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2008年2月

2008年2月29日 (金)

ネットの書き込み基準で判決

20080229tdcjp こんな判決がきょう東京地裁で出されました。
(※なお記事中の被告の固有名詞は削除しました。文責は管理人。)

ネットでの名誉棄損を認めず

 インターネット上に虚偽の内容を記載し、ラーメン店のフランチャイズ運営会社をひぼう中傷したとして、名誉棄損罪に問われた会社員(名省略)に東京地裁は29日、無罪(求刑罰金30万円)判決を言い渡した。波床昌則裁判長は、ネット上で個人利用者が表現行為をする場合の名誉棄損罪の成立について「主に公益を図る目的があれば、確実な資料や根拠に基づかなくても、真実だと誤信した場合には名誉棄損罪には当たらない」との基準を指摘。
共同通信

ん~、これでは何がなんだか分かりませんね。
共同通信、省略するにもほどがあるという感じ。これではまるでラーメンの味がまずいと書いたら名誉毀損で訴えられたみたいな感じではないでしょうか。

で、ちょっと調べてみました。実はこの事件のことは知らなかったんですが、かなり重要な事件だったんですね。私たちインターネットで何かを発信している者にとっては、きわめて重要な判例となったのではないかと思います。

ネットでラーメン店を中傷、名誉棄損問えず…東京地裁

 インターネットの自分のホームページ(HP)で、ラーメン店チェーンの経営会社を「カルト集団」などと中傷したとして、名誉毀損罪に問われた東京都大田区の会社員、(名省略)の判決が29日、東京地裁であった。

 波床昌則裁判長は「ネット上の個人の表現行為については、従来の名誉棄損の基準を適用すべきではない」との判断を示した上で、「内容は事実ではないが、ネットの個人利用者として要求される程度の調査は行っており、罪には問えない」と述べ、無罪(求刑・罰金30万円)を言い渡した。

 ネット上の名誉棄損について寛容な姿勢を示す新判断で、議論を呼びそうだ。
 過去の判例では、事実に反する内容で人の名誉を棄損しても、内容に公共性・公益性があり、加害者がそれを真実と信じ込むに十分な「確実な根拠」があったと認められれば、罪にはならないとされてきた。

 判決はまず、HPの記載内容について、「確実な根拠はなく、従来の基準によれば有罪になるとも考えられる」と指摘した。
 その一方で、<1>ネットの被害者はネットで容易に反論できる<2>ネット上に個人が掲載した情報の信頼性は低いと受け止められている――などと、ネットの特殊性を指摘。従来ほど厳格な基準を当てはめるべきではないとし、<1>わざとウソの情報を発信した<2>個人でも出来る調査も行わずにウソの情報を発信した――ような場合にのみ名誉棄損罪を適用すべきだ、と述べた。

 被告については、経営会社の商業登記簿や雑誌などの資料を集めるなど「ネットの個人利用者に求められる程度の調査を行っている」とし、無罪とした。
 主任弁護人の紀藤正樹弁護士は「ネット上の個人の書き込みについて、新しい基準を示した画期的な判決」と評価した。
 被告に対しては名誉棄損訴訟も起こされ、被告に77万円の支払いを命じる判決が確定している。
 渡辺恵一・東京地検次席検事の話「判決内容を詳細に検討し、適切に対応したい」
読売新聞

この読売の記事の中の「内容は事実ではないが」という部分ですが、時事通信社の記事では「内容に確実な根拠はなかった」となっていて、ニュアンスが違っています。裁判長の言葉がどちらだったのか(あるいは両方だったのか)は分かりません。

で、このカルト集団とされている問題の団体の代表者は、ラーメン店チェーンを経営する会社の社長の父親で、ラーメン店チェーンの株を51%(2006年2月まで)持っていた上、仕事もしてないのに年間4千万円前後の金額が給与名目でわたっている、実質的なオーナーであったということのようです。
このためラーメン店チェーンの利益の一部がカルト集団に流れているというのが、被告の主張だったようですが、ここいらあたりの事実関係は今回の裁判では問題にされていないようですね。

このラーメン店カルト集団のつながりですが、私自身が調べもしないで固有名詞を出して、告訴されたりすると困るので、興味がおありの方は上のラーメン店の部分とカルト集団の部分をクリックしてみてください。

このラーメン屋、調べてみたら仙台にもチェーン店がありました。それも私がバスで駅に行く時には必ず通る北六番町に1軒。あ、思い出してきました。そういえばこういう名前のがありました。ふ~ん、あの店がねえ…

Wikiの記事の終わりの方に書いてある「現在でも2ちゃんねる等の掲示板に、在日韓国・朝鮮人に対する差別発言や、他の宗教団体に対する誹謗中傷等の書き込みを行っていると言われている。」というのがちょっと笑えますが、こういうのに影響されている若い人(とか若くない人)とかってたぶん増えてるんですよね。

今回の判決はおおむね妥当なものであり、強まるネット上の言論規制に歯止めをかけたという意味では評価できるように思います。
ただいろいろと分からない部分もあります。

ラーメン店チェーン経営会社をカルトとしたのが、ある程度調査してるから名誉毀損にあたらないとすると、この裁判長は言外に右翼団体の方はカルトと認めたのでしょうか?そうだとするとそっちの方がかなり画期的なような気も。

もうひとつ気になるのはネットについての認識です。
毎日の記事を一部引用しましょう。

その理由として(1)マスコミと個人の関係とは異なり、ネット利用者は対等の地位で言論を応酬しあえる(2)個人利用者がネットに発信した情報の信頼性は低いと受け止められている--などとネットの特性を挙げた。

 被告は02年10~11月、HPに「経営会社はカルト団体が母体」などと記載したとして在宅起訴されていたが、判決は「記載は公益目的で、被告は会社登記簿や雑誌を資料にして関係者とメールをやり取りするなどの情報収集をしていた。被告は記載内容を真実と誤信していた」とした。一方で、メディア報道なら有罪となるケースとも指摘した。
毎日新聞

反論可能なのはブログやBBS場合だけで、BBSを併設してないHPでは不可能ですから、それについてはどう考えているのかが、分かりません。またネット情報の信頼性が低いというのも、正しい認識と言えるものなのかどうか微妙でしょう。信頼性が高いものと低いものの差が極端で、平均値をとると俄然低くなるとは思いますけれども。

一方こちらは全然違う話ですが、25日のニュースから一部引用しますと、総務省では現在

「これまで原則自由だったインターネット上のホームページなどのコンテンツ(情報内容)も有限希少な電波を利用する「放送」と区別せず、ともに「社会的影響力」の大きさに応じて段階的に規制する」(毎日新聞

とを検討しています。

今回の判決とは正反対の、ネットの影響力の大きさがマスコミ同等になっているという認識に基づく方針であろうと思われます。まあ「影響力」と「信頼性」とはちょっと違う話ではありますけれども。
私自身はネット上の書き込み基準については、今回の東京地裁の判決を支持したいと思うんですが、困ったことに現状認識は総務省の方が正解なんですよね、きっと。

(東京地裁の写真はwiki から)

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2008年2月27日 (水)

イゾルデと天使(後)

20080227tristanjp「エレクトラ」ではドラマは「トリスタン」同様に、舞台に倒れた巨大な彫像を中心に展開されます。これはアガメムノンの像であり、いわばオペラの前史・すべての原因となったことがらを象徴しています。

今回の「トリスタン」でも同様に、ドラマの前史を舞台装置が象徴しているのだと考えてみるのはどうでしょうか。

となると倒れ伏した女性の像は誰ということになるのでしょうか。この作品に関係する女性は3人。イゾルデとブランゲーネとイゾルデの母親。母親はオペラに登場しませんし、毒薬やら惚れ薬やらを操る魔女なので天使にはちょっとという気がします。実務的で実際的なブランゲーネも翼が似合わないような。

となるとやはりイゾルデでしょう。天使が純粋精神であることを考えれば、この天使のような像はイゾルデの純粋な精神、というよりイゾルデの純粋な魂の象徴と読めると思います。
何物にも穢されず、天高く飛翔する純粋なイゾルデの魂。それが天使の形象に託されたのではないでしょうか。

しかし、よく見るとこの天使像は、左の翼が途中でザックリと切られています。天高く飛翔していたのに、翼を切られて地上に落ちたともとれます。

これを「トリスタンとイゾルデ」物語の前史にあてはめてみましょう。
イゾルデはタントリスがモロルトの仇と知って、一時は刀を握りタントリスを殺そうとします。
しかしタントリスの身体に剣を振り下ろす事は出来ませんでした。もちろんタントリスを愛してしまっていたからです(同情ではなく)。

このとき本当にイゾルデは剣で誰も斬らなかったのでしょうか?
多分そうではありません。このときイゾルデはタントリスを斬る代わりに、自らの純粋な魂に刃をたててしまったのです。天使の翼がザックリと切られているのは、そのヴィジュアル化であると言えます(すでに述べたようにそもそも天使は純粋精神の便宜的なヴィジュアル化)。

激しい恋情というものを知ったことで、イゾルデの魂=天使は純粋さを失い地上に堕ちてしまいます。そこまでがクプファーが提示する「トリスタンとイゾルデ」の前史です。

ご承知のようにワグナーはこのオペラを作曲中、ヴェーゼンドンク夫人マティルデと熱烈な恋愛関係にありました。このためトリスタンを自らにマティルデをイゾルデに、そしてヴェーゼンドンク氏をマルケ王になぞらえたといわれています。マルケ王をやたら物分りの良い人間に造形したあたりに、ワグナーの傲慢さや自己中心性、というかムシのよさが現れてるというのも、よく言われるところです。

クプファーはマルケ王登場シーンで、おつきのように何人かの男女を舞台奥に配置したのですが、それらの人々は裾の広がったドレスやシルクハットなど、明らかに19世紀ヨーロッパ市民社会を象徴する格好をしています。(服装や人数など、もしかすると平土間からははっきりと見えないかもしれませんが、人民席からはバッチリ。)

マルケ王も含め主要登場人物は皆、いつの時代でも通用しそうな衣裳なのですが、このおつきの人々だけはなぜか時代も階級も明確です。
そこから マルケ王=19世紀市民社会の代表=ヴェーゼンドンク氏 という図式が浮かび上がるように思います。

クプファーがワグナーの調子のいい思い込み通りに、マルケ王=ヴェーゼンドンク氏と設定したのなら、当然イゾルデ=マティルデになります。
ワグナーはマティルデ・ヴェーゼンドンクの5つの詩に曲をつけた、いわゆる「ヴェーゼンドンク歌曲集」を作曲していますが、その第1曲は「天使」。
イゾルデ=マティルデ=天使=イゾルデ=マティルデ=天使=(以下略)
という円環(リング)の出来上がりです。(なお「トリスタン」は『リング』の途中で書かれている。)

前回ドルイド教という言葉を出しましたが、「トリスタンとイゾルデ」はケルトの物語ですから、登場人物たちはおそらくはドルイド教徒ではなかったかと考えられます。しかしマルケ=19世紀ヨーロッパ市民社会の代表と設定されてるわけですから、ここではドルイド教のことを考慮する必要は無いものと思います。
同様にギリシャ・ローマ神話、つまり古典古代の話をあえて持ち出す必然性もなく、女神やキューピッドと考える必要はないかと思います。イカロスも膠が溶けて羽根がバラバラになったために落ちたのであり、斬られて落ちたのではないので、考慮しなくても良いでしょう。

愛ゆえに自らの翼を斬り地上に堕ちたイゾルデの魂。最後にマイアーが「愛の死」を歌い終わるとともに、天使の像の中に溶け込んでいくのは、見事な解決であるように思います。

このクプファーとシャーヴェルノッホの舞台では、天使像がほとんど唯一の装置なのですが、他に1幕と3幕で舞台奥に杭状のものがシルエットで示されます。
1幕ではなんだろう船着場の杭だろうか?などと思っていたのですが、3幕になってライティングが変わると、朽ち果てて斜めになったいくつもの墓石だということが分かります。つまりオペラの開始から、背後に死の影はしのびよっていて、3幕でははっきりと姿を現すという訳です。(同じ装置をライティングでまったく違うものに見せるのは「ムゼンスクのマクベス夫人」でおなじみ。)

クプファーの演出の本質はエンターテインメントで、曖昧さを廃し見たものを見たままに捉えればいいというのが、その特色かと思っていました。今回の「トリスタン」はこれまでのクプファー調とは、ちょっと違うところで成立しているように思えます。数年前の来日公演「リング」を見逃したのが実に悔やまれます。

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2008年2月26日 (火)

バカデミー賞も決まる、エディ・マーフィー3冠

20080226razzijp毎度おなじみのラジー賞、今年も例年通りアカデミー賞の前日に発表されました。

ワースト作品賞は I Know Who Killed Me という映画。よくわからないんですが Sony/Tri-Star の作品。

この映画ではリンジー・ローハンがワースト主演女優賞を受賞したほか、ワースト監督賞、ワースト脚本賞、ワースト・リメイク・盗作賞にワーストホラー映画賞も受賞と総なめ。さらにリンジー・ローハンとリンジー・ローハンが(?)ワースト・スクリーン・カップル賞を受賞しているので、つまりなんかそんな映画なんじゃないでしょうか。何かホラー映画のリメイクで、リンジー・ローハンが一人二役とか。あ!よく見たら主演女優賞の方も2役で受賞でした。

ということでちょっとストーリーを調べてみました。
なんでもリンジー・ローハン演じる女子高生オーブリーが誘拐。片手・片足を切断され、道路際に倒れている状態で発見されます。両親に手厚く看護されるリンジー。しかし彼女はいきなり「自分はストリッパーのダコタだ。オーブリーは今も捕まって殺されようとしている」とワケわからんことを。以下省略。
――要するに指が切断されたり、脚がちぎれたりの残虐スプラッターにプラスすることのリンジー・ローハンのストリッパー演技がおがめるという、これ本当にソニーとトライスター・ピクチャーズの製作なの??

さてエディのほかニコラス・ケイジ、ジム・キャリー、キューバ・グッディングJr、アダム・サンドラーが顔をそろえ激戦となったワースト主演男優賞は「マッド・ファット・ワイフ」のエディ・マーフィーが受賞。エディは同作品で助演男優賞と助演女優賞も受賞し(!!!)3冠に輝きました。

このほかワースト前編・続編賞には Daddy Day Camp という映画。「AVP2 エイリアンズVS. プレデター」や「ハンニバル・ライジング」を押さえての受賞なので、ちょっと期待が持てそうです。

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2008年2月25日 (月)

主演女優賞は「ピアフ」のマリオン・コティヤール!

20080225oscarsjpイゾルデの途中ですが、日本時間の今朝からアカデミー賞が発表されています。主演女優賞、本命視されていたジュリー・クリスティーは受賞を逃しました。主演男優賞はダニエル・デイ=ルイスが二度目の受賞。演技部門の受賞者は4人とも外国人(非アメリカ人)という意外な結果となりました。
名まえにリンクが貼ってあるのはクリックするとコダック・シアター(授賞式会場)での写真にとびます。

作品賞
「ノーカントリー」 

監督賞
ジョエル&イーサン・コーエン 「ノーカントリー」
 
主演男優賞
ダニエル・デイ=ルイス 「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」

主演女優賞
マリオン・コティヤール 「エディット・ピアフ~愛の讃歌~」ドレスはジャン=ポール・ゴルティエ
 
助演男優賞
ハビエル・バルデム 「ノーカントリー」

助演女優賞
ティルダ・スウィントン 「フィクサー」ドレスはランヴァン

オリジナル脚本賞
ディアブロ・コディ「JUNO/ジュノ」ドレスはガリアーノ

脚色賞
ジョエル&イーサン・コーエン「ノーカントリー」

音楽賞
ダリオ・マリアネッリ「つぐない」

撮影賞
ロバート・エルスウィット「ゼア・ウィル・ビ・ブラッド」

編集賞
クリストファー・ルーズ「ボーン・アルティメイタム」


音響賞(編集)
「ボーン・アルティメイタム」
 
音響賞(調整)
「ボーン・アルティメイタム」
 
美術賞
ダンテ・フェレッティ、フランチェスカ・ロ・スキアーヴォ「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」
 
衣装デザイン賞
アレクサンドラ・バーン「エリザベス:ゴールデン・エイジ」
  
視覚効果賞
「ライラの冒険 黄金の羅針盤」
 
メイクアップ賞
「エディット・ピアフ~愛の讃歌~」

歌曲賞
『フォーリング・スローリー』「ONCE ダブリンの街角で」(作詞・作曲 グレン・ハンサード&マルケタ・イルグロヴァ)

長編ドキュメンタリー賞
「「闇」へ」

短編ドキュメンタリー賞
「Freeheld」 

短編実写賞
「Le Mozart des pickpockets」 

長編アニメ賞
「レミーのおいしいレストラン」

短編アニメ賞
「Peter & the Wolf」
 
外国語映画賞
「ヒトラーの贋札」(オーストリア、シュテファン・ルゾヴィツキー監督)
 

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2008年2月23日 (土)

イゾルデと天使(前)

20080224tristanjpこれまた随分古い話になってしまいましたが、昨秋のベルリン国立歌劇場来日公演の「トリスタンとイゾルデ」。当時は忙しくて音楽雑誌を読む暇もなかったんですが、時間の余裕が出来たのでまとめて批評を読んでみました。音楽面はおおむね絶賛ですが、クプファーの演出は賛否両論のようです。

この舞台は中央にドーンと、倒れ伏した巨大な天使の像が置かれ、全幕ともその周囲、あるいはその上で事態が展開します。装置はクプファーの盟友、ハンス・シャーヴェルノッホ。この天使の像を2誌ほど、「堕天使」として捉えているのが少し気になりました。
(簡単に天使の像などと書きましたが、正確には『観客に天使を想起させるオブジェ』とでも書いておくべきでしょうか。)

で、このオブジェ、堕天使だったとしても整合性はあるのですが、もうちょっと複雑であるような気がします。

堕天使というのは天国にいる天使のうち、高慢や嫉妬などの理由で、あるいは自らの自由意志で、神に反逆し、天界を追放されたものをいいます。堕天使は人間界に降りたり、あるいは地獄の悪魔であるサタン/ルシフェルの元へ下ったりしてるわけですが、どうも『神に反逆して、サタンのもとに下った』存在の上で、「トリスタンとイゾルデ」が演じられるというのも奇妙な感じをうけます。

たしかにイゾルデは自らの自由意志でタントリスに刃を向けず、彼を治癒してしまい、その結果として愛欲という罪を背負って底なしの地獄に堕ちていくと考えれば、この「堕ちた天使」の像を堕天使と見るのは、間違った解釈とはいえません。

しかし気になるのはこの天使像(ということにとりあえずしておく)の形態です。少々異例ではないかと思うのです。

この天使は裸体ですが、どう見ても女性に見えます(euridiceさんのブログで写真が見れます)。キリスト教の天使の場合、性を持ちませんので、中性的に描いても良いし、女性の顔あるいは男性の顔、どちらで描いてもかまいません。

しかしいずれの場合でも大人の姿をとる場合は、天使はまず着衣です。「ベルリン・天使の詩」で有名なベルリンの天使も着衣です。ヌードにしてしまうとどうしても性別が明確になるからでしょう。

無論、裸体の天使というのもあります。どちらかといえば彫刻に多く見られ、教会の装飾などにもありそうですし、有名どころではベンベヌート・チェッリーニの天使像などがあります。
絵画はぐっと少なくなるのですが、カラヴァッジォには翼をつけた後ろ向きのヌードの少年を描いた天使の絵がありますし(ちょうどギリシャ神話に取材した有名な「アモール」を逆向きにした様な感じ)、ボッティッチェッリには翼を生やした裸身の幼児の姿をした天使が空を飛んでいる「神曲」の挿絵があります。まあ、どうみてもキューピッドにしか見えないんですが。

つまり裸体の天使が描かれるときは、翼を持った少年(せいぜいが若い男性から幼児)に限定されるのが一般的傾向であろうと思います。たしかEMIのセラフィム・レーベルのマークも裸体の少年じゃなかったかと(記憶曖昧)。

果たして女性のヌードで天使像というのはあるのでしょうか?私が知らないだけかもしれませんが、かなり珍しいのではないかと思います。

翼を持った女性のヌードというとすぐに思い出されるのが、ルーヴル美術館のサモトラケのニケですが、ニケは女神であって天使ではありません。それにドルイド教ならまだしも「トリスタンとイゾルデ」の話にわざわざギリシャ神話を持ってくるというのも腑に落ちないものがあります。

ところでキリスト教の天使というのはいったい何者なのでしょうか?
天使は日本語では天の使いと書くわけですが、英語の Angel の語源であるギリシャ語も、やはり「天の使い」という意味を持つのだそうです。
キリスト教の場合は父なる神の使いということになります。

天使は普段は天国に居るわけですが、人間の世界に神の使いとして降りてくるときだけ、目に見えるように人の姿をまといます。つまり天使の姿というのは固定されたものではなく、先に書いたように男性でも女性でもかまいません。着衣でもヌードでもかまわないし、ソドムとゴモラにやってきた天使がアラビアのロレンスみたいな顔をしてようと、ベルリンに住み込んだ天使が刑事コロンボみたいな顔をしてようと、ショーン・コネリーで予定してた役がオードリー・ヘップバーンになろうと、どうでもよいわけです。どうせ仮の姿なので。

天使は仮の姿になっていようがいなかろうが、その本質は純粋精神とか純粋知性とかいったようなものなので、質量も持ちません。質量が無いので一本のピンの上に、無数の天使が乗ることが出来ます。まあ正確には(∞-1)体ですが。

それでいったい何を書いてるんだか、自分でも訳わかんなくなってきましたが、要するに純粋知性の天使のヴィジュアルとして、「性」を感じさせるものは相応しくなく、つまり「巨乳天使」だとか「もっこり天使」だとかは最初から問題外としても、成人女性のヌード像自体が天使像としては異例。このクプファーとシャーヴェルノッホによる「トリスタンとイゾルデ」の舞台装置も、天使ではなく他の解釈がありうるのではないかと思われるわけです。

ハリー・クプファーの舞台で、今回と同様に中央に倒れ伏した巨大な彫像が置かれ、それが全幕を通しての舞台装置となるというので、すぐに思い出されるのはウィーンの「エレクトラ」です。
(続く)

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2008年2月19日 (火)

Photoshopのインストール

20080219photoshopjpもうごくごく一部の人しか興味のない話題で恐縮ですが、AdobeのフォトショップはCS3という新しいヴァージョンになりました。

しかしこのCS3、インストールできないで困ってる人はいないでしょうか?

経過をずっと書いていくのもダルいので、結論だけ書きますが、CS3はGoogleデスクトップと干渉する恐れがあります。
Googleデスクトップを使っている方は、これを外さないとインストールできない可能性が大きいようです。

いったんGoogleデスクトップをアンインストールして、先にCS3をインストール、後からGoogleデスクトップならOKです。

これを発見するまで、アプリケーション・ログを調べたり、検索を重ねたり、さんざん手間取ってしまいました。こんなのFAQに入れてくれればいいのに。

                sandclock

ここのところ技術系のサイトや新聞はこの話題でもちきりですが、東芝が今日正式にHD-DVDからの撤退を発表しました。

詳しくは、
http://www.toshiba.co.jp/about/press/2008_02/pr_j1903.htm

日本の市場はBlu-rayに傾いていましたから、ブルーレイが勝ってHD-DVDが負けたこと自体は意外でも何でもありませんが、マイクロソフトやインテルがバックについてたはずの事業ですら、ワーナー1社の決定をきっかけに、あっという間に瓦解してしまうというのは、やはりちょっと驚きではないでしょうか。

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2008年2月18日 (月)

Maria makes me laugh(後)

20080218bayojp声量だけでなく声の艶とか張りとかも後半は圧倒的で、なんというかオーラが前半とはまるで違う感じ。モーツァルトではわずらわしかった動作も、スペイン歌曲にはぴったり合います。

後半スペインものの最初はエスプラ。この作曲家については以前に「名画と名曲」のシリーズで、『物売りの歌』をとりあげました。
この曲も歌ったんですが、ファンタジーといい繊細さといい叙情性といい、完璧な歌唱。

トルドラ、モンサルバーチェとすすむうちに声はますます出るようになって――といっても紀尾井ホールはわずか800人の中ホールなので、さして声量のない歌手でもびんびん響くことは響くんですが――、繊細な心の震えも、あでやかな表情も、自由自在。驚くべき完成度の高さでした。

これだけで十分に満足していたんですが、ピークはアンコールで歌われた2曲のスペイン語の歌。よく知らない曲なので歌詞の表現についてはなんとも言えないんですが、圧倒されました。

ただ唯一残念だったのは高音域で、CDに聞かれるあのどこまでも透明な高音は、残念ながらすでにバーヨのものではありませんでした。少々濁った響きになり、ザラザラとまではいきませんが、夾雑物が混じったような音。
バーヨは61年生まれ説と58年生まれ説とあるそうですが、61年だったとしても今年で47歳。あの教科書のような発声といわれたデヴィーアですら、40代後半(95年ごろ)には超高音の美感を失ってしまいましたから、やむをえないことなのでしょうか。

ところで声楽的な意味でのピークは2曲のスペインものアンコールでしたが、「面白い」という点では、さらにその後に歌われた「セビリャの理髪師」のロジーナのアリアがピーク。

そもそも6曲もアンコールを歌ってくれるというのがまず意外で、「お前はリッチャレッリか」と突っ込みを入れたいほどの大盤振る舞い。(リッチャは9曲とか歌ったことがあるそうですが)

ロジーナの前にはケルビーノの「自分で自分がわからない」を歌ったんですが、言うまでもなくこの続け方は、ボーマルシェつながりであると同時に、スペインの大先輩テレサ・ベルガンサの最も重要なレパートリーという点でもつながりがあります。

でもベルガンサのスタイリッシュな歌とは正反対。バーヨのロジーナはなんというか、フレーズごとにさまざまな表情がつけられ、バーヨの導くままにあっちへこっちへと連れて行かれるというようなもの。
(楽譜をワンフレーズごとにリアライズしていって、繊細微妙な感情表現をするというのは、たとえばステューダーのような人が凄くうまかったわけですが、バーヨの場合はそういうのとも違って、もっとダイナミックに色んな方向に行ってしまう。)
したがって一旦バーヨの歌に乗れれば、それはもうこの上なく面白いのですが、そのかわりに旋律の魅力は完全に失われてしまうことになります。剛毅な一本の旋律に命をかけることこそ「イタリアの歌」と思う向きには、あるいは許しがたいと感じられるかもしれません。イタリアで彼女のロッシーニが不評なのも、判るような気が。

ロジーナの後で気づいたんですが、ケルビーノもまったく同じような歌い方。でもこちらの方は歌として完璧に成立してるんですね。それどころかこの少年のどこか生き急いでるかのような有様がクッキリと浮かんできて感動。前半とはまったく逆の意味でモーツァルトの不思議さを感じました。

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2008年2月17日 (日)

Maria makes me laugh(前)

20080217bayojpちょっと古い話になってしまいましたが、新国立劇場の「ラ・ボエーム」でミミを歌ったマリア・バーヨが、ソロ・リサイタルも開いたので感想を。1月30日、紀尾井ホール。

昔からバーヨ、バーヨと騒いでたわりには、一度もナマで聞いたことがなかったんですが、ようやく念願かないました。(かつてマドリッドのオペラが来日公演をするというニュースが音楽雑誌に載って、そこにバーヨも参加するというので期待してたんですが、流れちゃったみたいですね。ドミンゴとクーラを擁しての大規模な公演になるはずだったんですが・・・)

マリア・バーヨが日本のオペラ・声楽ファンに知られるようになったのは、おそらく彼女の最初期の録音となる90年代の初めに発売された2枚のCD、Clavesの「イタリア古典歌曲集」と「スペイン歌曲集」(ヴォルフじゃなくてスペインの作曲家の歌曲)ではないかと思います。
栴檀は双葉より芳しなのか、このバロックとスペインものという2本の柱は現在もバーヨのレパートリーの中核となっているようです。

私はCDが発売されたときにはノーマークだったんですが、数年後に中古レコード屋で「イタリア古典歌曲集」を見つけ買ってみました。ちょうど彼女がパリで歌ったヘンデルのクレオパトラが、ネットのBBSで話題になっていた時期でした。聞いてみるとなんと完全に私好みの声ではありませんか。ちょうどその頃はフランスの Auvidis-Valois から彼女の録音が次々と発売されてる時期とあって、いろいろと買い求めましたが、完全にノックアウトされたのは、グラナドスの歌劇「ゴイェスカス」。

バーヨの最大の魅力は2つあって、ひとつはちょっと細身ながら限りなく伸びていくようなシャープで透明な高音。もうひとつは蠱惑的なその音色。言葉では表現しがたいのですが、高域の透明感とは違った、色でいうならショッキングピンクまではいかない、しかし濃い目のかつ艶やかなピンク。
「ゴイェスカス」ではさらにかすかな退廃の味も加えて、カバリエともロス・アンヘレスとも異なる魅惑の歌唱を聞かせてくれたのでした。

その声の質からも予想できるように、同時期にはモーツァルトとロッシーニも重要なレパートリーとして加わってきます。モーツァルトはザルツブルク音楽祭でケルビーノやデスピーナを、メトロポリタン歌劇場でツェルリーナを歌うなどビッグな劇場での活躍が続きますが、ロッシーニはペーザロでの歌唱がかなり不評だったり、賛否両論あるようです。

そしてもうひとつフランスものもバーヨの重要なレパートリーで、「ホフマン物語」は3役を一人で歌える稀有な歌手の一人ですし、CDに録音された「オーヴェルニュの歌」もすばらしくチャーミングな出来です。(この「オーヴェルニュ」には同じカントルーブの「バスク地方の歌」がフィルアップされていて、ナバラ出身のバーヨにとってはお国ものということになります。)

で、これまでの彼女のCDを聞く限り、どう考えても声も歌唱もヴェルディ以後のイタリア・オペラには向かないんじゃないか。ましてムゼッタならまだしもミミって…と思っていました。
そんなわけで新国の「ボエーム」にも大変興味があったんですが、こちらはどうしても聞くことが出来ませんでした。残念。リサイタルも無理かと思って、駄目なときのチケットの引き取り先も確保してたんですが、ラッキーなことになんとか新幹線でぎりぎり駆けつけ、最終で帰るという(いつものような)哀しいスケジュールで行ってまいりました。(あれ?ラッキーで哀しいって矛盾・・・?)

リサイタルのプログラムは前半がモーツァルトの歌曲、後半がスペインものでまとめられエスプラ、トルドラ、モンサルバーチェ。
東京に行く前にkeyakiさんのブログで、「ボエーム」の時に彼女が「身をよじって」歌いだしたというのは読んでたんですが、それはオペラだからだと思ってました。

まあビックリ。モーツァルトの歌曲もいきなり両手を挙げ、激しく身をよじって歌いだすのです。私はかなり後ろのほうの席だったので、バーヨの顔が目の部分だけ陰になって黒く落ち窪んだ感じに見え、それが両手をふわふわさせ動いてるので、まるで以前に流行ったムンクの叫び風船のような。――見ているうちにもう可笑しくて可笑しくて笑いたくなってしまったんですが、そんな失礼なまねも出来ず途中からは目をつぶって聞いていました。

動作がこうなので、当然のように歌も表現の濃いものになります。それはそれで別に良いんですが、聞いてると段々一つ一つの曲をバーヨ・スタイルの中に押し込めて、次々と処理してるというような、テキパキ感を覚えてしまうのです。これはいったいなんでしょうか?
別に事務的に歌われてるわけではなく、1曲だけを取り上げれば感情表現もたっぷり、歌に心がこもってないわけでもなく、モーツァルトですからいわゆるベルカント・オペラのようなスタイルの厳格さを求められるわけもないと思うのですが…

まったく同じプログラムでマティスやアメリンクが歌ったとしたら、その端正な歌唱の中から、おのおのの曲の個性とモーツァルトにしか出せない輝きが浮かび上がってくると想像できるのですが、もしかするとこれがモーツァルトの難しさなのでしょうか?

もっとも声自体も前半は本調子ではなかったようです。
というのも後半のスペインものでは、声そのものの出方が一変したからです。
なによりも声量が全然違ってきました。
(続く)

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2008年2月16日 (土)

地味に復帰

20080216inmjpはたして継続して更新できるかどうか自信がないんですが、とりあえずブログ復活させたいと思います。
仕事が忙しかったことにくわえて、プライヴェートでもちょっと問題を抱えていて、一事はブログを閉鎖しようとも思ったんですが、なんとか大丈夫かなという状態まできましたので。

更新を休んでいた期間、コメントやメールを下さった方には、あらためて御礼を申し上げます。ありがとうございました。
またもしプレッシャーを与えないようにと、あえてメール等を控えてくださった方がいらっしゃいましたら――と、勝手に架空の設定をするのも変な奴だと思われるかもしれませんが――御礼を申し上げます。

それからaostaさんから、クリムトの記事にTBをいただいたんですが、なぜかうまく入りません。ちょっと理由がわからないので、リンクで代えさせていただきたいと思います。aostaさんのサイトはこちらです。>クリック

ところで休んでいた間に、音楽界の大物が何人か亡くなられました。シュトックハウゼン、ジャズピアニストのオスカー・ピーターソン、江藤俊哉さん。keyakiさんのサイトで知りましたが、驚いたことにセルゲイ・ラリンも亡くなってたんですね。まだ若いのに。

オスカー・ピーターソンの名録音というのは数限りなくあるわけですが、中でも60年代に録音されたエド・シグペンとレイ・ブラウンとのトリオなどがいちおしの名盤ということになってるようです。

でも私が一番好きなのはライヴ盤の「フリーダム・ソング」におさめられた『ナイジェリアン・マーケットプレイス』。
この「フリーダムソング」という2枚組みのアルバムは、1982年の日本公演のライヴで、ジョー・パス、ニールス・ペデルセン、マーティン・ドリューという当時の彼のお気に入りのクワルテットによる演奏。このクワルテットによるステージは(「フリーダムソング」が収録された公演ではありませんが)私も聞いていますので、そんな意味でもちょっと思い入れがあります。しかしそうした個人的な感傷を抜きにしても、ここには60年代の活きのいいピーターソンとはまた別の、格調とか温かみとか包容力とか、人間としての大きさのようなものが感じられるように思います。

この『ナイジェリアン・マーケットプレイス』という曲は、とても叙情的でメロディアスな曲で、オスカー・ピーターソンは非常にしばしば演奏していますので、ほかのライヴ盤にもはいっていますし、この曲の名前をタイトルにしたアルバムもありますが、「フリーダム・ソング」での演奏には、上記のような部分が特に強く感じられ、感動をおぼえずにはいられません。まあ、ただの思い込みと言われれば、そうかもしれないんですけど。

江藤さんは私は生で聞いたことはなく、最初に録音(FM放送)で聞いたのも、なぜかヴァイオリンではなくヴィオラで別宮貞雄さんのヴィオラ協奏曲でした。この曲は71年の尾高賞受賞作で、今井信子さんのレパートリーとして有名です。
江藤さんのは74年N響定期公演のライヴ。なぜ江藤さんがヴァイオリンではなくヴィオラのための協奏曲を弾くつもりになったのか、しかもバルトークやベルリオーズではなくてこの曲を弾こうと思ったのかは知りませんが、非常に肉厚の艶やかな音色で、今井さんとはまた異なった魅力をひき出していたように記憶しています。当時オープンリールでエアチェックしたものはあるんですが、ぜひともCD化を期待したいものです。

映画界ではご承知のように市川崑監督も亡くなられましたね。ご冥福をお祈りいたします。

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