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2012年3月23日 (金)

閉塞感という名の幻想・9

20120323_9 なぜ行政は文化にお金を出すのでしょうか?
自治体だけではなく、国には「文化庁」という組織があるし、「文化国家を目指す」というようなフレーズもあって、文化的じゃない国は恥ずかしいみたいな風潮もあります。学問なら国の発展のためには学力を高めることが必要というのは容易に理解できますが、文化は国力を高める力は持っていそうもありません。

文化行政の目的は、2つあると思います。一つは子供たちを文化的な環境で育てることによって、勉強と運動だけでは得られない情操面の成長を養うこと。もう一つは大人(も子どもも含めた人々)が質の高い文化に触れることによって、仕事と日々の暮らしだけでは得られない、深い精神的な考察や刺激、やすらぎ、感動など、精神的な豊かさと情緒面での満足を得られる環境を提供すること。

子どもと大人に分けてみましたが、もちろん本質は同じ事です。(芸術に接して得るものは必ずしも精神的な深さ・豊かさといったものだけではないし、別に芸術家はそれを与えるために芸術活動をしてるわけではないと思いますが、ここは「行政の役割」ということを主題に考えているので、あくまでもアーティスト側ではなく鑑賞者側として、分かりやすくポジティヴな部分だけを取り上げたいと思います。)では精神的な深さ・豊かさとはいったい何で、それを得られるとどんなメリットがあるのでしょうか?

まず人が何か新たな体験――勉強でも労働でも学生バイトでも旅行でも英会話レッスンでも恋愛でも失恋でも風変わりな人に出会ったとかでも、その他なんでも――をすれば、これまでにはなかった新しい心の反応を見せると思います。比喩的に言えば心の中の使ってなかった領域のドアが、鍵を開けて開かれるのです。
私たちの人生における多くの体験は、そうして精神の横の広がりを大きくしてくれます。
芸術に触れることはそうした心の部屋の横の広がりに加えて、縦の深さも掘り下げてくれます。震災の後、バッハを聴いてそこにかつてなかった安らぎを得るというのは、今までバッハから得ていたものとはまた次元の違う深さへと、芸術が精神の小部屋を掘り下げてくれたからと私は思っているのです。
もちろんその他にも癒しとか興奮とか情緒面での反応はありますが、芸術鑑賞の第一義的な意味はそこにあるように思うのです。

ただこれはあくまでも個人の心の中の問題です。音楽を聞いて精神的な深みを得たからといって、倫理的・人格的に立派な人になるわけではありません。心の広い優しい人になるわけでもなければ、人間的に大きい人になると言う訳でもありません。仮に倫理的に立派になったとしても、より厳格さを増し周囲の人に迷惑をかけるなんてこともありそうです。

しかし精神の深みと広がりは何か新たな刺激に対して、より多様で緻密に考察された反応を導くことができます。これは異なる人々の間の相互理解を容易にし、困難に際してよりベターな解決を導くことが可能になるかと思います。でもこれも文化の効果として目にみえるわけではありません。ただそのような人々が多くなった時、コミュニティは――ソサイアティも――より寛容で、自由な世界へと成長していくのではないかと、私は考えています。

さらにもう一つ重要なこととして、日常の中で失われがちな自己というものを、芸術に接し、深い精神的体験をすることによって取り戻すということもあります。どうやら芸術は私たちのアイデンティティに直結してるという見方もできそうです。

当然ここでクラシック音楽が問題になります。雅楽や民謡などの日本の伝統的な音楽ではなく、西欧のクラシック音楽が私達日本人のアイデンティティと関係があるのかという問題です。結論から言えばあります。
私たちは普通の歌謡曲やポップスでも、クラシック音楽のイディオムを使った音楽で、周りを囲まれています。当初は輸入された音楽であっても、すでに100年以上もクラシック音楽に基づく音楽によって私たち日本人は生きてきたのですから、もはやクラシックは私たちの音楽でもあると言って良いかと思います。私たちの血の中にはヨナ抜き音階だけしか入ってないわけではないのです。サザンもドリカムもEXILEも、もしクラシック音楽が存在してなかったら、成立しない音楽なのですから。

個人の問題ではなく、もっと広げて日本人全体のアイデンティティということを考えた場合に、それはどこに現れるのでしょうか。まさにそれは文化にこそ現れるという人がいて、私もそれに半分賛成です。なぜ半分かというと、「アイデンティティ」って単語は、そういう理解でいいのかなという言葉の使い方の部分での疑問があるからなんですが。

20120323jurakudai_byobuzu でも言葉の問題はともかく、私たち日本人の精神を支えるのは文化であるという考えには異論はありません。だからそれを壊そうとする人は、私の目には日本と日本人の敵にしかうつりません。
橋下氏は自己のアイデンティティなんて考えたくも無いでしょうし、寛容な社会などというものは全く目指さないでしょうから、文化を目の敵にするというのは、分からなくもありませんが。

財政が逼迫しどうしてもお金を出すことが出来ませんというのはしょうがないことで、それは文化を壊すことではありません。財政が回復するまで各団体は工夫して我慢すればいいことです。でも個人的な好き嫌いや、少年時代の環境に基づく恨みつらみで、「文化は行政が育てるものではない」などと嘯き、文化を壊そうとする人は敵と呼ぶべきであろうと思います。

昨日、この橋下氏の「行政うんぬん」の文脈を知りたいと思ったのは、それに続く言葉が「文化は民が育ててきた」なのか「文化は民が育てるべき」なのか、正確にどっちを言ったんだろうという疑問があったからです。
なにしろ日本の文化は、ほとんどの時代を通じて官主導で発展してきたと言えます。後者なら単に信念を述べたものですが、前者なら大間違いです。

そもそも最古の歴史書である「古事記」は天皇の命で編纂されました。古今集、新古今集が勅撰和歌集であることはいうまでもありません。源氏物語だって朝廷文化の中から生まれたものです。
絵画もそうです。豪華絢爛の安土桃山の文化は秀吉という権力者がいてこそです。もちろん茶道も。(右上は聚楽第屏風図。Wikipediaより)
彫刻も必ずしも為政者ではありませんが、仏教寺院がそのスポンサーでした。
建築が宗教と政治権力の象徴であるのはいうまでもありません。
明治以降も同じで、近代日本文学の二大巨塔である漱石と鴎外が、ロンドンとベルリンに留学したのは、国費によってでした。

これは歴史的に外国の文化を移入することで日本文化を育ててきたという、日本の特殊事情がそうさせるのではないかと思います。遣隋使・遣唐使の昔から、文化の輸入こそが国の政策だったわけですし、輸入業者は国だったわけですから。

歌舞伎と浮世絵という官が絡まず民によって育てられた芸術が、共に鎖国状態だった江戸時代の文化だったというのも納得が行くように思うのです。
(来週あたりに続く)

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コメント

>「行政や財界はインテリぶってオーケストラとか言いますが、大阪はお笑いの方が根付いている」
「文楽を見たが、2度目は行かない。

個人的にはこうした議論を「ポピュリズム」で片付けるのには抵抗があり、いわゆる「エリート向け芸術」と「大衆芸能」に価値的差を想定して、それを理由に前者への優先的公的支援を正当化する議論を理論的に擁護するのは大変難しいと思います。
パリの左派市政がクラシック音楽関係に行くはずだった予算をサーカス学校設置やホモセクシャル資料館に配分した時も様々な議論がありました。

>日本の文化は、ほとんどの時代を通じて官主導
>これは歴史的に外国の文化を移入することで日本文化を育ててきたという、日本の特殊事情

これは欧州も似たようなものではないでしょうか。
「大芸術」を支えてきたのは常に教会と宮廷という権力機構だし、特に16世紀から現在に至るフランスは官主導文化の典型ですよね。
ヨーロッパも土着文化の基層を成しているのはケルトとゲルマンで、ヘレニズムとヘブライズムは権力が伝播を主導した外来文化と考えることも可能でしょうから。
驚くべき文化的成果を生んだ古典期の民主制ギリシャが唯一の例外かもしれません。

トルコのEU加盟問題を機に今日の欧州では欧州のアイデンティティを問う動きが再浮上していますが、良識的研究者からは「欧州の固定的アイデンティティは存在しない。欧州とは変遷を続ける価値的ジェスチャーであって、欧州は実はその深源とされるヘレニズムとヘブライズムに対しても地理的にも周辺に位置する」といった議論も出ています。

>文化は効果が目に見えない
>文化は国力を高める力は持っていそうもありません。

現代では文化的魅力といった「ソフト・パワー」は国力には極めて重要な要素だ思います。
特に産業の競争力が衰えている日本では世論調査での国際的好感度の高さ、日本のポップカルチャー人気といった力は残された巨大な財産だと思います。

地上的レヴェルでは、リヨン・オペラのベルギー人監督ドルニーが最近民間コンサルタント企業に依頼したマーケティング調査によると、1ユーロの補助金は、旅行業への経済効果を除外してもカフェ・レストランでの飲食を中心に3倍の経済波及効果を生み出し、その効果の66%は地域経済を潤すとのことで、同監督は「オペラは納税者に高くつかない」と結論しています。

>西欧のクラシック音楽が私達日本人のアイデンティティと関係があるのか
>普通の歌謡曲やポップスでも、クラシック音楽のイディオムを使った音楽で

日本の歌謡曲も演歌含め、旋法ではなく平均律に基づいた調性音楽だというのは厳然たる事実ですね。
エスニシティ派の西洋人音楽学者からは「千年の貴重な音楽伝統を持つ日本や韓国のオケが何故平均律調律を行うのか」という疑問が提出されるわけですが。
確かにアラブ世界は「調性の勝利」に対してより非浸透的ですね。
個人的には、私の感性に対して平均率・長調・短調・転調のメカニズムがもたらす色彩豊かな調性の魅惑の勝利は殆ど自明に思えます。小学校の音楽の時間に初めてレコード鑑賞をさせられた時、「こんな心地よいものがあるんだ」と思いましたし、他の生徒も「今日はレコードを聞きます」と言われると歓声上げて喜んでましたから。

パリの「マンガエクスポ」なんかに行ってみると、フランスの若者たちがアニソンを日本語で合唱して盛り上がってて度肝を抜かれますが、日本のアニメやJポップは、今や世界各地にのめり込む若者がいて、「本場」の日本に留学したり日本でのデビューを夢見る人がたくさんいますよね。
日本文化の中で国際的受容という点では最も普遍性が高かったと思われる美術や映画にだって今までこうした現象はなく、多かれ少なかれエキゾティスム的文脈で愛好されていたに過ぎなかった。
Jポップは確かに優れた曲が多いし、西洋のポップスにはない独特の叙情があって世界で愛好者を生んでるような気がします。
ネットを探索すれば、各国のプロ級の若い歌い手たちが見事な日本語でJポップを完全に同化し再創造してるのに驚かされます。
白井光子が並みのドイツ人歌手を越えるドイツ・リートの演奏を実現したのと同じことがJポップについて起こっていて、西洋音楽をアイデンティティに取り込んだ日本は独自の西洋起源音楽を再創造し、その分野で「中心」としてさえ作用し始めた印象があります。
特にマンガはこの規模で日本産文化が普遍化・規範化し、発信の中心となる例は日本文化史上で初めてのことではないかと思います。
「日本文化は地理的条件から宿命的に周辺文化」と考えてきた私には、ちょっとしたコペルニクス的衝撃です。

投稿: 助六 | 2012年3月26日 (月) 14:16

助六さん

>「欧州の固定的アイデンティティは存在しない。欧州とは変遷を続ける価値的ジェスチャーであって、欧州は実はその深源とされるヘレニズムとヘブライズムに対しても地理的にも周辺に位置する」

なんだか子供の頃からヨーロッパの文化に憧れてきた身としては、衝撃的な説です。後半はそのとおりなんでしょうけど。
日本の文化が中国やインドから伝わったものを基礎に、後には西欧から取り入れ独自の文化を創り上げていったように、ヨーロッパでも同じような作業はなかったんでしょうか?と疑問形にするまでもなくありますよね?文化的アイデンティティの有無が時間的な長さだけではかられるのも、どうかなとも思うのですが。

>「ソフト・パワー」

おっしゃるように日本の重要な輸出産業になっていますが、このあとの回で実はそのことに触れたいと――経済的にも文化のレヴェルを高めることは重要な意味を持ってるのだということを書くつもりでいます。
日本のアニメ、特にまだ一般のTVがSD画質であった頃から、HD画質で作られていた精緻で繊細なアニメはおどろくべきものですが、その美的な価値もそこに付けられた音楽のレヴェルも、日本の基礎的な文化のレヴェルの高さがなければ実現しなかったように思います。そこをぶち壊して、文化予算を子供たちが通う塾のクーポン券にするという政策の愚かさは、大阪だけでやってる分にはまだしも、全国に展開されたら日本のソフト産業はジリ貧になっていくでしょう。まあそこまで落ちるには20~30年かかるでしょうし、その前に維新政策で経済的に破滅してしまうでしょうけれど。

日本のアニソンはみんな日本語で歌ってるそうですね。驚きですがアニキの愛称で知られる水木一郎さんも、その様子に本当に驚いたのだとか。水木さんは欧米・アジアを問わずカリスマになっていて、アメリカのテレビ局がまず決して出演してはもらえないだろうと恐る恐る出演オファーをして、水木さんの方が驚いたという話も。

技術的水準の高さは疑いようもない事ですが、内容的にどう受け止められてるかは、もっと詳しく知りたいものですね。
YouTubeに交換留学生でアメリカから来た女の子が、日本の女子高生の様子をビデオに収めたものがアップされていたんですが、それにつけられた各国の人々の反応が「アニメの世界だけじゃなくて、本当にこんな生活を送っているのか!?」というのだったのに、驚くと共に笑ってしまいました。
外国の人達にとっては、ゴミひとつ落ちていない道路、女の子だけの教室、リボンのついた可愛い制服、短いスカート、女の子の綺麗な肌、おもちゃ箱のようなカラフルで美味しそうなお弁当。アニメに描かれたユートピアだと思っていたら、現実にあるというのは信じられないみたいです。アメリカの女の子の「こんなの不公平だ」というコメントが印象に残りました。

投稿: TARO | 2012年3月26日 (月) 22:12

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