東北の歴史

2012年1月17日 (火)

東北の歴史・1~幻の前期旧石器時代(後)

201112241 捏造事件は必ずしも負の影響だけでなく、事件のおかげで正常化された部分というのもあります。
一つは石器が発見された地層の年代測定だけで、安易に何万年前の遺跡と結論付け大騒ぎするような軽薄さが払拭されたこと。
もうひとつは当時の考古学会で流行してた「地層は形式に優先する」だとか「理論考古学」だとかいう変な思想が駆逐されたことです。

後者は学問的な話なのでどうでもいいとして、前者は影響をうけている遺跡があります。

実は東北には前・中期旧石器の遺跡とみられ、かつ藤村さんとは無関係の遺跡がひとつあります。

それは岩手県遠野市の金取遺跡(かねどりいせき)という遺跡です。縄文から旧石器時代にまたがる複合遺跡で、1980年代の中頃から発掘が行われていました(当時は遠野市と合併する前で、宮守村)。そのうち1番下の地層が2003年になって、8~9万年前の地層だという研究結果が発表され、一躍注目を集めるようになっています。
私は行ったことがないのですが、多くの写真を掲載しているHPがありましたので、URLを貼っておきます。
http://www.jomon.com/~emisi/semi/14semi/kanedori/kanedori.htm
発見された石器はこちら。
http://www.tonotv.com/members/fukudokuhon/rekishi01_1.htm

全面的に賛同されているわけではなく、懐疑的な人もいます。それでいいと思います。あらゆる方面から、検討を重ね、日本列島で同時期の遺跡が数多く出現した段階で結論づけても遅くはないでしょう。

一方2009年には島根県出雲市の砂原遺跡で、12万年前とみられる地層から石器が発見されています。今のところ、国内最古の旧石器遺跡かもしれないということになっています。

ただこの砂原遺跡に関しても金取遺跡に関しても、取り扱いは非常に慎重です。地層の年代が確定したからといってかならずしも正しくその時代の遺跡であると結論づけられてはいないようです。繰り返しますがそれでいいと思います。地層の年代確定に関しても、311のような想像を絶するダイナミックな地球の動きを体験すると、詰めなければならない条件はどんどん広がってくるようにも思えます。

実際80年代の発表に関しては(捏造遺跡ではありながらも)、行政・研究者側の姿勢は非常に慎重でした。
私が初めて取材したのは83年の中峰遺跡でしたが、この時はたしか25万年前から30万年前の石器が発見されたという実に衝撃的な発表内容で、私も非常に驚きました。私はどなたか忘れたのですが、現地での発表の責任者に「30万年だったら原人の時代になってしまいますよね。それでいいんですか?」と聞いたら、「時代的にはそういうことにはなるんですが…」と言葉を濁し、『原人』などという言葉を使うことには躊躇いを感じていたようでした。それが90年代の発表になって、前期旧石器―原人―狂騒曲へと変化していったわけです。(結局それが捏造を見破るきっかけになったわけですから、なんとも皮肉な話ではありますが。)

従って姿勢としてはマスコミ的空騒ぎから本来の学問的な姿勢に戻ったとも言えますし、さらに結論を出すための過程にもより慎重さが求められるようになったとも言えるのでしょう。まあ、あまりにも虚しい事件ですから、ひとつぐらい良い影響もなければね。

(ついでながら産経新聞の砂原遺跡の見出しは「国内最古の旧石器を出雲で発見 12万年前、これまでより3倍古く」というもので、『3倍古い』という言い方がなんか可笑しくて笑ってしまいました。これまでが4万年前だから12万年だと3倍ということで、別に日本語として間違いではないんでしょうけど。)

このように慎重で、かつ学問的に疑問の余地ない方法で研究が行われることによって、考古学の世界も信頼を回復できるかも知れません。多くの悲劇的な影響を及ぼした遺跡捏造事件も、いつか乗り越えられるのだろうと思います。

藤村さんの動機が何だったのかについては、永遠にわからないままです。共犯者がいる、あるいは彼は単なる実行犯に過ぎなかったという疑いも、結局はブラック・ボックスとなるのだろうと思います。

実は彼の指示ではないのかと一番疑いをかけられた岡村道雄さんは、一昨年「旧石器遺跡捏造事件」という本を上梓しました。全編にわたって学術報告書と行政の報告書のような文章が続くのですが、ときおり静かな怒りが噴き出しているようなところが見られ、角張さんの本の凄い説得力にもかかわらず、岡村さんの本を読むとこれはこれで「岡村さんも騙されたんだろうな」と思えてしまいます。

この本のクライマックスは事件後十年目にして初めて岡村さんが、名前も住処もかえ新たな人生を生きていた藤村新一さんを探し当てるところです。岡村さんはいくつもの質問を用意していったようなのですが、藤村さんは一部記憶をなくしていることもあり、あまり答えてはくれず、結局皆の知りたいことは何も判らなかったようです。

岡村さんは全く知らずに行ったようなのですが、藤村さんは精神病院に入院していた時期に、右手の指を斧で叩き切ってしまっていたのだそうです。「二度と悪さをしないように」と。

それを見た時とても強く追求することは出来なかったと、岡村さんは書いています。
もしそれが「二度と悪い奴らに利用されないように」だとしたら、岡村さんだってとても冷静に本なんか書く気にはならないでしょう。そう思うとやはり単独犯なんだろうなと思ってしまうのですが…

ところで私は昔から不思議に思ってることがありました。馬鹿だと思われそうで、専門家には一度も聞いたことがないんですが、石って土中で沈んでいくことって無いんでしょうか?地球は物凄い速度で回転してるわけで、これが遠心分離機みたいな作用を及ぼすとかで…。やっぱり馬鹿げてるでしょうか?

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2012年1月 6日 (金)

東北の歴史・1~幻の前期旧石器時代(中)

201112241 角張淳一さんの「旧石器捏造事件の研究」によりますと、宮城県内の前期旧石器遺跡(すべて捏造遺跡と見なされた)の発掘は、90年頃を境に二つの段階に分けることができるとのことです。前半は76年から89年までで、東北大学文学部の考古学研究室や多賀城の東北歴史博物館が主体となって行われたもの。これはきちんとした学術的な調査報告書が出されています。

90年代の発掘は新たに設立された東北旧石器文化研究所(NPO法人)が主体となったもので、正式の報告書も出されないまま、まるでスケジュールが決まっているかのように各地で着々と発掘が行われ、そのたびにビッグな発見が続きました。発掘される石器の年代はどんどん古くなって行き、北京原人並みに。さらに遠く離れた遺跡で発掘された石器の割れ目がピッタリ合ったとか、数十万年前の原人の遺跡であるにもかかわらず、縄文期の石器に近いものが出てきたとか、高度な精神生活を示すような埋納遺跡が発掘されたとか、マスコミ的には「おいしい」ニュースとなる発掘が続きました。

※太字の部分は2012/04/18に追記したものです。以上は角張淳一さんの著書による分類ですが、この記事の初出の時にはその旨を明記せず、角張さんには大変に失礼なことをいたしました。重ねてお詫び申し上げます。

しかしこの後半期(90年代)の発掘はあまりにも突拍子もなく、地層学者や文化人類学者などからはほとんど相手にされてなかったという話です。騒いだのは考古学界とマスコミ、それに観光資源にしたい地元自治体だけでした。人類学の研究者たちからは公然と「埋めてるんだってね」などという会話も出ていたそうです。

しかし前半の発掘に関しては違いました。その時代にあってはいけないものをオーパーツと言いますが、前半の発掘ではオーパーツどころか、まさにあるべき場所からあるべきものが出てきたのです。89年までの発掘に関しては単に権威ある大学や研究機関が主導したというだけでなく、掘り出された石器自体もなんら疑いを差し挟む余地のないほど、学術的にも完璧なものでした。

毎日のスクープ当時は文化庁の役人をしていて、76年の座散乱木発掘の時から関わっていた岡村道雄さんが、「86年までの遺跡の発掘は、考古学の理論にピッタリ符合してるので、捏造の可能性はない」というようなことを発言していたほど、つまり非常に高いレベルの知識を持っている専門家が騙されるほどだったわけです。(岡村さんの発言は大意。このとおりの言い方ではありません。)

しかしここにこそ、この捏造問題の本質があるのだという見方をする人もいます。
「旧石器捏造事件の研究」という著作を出している角張淳一さんなどがその代表です。角張さんは、藤村さんは単に実行犯で、リードしたのは別にいるのだという立場です。すなわちハッキリとそう書いてはいませんが(おそらく名誉毀損で訴訟をおこされることを避けたのでしょう)、東北大考古学研究室/東北歴史博物館に意思決定者がいて、藤村さんは単なる現場作業員だったのだということです。

※青字の部分は本来削除されるべきもので、不適切な邪推でした。この部分も角張さんにお詫び申し上げます。

この著書は80年代までの発掘石器についての詳細を科学的に分析し、その結果、埋められた石器はとても素人の藤村さんには準備できないものだということを証明していて、やたら説得力があります。
もし角張さんの主張が正しいとするならば、これは考古学研究室のみならず東北大学という大学の権威を完全に失墜させるスキャンダルだろうと思います。

しかしそれは精神病院に入院中の藤村さんが書いた自白文書を、戸沢充則氏(考古学協会の特別委員会委員長[当時])が握りつぶしてしまったために、うやむやのまま誰にも分からないということになって、今日に至ります。
戸沢氏は日本の考古学界と東北大学という有力な国立大学(当時)を崩壊させることを恐れたのでしょうか?あるいは精神に異常をきたした人の自白をそのまま明らかにすることによって、潔白でただ騙されていただけの関係者に無実の罪をかぶせることになるのを恐れたのでしょうか。

いずれにせよこのあいまいな幕引きが、そうでなくても「胡散臭い学問」と思ってしまった一般人が考古学の世界に向ける目を、さらにいっそう不信感に満ちたものにしているのは確かだろうと思います。

それと同時にもう一つ極めて深刻な問題があります。
藤村さんは毎日新聞のスクープの後、石器を埋めた遺跡のリストを(総てではありませんが)明らかにしたのですが、そこには全く予想だにしない遺跡が含まれていたのです。
藤村さんとも捏造発掘の主体となっていた東北旧石器文化研究所とも、なんの関係もない遺跡にも彼は石器を埋めていたのでした。そしてそれは別に掘り出されることもなく、そのままそこに眠っていたのです。

何のためにそんな事を?と思いますが、よく判りません。朝日新聞の河合信和さんは著書の中でこれを「汚染」と表現しています。ちなみに河合さんは90年代のはじめに藤村さんを最初に全国区にする記事を書いた人で、藤村さんの単独犯行説をとっています。単独説か共犯説かを棚上げにすれば、この河合さんの本がこの事件の全貌を知るには一番バランスよく書かれてて良いかなと思います。

藤村さんは事件当時の記憶を一部失っているようで、いったいどの場所にどれだけの石器を埋め込んだのか判っていません。つまり今後、宮城県内から有力な遺跡の候補が見つかったとしても、それは藤村さんによって汚染されたものでないとは限らなくなるのです。衆人環視のもとで固い地面をどんどん掘り進んでいった結果出てくるものなら安心ですが、崖の表面に露出していたものなどは疑わしいからです。でも勿論それは本物で、しかもその地点では唯一の資料である可能性もなくはないわけです。この高濃度汚染問題が、この事件が及ぼしたもう一つの深刻な問題点と言えます。
(続く)

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2011年12月24日 (土)

東北の歴史・1~幻の前期旧石器時代(前)

201112241 私達が子供の頃は日本の歴史は縄文時代から始まりました。竪穴式住居とか横穴式住居とか出てきて、私は大昔の人は横穴、つまり洞窟に住んでいて、弥生時代あたりになってからようやく家の形をとった竪穴式住居に住み始めたのだと勘違いしていました。
実際には日本人は洞穴に住むのは好きじゃなかったらしく、すでに縄文時代初期から横穴式住居ではなく、柱に屋根を張った一種のテント式の住まい(と推測されている)に暮らしていました。三内丸山遺跡になると巨大な建物が建てられていたでろうと推測されているのは、ご存知のとおりです。旧石器時代の洞窟住居の遺跡を除けば、洞窟はもっぱら住まいではなく物の保管などに利用していたようです。

歴史が縄文時代から始まるというのも間違いで、考古学的な発見により縄文時代に先立つ後期旧石器時代なるものが、日本にもあることが判って来ました。後期旧石器時代の遺跡は北海道から九州まで数千箇所にのぼり、どうやら日本列島にやってきた人々は、相当早い段階で列島各地に散らばっていたのだということが判ります。

時代を整理すると、世界的には
アフリカで原人誕生 200万年前
ジャワ原人     100万年前
北京原人       80万年前
ネアンデルタール人等 20万年前~2万数千年前に絶滅
現生人類       25万年前に発生

前期旧石器時代 200万年~20万年前
中期旧石器時代  20万年~4万年前   
後期旧石器時代  4万年~1万3000年前

日本の場合は以下のようになります。
後期旧石器時代 3万5000年前~1万5000年前
縄文時代    1万6500年前~3000年前(紀元前1000年)
弥生時代    紀元前1000年~3世紀
古墳時代    3世紀~

数字の前には全部「約」がつきますが、煩雑なので取っちゃいました。年代も諸説あるので、とりあえずWikipediaに頼りました。
また時代の始まりと前の時代の終わりは重なっていますし、広い列島が同時に進化したわけでもないので、年代・時代区分ともに決定的なものではありません。
弥生時代の始まりについては、稲作が始まった時期の研究の進展から、かつての紀元前5世紀頃から500年も遡り、紀元前10世紀ごろだろうという説が有力となっているようです。

ということで今の日本の歴史は、後期旧石器時代から始まっているわけですが、「いや、日本にも前期・中期旧石器時代はあったのだ」という学説を唱える人も、少数はいました。その代表が元・東北大学教授の芹沢長介氏(2006年に死去)で、言ってみれば東北大学文学部の考古学研究室は、前期旧石器主張派の牙城であったとも言えます。

しかしどんなに偉い教授が主張しても、実際に昔の地層、前・中期旧石器時代ならば3万5000年より遥かに前の地層から人間の骨、もしくは明らかに人の手を経たとわかる石器が出土しない限り、ただの空論に過ぎません。日本列島はおおむね赤土で骨は溶けてしまいますから、頼れるのは石器です。芹沢教授は古い地層から旧石器を発見してはいたのですが、それは本当に人工の石器なのか、ただの自然石なのかは結論付けられませんでした。

石器といっても縄文時代に作られたものなどは、自然石と見間違うことはありません。すべすべした黒曜石を両側から削っていき、まるで鉄製の刃物かと思わせるほどに研磨したものなど、工芸品扱いしたいほど見事です。
しかし当然ですが時代を遡るほど原始的になっていき、自然石と見分けがつかなくなります。芹沢教授発見の石器も必ずしも学会的な同意を得たとは言えませんでした。

従って明らかに人の手で加工された石器が、明らかに時代を特定できる古い地層から出てくるということ。それは前期旧石器時代存在派にとっては長年の宿願だったのです。

1974年の春に大柄でいかにも朴訥とした一人の青年が、自分が採取した石を多賀城跡調査研究所に持ち込みました。この石は研究所の鎌田俊昭さんによって旧石器であると認められ、より詳細に調査されることになりました。

翌年鎌田さんと、当時は東北大学考古学研究室の助手だった岡村道雄さんらによって、「石器文化談話会」が結成されます。その青年を始めとする宮城県内のアマチュア考古学愛好家たち、そして東北大学の学生・院生らも加えたその会は、規模といい研究者の陣容といい民間組織とは思えないような有力なものでした。

翌76年、宮城県岩出山町(現在は大崎市)の座散乱木遺跡において、調査が行われました。座散乱木が選ばれたのは、その青年が最初に持ち込んだ石器の中に、ここで採取されたものが入っていたからです。この座散乱木遺跡は既に縄文時代と後期旧石器時代の遺跡としては知られていました。縄文時代・後期旧石器時代の地層のなかから石器が発見されていたのです。

そしてこの時の発掘調査において、問題の青年は「動物型土製品」を発見します。縄文期のものとしては他に類のない大発見でした。後に「神の手」と呼ばれることになる藤村新一さんが、最初に――仲間内だけとはいえ――注目を浴びた瞬間であろうと思います。

80年に仙台市の山田上ノ台遺跡で、またも藤村さんが旧石器を発見。これが翌年の座散乱木に先立つ、藤村さんによる最初の「前・中期旧石器」の発見のようなのですが、なぜか座散乱木の方が注目を集めます。

81年に再び座散乱木の発掘調査(第3次)が行われ、旧石器が藤村さんによって発見されます。埋まっていた地層は、後期旧石器が発掘されていた地層より一段古い地層でした。自然石ではなく石器であることも間違いありませんでした。
この81年の発見はマスコミ等でも大々的に報道され、ついに前期旧石器論争にピリオドをうったと評価されます。

この発見によって、座散乱木遺跡は縄文・後期旧石器・前期旧石器と3つの時代にまたがる複合遺跡ということになりました。座散乱木遺跡は国の一級史跡にも指定され、一時は地元自治体により大々的な観光名所として売りだされましたが、いまは荒れ果てています。

現在の座散乱木遺跡の様子を映像で撮ってきましたので、アップしておきます。ただし今は雑草が生えているだけですし、特に美しい映像でも無いので、つまらないかもしれません。3分半ぐらいです。
(この項続く)

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2011年12月18日 (日)

東北の歴史・序 ~失われた時を求めて

20111218 2000年11月5日は日曜日でしたが、その朝に毎日新聞をみたすべてのマスコミ関係者は――新聞・テレビを問わず――想像を絶するほどのショックに声を失ったはずです。
あの日本中を騒がせた前期旧石器遺跡捏造のスクープ記事が3枚の生々しい写真と共に、一面を飾っていたのでした。私は家で毎日は取っていなかったので、テレビの昼ニュースでそれを知りました。

私は勤めていたテレビ局をやめてフリーになってから10年余りが経っていて、その間報道とは無縁に過ごしてきましたが、それでもやはりショックを隠せませんでした。80年代には私も記者として幾つかの前期旧石器遺跡を取材したことがあったからです。
遺跡に石器を埋めていた かの藤村新一さんは、当時はまだテレビに取り上げられることもなくスターにはなっていませんでした。大柄で髭を生やした、山奥から降りてきた熊みたいな人で、一度お会いしたことはありますが、特にこれといった話はしなかったように思います。(80年代には遺跡関連の発表は県の教育庁経由で行われ、たいがい大学か多賀城にある東北歴史資料館のスタッフが説明を行っていました。)

藤村さんは捏造した遺跡は当初2つだけと言ってたのですが、検証によって次々と暴かれていき結局宮城県内の前期旧石器遺跡はすべて捏造されたものと見做されることになります。北京原人などの原人の時代に日本列島にも原人が存在した証として教科書にも載った遺跡を含め、すべての遺跡は捏造だったのでした。

(藤村さんはこのあと精神障害を理由に、精神病院に入院することになります。このような場合通常なら本名は出しませんが、現在は再婚し名前も変えて第二の人生を送っているとのことなので、下手に仮名にするよりは旧名のまま出すべきと考えました。)

日本考古学協会は特別委員会を設置して、この事件の検証に当たったのですが、そのやり方がいかにもまずく、特に特別委員会委員長の戸沢充則氏(元・明治大学学長)が精神病院に入院中の藤村さんに数回面会し、藤村さんから入手した自白文書(メモ)を部分的に黒塗りの非公開にして提出したことが、事態を複雑にしました。そこに何が書いてあったのかは現時点でも戸沢氏しか判らないわけですが、それらの箇所は共犯者の名前が書いてあるとも読める部分で、今もその疑惑はくすぶり続けています。

この事件については皆さんも詳しくご存知でしょうから、あえて繰り返すまでもないと思います。しかしこの事件の何が今もなお考古学の世界に深刻な影響を及ぼしてるのかについては、やはり触れておかなければなりません。しかし今日は時間が無いので次回に書きたいと思います。

ニュース原稿というのは普通に正確な日本語がかけて、ある程度の要領をつかめば誰にでも書くことができます。実際ポイントさえ押さえれば遺跡発掘の原稿など電話取材でも書けてしまうのです。ローカル・テレビ局のきわめて限られた人数で、多くのニュースを放送するためには、行政が発表する事柄など、右から左へ流すようにサラサラ書いてしまわないといけないという状況は、はっきり言って常です。

しかしこの事件は、そのような批判を欠いた報道姿勢がいかに重大な事態を引き起こすかということを、マスコミ関係者総てに突きつけたのでした。ここでは特に書きませんが、もちろん私自身にも限られた件数とはいえ、一時期遺跡報道に携わった者として反省はあります。――そしてなぜこんなことを書いているかといえば――これは実に今日的な問題でもあるからなのです。

ところで「東北の歴史」などと大きく出てしまいましたが、実は1980年代まで東北には歴史がありませんでした。もちろん折々のトピックはありました。奥州藤原氏の栄華とか、伊達政宗の登場とか、白虎隊とか。でもそれだけでは歴史にはなりません。

東北にも歴史があったのだということを人々が認識したのは、1990年代の二つの出来事がきっかけだったと思います。

6 一つは言わずと知れた青森県の三内丸山遺跡。1994年に大型の6本の柱の跡の発見により、巨大な建物が建っていたのではないかという推測が成り立ちました(右の画像は復元されたもの:Wikipediaより)。さらに数多くの建物跡や、ストーンサークルのようなものの跡も発見され、ここには縄文時代の前期中頃から中期末葉(約5500年~4000年前)まで大規模な集落、大げさに言えば都市ができていたのではないかと想像されたのです。他のどの地域にもまして、最も進んだ文化が青森で栄えていたという可能性は、日本の歴史を東北から書き始めるべき大きな根拠であり、東北独自の歴史が書かれるべき、その一の理由とすら言えるものでした。

そしてもう一つは、1999年に出版された高橋克彦さんの小説「火怨 北の燿星アテルイ」です。蝦夷というものに対する認識は、すでに歴史研究の分野では東北大学の高橋富雄名誉教授などの著書によって、50年代~60年代から見直しが行われてきてはいました。
しかし蝦夷こそは現在の東北人の祖先であり、それなくしては東北の歴史は語れないのだということを、一般に訴えたのは、アテルイ(阿弖流爲)をレジスタンスの若きリーダーとして描いた高橋さんの小説あってではないかと、私は考えています。

で、私が何を書きたいのかというと歴史ではありません。歴史学者でもない私に通史が書けるわけはありませんし、そんなしんどいことをブログでやってたら死んでしまいます。
物語を書きたいのでもありません。それは小説家におまかせです。
やろうとしてるのは新聞のコラムみたいのに、写真と動画をくっつけて、東北の歴史案内の入門編のようなものです。多分なかなか進まないと思いますが。

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