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2012年10月27日 (土)

ヘンツェ死去!

20121027_2 さきほど家に帰ってパソコンの電源を入れたら、悲しい知らせが待っていました。
作曲家のハンス・ヴェルナー・ヘンツェがきょう27日、ドレスデンで亡くなったそうです。86歳でした。

ご冥福をお祈りいたします。

ヘンツェは言うまでもなく、20世紀後半を代表する巨匠ですが、戦後に一斉に花開いた現代音楽の作曲家たちの中では、例外的なまでによく聞かれかつ親しまれている人かと思います。

親しまれている理由はたぶん作品そのものにあるんだろうと思いますが(他の前衛作曲家の難解さに比べると聴きやすい)、あわせて劇場作品が多いということもありそうです。特に日本では1966年のベルリン・ドイツ・オペラ来日公演で、フィッシャー=ディースカウらの出演、作曲家本人の指揮により「若き恋人たちのエレジー」が上演されていて、おそらくこれによって日本での知名度は俄然高まったんじゃないでしょうか。(私はこの頃は音楽に興味を持ったか持たないかぐらいの時ですから、ヘンツェの名前はもっとずっと後になってから知りました。)
ヘンツェと日本との関係だと、他に三島の「午後の曳航」のオペラ化「裏切りの海」などという作品もありました。

ヘンツェほどの作曲家なら当然かもしれませんが、彼の作品はスター演奏家によって取り上げられることも多く、メッツマッハーは当然としてもアバドも取り上げていますし、特にラトルは好んで演奏しているようです。第7交響曲のCDは名盤ですし、私の手元には他にバーミンガムとの第8番のライヴ録音なんかもあります。ラトルはベルリン・フィルと最後の第10番の世界初演もしていて、ヘンツェの音楽を極めて高く評価してるのであろうと考えられます。(ラトルの世界初演時の演奏はNHK-FMでもライヴが放送になりました。)

ヘンツェの経歴・作品について詳しくお知りになりたい方は、Wikipedia を御覧ください。なお画像もWikiからで、1960年にケルンで撮られた写真のようです。

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コメント

大物音楽家の死ですので今後色々と話題が出るかと思います。なぜかこの作曲家とは縁があって、両者ともラトル指揮でプロミスでの七番?の初演を聞き、ルツェルンでの十番での招待などあったのですが、結局早々に帰宅しました。

反面、フランクフルトでの「裏切りの海」での体験は二十世紀オペラ体験の中で特に印象が強いものです。その他の舞台作品もどれも完成度は高いようなので、時代は異なりますが、ブリテンのような存在なのかもしれません。

作風や語法が革新的なものではないということは、そうした舞台作品などでの完成度や表現力に寄与することは当然で、同じ意味での交響曲の需要や市場というものに寄与したことは間違いありません。但しそうした「創造の時期」が死によって途絶えてしまったあとでの評価は、死後にどれだけの市場を生むかに懸っているかと思います。その意味でも交響曲の演奏よりも舞台作品の方がレパートリーとして取り上げられる可能性は高いのではないでしょうか?

投稿: pfaelzerwein | 2012年10月28日 (日) 11:30

pfaelzerweinさん、こんばんは(こちらは今、夜なので)。

ラトルで7(?付きですが)、10番を聞かれてるんですか。それは凄い。
残念ながら私はヘンツェの舞台作品は録音で聞くにとどまっていて、一度も生では接したことがないんです。中でも「裏切りの海」は録音ですら聞いたことがないので、是非とも一度は見たいものだと思っていましたが、

>二十世紀オペラ体験の中で特に印象が強いものです。

ほお、そうなんですか。ますます見たくなって来ました。おっしゃるように舞台作品のほうがレパートリーとして定着する可能性は高いと私も思うのですが、ただ日本ではなかなか・・・果たして私が生きてるうちに可能かどうか。(最近またまた体調が悪くて、とても弱気なのです。)

投稿: TARO | 2012年10月28日 (日) 22:23

フランスに来て驚いたことの一つはヘンツェの評価の低さでした。
日本ではDOB招聘にも関与していた吉田さんも評価してて、70年代の「我々は河に到達する」のベルリン初演のレポートを「音楽展望」に書かれたりしてましたしね。

ブーレーズ、シュットックハウゼン、ノーノが57年のドナウエッシンゲン音楽祭でヘンツェの「夜曲とアリア」の初演の最中揃ってこれ見よがしに退席したという現代音楽界では有名な逸話があり、68年にはブーレーズが「ローリング・ストーンズの方がヘンツェのオペラより利口だし短い」とかブーレーズ節を飛ばしたせいで仏では「反動」イメージが定着してしまったという事情は後から知りました。

私が見た舞台作品は2本だけで、まず10数年前にフランクフルトで「孤独大通り」。
12音やジャズを自在に折り混ぜて折衷的にならず、表出性も叙情もエモーションも十二分にある確かなドラマ運びの手腕に大変感心、感動して劇場を出ました。

2度目は05年にシャトレの「バッカスの巫女」で大野指揮、ココス演出、J・アンダーソンやK・ベグリーなんかが歌ってました。
彼の最高傑作とする評価もあるこの作品の上演、たいへん楽しみにしていたのですが、ラジオ・フランスの裏方ストと重なり、オケとは無関係の労組強硬分子がピットに入るはずだった放送フィルの楽器を持ち去るという実力行動に出たため、オケが参加できなくなるという仏ならではの椿事。大野氏が何と数日でピアノと小アンサンブル用の編曲を仕上げ、小編成版で演奏され、大野氏は賞賛の嵐に包まれたものの、これでは「どうやらヘンツェ表現主義の頂点らしい」という以上の作品の真価はまるで分かりませんでした。

ヘンツェはバカにするのがコンセンサスの感がある仏現代音楽界ですが、ラジオ・フランスがやっている現代音楽祭「プレザンス」で、02年に就任した新監督が意図的にポストモダンやネオロマンティックとかブーレーズが嫌う「退嬰的」現代ものを重点的に取り上げ、03年にヘンツェ特集を組んだことがありました。交響曲10曲全曲やレクイエムなどでさすがにオペラはありませんでしたが。
私も入場無料でも全部は付き合いませんでしたが、偏見なく聞けば音楽語法でも「折衷的・退嬰的」では片付けられない部分があるのも分かりました。

その時シャンゼリゼ劇場でマズア指揮(ちょっと意外じゃないですか?)仏国立管が9番を担当したんですが、休憩時間にロビーに座っていたら杖をついたヘンツェが一人でよろよろとやってきて小生の隣に座りました。話しかけるのも失礼だろうがチャンスを逃す手もないかななどと思っていたらTVカメラがやってきてしまったので退散しましたが。

90年前後だったか、仏ラジオに出てきて仏語でインタビューに応じてたことがあります。上手くはないにしてもしっかりした仏語でした。「ウリッセの帰還」の編曲について聞かれ、壮麗なイタリア・バロック芸術への賛嘆を熱っぽく語り、「イタリア語を読ませてもらっていいかな」と言って歌詞を見事なイタリア語で朗読していたのが印象的でした。

ドイツ嫌いとイタリアへの憧憬、左翼傾斜、オペラへのこだわり、表現主義とロマン主義、多作で勤勉などドイツの伝統的心性と戦後ドイツの良心を共に貫いた欧州人だったように思います。
結局ドイツで亡くなったんですね。

投稿: 助六 | 2012年10月29日 (月) 09:53

助六さん

ちょっと驚きのフランスにおけるヘンツェ受容史ですが、ブーレーズのお膝元だとそういうことになるんですねえ…(あれ、でもこの頃ってブーレーズはブーレーズでフランス嫌いを公言して、バーデン・バーデンに住んでたんでしたっけ?)

それにしても大野さんは凄いなぁ…。「ウリッセ」のヘンツェ編曲版はザルツでの初演のライヴがFMでも放送されましたし、後には映像もレーザーディスクで出ましたね。

>ドイツ嫌いとイタリアへの憧憬、左翼傾斜、オペラへのこだわり、表現主義とロマン主義、多作で勤勉などドイツの伝統的心性と戦後ドイツの良心を共に貫いた欧州人だったように思います。
結局ドイツで亡くなったんですね。

ああ、なるほど。そういうことなのですね。

そういえば本記事を書いてる時には忘れてたんですが、昔エッシェンバッハとベートーヴェンの第3協奏曲を録音したことなんかもありましたね。現代作曲家が自作や同時代の音楽を指揮するのは全然驚きませんが、ベートーヴェンをヘンツェが指揮というのに意外な思いをした記憶があります。でもなるほど、むしろベートーヴェンこそ必然だったのかもしれないですね。

投稿: TARO | 2012年10月31日 (水) 23:48

>でもこの頃ってブーレーズはブーレーズでフランス嫌いを公言して、バーデン・バーデンに住んでたんでしたっけ?

そうそう確かにブーレーズは今に至るまで仏では音楽は文学に比肩する地位を与えられていないと繰り返し、その意味では仏嫌いの側面を持ってますね。でもそうした議論はブーレーズのみならず仏音楽関係者の多くに認められるもので、実際、仏初等中等教育の音楽の授業は日本に比べても素朴なようですし、音楽行政というより仏人の一般的感性について文学・美術に比べて音楽に対する感受性が鈍いという意味なら私もまあその通りだと思いますが。

あとブーレーズは早くも51年からバーデン・バーデンの南西ドイツ放送(SWR)に招かれてたわけですが、一方仏では主催していたドメーヌ・ミュジカルに50年代を通じて公的援助を得られず、その頃独と比べた仏の音楽状況を盛んにコキ下ろしてますね。なお60年代初めでもそうした彼の独礼賛は仏の一部からは挑発と受け取られたようです。
彼の60年代終わりからの反仏感情は、政治的な部分、ひいては個人的怨恨の部分が多いのではないかと思います。

ブーレーズ監督下のル・ドメーヌ・ミュジカルは56~62年にで3曲だけですがヘンツェ作品も取り上げています。ヘンツェがドメーヌ・ミュジカルのために作曲した「マリニーのためのコンチェルト」が56年にR・アルバート指揮で初演され、58年には弦楽四重奏2番が取り上げられています。62年にはブール指揮SWR管が「アンティフォーネ」をドメーヌ・ミュジカルの枠で演奏していますが、ブーレーズはこのコンサートにヘンツェが入ったのは「SWRが絡んだ企画だったからだ」とか後に説明しています。
すでに56年からブーレーズだけでなくクロード・ロスタン初めセリー寄りの仏批評家たちは揃ってヘンツェに厳しい評価を下してますね。

ブーレーズは59年にSWRとの契約を得、バーデン・バーデンに住居を購入しますが、当然裏には仏では仏行政の支援が得られないという不満がくすぶっていたわけです。この時から「仏が私に相応な処遇を与えないら、自分は外国からいくらでも来るオファーを受けるだけ」というのがブーレーズの常套脅し文句となります。

66年にはドゴール政権下での仏音楽行政のトップ職を作曲家ランドフスキと争いますが、マルロー文化相の裁量でポストはランドウスキに行き、ブーレーズと仏行政の対立は決定的となります。ブーレーズは以降仏では音楽活動を行わないと宣言、74年までほぼ実行することになります。ドメーヌ・ミュジカルはジルベール・アミが引き継いで活動を続けました。

67年のヘンツェ叩き発言も確認したら、独シュピーゲル誌へのインタビューででした。
ローリング・ストーンズの名も出てますが、当該箇所は「ビートルズのレコードの方が本当に気が利いてるし短い」でした。
勢いに乗って「ゼッフィレッリは演出界のヘンツェ」などと言いたい放題、意気軒昂たる当時のブーレーズの典型的な語調ですね。
http://www.spiegel.de/spiegel/print/d-46353389.html
67年と言うと大阪バイロイトで彼がトリスタンを振った年でもありますね。

69年にポンピドーが仏大統領に就任し、現代美術館と図書館を内容とする文化センターの創設を決め、77年に開館に漕ぎ着けますが、虎視眈々たるブーレーズは「現代文化センターに音楽がないのはおかしい」と口を出し、74年にポンピドー・センターの付属施設としてIRCAMが創設され、ブーレーズは所長として仏に復帰します。ポンピドー夫人の大統領への口利きが効いたと言われます。
これに伴ってドメーヌ・ミュジカルは73年に解散し、その後を継ぐ形でアンサンブル・アンテルコンタンポランが公立アンサンブルとして76年に発足。しかしブーレーズが切望したアンサンブルの本拠となる可動式ホールは実現しませんでした。

一方宿敵ランドフスキは、アンテルコンタンポランに対抗して78年に公共室内オケであるアンサンブル・オルケストラル・ド・パリを立ち上げてしまいます。
同アンサンブルは今年からパリ室内管と改称し、主席指揮者にヴァイオリニストのツェートマイヤーを迎えて存続してるんですが、個人のエゴが出発点となって出来たオケだけにレパートリー等のアイデンティティが未だに不明瞭で、定期的に改組・解散の噂が持ち上がります。

ブーレーズの権利要求はその後も収まることがなく、89年に開場したバスティーユ新オペラ座計画の際も可動式ホールの設置を要求して容れられますが、予算不足でホール開場は後日とされた後、約束は事実上反古にされて、予算が付くことはなく、バスティーユ内の可動式ホール用だったスペースは05年にオケの練習場に転用されています。
ブーレーズの悲願が実現したのは95年に音楽都市の可動式主要ホールが開場したときでした。「現代のリュリ」とか陰口を叩かれる所以です。

それでブーレーズは活動の拠点の一部をパリに戻した74年以降も、今に至るまでバーデンバーデンに住み続けているようです。

>エッシェンバッハとベートーヴェンの第3協奏曲を録音

そうDGから出てましたね。遂に聞くチャンスはありませんでしたが、ジャケットはよく覚えてます。
私も「何でエッシェンバッハのバックをしかもベートーヴェンでヘンツェが?」と訝しく思ったものでしたが、ずっと後になって音楽関係者から「あれはXX・コネクション」だとか聞かされました。関係者はこの種の話題が好きですから真偽のほどは知りませんが。
まあ、エッシェンバッハのグラン・カナリア島の別荘にやってきたバーンスタイン父娘がフランツを巡ってライヴァル関係になってしまったという凄まじい話は本当だそうですから。

投稿: 助六 | 2012年11月 2日 (金) 09:26

助六さん

ブーレーズのフランスとの関わり、詳細な解説ありがとうございます。
なかなか複雑なものがあるのですね。IRCAMでパリに戻った時には、単純に指揮活動をやめてしまうのなら残念だとかしか思いませんでしたが。それにしても行政職のトップになんかなりたいものなんでしょうかね?面倒くさいだけだと思うんですが。

>一方宿敵ランドフスキは、アンテルコンタンポランに対抗して78年に公共室内オケであるアンサンブル・オルケストラル・ド・パリを立ち上げてしまいます。

あ、このオケはそういう経緯で出来たんですか。前にホグウッドがペルゴレージのスターバト・マーテルを振ったDVDが出ていて、この室内オケはなんだろうと思ってて。まあオケはどうでもよくて、マリア・バーヨの歌を聞きたくて買ったんですが。

>XX・コネクション

ふうむ。でも仮にエッシェンバッハが個人的理由で共演を望んだとしても、それだけの理由でDGが認めるというのも少々アレですねぇ。カラヤンや小澤との共演に比べれば、売上にも商品としての寿命としても格段の差がつくでしょうし…

投稿: TARO | 2012年11月 3日 (土) 14:47

>指揮活動をやめてしまうのなら残念

あの頃ブーレーズは盛んに作曲に戻ると言ってましたけど、結局指揮活動は減りませんでしたね。幸い!
色々な意見があるにせよ。「レポン」と「エクスプロザント・フィックス」は重要作でしょうから、作曲もサボらなかった形ですね。
彼はコレージュ・ド・フランス教授時代は、招待学者の講演に質疑応答まで19時まで付き合った後、20時にはプレイエルでパリ管振ったりしてましたから、やはり大変勉強家かつ勤勉なのだろうと思います。

>それにしても行政職のトップになんか

デュティユーが典型ですが、もちろん何の関心も示さない人もいますけれど、あらゆる分野で目に見える形ないし見えない形での国家介入が顕著で、芸術にも政府が多くのカネと口を出す構造が確立している仏では、やりたがる人は多く、また決定権・裁量権のあるポストに誰が着くかでカネの行き場がガラリと変わるのは事実でしょう。

実際アンテルコンタポランが現代音楽関係予算の半分をさらっていることに対する関係者の恨み・嫉妬は根深いと言います。
そのブーレーズも学士院芸術アカデミーには入れませんでしたね。ランドフスキは入りましたが。

シェローその他、仏演劇関係者も補助金のある公共劇場のトップを目指し、揃って国家に「収監」されてキャリアを終えていきますね。
「反制度」派の大学研究者たちも国立大学勤務の公務員であることには何の疑問も感じないようです。まあこれはどこの国でも同じかも知れませんが。

>ホグウッドがペルゴレージのスターバト・マーテルを

そうでしたね。
同オケはここ数年古典・ロマン派レパートリーにピリオド系の指揮者を定期的に迎えるようになり、ブリュッヘン、シュペーリング、マクリーシュ、ノリントン、鈴木さんなんかが登場してます。

投稿: 助六 | 2012年11月 5日 (月) 10:24

助六さん

フランスの芸術界というのか文化行政の世界といえばいいのか、結構やっかいなんですね。昔の彼は「怒れるブーレーズ」とか呼ばれてたそうですが、分かるような気になってきました。

ところで日本語のネット・ニュースにはまだ載ってませんが、なんとヘンツェに続いてエリオット・カーターも亡くなったそうですね。103歳。
私は何曲か録音を持っている程度で、カーターについてはあまりよく知らないのですが、ブーレーズが推して世界的に有名になった人でしたよね。調べてみたらブーレーズとNYフィルが演奏する「管弦楽のための協奏曲」のライヴ録音なんかも、手持ちのテープの中にありました。

投稿: TARO | 2012年11月 6日 (火) 22:35

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