約数的な風景画のイメージ。

20061011sisley2jp右の絵は「マルリー・ル・ロワの眺め――陽光」と題された作品で1876年に描かれたものですが(トロントのオンタリオ美術館)、まあざっとこんな感じでしょうか。

そこで「洪水」に行く前に、簡単にシスレーの絵の特徴、生涯と作風の変化をまとめておきたいと思います。

以前に『名画と名曲』シリーズでブリジストン美術館所蔵の「マルロットの村の道」を取り上げたときにも書きましたが、フランス印象派の中でも最も印象派らしい絵を描いたシスレーは、実は国籍も血筋もイギリス人です。(ただし父方の祖母はフランス人らしいので、1/4はフランスの血が入ってるということになるようです。)

アルフレッド・シスレー(1839-1899)は1839年10月30日、貿易商を営んでいたイギリス人の両親のもとに、パリで生まれました。
父親ウィリアム・シスレーと母のフェリシアはいとこ同士で、二人ともイギリスの富裕な実業家の家系。
面白いことに両方ともその祖先は密貿易に手を染めていたようです。
父ウィリアムの仕事は、イギリスと大陸との織物貿易と書いてある資料と、南米に造花を輸出する仕事が主と書いてある資料とあって、どっちが正解なのか、それともどっちも正解なのか、よくわかりません。いずれにせよ家庭はかなり裕福で、生活はパリを根城にしていたようです。このためシスレーもパリで育ち、フランスの美意識と教養を身に付けていきます。

シスレーの少年時代については全く知られていませんが、母のフェリシアは音楽と文学が趣味と言う人だったので、かなり洗練された家庭環境だったのではないかと想像されます。

シスレーは次男でしたが、長男が早世したため、稼業を継ぐことを期待されていました。彼は18歳の時に、貿易の仕事を覚えるべく、ロンドンに商業の勉強に出かけます。
しかしこれがシスレーの運命を変えることになります。
シスレーはロンドンで商売の勉強そっちのけで、熱心に展覧会を訪れては、カンスタブルとターナーの絵を見て回っていたのでした。

シスレーはパリに戻って、商業から絵の道に進路を変えることを両親に懇願します。
当然ウィリアム氏がこころよく思うわけは無いのですが、シスレーはきっと拝み倒したのでしょう。1860年(おそらく)に晴れて有名なシャルル・グレールのアトリエに入ることが出来ました。
このアトリエには、モネやルノワールも通ってきていて、シスレーはその二人と終生の友情を結ぶことになります。特にルノワールとは親友といってよい間柄だったようです。

20061011sisley3jpしかし推測するに、この「拝み倒す」という伝家の宝刀を、画家になるために使ってしまったせいでしょうか?これが二度目に必要だった時には、残念ながら効きませんでした。
1866年にシスレーは、地方出身で花屋の店員をしていたマリー=ルイーズと出会い、愛し合うようになります。

(上の絵は、ちょうどその頃に描かれた、もう一つの「マルロットの村の道」。バッファローのオルブライト・ノックス美術館)

しかし父ウィリアムは二人の結婚を認めず、シスレーに対する経済的援助を止めてしまいます。
それまで何一つ不自由の無い生活を送っていたシスレーは、相当に困った状況に置かれることになります。まるで「ある愛の詩」みたいですが、映画だけじゃなくて実際にあるんですねえ。

20061011renoirjpでも後年ほどには生活が大変では無かったのかもしれません。67年には長男、69年には長女が生まれ、貧しいとは言ってもふたりは幸福な生活を送っていたと思われます。

右の絵は68年にルノワールによって描かれたシスレー夫妻の肖像ですが、いかにも幸せな若夫婦といった様子が伝わってきます。(ケルンのヴァルラーフ=リヒャルツ美術館)

しかし1870年に起こった普仏戦争がすべてを変えてしまいます。
まず結婚のからみで行き来が途絶えていたとはいえ、いざという時には頼りにしていたであろう父親が破産。
しかも翌年には亡くなってしまいます。

さらに当時住んでいたブージヴァルの家が、普仏戦争における首都攻囲の際に蹂躙され、シスレーはそれまでに描きためた作品を含むすべての財産を失ってしまいます。現在シスレー60年代の作品が数えるほどしか残っていないのは、そういうわけがあるのです。
(続く)

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2006年10月10日 (火)

20061010karajanjpあまりといえば、あまりにも強烈な夢を見ました。
これは実話です。(というのも変な表現で、つまりこういう夢を見たと言うのが本当のことですという意味。)

ジェルメーヌ・ティッサン=ヴァランタンがフルトヴェングラーと連弾で、歌曲リサイタルのピアノ伴奏をすることになってたんですが、カラヤンがやってきていきなり「オレがやる」といって、ジェルメーヌを押しのけピアノを弾き始めます。フルトヴェングラーの隣に座って。

おまけにフルトヴェングラーのパートも全部自分で弾いてしまい、フルトヴェングラー氏はちょっと片手で和音を押さえるぐらい。手持ち無沙汰。

しかも歌手がまだ舞台に出てないのに、弾き始めたもんだから、歌い手(フィッシャー=ディースカウとシュヴァルツコップ)はあわてて出てきます。F=Dは「渡り廊下」を、歌いながら登場。シュヴァルツコップはたまたま彼女の担当の曲じゃなかったので、ゆっくり後をついてきます。観客はいなかったような。
で、なぜか渡り廊下の所から、小学校の校舎みたいな場所になってるんですが(?)。

曲は多分、ヴォルフのメーリケ歌曲集かイタリア歌曲集だったはず。でもなぜ連弾で?ブラームスの重唱曲ならピアノも二人だけど・・・

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2006年10月 9日 (月)

「マティス・ストーリーズ 残酷な愛の物語」 A.S.バイアット

20061009matissejpどうも体調が悪かった上に、ごたごたも重なって、まったく書けないでいました。ぼちぼち更新を再開したいなと思っていますが、虫食い状態になるかもしれません。

ということで「マティス・ストーリーズ」。

画家アンリ・マティスの作品にインスパイアされた3つの短編をおさめた小説集。日本語版は「残酷な愛の物語」という副題がついています。
3つの短編それぞれで、マティスの作品に対するかかわり方は異なっています。

第1話は「薔薇色のヌード」。
絵(Le Nu Rose ,1935)の方はわりと有名な作品で、ボルティモア美術館にあります。マティスは1954年に亡くなっていて、版権が微妙なので画像へのリンクだけ貼っておきます。
http://www.clas.ufl.edu/users/dbremm/img1028269374.jpeg

「ある日、彼女がその店に入ったのは、窓こしに《薔薇色のヌード》が見えたからだった。変わっているわ、と彼女は思った。コート掛けの上に、あの豪薯で立体的なヌードが肉感的に横たわっているなんて。」

と、始まるこの作品は、日本版の表紙がなかなかおしゃれにまとまってることもあって、なんとなく『アーウィン・ショーの短編のような感じなのかな?』なんて思って、読み始めました。
それは違っていたのですが、でもその間違った先入観のせいで、私は舞台がニューヨークだとばかり思って読んでいました。途中でチャリング・クロス・ロード(ロンドンの)なんて場所が出てくるからびっくり。。。。。

あわてて作者の略歴を見ると、

作者のアントニア・スーザン・バイアットは1936年生まれのイギリス人。もともとはロンドン大学で英文学を教える学者で、批評家としても有名な人だそうです。それが小説を書き始めて、最初は一部の人にしか注目されなかったようですが、90年発表の「ポゼッション」でベストセラー作家の仲間入り。人気作家のマーガレット・ドラブルの妹で、現代のブロンテ姉妹などと呼ばれているとか。

3つの短編は、どれも知的職業についている中年女性を主人公にしていて、まずこの「薔薇色のヌード」では、マティスの作品が、あるいはその喪失が、主人公の女性の心の秘密をあらわにしていきます。そして、ちょっとオシャレでちょっと皮肉なエンディング。

2つ目の「芸術作品」は、マティスの『沈黙の棲む家(Le Silence habité des Maisons ,1947)』をモティーフにしたもの。途中でネタばれ気味ですが、なかなか愉快な作品です。
3つめの「氷の部屋」は、『黒いドア(La Porte Noire ,1942)』をモティーフにしたもの。前の2つの作品が、どんでんがえしというには軽やかな、しかし意外な結末をもたらして、読後感をスッキリさせてくれたのに対して、ちょっとたれる感じがあるかも。

この二つの短編はいずれも、「薔薇色のヌード」に比べてマティスという画家、あるいは作品自体への言及も多く、作者のマティスへの愛情が伺われます。
文学としての評価のことは判りませんが、全体にマティスの絵の魅力を、新たに気づかせてくれるような作品といえるんじゃないでしょうか。むしろマティス嫌いの方にこそお薦めしたいと言えそうな。

(『沈黙の棲む家』『黒いドア』は、どちらも個人蔵の作品のようです。本の表紙は『沈黙の棲む家』)

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2006年10月 3日 (火)

オゾンホール最大に&アメリカの人口3億人 ~海外ニュースの落穂拾い Watch What Happens

20061003jouzenjijpなんだかどうもダメなようです。
体調は悪いし、じわじわ太ってきて、ついにダイエット前の体重に戻ってしまい、せっかくの8kgダイエットが無に帰したし。なんだか最近やたら甘いものが食べたいのも、変な徴候です。そんな時に限って近所のロッテリアがシェイク半額とかやってて・・・

音楽を聞く気にもなりません。FMもボロボロ録り逃しています。アムランのブラームスも逃してしまった・・・

胃のあたりを押すと痛いような。胃ガンでしょうか?でもガンだったら痩せるはず・・・

ところで。

南極のオゾンホールが過去最大になどというニュースが。この「オゾンホールが過去最大」っていう台詞、なんだか毎年聞かされてる様な気も。

日本上空のオゾン層は大丈夫なんでしょうか?
環境省が今年7月31に出した昨年度分の年次報告書によれば、「日本上空では、主に1980年代に(オゾン量の)減少が進み、1990年代半ば以降はほとんど変化していないか、緩やかな増加傾向が見られるものの、1980年以前と比較すると減少している」ということなんですが。なんとなくわかりづらい文章で、読んでるうちにオゾンが減少してるのかオゾンホールが減少してるのか、混乱してきますね。

一昨年分の年次報告書では、長期的な減少傾向、特に札幌上空のオゾン量の減少が警告されていて、今年の「ほとんど変化していないか、緩やかな増加傾向」という文言と、どう整合性をとればいいんでしょう?

さて。世界中が環境のことを心配してる中、アメリカの人口が今月中に3億人の大台を突破する見込みだそうです。1967年に2億人突破だったので、凄い増え方ですねえ。お祭りムードは全く無いとのこと。ま、当然でしょうねえ。

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2006年10月 2日 (月)

JR長町駅

長町は仙台の南の副都心です。駅で言うと東北線の仙台より一つ東京寄り。

仙台市南部に広がる住宅団地を、周辺の山に山ほど抱えています。
そんなJR長町駅の利用者は、一日平均約6000人。特に首都圏の方は、副都心なんて言う割りには、随分少ないなと思われるかもしれません。一つ東京側の南仙台駅での乗降客が結構多いことと、地下鉄が通って地下鉄長町駅が誕生(1987)したことなどの理由で、利用者はこの程度に納まっています。

ただ同じ仙台市内のJRの駅では東仙台駅と北仙台駅はいずれも一日平均が3000人台ですから、見ようによってはそこそこ多いとも言えますね。
(山形駅でさえ、せいぜい一日1万1000人。仙台駅は特別多くて7万6000人。)。

それなのにと言うべきか、それだからと言うべきか、長町駅は老朽化したぼろぼろの建物だったのでした。(下の写真)。おまけに木造の駅舎は、新幹線の高架橋に邪魔されて風情もなにもなく・・・
20061002nagamachi1

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ということで、JR東日本は新幹線の高架橋下を利用して、新しい駅舎を建設。先月18日から新駅舎となりました。これにあわせて長町駅を通る東北線と常磐線の線路も、高架になりました。

20061002nagamachi2
またホームにはようやく電光掲示板も設置されました。
(どうせ新設するんだからということだったのか、旧・長町駅には、普通どんな小さな駅にもある、次の列車を知らせる電光掲示板が、用意されてなかったのです。)

20061002nagamachi3
これまでJRと地下鉄の乗り継ぎは非常に不便だったんですが、今度は近くなったので地下で結べばかなり便利になりそうです。でもいつのことなんでしょう?

駅の東側は旧国鉄用地で、現在広大な空き地なんですが、再開発される予定になっています。

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