« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »

2007年8月

2007年8月30日 (木)

Docomo と SONYのニュース ~ニュースの落穂拾い

20070830docomojp 今ふと思ったんですが、ハイテクという言葉、気づかないうちに死語化しつつあるんでしょうか?最近はあまり聞かなくなりました。経済ニュースのハイテク関連株なんてのは、まだ生きてると思いますが。

で、ハイなテクノロジーといえばアップルとなってしまう今日この頃ですが、話題の iPhone が日本に登場するのは早くても2009年と言われています。

日本で使えるようになった場合、どのキャリアが iPhone を獲得するのか興味津々ですが、孫さんがアップルの記者会見に出席したり、今のところ一番積極的に動いているのが Softbank のようです。

仮にそうなった場合、あと2年しかないわけですから、その間に NTT Docomo は、なんとかスマートフォンの類を独自に開発。普及させておかなければなりません。

だから、というわけでもないんでしょうが、NTT Docomo は今日、新たに市場に投入するスマートフォン2機種を発表しました。

詳しくは IT Media の記事をご参照いただきたいと思いますが、特に富士通のもの

(1) キャリアが他ならぬ Docomo であること。
(2) 無線LANとブルートゥースが使用できること。
(3) スライド式携帯電話風のコンパクトなデザインで、小さいもの好きの日本人に抵抗が無いこと。

の3つの特徴があり、iモードには対応してませんが、結構ヒット商品になるかもしれません。

この記事を読む限り、iPhone に比べて決定的に弱そうなのは、タッチパネルではないこと、および音楽・ビデオ関連。Windows Media Player 10 が入ってますが、記事を読む限りその手の機能については全然触れてなくて、どうやらすごく貧弱そうな「予感」が・・・。まあこれは企業用に開発されたという性格から、やむをえないのでしょう。

コンシュマー用としては、この手の機能の充実とゲームは必須かと思われます。Felica機能がついてるのに、おサイフケータイとしては使えないって、どんだけぇ~

一方、HTC製のものは、You tube mobile が視聴可能など、音楽・ビデオ関連は結構充実しているような感じも。
こちらもビジネス用途が主のようですが、タッチパネルもつかえるのはアドヴァンテージかもしれません。記事を読む限りではかなり iPhone 的な感じが。
ただしこちらもiモードとおサイフケータイは駄目なようです。

ちなみにHTCは台湾の会社で、日本でもスマートフォンでは既に Softbank で実績があります。

   

さてそのアップルに対抗すべき日本の雄――で、本来ならあるべき SONY ですが、またやってくれました。

これは28日のニュースだったんですが、これも IT Media の記事で。

ソニーのUSBメモリに「rootkit的」技術

「ソニーのUSBメモリに付属する指紋認識ソフトのドライバで、隠しディレクトリがインストールされるとF-Secureが批判した。
(中略)
ディレクトリ名を知っていれば、コマンドプロンプトを使ってこの隠しディレクトリに入り込み、新しい隠しファイルを作ることも可能だ。しかも一部のウイルス対策ソフトでは、このディレクトリ内のファイルは検出されない。つまり、理論的にはマルウェアがこの隠しディレクトリを利用することが可能になるとF- Secureは分析する。
(中略)
rootkitはかつて、Sony BMGのCDに組み込まれているのが発覚して問題になったことがある。当時はまだ、rootkitを使ったマルウェアはそれほど多くなかったが、その後、この手口を採用したマルウェアが増加した。」

簡単に言うと消費者の同意を得ないで、勝手にウィルスやスパイウェアの利用場所になりそうな、変なものを組み込んでいたということになります。別に他の企業はそんなことしなくても、指紋認証の機能を組み込めているのに、何故に SONY だけこんな奇妙なことをやるんでしょう???
rootkit では米国で集団訴訟を起こされ、さんざんな目にあったわけですが(昨年和解)、何も学習して無いのかもしれませんねえ・・・

写真はいつものように東京発フリー写真素材集さまから。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年8月29日 (水)

怪奇月蝕

20070829moon 昨日28日の皆既月食は、北海道など日本列島の北と南の一部地域で見れただけという、残念なことに終わりました。東北も最北端の方は大丈夫だったようですが、宮城は厚い雲に覆われ、まるで駄目でした。

そこで私が代わって(?)、パラパラ動画で月蝕を作りましたので、どうぞご覧下さい。

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2007年8月27日 (月)

改造私の内閣、顔ぶれ決まる

20070827abejp大物・有名人を起用して、なんとか「私の」色を薄くした感じでしょうか。最初からこういう顔ぶれで組んでおけば、いかになんでもあそこまで酷いことにはならなかったと思うんですが。一時的には、支持率が上昇しそうです。

しかし!油断は禁物。安倍ちゃんの実力は並みのものではないのです。
あの国民的人気者とすら言われた小池百合子前防衛相を、女性週刊誌の「あなたのココが嫌われる」特集に登場させるまでに、わずか2ヶ月とかけなかったサゲ男くんなのですから。

ネットニュースはあっというまに消えるので、閣僚の名前をメモしておきたいと思います。

首相 安倍晋三 (無派閥)成蹊法
総務相 増田寛也  (民間・元岩手県知事)東大法
法相 鳩山邦夫 (津島派)東大法
外相 町村信孝 (町村派)東大経済
財務相 額賀福志郎 (津島派)早稲田政経
文部科学相 伊吹文明  (留任・伊吹派)京大経済
厚生労働相 舛添要一 (無派閥・参議院)東大法
農相 遠藤武彦 (山崎派)中央大
経済産業相 甘利明  (留任・山崎派)慶応法
国土交通相 冬柴鐵三  (留任・公明党)関大法
環境相 鴨下一郎 (津島派)日大医
防衛相 高村正彦 (高村派)中央法
官房長官 与謝野馨 (無派閥)東大法
国家公安委員長 泉信也 (二階派・参議院)九州工
沖縄・北方担当相 岸田文雄 (古賀派)早稲田法
金融・行政改革担当相 渡辺喜美  (留任・無派閥)中央法
経済財政担当相 大田弘子  (留任・民間)一橋社会
少子化担当相 上川陽子 (古賀派)東大教養

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月26日 (日)

YOU MUST BELIEVE IN SPRING / Bill Evans ~思い出の名盤・19

20070826evansjp白人ながら、あらゆる黒人ジャズ・ミュージシャンからの尊敬を集めたジャズ・ピアニスト、ビル・エヴァンス。どんなJAZZ嫌いの方でも、名前ぐらいは聞いたことがおありかと思います。

エヴァンスは1929年ニュージャージー州の生まれ。マイルス・デイヴィスなどとの共演を経て(ジャズ史上最高の名盤の一つとされることも多い、マイルスの「カインド・オブ・ブルー」に参加)、1960年代に自己のトリオを結成。その初代のトリオによる「ワルツ・フォー・デビー」などの一連の作品は、ジャズのピアノ・トリオにおける究極とする人も少なくありません。
麻薬の常用で身体を蝕まれ、1980年にわずか51歳で死去。――Wikiによれば直接の死因は肝硬変、出血性潰瘍にともなう失血性のショック死ということのようです。

エヴァンスの演奏はよくドビュッシーなど、クラシックの影響が強いと言われますが、その辺は私には良くわかりません。

むしろ前に取り上げたジョン・ルイスや、よりメロディアスなケニー・ドリューなどは、クラシック好きという立場からでもすんなり入っていけたのに対して、ビル・エヴァンスは私にとってはあまりにもJAZZそのもので、ちょっと敷居が高いという感を拭えませんでした。

なので決してビル・エヴァンスの熱心な聞き手ではないのですが、そんな<なんちゃって>の私でも(だからこそ?)、一聴して魅了されたのがこの作品でした。すべての録音を聞いているわけではありませんが、この You Must Believe In Spring は、おそらくビル・エヴァンスの(私が聞いた限りの)すべてのアルバムの中でも、もっとも旋律と響きの美しさに傾斜した作品ではないかと思われます。

1977年に録音されたこのアルバムは、なぜかずっとお蔵入りになっていて、ビルの死後の1981年に初めて発売されました。

旋律と響きへの傾斜と行っても、単にメロディアスということではなくて(無論ムード音楽的な感じではなく)、なんていうかその美しさ具合が尋常ではありません。
音の美感で比肩するのは、おそらくミケランジェリのラヴェル(EMI)とドビュッシー(DG)ぐらいじゃないでしょうか。
LPのB面最初におさめられた The Peacocks などは、耽美的という言葉しか浮かんでこないほど。

A面冒頭の B Minor Waltz (For Ellaine) は、この録音の前年に自殺した別れた妻のエレインに捧げられたもので、ビルの音色の美しさとともに、非常に沈潜した感情が胸を打ちます。
We Will Meet Again (For Harry) のハリーというのは、ピアニスト&ピアノ教師をしていたビルのお兄さんで、録音の2年後にやはり自殺してしまいます。それでビル自身もその翌年には亡くなるわけですから、ウィー・ウィル・ミート・アゲインというのはあまりにも予言的なタイトルと言えるのかもしれません。

※ お兄さんが自殺した年が間違っていたのを、ayameさんに教えていただきましたので、訂正いたしました。

タイトル・チューンの You Must Believe In Spring は、ミュージカル映画「ロシュフォールの恋人たち」のためにジャック・ドゥミ監督(詞)とミシェル・ルグラン(曲)が書いた曲に、英語の歌詞とタイトルをつけたもの(ちょうど「シェルブールの雨傘」の I Will Wait For You や Watch What Happens と同じケース)。ちなみに、この演奏は勿論インストゥルメンタルですが、英語詞はアラン&マリリン・バーグマン夫妻が担当しています。

ビル・エヴァンスの名盤といって、このアルバムが挙がることはめったにないように思います。ジャズ・ファンの間では、どう評価されてるのか知りませんが、むしろクラシック好きの方にこそ聞いていただきたい1枚。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2007年8月23日 (木)

捨てるものがあるうちはいい ~あるいはβヒドロキシ酪酸

20070823ch3jp昨日の続きなんですが、一日2食推進サイトを見ていたら、なんとも気になる記述が。

朝食を食べる理由として、頭を使うときにはブドウ糖がエネルギー源になるので、炭水化物などを食べて脳にブドウ糖を送り込んでやらなくてはならないと、「従来は」言われていたと思います。

ところが、

「1日や2日、何も食べなくても健康にはまったく支障ありません。それどころか、空腹さえがまんできれば、むしろ爽快感が生まれ、スタミナが発揮でき、頭もシャープになってきます。
 これは、ブドウ糖が切れたときに脳はβ(ベータ)ヒドロキシ酪酸という老廃物をエネルギーとして使い始めるからです。このβヒドロキシ酪酸はケトン体といって、アルファ波を生じやすくする物質です。したがって、ブドウ糖を使用している脳よりも爽快感や心の安定感が生まれてくるのです。」

う~むむむむ。このサイトが言ってることが正しいのかどうか、私には判断できないのですが、なんだかものすごく???の嵐が。

とにかくβヒドロキシ酪酸を調べて見ました。
するとこんな記述に出くわしました――

体液のpHが酸性に傾いた状態についての説明なんですが、

「ケトン体(アセトン、アセト酢酸、β-ヒドロキシ酪酸)は脂肪の分解により肝臓で作られ、血液中に放出される。体内にケトン体が増加する状態をケトーシス(ケトン症; ketosis)といい、特にアセト酢酸、β-ヒドロキシ酪酸は比較的強い酸であるためケトアシドーシスとも呼ぶ。

ケトアシドーシスは、かぜやインフルエンザなどの感染症にかかっている時や、強いストレス下にある時など、血液が体組織よりももっと酸性に傾いている時に急激に発症する。

糖尿病性ケトアシドーシスは、主に1型糖尿病患者に起こる。インスリンが不足した状態では、グルコース(ブドウ糖)の代りに脂肪の代謝が亢進し、ケトン体が作られる。1型糖尿病患者で、インスリンを十分に補わないと、血糖値が上がり続け、ケトン体が血液中に蓄積しケトアシドーシスをきたす。この状態では細胞が損傷を受け、さらに脱水が加わると意識障害(ケトアシドーシス昏睡)を起こす。

最近、清涼飲料水をたくさん飲むうちに、糖尿病性ケトアシドーシスに陥るという深刻な問題がおきている。大容量のペットボトルで清涼飲料水を飲んでいたことから、ペットボトル症候群(清涼飲料水ケトーシス)と名付けられている。」

びっくりです。

別のサイトにはこんな記述も、

「遊離脂肪酸がケトン体が分解される時に大量 のエネルギーが作られます。
 飢餓状態では生命が危険になる低血糖にならないように血糖値を維持するために脂肪組織と筋肉を犠牲にして、そこから材料とエネルギー源を得て肝臓でグルコースを作ります。この過程でケトン体が作られます。

私は文科系のくせに物理で受験したくらい、化学と生物が大っ嫌いだったので、この手の文章を読んでもさっぱりなんですが、なんかその化学音痴的理解だと、最初の引用みたいな楽天的な話では全然ないんじゃないかという気が・・・

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年8月22日 (水)

夜と朝の間に ~あるいはモチリン

20080822mochijp今、日本全国をモチリン旋風が駆けめぐっています。ことの発端は昨日の「笑っていいとも」におけるサンプラザ中野の発言。

彼はいまベジタリアンなんだそうで、その説によればあまり物を食べ過ぎるのは身体に良くないそう。(そりゃ確かにそうですよね。)

で、人間は空腹の時にお腹がグウ~ッと鳴ったりしますが、この時に腸の運動をうながすホルモンが分泌されてるんだそうです。その名前が「モチリン」。か、可愛い・・・

なんでも十二指腸あたりで分泌され、胃から盲腸辺りまでの収縮運動を制御するペプチド・ホルモンなんだそう。
モチリンは8時間ものを食べないと分泌されるそうなんですが、沢山食べるとその時間は延びるらしく、モチリン分泌まで10時間とか、より長い時間がかかるそうです。

食事の後に便意を催すというのは、よくある事ですが、これは食物が入ってくることで胃腸が動き、その動きにともなって、直腸の動きも活発化するということです。ところがこれで活発化するのは直腸の動きだけらしいのです。

モチリンによる動きは腸上部に働くので、腸全体の中身を押し下げてやることになるのだとか。
そうです。つまり便秘解消に役立つらしい。

モチリンを調べようと検索してみましたが、なぜかこのモチリンを取り扱ってるサイトは、やたら「一日2食」を推進してるのです。たしかに一日3回だと睡眠時間を考えれば、食事と食事の間が8時間とれるのは、多くても1回(夜と朝の間に)ですが、一日2食なら食事と食事の間は、2回ともまず確実に8時間以上空くでしょう。

ただ、なぜか朝食抜きを推進してるサイトが目に付くのです。
で、一日2食だと痩せるとも。

理屈はわかるんですが、なんとなく肯けないものが。
成長期の子供たちと大人でも違うでしょうし、以前は朝にしっかり食べて、夜は軽くとか言われてたわけで。どうなっちゃってるの?モチリンだけを総ての判断根拠にしちゃっていいのかなあという疑問も・・・

それに前は、空腹になると身体が食事を欲して、入ってきたものは総て栄養素として取り込んでしまうので、痩せるには腹をすかせない方が良いなんていわれてて、すっかり信用してたのに・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月20日 (月)

予感

20070820yokanjp本屋さんの雑誌売り場の前を通ったら、何の雑誌かわからないんですが表紙の一つで、『予感はなぜ当るのか』といった文字が目に入りました。

うん。そう、予感はなぜ当るんでしょうね。

もちろん絶対当らない予感もあります。
絶対当らない予感の一つは、「当るという予感」(特に宝くじ)。
これはあまりに強い願望が、予感のような気分をとって心に迫るだけで、実は予感ではないということなんでしょうけれど。(でもまあ、国語的には「当るという予感は当らない」の方が、「例外のない法則はない」的でナイスな感じも。)

それにしても本当に予感はなぜ当るのでしょう。断然知りたくなりました。

で「予感はなぜ当る」でググッてみたんですが――すると最初に出てきたのは、講談社ムックのシリーズ「予測する力」。その特集が『予感はなぜ当るのか』なので、私が本屋さんで見た雑誌は、きっとこれでしょう。
そうそう、ググれば判るだろうという予感があったんですよ。

ところでこの雑誌にはそれと同時に『予測はなぜ外れるのか』なんぞという特集も・・・。ふうむ・・・。

予感は読んで字の如し、「あらかじめ感じる」わけですから、当らなかった予感は予感にあらずという感じもしますが、予感とは雑誌のタイトル通り「予測する力」なのでしょうか?

確かに私は<天気の予感>は結構当ります。これは私が天気図を見るのに慣れていることや、過去にずっとニュースをやっていて、仙台管区気象台の天気予報の傾向と、その当たり外れの傾向を把握してることから、修正が効くというあたりにありそうです。これは確かに予感=予測する力であろうと思います。

でもなんの脈絡も無く、いきなりやってくる予感は果たして予測する力なのでしょうか?

そう、例えば「恋の予感」(!)とか。

しかし恋の予感は実は予感ではありません。予感ではなくて、予感を感じている時には、既に恋しちゃってるのです。あとは相手次第ということで、その希望的・楽観的観測と少しの不安とが<予感>という単語を選ばせてるにすぎません。

3日後に大地震がくるとか、1999年に世界が滅亡するとか――これはでも予感じゃなくて、予言ですね。

今日こそは便秘が治りそうとか――これは身体の発してるシグナルを敏感に捕まえたに過ぎません。

この旅館のこの部屋がヤバイ――それは霊感だし。

あれ?そうするといったい(予測ではない)予感って、なんなんでしょう?
もしかすると予感というのは、単なる言葉の問題で、実は予感なんてものは無いのかも・・・???

そういえばロカルノ映画祭で受賞した小林監督の「愛の予感」は冒頭のインタビュー・シーン以外は一切の台詞がないんだとか。クラシックなタイトルに比して斬新な作品だろうという予感はしてたけど、ここまで実験的とは予測できなかった・・・

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年8月17日 (金)

「殯の森」 河瀬直美監督 (後)

20070817mogarijpこの先のストーリーは、ネタバレ(という程のことでもないんですが)になるので書きません。

殯の森の中で、しげきと真千子の2人は、それぞれに自然と同化していきます。

呟くように語られていた感情は、自然の猛威とともに堰をきったように、爆発し(そのときおぼろげに真千子が子供を亡くした時の状況が推測され、真千子の感情は、激しく観客に突き刺さります)、やがて二人の心の痛みも嘆きも辛さも、自然のなかに溶けてゆき、安らぎへと至ります。奇妙な選択だとは思いますが、それはまるで「雲散霧消」とでもいう熟語が似合いそうな感じすらします。森に吸い取られ、雲に散って、霧に消えていくのです。このような不思議な自然との一体化が描かれた映画というのは、これまでにあったでしょうか?

この作品が素晴らしいのは、主人公たちの心情の変化(自然との一体化)と、映画の表現の変化――内省的な呟きの場面と、雄大な自然の描写との合流と統一――がピッタリと一致していることで、この監督はちょっと天才的なものを持っていそうです。

ラストの安らぎの場面は、これは決して 癒し ではありません。癒しとは癒すものと癒されるものがいて、そこには上下関係があります。
でもこの作品で自然と人間の間には、上下関係も対立関係もありません。

そしてこのラストシーンで気づきます。この作品は「死」についての映画ではなく、「生」についての映画だったのだと。

ところで、こうした描写の数々は、私たち日本人にはすんなり受け入れられると思うのですが、はたして欧米人、というかキリスト教文化圏の人々にはどうなのでしょうか?(キリスト教文化といっても宗教自体が行き詰って一世紀半もたつわけですが。)

カンヌで賛否両論だったということは、

賛:作品が描いている内容を、ちょうど印象派時代の浮世絵のような、あるいは12音からトータル・セリエールにいたる前衛音楽全盛期(末期?)における武満のような、西欧社会に風穴を開ける役割を感じ取ったか、
否:まったく理解不能で、ただ森の中を歩いていたら映画が終了したという退屈な話ととらえるか、

観客(審査員)のポジションを正確に映し出すものだったのでは、と想像されます。

ただこの作品は、理解できる人にとっても完全に説得力のある傑作かというとそうでもなく、ある意味でパルム・ドールを逃したのも納得はいきます。

たとえるなら河瀬監督にとってのこの映画は、ベルトルッチにとっての「暗殺のオペラ」のような位置づけになるのではないかと推測されます。「暗殺のオペラ」から、「暗殺の森」と「ラスト・タンゴ・イン・パリ」への飛躍と同じような飛翔を、やがて河瀬監督が獲得できるかどうか。この後が勝負の分かれ目でしょう。私は出来ると予想しますが。

なお私がみたのは、どうも劇場の映写効果に問題があったのかもしれません。以前に「サラバンド」を見たのと同じ劇場だったのですが、似たような不満を感じました。こちらはフィルム上映だったと思うので、解せないのですが。

もしかすると完璧な静寂と暗闇を作れる環境だったら、映画館で大勢の人と体験を共有するのではなく、たった一人の個人的な体験として、自宅で見たほうがベターという、例外的な作品かもしれません。ただしフルHDの大画面と、ハイレベルのオーディオ装置は必須と思われますが。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年8月16日 (木)

「殯の森」 河瀬直美監督 (前)

20070816mogarijp「もがりのもり」と読みます。今年のカンヌ映画祭で、パルム・ドールにつぐ第2席にあたるグランプリ受賞作。

意外にも、などと言ったら大変に失礼なのですが、この作品、面白いです。

事前に「退屈だ」だの「娯楽性ゼロ」だの「作者は映像作家だが映画作家じゃない」だのと、テレビ文化人さん(?)達のさんざんな評がつたわっていたせいで、――しかも賛否両論の末のカンヌ・グランプリという、いかにも芸術臭芬々たる勲章をつけての凱旋興行ということもあって――かなり覚悟してみました。

いったい「退屈」とか「映画作家じゃない」とか書いていた人たちは、何を見ていたのでしょうか?何も見てなかったんじゃないでしょうか?少なくとも表面に見えるものの奥に、何があるのかなどといったこととは、全く無縁の見方をしているのでしょう。『全てを台詞で説明してくれなきゃワカンナイ』という橋田スタイルのドラマに毒されてるのか。

退屈どころか、映画は冒頭のシーンから、観客を捉えて離しません。(観客をが大袈裟なら、少なくとも私を。)

確かにこの作品はカンヌで受賞したということからも想像がつくように、「作家の映画」なのですが、作家が感性のおもむくままに文法も何もなく勝手気ままに作ったというのとはまるで違って、実にオーソドックスな映画の文法に忠実です。

もちろんさっぱり進まない長回しの末に、3分間に1回ぐらいポツンと台詞が出てくるなどという変な芸術性とも無縁です(実はその手の映画じゃないかと思っていたのです)。

ストーリーの展開は速くも遅くも無く十分な速度で進められ、シーンの描き方もこれ以上少なくては主人公の感情描写不足になり、これ以上多くてはくどくて飽きるというギリギリの地点をつかまえるのに成功しています。

舞台は奈良県の山間地。映画はまず鮮やかな緑のグラデーションの中を、葬列が進むという美しいシーンで始まります。映画の中で描かれるわけではありませんが、ここは今も土葬の習慣が残っている地域なのだそうで、これだけは予備知識として持っていたほうがいいかもしれません。

ここに映画前半の舞台となる軽度の認知症のグループホームがあるんですが、これが1軒屋の民家をつかったもの。マンション・タイプ、老人ホーム・タイプのホームなら取材したことがありますが、こういう形もあるんですね。
マンション・タイプのホームは綺麗だけど、とても住めないと感じるお年よりも多いんだそうで、なるほどと思いました。まあ、都市部では難しいかもしれませんが。

で、そのグループホームに入っている しげき(うだしげき)と、新人の介護士 真千子(尾野 真千子)の2人が主人公です。

しげきは亡き妻の思い出の中に生きてるんですが、ボケてて突拍子もない行動に出たりします。真千子も息子を亡くして、それが元で夫とも別れる(はっきりとは描かれませんが、彼女に過失があったらしい。これが後半で重要な伏線となります)という心の傷を負っています。

その二人がやがて心を通わせるようになるのですが――と、ここまで書くと、いかにも印象はしんどそうなんですが、しんどくしてないのが、奈良の美しい自然と、しげき役の うだしげき の演技です。

この うだしげき さんという人は、なんと素人で、これまで河瀬直美監督の映画作りを援助してきた、奈良の古書店主兼喫茶店主なんだそうです。この方の飄々としたキャラクターが前面に出てて、絶妙な味わいをかもしだしています。

主役の二人は、あるとき車で出かけます。最初はどこへ行くのかも、何をしに行くのかも明かされません。その途中で真千子の運転する車が脱輪してしまうのですが、ここから話がグーンと展開していきます。別の次元に入っていくのです。

この映画、前半はフィックスのカメラで自然を捉えた美しいショットと、手持ちのようなブレのあるカメラでとらえた登場人物のシーンとが交互に繰り広げられ、また音響も終始一貫つぶやきのような聞こえにくい台詞と、デリケートな音響設計とが混在していて、『いったいなんなんだろうこれは?』と思わされます。夜景のシーンの不十分な光量など、やはり予算が無かったんだろうか?なんて失礼な想像をしたのですが(まあ実際に資金の確保は大変だったようですが)、そうではなく、これらは全て監督の計算のようです。

言ってみれば台詞だけがつぶやきなのではなく、呟きのような個人的・内省的なシーンと、圧倒的なスケールと美感とで撮られたシーンとの交代。――これがある瞬間から、見事に統一されていきます。
(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月15日 (水)

家(後)

20070815housejp今日の仙台は最高気温が37.2度!観測史上一番の暑さだったそうです。館林の40.2度に比べればましとは言うものの、それにしても・・・
明日は33度の予想で、ほっと一息です。まあ、それでも十分暑いんですが。

で、昨日の続きなんですが、先に後日判ったその家のことについて書いておきましょう。

その洋館というのは、昭和のはじめ頃に建てられたもので、持ち主は転々と代わったそうですが、一貫して外国人の家族が住んでいました。

最後の持ち主は、アメリカ人の夫婦とその一人娘で、80年代の半ばにこの家を手に入れ、引っ越してきたそうです。
娘は小学生だったそうですが、体が弱く、長野県にやってきたのも、転地療養の必要があったからのようです。

しかしその甲斐もなく、少女は亡くなってしまったのだそうです。
家の持ち主のアメリカ人夫妻は落胆して、家を不動産会社に売却し、祖国に帰ってしまいました。
その時、子供の物をアメリカに持ち帰るのは辛かったのか、どうも2階の子供部屋だけは、そのままにして家を引き払ったようなのです。
それがいけませんでした。物に憑り付くといいますから。

不動産会社は家を入手した直後、ちょうどバブルの破裂と時を同じくして倒産。
この洋館はしばらくの間所有者が確定せず、荒れ放題になっていたそうです。
そして地元の人の間では噂が立ちました。「あそこは、出る」

その後、不審火騒ぎなどもあって、結局倒産した不動産会社の債権者であった、大手の不動産会社がその家を取り壊したのですが、今度はその大手不動産会社も倒産。
もっかのところ、敷地もそこに向う道路も荒れ放題になってる。――というのが、私がその後に調べた話です。


で、話を昨日の続きに戻します。青白い顔の少女がピアノを弾くのを見た私たちですが、われながら情けないことに一目散に車の中に逃げ込んだのです。
そして来た道を戻ったつもりなのですが、別の道に入ってしまったようで、草ぼうぼうの荒れ果てた道でした。一本道だった筈なのにおかしいとは思ったのですが、そんなことを考える余裕も無く、県道に出たときには本当にほっとしました。

9月になって行われたロケには、私は同行しませんでした。ロングは役場の人に紹介された、第二候補の場所から撮り、でもディレクターはロケ隊をつれてもう一度行ってみたそうです。あの洋館に。
しかし私たちが通った筈のちゃんとした道路というのはどこにもなく、帰り道に通った荒れ果てた道しか見つからなかったそうです。

それに、その道を通って行き着いた場所には、空き地があるばかりで、建物などどこにもなかったと言うのです。

結局スタッフの間では、私とディレクターが口裏合わせて作り話をしたんだということにされてしまったのですが、断じて違います。
一人だけなら幻覚ということもあるでしょうが、二人揃って幻覚をみるわけもありませんし。

ちなみに私もディレクターも、幽霊なんてまったく信じていません。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2007年8月14日 (火)

家(前)

20070814joenjijpはぁ~~~。エアコンをフル稼働してるのに、いつまでたっても室温が30度を下回らないって・・・。酷暑にもほどがある・・・。
当地は週末には最高気温、29~27度くらいまで下がるみたいですが、関東以南の皆様はいかがお過ごしでしょうか。

ところで、夏というといつも思い出すことがあります。

十年程前なんですが、わたしはあるローカル局の番組のために、長野県にロケハンに行きました。ちゃんとした手順を踏む番組だと、まずライターがシナリオ・ハンティングをして台本をまとめたあと、ディレクターがロケーション・ハンティング(通称ロケハン)をするんですが、その時はローカル番組ゆえ、制作期間も制作費もかなり限られていて、ロケハンもシナハンも込みで、まとめてやらなくてはならなかったのです。

私とその番組のディレクターは、2人とも『鄙びた温泉旅館』よりも『都会のビジネスホテル』の方が好きなタイプだったので、前日に少し取材場所からは離れていましたが、松本市のビジネス・ホテルに宿をとりました。

翌日は朝から、精力的にロケハンを進め、最後には町のロングを撮影する場所を決めるだけというところまで行きました。
大体こういうときは事前に予習をしておいて、何箇所か場所の候補を決めておきます。そのときも私たちは、観光案内の本に載っていた、素晴らしく美しいその町の全景をおさめた写真を見つけていました。

だいたい役場の観光課の方に写真を見せれば、どのあたりで撮影した写真かというのは判りますから、そのときも観光課の方に相談。

しかしその方は別の場所を推薦してくれました。その写真が撮られた場所は、町外れの山に立っていた洋館のあたりだということなんですが、でも今はその建物は取り壊されてるし、そこに上がっていく道もほとんど獣道のようになっていて、車で入るのは無理だろうということなのです。

でも「一応場所を教えてください」と言って、無理矢理地図に印だけつけてもらいました(何故かその職員の方は渋って教えたがらなかったので)。

役場の方に教わった場所は、たしかに町の全体像が撮れる場所ではあったのですが、残念ながらあたりをつけてた写真の場所に比べると、見劣りします。

「どう見ても、こっちだよなぁ」私たちは、念のために昔洋館が建ってたという場所を目指しました。車で行けなければ、歩いて行くまで。
ところが意外にも獣道どころか、舗装はされてないものの、ちゃんとした道路で、しかも驚くことには、その印の場所には、ちゃんと洋館が建っていたのです。

「取り壊してねえじゃん(嘘、教えやがって。ムカッ!)」という気分で、私たちはその煉瓦作りの洋館の入口に立ちました。

たしかにその建物はずっと使われていないようで、金属部分は錆びて、ドアや窓のサッシなどの木造の部分も、かなりの部分ペンキが剥げ落ちていました。

ドアには金属のノッカーがついてましたが、脇にはドアベルのようなものがあり、押してみましたが、全然音がしません。すると驚いたことに、ドアがひとりでに開いたのです。

中を見ると、やはり人は住んでいないようで、家具は何もなくがらんとしていて埃だらけ、蜘蛛の巣もはっていました。
汚いし、埃が舞うといやなので、私たちはすぐにそこを出ようとしたんですが、その時2階から何か音がしました。
ガタンという音や人が歩いているような音で、「住んでる人いるの!?」私とディレクターはあまりの意外さに顔を見合わせました。

ところが入口のすぐそばに階段があるのですが、天井部分をばたんと上げて2階に入っていく形式のもので、これがまるで開かないのです。うんともすんとも言いません。こちらから2階に向かって大声で「すみません!」とか「ごめんください!」とか「誰かいますか!」とか叫んでみたんですが、反応はありません。

あきらめて外にでたんですが、なんと!建物の左側に、2階のベランダに直接いける階段がついてるではありませんか。

私たちはそこをのぼって、ベランダから2階に居る人にコンタクトしようとしました。
しかし2階のベランダからくすんだガラスを通して中をのぞいても、人がいる気配は全然ないのです。中は子供部屋のようで、1階と違って家具もありベッドや、アップライトのピアノもありました。ただ1階と同様に埃と蜘蛛の巣に埋もれています。

さっきの音は何だったんだろうという疑問はあったものの、私たちはむしろ、そのベランダから見える町の素晴らしい眺めに、心を奪われました。たしかに写真はこの場所、おそらくこのベランダから撮影されたに違いありません。

しばしの間私たちは、雪をかぶった日本アルプスを背景にしたその景色に見とれました。先にロケハンした場所が、いまいち気に入らなかったのは、背景の山々の形にもう一つ迫力が無かったからだったということも、その時気づきました。「いいねぇ」「ここだね。ここしかない」「うん」

するとその時私たちの背後から、ピアノの音が聞こえてきました。

この曲は・・・「エリーゼのために」・・・だったかな?私とディレクターは同時に、ゆっくりと振り向きました。

すると暗い部屋の中で、真っ青な顔をした少女がピアノを弾いていたのです。

(続く)

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年8月12日 (日)

小林監督、ロカルノ映画祭でグランプリ

20070812liffjp去年の「バッシング」以来、心ひそかに応援していた小林政広監督の新作「愛の予感」が、スイスのロカルノ国際映画祭でグランプリを受賞しました。しかもグランプリだけでなく国際芸術映画評論連盟賞、ヤング審査員賞、ダニエル・シュミット賞の4つも同時受賞、4冠に輝きました。

『ロカルノで1日から開かれていた第60回ロカルノ国際映画祭は11日、グランプリに当たる「金ヒョウ賞」に小林政広監督の「愛の予感」を選んだ。日本人のグランプリ受賞は1970年の実相寺昭雄監督の「無常」以来。小林監督はプロデューサーの直子夫人とともに、賞金9万スイスフラン(約890万円)を獲得。授賞会場で「作品を理解してもらって、とてもうれしい」とあいさつした。』
共同通信

金ヒョウ賞って・・・、これじゃ何がなんだか判らないんじゃないでしょうか(笑)。音だけ聞いたら「金表彰」と思っちゃうかも。
ヒョウは動物の豹のことです。英語だと金ヒョウ賞は Golden Leopard 。受賞者にはヒョウの形をした金色のトロフィーが授与されます。

特に経済用語などなんでもかんでも英語にしちゃうのは、およそ感心しませんが、こういうのは英語の方が良いんじゃないでしょうかね。「グランプリにあたるゴールデン・レパードは」の方がすわりがいいような。カンヌだってフランス語のパルム・ドールで日本でも通用させてるわけですし。まあ、ベルリンは金熊賞で定着してますので、とりあえず漢字で金豹賞と書いておきますが。

ロカルノ国際映画祭は記事にもあるように60年の歴史を持つ映画祭で、グランプリが金豹賞という呼び名になったのは、68年から。それ以前はいろんな呼び名になっていたみたいです。

第1回のグランプリの受賞監督はルネ・クレール。その後ロッセリーニ、フォード、プレミンジャー、フランケンハイマー、先日亡くなったアントニオーニ、キューブリック、ボロニーニ、市川昆、チェコ時代のミロシュ・フォアマン、グラウベル・ローシャ、実相寺昭雄、イシュトヴァン・サボー、マイク・リー、ジム・ジャームッシュなどなど、そうそうたる名前が並びます。


小林監督は1954年東京生まれ。最初はフォークシンガーだったそうで、前作の「バッシング」でも主題歌を自ら歌っていました。
82年に日本で最も権威ある新人シナリオ賞である城戸賞で入賞。これをきっかけに映画・TV界入りします。
96年に初監督作品「CLOSING TIME」を発表。翌年のゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭で日本人監督初のグランプリを獲得します。
ロカルノ国際映画祭では既に2003年に「女理髪師の恋」という作品で、Special Mention を受賞しています。

2005年の「バッシング」はカンヌ映画祭のコンペティション部門に公式出品されましたが、日本国内ではなかなか公開されませんでした。
この作品はイラク人質事件とその後に吹き荒れたバッシングの嵐にヒントを得て作られたもので、それが国内での上映を難しくしたといわれていました。(私には何故にそれで難しくなるのか、まったく理解できないんですけども。)

「バッシング」は昨年ようやく公開されたわけですが、日本の映画雑誌などを見ると、賛否両論または無視、という感じだったでしょうか。映画評論家の中にもまるで的外れの批判をしてる人なんかもいて、この程度の知性でどうして恥ずかしくなく、評論家を名乗るんだろうなどとも思わされましたが。

「愛の予感」は東京では11月に、ポレポレ東中野で公開予定のようです。

金豹賞のトロフィーと小林監督。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年8月10日 (金)

夏バテです

20070810hirosegawajpウ~、今日はもう駄目です。完全に夏バテです。数日前から何もして無いのに、やたら消耗が激しくて、バテてるなあと思ってたんですが・・・。

ということで「バテる」という言葉について調べてみました。

さすがはネット、「ばてる」と「語源」でググッテみたら、すぐに出てきました。でも2説あるみたい。

(1)競馬用語で、走っていた馬が疲れて足がもつれることを「ばたばたになる」と言います。それが縮まり「ばてる」になった。
(2)疲れ果てるの「果てる」がばてるになった。

で、もともとはスポーツ、競馬界で使われていたのが、昭和30年代から一般にも広く使われるようになったんだとか。

ひょれでは、今日はもう寝まひゅ。

写真:今日の午後の広瀬川。川もなんかバテてるっぽいです。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年8月 9日 (木)

フランチェスカッティとワルターのベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲 ~思い出の名盤・18

20070809frabcescattijp 昔はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の定番と言えば、このフランチェスカッティ&ワルター(コロムビア交響楽団)のCBS盤か、オイストラフ&クリュイタンスのEMI盤と相場が決まっていました。

私がこの曲の初めてのLPを買おうとした際に、なぜにフランチェスカッティ盤を選んだのかは、忘れましたが、もしかすると単純に値段のせいかもしれません。オイストラフ盤は少し高かったような記憶が。

名前を聞けば誰もが想像つくような演奏で、――つまり暖かく包容力のあるワルター指揮のオーケストラをバックに、甘美でいて鋭く、洗練されたフランチェスカッティのヴァイオリンがくっきりと浮かび上がる。

どうもこの曲をこのフランチェスカッティの録音で覚えてしまったために、ソナタとかならよりベートーヴェンに適したと思われる、他のヴァイオリニストたちの演奏も、甘美さ不足だったり、鋭さ不足だったり、逆に鋭すぎて線の細さを感じさせたりと、なかなか満足できなくなってしまいました。

オイストラフ盤を聞いたのは、もうずっと後のCD時代になってからですが、これがまた実に立派な演奏で、LP時代にこっちを購入してたら、曲に対するイメージは全然違うものになってたかと思います。

ただフランチェスカッティ盤はCDは買っていません。ワルター/コロムビア響のベートーヴェンの交響曲は、CD化されたものを何曲か聞いたんですが、オケの音の魅力のなさと当時のCBSの貧弱な録音にガッカリしてしまって。こんなはずじゃなかったと・・・。

このベートーヴェンの協奏曲の録音では、あるときなにげにFM放送をかけたら、この曲が流れていて、ソリストはともかくあまりにもオーケストラ部分が素晴らしいので、即座にFM fanを調べました・・・。やっぱりねぇ。アンネ・ゾフィー・ムターとカラヤン指揮ベルリン・フィルのDG盤でした。

コンサートだと、数年前にシトコヴェツキがN響で演奏したものが、両端楽章はいまいちだったのに、緩徐楽章だけはとても目のつんだ濃厚な表現で、魅了されたことを思い出します。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2007年8月 7日 (火)

明日はプチプチの日  って・・・

20070807tanabata1jp 知ってました?
明日8月8日はプチプチの日なんだそうです。

なんでも2000年2月に、『プチプチの粒の一部が8に見え、「パチパチ」という音から、8月8日を「プチプチの日」として日本記念日協会が認定』したのだそうです。(Asahi.com

このプチプチって「エアキャップ」と言うんじゃないでしょうか、普通。引用先の記事の中に、一言もそんな単語は出てきませんけども。
まあ、全国民的に「プチプチ」で意味が通じてるということなのでしょうね。

で、この朝日の記事によれば、

『「プチプチ」をみるとつぶしてしまうのは、心理学で「アフォーダンス」と呼ばれる現象の一つという。例えば、穴を見ると指を入れたくなる。取っ手があれば引っ張ってみたくなる。飛び出ているものは、つぶしたくなるのが人間の心理だと考えられる。』

ということなんだそうです。
朝日の記事にしては随分エロいんじゃないかと言うのは、まあ良いとして、

>飛び出ているものは、つぶしたくなる

ふうむ・・・。どうも朝日から飛びぬけて優秀な記者が出なくなったと思ったら、つぶしてたとは・・・

20070807tanabata2jp ところでアフォーダンスって、こういうことを言うんでしょうか?

私は心理学には疎いので、全然自信ないんですが、どうも少し違うような気がします。朝日の記事に出ている例は、穴を埋めたりとか、突起をつぶしたりとか、何か足りないものや過剰なものがあった場合、反射的に補完的/補充的な行為をしたがるという癖の例ではないかと思うのです。

アフォーダンスは afford に接尾語をつけた造語で、日本語にはならない単語なので説明しづらいのですが、Wikiによれば「環境に潜在するすべての動作可能性」。
何かの行為を誘発するということと深い関係はあるのですが、「ものがある行為を促す契機を内包している」ということと、「あるものを見ると反射的に何かをしたくなる」ということと、一緒にしちゃっていいんでしょうかね?

 ● ● ●

オペラ「沈黙」などで知られる作曲家の松村禎三さんが、昨日肺炎のため亡くなられたそうです。78歳でした。
謹んでお悔やみ申し上げます。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2007年8月 6日 (月)

仙台七夕開幕

20070806tanabata1jp 恒例の仙台七夕が今日から始まりました。

と思ったら、さっそく今日の昼ニュースで、今朝の飾りつけの最中に、竹飾りに火がついてクス玉5個が燃えてしまったなどと、ショックな報道が。
火を使う作業はしておらず、自然発火も考えられないので、不審火の疑いがもたれてるようです。
七夕飾りに火をつけるなんて、そんなの初めて聞きました。悪戯だったら、ちょっと嫌な世の中に・・・。

20070806tanabata2jp_2 仙台七夕は全部、和紙を使っていて、何ヶ月も前から業者が手作りで、飾りをこしらえています。燃えたからといって、代わりのものを見つけてきて飾るというわけにはいかないので、お店の方は相当ガックリかと。

七夕の期間は必ず雨が降るというジンクスがあるんですが、きょうも夕立がありました。仙台はまあたいしたことがなかったんですが、仙台の北の大崎地方では、凄い豪雨だったみたいで、東北線(在来線)が一時止まったようです。
そうでなくても観光客で混みあってる仙台駅が、あふれんばかりの人でした。

20070806tanabata3jp さて仙台七夕の人出なんですが、仙台商工会議所の調べによりますと、きょう一日で68万3000人。去年の初日は82万5000人、一昨年が78万8000人なので、やはりウィークデイそれも月曜日初日というのが、大きく影響してるようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月 3日 (金)

「魔笛」 ケネス・ブラナー監督 (後)

20070803magicflutejp すでに映画雑誌などでも指摘されているように、この「魔笛」の冒頭の方で、タミーノが泥水の中からヌッと顔を出すシーンがあり、ここが「地獄の黙示録」そっくり。

偶然似てしまったとかそういうレベルではなくて、完全にパロディ、もしくは引用として作ったシーンです。

そういわれてみると、たしかにこのブラナー版「魔笛」のストーリーは、「地獄の黙示録」に似ています。
前途有望な若い士官が、どこともしれない場所で独自のコミュニティを作っている問題人物を探して、旅をする。そしてついに見つけたその後は・・・

「地獄の黙示録」と違って、「魔笛」には王殺し・父親殺しの主題はないですし、あまり共通点を強調するのもどうかと思いますが、冒頭の引用(もしくはパロディ)が、続くストーリー展開を示唆してるのはたしかでしょう。

このタミーノを演じる歌手と、パパゲーノを演じる歌手は、ふたりともアングロサクソン系のイケメンで、顔がちょっと似ています。普通ならパパゲーノはもうちょっとコミカルな顔を選んで、タミーノとの違いを強調するんじゃないかと思うんですが、ここにもブラナーの意図があるんでしょうか?ちょっと判りませんけども。

パミーナと夜の女王、パパゲーナの女性陣は3人とも申し分なく適役で、特に夜の女王のリューボフ・ペトロヴァ(ペトロワ)は、いまオペラ界注目の歌い手のようです。先日NHK-FMで放送されていた「アルジェのイタリア女」で、エルヴィーラを歌っていました(イザベッラがボロディナ、リンドーロにフローレス、ムスタファはアブドラザコフという豪華キャスト)。

日本で「魔笛」を映像化するとしたらどんなキャストになるでしょうか?歌は吹き替えるとして、パミーナは長澤まさみで決まりですよね?ですよね。ね。

パミーナ   長澤まさみ
タミーノ   滝沢秀明
パパゲーノ  陣内智則
パパゲーナ  ほしのあき
夜の女王   藤原紀香
ザラストロ  役所広司
第一の侍女  小池栄子
第二の侍女  MEGUMI
第三の侍女  叶姉妹の美香さん
モノスタトス 安田大サーカスのクロちゃん

なんか楽しそうな気がする・・・

映画に戻ると、もともとのオペラがオペラな上に、設定変更してるので、ちょっとつじつまが合わなくなってるところも見受けられます。

たとえば2幕のパミーナのアリアなど、むしろ歌詞を大胆に変更して、『愛を失った悲しみ』を歌うのではなく、『恋人を戦場に送る嘆き』の歌にしてしまった方が、話の流れに沿うのではないかと思います。

またさすがに「奴隷」の存在は兵士に変えられ、モノスタトスも足の裏をむち打ちなどという珍奇な刑に処せられるのではなく、階級をさげられるだけになっています。
しかし白人にするだろうと思っていたモノスタトスは、そうはならず、このあたりはアメリカ映画なら違った処理をしたことでしょう。

舞台設定の第一次世界大戦というのは、実に絶妙で、ヴェトナム戦争ではあまりになまなましく、第二次世界大戦では悪者が確定してるので、善が悪に転換するなどというのは無理筋。19世紀の戦争では、それこそメルヘン。

あらためてケネス・ブラナーの巧妙さに舌を巻きます。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2007年8月 2日 (木)

「魔笛」 ケネス・ブラナー監督 (中)

20070802magicflutejp オペラ「魔笛」の台本には、さまざまな童話や芝居の要素が流れ込み、さらにはフリーメーソンの象徴なども、ふんだんに取り込まれました。結果、舞台はエジプトの神々がいるところなのに、何故か日本の狩衣を着た王子が迷い込んでくるという不思議さです。
それらのごった煮は、とにもかくにも一つの流れを持つストーリーにまとめあげられていますが、善と悪の唐突な入れ替わりをはじめ、???な部分は山ほどあります。

そのしっちゃかめっちゃかさは、もしかするとモーツァルトによるオペラ史上最高の音楽がついてなかったら、ドイツ演劇・文学研究者以外は誰一人振り向くことも無い脚本だったかもしれません。
ところが、台本の型破りなメルヒェン具合に相応しく、モーツァルトの音楽も決して、定型で書かれてる訳ではありません。

一番聞き栄えのするアリアと、二番目に聞き栄えのするアリアは悪役である筈の夜の女王に与えられ、最も甘美なメロディの二重唱は、お姫様と王子様ではなく、お姫様と王子の従者(しかも道化者)に与えられます。

そんな中で善なる光の世界を率いる、ザラストロに与えられた音楽だけは、その立場に相応しく荘重で、いくぶんか退屈なものとなっています。

ところがブラナーはパペという見事な歌役者を得ることによって、その退屈さをまるで異なるものに変えてしまいました。

ブラナー版ではザラストロはしずしずと登場して、変に道徳的な歌を歌う権威者ではなく、作業着みたいなブルゾンを着て民衆の中に入り、ともに働き民衆に奉仕するリーダーです。

アバドのCDを聞いたときには、常に明晰な発音でキビキビと歌うパペに、ザラストロは相応しくないのではと思ったのですが、この映画ではそうした歌の特質も役作りと完全に調和しています。

しかしブラナーはザラストロを描くときに、そんな「理想の指導者」だけでは終わらせませんでした。

その伏線は途中にも2回ほどありました。
ザラストロの演説を聞く民衆は、CGで作った人形なのです(やがてカメラが寄っていくと人形がそのまま人間になります。このあたりのCG処理も、常套手段とはいえ見事です)。
最初に人々が人形だった時には、「何故?それっておかしいんじゃないの?」と思ったのです。よもやそこにこそブラナーの深慮遠謀が隠されていようとは。

ザラストロは平和を求め、夜の女王と対決します。
タミーノとパミーナの活躍(試練の克服)によって、夜の女王は退散。戦場には平和がもたらされます。

どうみても旧共産圏の国にありそうな、魔法の笛を掲げた二人の黄金の像が立てられ、ザラストロは全てが望みとおりに実現した満足の表情を浮かべます。これが完全に独裁者の表情なのです。

夜の女王が劇中で善から悪へとコロッと変わってしまったように、やがてザラストロも民衆を抑圧する独裁者として君臨するのであろうということを、鮮やかに演出したブラナーも見事ですが、パペの表情の演技も凄く、映画好きの人はこのワンシーンを見るためだけに、お金を払っても惜しくは無いでしょう。

(まだ続く)

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年8月 1日 (水)

「魔笛」 ケネス・ブラナー監督 (前)

20070801magicflutejp この映画「魔笛」は、モーツァルトの同名のオペラを映画にしたもので、30日に亡くなったイングマル・ベルイマン監督にも同じく「魔笛」の映画があります。ベルイマン版は名作としての評価が固まってると思いますが、さてさてブラナー版はどうでしょうか?

イギリスを代表するシェイクスピア俳優でもあるケネス・ブラナー監督は、5月にこの映画のプロモーションのため来日し記者会見を開きました。
映画関係のサイトの「シネマトゥデイ」から引用。

「『オペラを敬遠しているのであれば、リスクを犯しても本作を観てください』と価値ある作品であることをPRした。さらに、“コロラトゥーラ”と呼ばれる笛に似た音色を声色で表現する、オペラの歌唱法の1つをおよそ12秒間にわたり披露し、取材陣をうっとりさせた。」

なかなか突っ込み甲斐のある記事ですが、どういうことなんでしょう?ブラナーが裏声で夜の女王のアリアを歌ったんでしょうか?(もっとも別のサイトにはパパゲーノのアリアを披露と書いてあるんですが。)

東京より1週間遅れで始まった仙台の上映ですが、先週の土曜日に見てきました。週末なのに観客は30人以下でしたが、いつもはヨーロッパ系の映画を主にやってる小さい劇場なので、むしろ普段よりは入ってる感じも。

で、私の結論ですが、映画好きには断然お薦め。オペラ好きにもまあまあお薦め。どっちでもない人には結構微妙かも、といったところかもしれません。

映画好きにお薦めな理由は、なんといってもCGを贅沢に駆使した映像のゴージャスさ。オープニングから普通のカメラでは絶対に不可能なカメラワークで、序曲の間をワンカット(か2カット)でおさめきった映像は、CGとわかっていても惚れ惚れします。「タイタニック」によるブレイクスルー以後は、本当になんでもCGで出来るんだなあという感じ。

その後もラストシーンまで、一瞬たりとも映像の推進力が音楽の推進力に遅れをとってないというのが凄く、これは「魔笛」の舞台中継などでは、なかなか体験できないものではないかと思います。

オペラ好きには『まあまあ』というのは、ブラナー監督は作品の舞台を第一次世界大戦当時に置き換えてはいるものの、作品の本筋部分は意外なほどモーツァルトとシカネーダーに忠実です。
大胆な読み替え演出に慣れているオペラ好きにとっては、すこし拍子抜けの部分があるかもしれません。

歌詞&台詞は英語訳のものがつかわれています。また日本語字幕から判断する限りでは、設定の変更にともない多少の歌詞変更が行われているようです。
もっともスティーヴン・フライによる英語訳は、ドイツ語の響きとの共通性を出来るだけ生かそうとしている節も見受けられ、最後まで多少の違和感はぬぐえないものの、少なくとも日本語訳のオペラみたいなことにはなっていません。
一幕の有名なタミーノのアリアが英語で歌われると、パーセルの曲のように響くのは新しい発見でした。

一方「魔笛」というオペラ自体を知らない人には、話が見えなくなる可能性があります。まあクラシックに全く興味が無い人が、この映画を見に行くとも思えませんけども・・・。

   ▲ ▲ ▲

歌詞が英語ということと、歌手自身が出演しているということで、この映画では主要登場人物はほとんど若い英語圏の歌手が起用されています。
ところがザラストロだけは唯一、ルネ・パペがキャスティングされています。パペは弁者も兼ねていて――というかブラナー版では同一人物ということになっていて、凄い演技力とカリスマ的な魅力を発揮しています。
(アバドのDG盤でもザラストロを歌っていて、それを聞いたときにはむしろパパゲーノの方が似合うんじゃないかと思ったんですが。)

で、ブラナーがなぜザラストロにだけ世界的なスーパースターを配役したのか、理由は判らないんですが、その結果この映画の主役はザラストロになってしまっています。

(ちょっと時間がないので続きは明日に――)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »