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2008年7月

2008年7月29日 (火)

ホルスト・シュタイン逝去

20080729steinjp また巨匠が一人・・・

指揮者のホルスト・シュタインが亡くなったそうです。80歳でした。
いまちょっと長い記事を書いている時間がとれないのですが、N響との数々の名演、そして私にとっては、ウィーン国立歌劇場初来日公演での、リザネックとの「サロメ」が何よりも忘れ難い思い出です。

どうぞ安らかにお眠りください。

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2008年7月11日 (金)

「ティファニーで朝食を」と「つぐない」と「永遠のマリア・カラス」(前)

20080711atonementjp (思い切りネタバレあり)

原作通りでないという理由で不当に貶められてきた映画に、オードリー・ヘップバーン主演の1961年作品「ティファニーで朝食を」があります。

映画と原作とは別物、映画とは断じて原作の絵解きではないと考える私にとって、『オードリーが、原作のホリー・ゴライトリーのイメージと違う』とか、『甘いハッピーエンドにしてしまって、カポーティの原作が台無し』とかいう意見は、まったく理解に苦しむものです。

オードリーがキャスティングされた段階で、すでに映画「ティファニーで朝食を」は、カポーティを大きく離れることを宣言したも同様なのですから、そのつもりで見なければなりません。そしてもし批評するのであるならば、原作に頼りそれがどこまで忠実に映像化されてるかを判断することで批評したつもりになるのではなく、何者にも頼らず映画自体を、独立した芸術作品としてそれ自体を論じなくてはなりません。
(ストーリーの絵解きにすぎない作品というのも数多くありますが、それらはまず失敗作とみなされます。)

以上のような考え方というのは「ティファニー」に限らず、私の基本的なスタンスなのですが、もちろん例外はあります。
今年のアカデミー賞でも話題になった映画「つぐない」もそんな例外のひとつで、私は原作を読まないで映画の方を先に見てしまったんですが、どうしても原作小説を読んで比較したいという気にさせるものでした。

家庭用ビデオが一般化する前は、いわば映画のスーヴニールとして、原作を読むことはしょっちゅうだったのですが、「比較のために」読んでみたいと思わされたのは、もしかするとこの「つぐない」が初めてかもしれません。

原作はイアン・マキューアンの「贖罪」 Atonement 。映画の日本語題名がひらがなで「つぐない」になってしまったのは、「贖罪」という単語に宗教的な匂いがまとわりついていることや、難解な作品だと思われて敬遠されそうということなどを考慮したんでしょう。やむをえないことですし、「愛と哀しみのナンチャラ」よりは百倍良いと思いますが、ニュアンスが柔らかくなりすぎてしまってやはりちょっと残念な気がします。

映画はほぼ原作に忠実に作られています。(原作といっても私が読んだのは翻訳で、マキューアンの文章は、原語で読まないとちゃんとは味わえないと思うのですが、別に文芸批評するわけではないので、それは許していただきましょう。)

この作品では映画においても原作においても、ふたつの「どんでん」が用意されています。つまり作品がブライオニーの著作であること。そして恋人たちの悲劇の結末が事実とは違うことの二つです。

これらはいずれも作品の最後で明かされるわけですが、映画と小説と一番大きく違うのはこのラストシーンの設定です。

ラスト。原作ではタリス邸で老ブライオニーの誕生日を祝って、一族の集いが開かれるという場面設定になっています。ここであの日上演されずじまいだった「アラベラの試練」が六十数年ぶりに上演されます。
私たち読者は思わずもしもあの時に上演されていたら、偶然の積み重なりは起きず、恋人たちの悲劇もなければ、ブライオニーも試練にさらされ、贖罪の数十年を生き続けることもなかっただろうにと思わずにはいられない、実に上手い設定です。

まず最初の「どんでん」は、原作ではこのシーンの前。ブライオニーと恋人たちの邂逅で過去のストーリーが締めくくられた後に、いったん作者が筆を置くという形でもたらされます。

ここで私たちは「作品の外側にいる作家によって創作された物語」として読んできた作品が、「作品の内側にいる(=小説の中では実在する人物である)ブライオニー・タリスの作品であった」という、第一の裏切りに出会います。

読者は実際にブライオニーの創作物を読んできた、つまり直接的に接してきたわけです。ですから文学上の裏切りは効果的にもたらされます。

劇の上演が終わってブライオニーが自室に引き上げた後、彼女の独白という形で第二の裏切りがきます。実は恋人たちの結末はまったく違うものだったということ。ここは事実が述べられるだけで、映画に比べると(表面上は)かなりあっさりしています。

さて第二の方はともかく、第一の「どんでん」は映画にするとなると、相当の難物です。まず私たちは小説を読んでいるのではなく、あくまでもその映像化作品を見ています。それは小説を読んでいることとは、まるで違う行為であって、『読者が直接的に接してきたものが実は作中人物の想像力の賜物であった』という原作における文学的裏切りと同じものをもたらすことは出来ません。映像化作品は断じてブライオニーの創造物ではないからです。(体験の直接的裏切りを映画で可能にするためにはブライオニーを映画監督に設定して、この映像化作品は私の創造物ですと明かすしか手段はありません。)

さらに小説においては登場人物の心理も情景描写も、すべてブライオニーの想像力の中で創造されたものだったということになるわけですが、映画は必ずしもそうはならないという問題点があります。

まず俳優の存在感と、映像の迫力が圧倒的である場合、登場人物たちとそれぞれのシーンは勝手に動きだし、独自の実在を主張します。
映画ではブライオニーの小説を基にしていることを暗示するため、BGMに重なって無遠慮に入り込んでくるタイプライターの音が、やがてリズミカルに音楽にシンクロしていくという大変に面白い手法を使っていますが(今年のアカデミー作曲賞受賞)、その目論見とは逆にこの音楽もまた小説では存在しえない独自の魅力となってせまってくるのが、小説と映画の距離をいっそう遠くへ引き離していくようです。

さらに、上で私が非難した「ストーリーの絵解き」に終始しているものならば、単なる小説の映像化と主張することもできますが、映像でなければもたらすことの出来ない、目の快楽が用意された場合、もはやそれは独立した芸術作品として自立していると言わざるを得ません。

すべての人が絶賛するダンケルクのシーンの数分間に渡る長回しの奇跡的なカメラワーク(おそらくCGと実写の合成ではないかと思われますが、同じワンシーン・ワンカットのブラナーの「魔笛」の冒頭シーンが、ある程度CG臭さを残していたのに対して、この「つぐない」の長回しはまったくCGと実写の区別がつきません)は勿論ですが、戦火のロンドンでのセシーリアとロビーの出会いのシーンなど、映画的な快感を呼び起こすシーンがふんだんに用意されたこの作品は、あきらかに「小説の絵解き」を超えて、映画独自の魅力を主張しています。

以上のようなことは、一見、成功した文芸映画ならどんな作品でもそうであるように、この作品でもそうだということにすぎないと見えるかもしれません。

しかしこの「つぐない」の場合に限っては、

1)映画で展開されてきた事態もまた、ブライオニーの想像力の産物としてみるべきなのか、(=マキューアンの原作通りだが、すべては単なるブライオニー作の小説の絵解きであり、映画として自立するためには、最後のインタビューシーンを待たなければならない。過去のタリス邸と戦場のシーンは、いわば長い「序」となってしまう。)

2)ラストの3人の出会い以外は、(フィクション内での)事実が描かれていると見るべきなのか、(=過去シーンは自立した芸術作品としての存在価値を主張できるが、原作者が用意した第一の裏切りは、かなり効果が減ぜられる。)

という問題が発生するのです。

いったいそれはどう考えれば良いのでしょうか。

「アラベラの試練」のシーンを、原作通りに映画化しなかったことは理解できます。おそらく感動的なシーンになることが約束されたはずですから、製作総指揮に名を連ねているマキューアンや監督のライトなど、製作側の人々にとってそれは断腸の思いだったに違いありません。

しかしその場合、観客は単純に六十数年後に時間が飛んだだけと見てしまうでしょう。
つまり全体が「3つの時代にまたがる一遍の大河ドラマ」となってしまって、原作における「小説が一旦閉じられ、それがブライオニーの著作であることを明かす」という効果は、もたらせなくなってしまいます。

インタビューのシーンもヴァネッサ・レッドグレーヴの演技力のおかげで見ごたえのあるものにはなりましたが、原作の愛読者には相当な失望を与えたことと思います。でもこれは上に述べたような理由で、しょうがないのです。むしろ考えられる最善にしてギリギリの解決策だったといえるのではないでしょうか。

しかもここには非常に重要な仕掛けがなされています。それはインタビュアーの役を、先頃亡くなったアンソニー・ミンゲラが演じているということです。

ミンゲラはご承知のようにイギリスの映画監督で、アカデミー賞を大量受賞した「イングリッシュ・ペイシェント」をはじめ「リプリー」や「コールドマウンテン」などの話題作を発表しています。オペラ好きの方にはMETで「蝶々夫人」を演出したことでも知られているかと思います。
この3月にガン手術後の合併症で、わずか54歳で亡くなりました。

(関係ありませんがミンゲラ監督は1954年1月生まれなので、私より年齢は1歳下なんですが、日本流に言うと同じ学年ということになり、私にとっては同い年で学年だと1年上になる村下孝蔵さんが脳溢血で亡くなった時に匹敵するショックでした。)

ライトは何故、インタビュアー役に俳優やキャスターではなく、映画監督を起用したのでしょうか?
私はここに過去のシーンを1本の映画として、一つの実在として提示したかったからだと考えます。それは表面的にはブライオニーの小説の映画化に他ならないわけですが、創作者(ここでは映画監督)にとって、事実とは、あるいは現実とは、まさに創作物の中にあるのであり、フィルムに固定されたその瞬間に俳優たちは、それぞれの役の人物となって実態を持って動き出すのです。

スクリーンの中では、登場人物こそが現実であり、もしも実在の人物の伝記を描いたとしても、真実はモデルとなった本人ではなく、フィルムの中にあります。
ドキュメンタリーや報道番組ではないのですから、実際と違うということは批評の論点にはなりません。

この映画の場合、セシーリアとロビーの噴水での出来事も、図書室でのラブシーンも、戦時下の逢瀬も、ダンケルクのシーンもすべて事実であって、その通りに行われた。もちろん監督がそれらの現実を創造したのです。ブライオニーではなく。

おそらく意識的に、仮に無意識的にであったとしても、インタビュアー役に映画監督であるアンソニー・ミンゲラを起用したということは、その控えめな誇示、もしくは暗示ではなかろうかと私には思えます。

(続く)

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