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2008年10月

2008年10月 8日 (水)

さようなら

この最終回のタイトルを「ワルキューレ」の3幕にするか、「ボエーム」の3幕にするかちょっと迷いましたが、やはりソプラノ好きの私としてはソプラノのアリアでということで。

昨年からちょっと体の具合が悪かったのですが、今年に入ってもプライヴェートで色々とあって、なかなか体調を戻すことが出来ませんでした。(胃や腸を押すと痛いとか疲労感が激しいとか、母親がガンになった直前の症状とまったく同じだったので、かなり不安だったのですが、幸い今のところガンではないみたいです。)
特に夏以降、夜になると頭痛や倦怠感に悩まされる日が続き、ブログを更新できてないと言うのも、精神的なプレッシャーになっているように思うので、思い切って閉鎖することにしました。いつかまた健康状態が許せば、ぜひとも再開したいのですが、いつのことになるものやら・・・

これまで私の拙い文章をお読みくださった皆様、本当にありがとうございました。コメント欄とTB欄は閉じますが、ログ自体はしばらくの間、残しておきますので、もしご自身がお書きになったコメントなどで保存しておきたい方がいらっしゃいましたら、お暇なときにでもコピーしておいて下さい。
あと恐縮ですが、この件に関してメール等は、どうぞご遠慮ください。切にお願い申し上げます。

ところで『「ティファニーで朝食を」と「つぐない」と「永遠のマリア・カラス」』が途中になっていました。
何を言いたかったかと言うと、アーティストにとっては創作の中こそが現実であるということ。アーティストが「夢」をかなえるのは作品の中でですが、作品世界が出来上がるとそこに生まれるのはもはや夢ではなく現実であると言うことです。

ゼッフィレッリはおそらくカラスでカルメンをやりたかったのでしょう。実現しなかった夢を映画の中で実現させたのです。映画監督にとって映像に焼き付けられた瞬間から、フィルムの中にいるのはファニー・アルダンではなくマリア・カラスその人。

同じように「つぐない」の次女、ブライオニーにとっても創作の中こそが現実であるのです。
「つぐない」と「永遠のマリア・カラス」では作品の深みがまるで違いますし、主題も違いますが、基本が「芸術家の夢と現実」を基にしていること、そしてさらにその底には「芸術家のエゴ」が横たわっていると言う部分で、共通しています。

「つぐない」は多くの人に絶賛され、「永遠のマリア・カラス」は多くのオペラ・ファンから非難されたわけですが、根本において同じものが提示されているように、私には感じられたのでした。

マキューアンの小説はあまり起承転結がなく、淡々と進んできて最後にキュッと締めて落とすというのが多いように思います。しかしいわゆる「オチ」というのではなくて、そこで新しい次元に読者を導く。同じ平面上でのオチではなく、より広い視点を与えたり、より深い次元をあたえたり、読者を一段と高いところに誘うというのが特色ではないかと思われます。(そういう意味で一番成功しているのは「黒い犬」であり、一番物足りないのは「アムステルダム」でしょうか。)

映画「つぐない」はラストの「アラベラの試練」のシーン以外は、かなり原作に忠実に作られていますが、マキューアン小説が提示してみせる、ラストシーンでの新たな広がり、新たな次元といったものを獲得するのは、さすがに無理だったようです。もちろん(前)のはじめに述べたように、映画と小説とは違うものなのですから、映画が「だから小説より駄目だ」ということには、ならないのですが。

ポール・ニューマン、緒方拳という、20世紀のアメリカ映画界と日本映画界を代表する名優が相次いで世を去りました。ご冥福をお祈りいたします。

最後にブログをお読みくださった皆様、そして何よりもいつも素晴らしいコメントをお寄せくださった皆様。本当にありがとうございました。心より感謝申し上げます。                                                                                          TARO'S CAFE 店主敬白

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