名画と名曲

2006年1月15日 (日)

天地創造 ~名画と名曲・40

20060115MichelangeloJPヴァチカンのシスティナ礼拝堂の天井に描かれてるこのミケランジェロの壁画は、おそらく西洋絵画史上「モナリザ」の次ぐらいに、よく知られてる絵でしょう。
映画「ベンハー」のタイトルバックに使われたり、スピルバーグの「ET」にインスピレーションを与えたりもしています。

でも実は私は、このシスティナというのが好きではありません。障子と畳で育った私には、あんなふうに壁と天井をごちゃごちゃと絵画で埋め尽くす美意識というのは、どうしても理解できないのです。

この創造主とアダムのシーンだけを、図版で切り出して見るとたしかに名作なんだろうなあとは思うんですが・・・

ミケランジェロがこの天地創造の天井画を描いたのは、1508年から12年まで。1475年生まれですから、30代の半ばから後半にかけてということになります。法王ユリウス二世の依頼によるものでした。
キャロル・リード監督の映画「華麗なる激情」は、ミケランジェロをチャールトン・ヘストン、ユリウス二世をレックス・ハリソンが演じて、ここいら辺の二人のかけひきや、創作中のミケランジェロの苦悩を描いています。

*** *** *** *** *** *** ***

さて「天地創造」と音楽といえば、黛敏郎の組曲があります。
これは1966年のアメリカ映画「天地創造」のために黛が作曲した音楽を、演奏会用の管弦楽組曲の形に再構成したもの。

この「天地創造」という映画は、旧約聖書の創世記の話を絵解きしたもので、天と地の創造から、エデンの園、ノアの箱舟や、ソドムとゴモラのエピソードを経て、アブラハムの挿話までが描かれています。

この作品は当初、イタリアの有名なプロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスが、全体を3つにわけて3人の監督に担当させる予定で企画をたてました。音楽もそれぞれ3人の作曲家が予定されていたのです。しかし最終的に、ジョン・ヒューストンが一人で全部を監督することになり、音楽も一人の作曲家が担当することになりました。

ところがヒューストンは、予定された作曲家の曲をかなり気に入らず、特にバベルの塔のパートは、センチメンタルな音楽でヒューストンのイメージには全く合わなかったようです。

そこで、このバベルの塔のパートだけ別の作曲家で作り直しをすることになったのですが、その時ラウレンティスがヒューストンに推薦したのが黛でした。
彼は当時すでに、黛の音楽に注目していたようです。
ラウレンティスは黛作品のレコード(LP)をヒューストンのもとに送り、監督もそれを気に入って、黛敏郎に「バベルの塔」の音楽をまかせたのですが--

これが予想をはるかに上回る、優れた出来。ヒューストンは当初予定の作曲家の音楽を破棄、映画全体を黛にまかせることにしました。ここいらはちょっと「アラビアのロレンス」でのモーリス・ジャール抜擢のエピソードもほうふつとさせますね。

黛の音楽はエンド・タイトルに出てくる有名な音楽(メイン・タイトル)はもちろん名曲ですが、冒頭から終わりまで(メイン・タイトルの旋律は基本的にはエンドにしか出てこない)映画全体が効果的な音響で満たされています。

それで当初予定された作曲家って誰だったのか忘れてしまったので、ネットでいろいろ検索して調べてみました。そしたらわかりました。なんとペトラッシなんだそうです。ちょっと驚き。
(こちらのサイトにお世話になりました。http://www.syuzo.com/zatu/memory02.html
そのときに黛を起用することになったきっかけの話も忘れていたんですが、「涅槃交響曲」のレコードだったというの、同じサイトで教えていただきました。)

ペトラッシの曲ってジェルメッティが指揮した「管弦楽のための第8協奏曲」とか、あと他にも録音は持ってると思うんですが、どんな曲だったかすぐに思い出せない・・・。でも、そんな甘ったるい曲書く人でしたっけ?映画「家族日誌」もペトラッシが音楽担当ですが。

ところが別のサイトで知ったのですが、モリコーネにもこの「天地創造」で使われなかった音楽というのがあるんだそうです。他の映画に転用したそうなんですが、そうなるともしかすると実はペトラッシじゃなくてモリコーネということもありうるのでしょうか?ペトラッシとモリコーネは師弟関係にあり大変親しい間柄らしいので、あるいはどこかで混乱が生じた可能性も(例えばペトラッシが依頼されたが、モリコーネを推薦して、彼に書かせたとか)。

ま、それはともかく黛敏郎の音楽はたいへん高く評価され、アカデミー賞にもノミネートされました。残念ながら受賞は逸しましたが。
(黛は日本映画の世界では、1966年の段階でもすでに100本以上の作品の音楽を担当していたベテランでしたが、ハリウッドではもちろん無名。知名度があればあるいは受賞できたかもしれません。もっともこの年は、受賞した「野生のエルザ」のジョン・バリーを始め、ゴールドスミス、エルマー・バーンスタイン、アレックス・ノースと揃っていて、まれにみるハイレベルな争いの年だったので、知名度があってもやっぱり駄目だったかもしれませんが。)

黛はこの映画の音楽を、コンサート用の管弦楽曲として再構成し、自らの指揮で演奏したりしました。
しかしこれは日本の批評家筋からは、あまりかんばしい評価は得られなかったように記憶しています。映画音楽の名作としての評価は定まっているものの、いわゆる現代音楽の新曲としては、「しょせん映画音楽」程度の批評だったように思います。少なくとも黛敏郎のシリアスな作品に対する評価とは比較にならなかったような。しかし、あるいは今ならちょっと変るかもしれません。

60年代後半や70年代前半と言えば、作曲界は完全にアヴァンギャルド全盛期。メロディアスで、効果的な盛り上げをはかる「天地創造」が無視されるのは、当然過ぎるほど当然な時代でした。でもペンデレツキが交響曲第3番みたいな、すこぶる分かりやすい音楽を書く時代には、あるいは組曲「天地創造」のような曲も再評価される余地があるんじゃないかという気がします。

アマゾンで調べた限りでは、現在映画のサントラ盤CDと、オーケストラ曲としてのCDは、いずれも出ていないようです。

「メイン・タイトル」と「ノアの箱舟」の音楽は、管楽器用に編曲された録音がCDで出ていました。これは岩城宏之さんが東京佼成ウィンドオーケストラを指揮して録音した「トーンプレロマス55」というCDの最後に収められているもの(編曲はケン・フォイットコム)。
「メイン・タイトル」に関しては、やはりオーケストラじゃないとスケール感が出ないのと、演奏に際して旋律のタメがないので、あまり感動的に響かないのがどうかなという感じでしょうか。「ノアの箱舟」はウィンド・アンサンブルで聞いてもなかなか面白く、これは結構いいかも。

ハイドンの「天地創造」でこのミケランジェロを使ったCDジャケットというのは、あまり見かけないように思います。
最近ではシュライヤー指揮のDVDぐらいでしょうか。マティス、プレガルディエン、パペと素晴らしい歌手陣で、お薦めです。

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2006年1月 5日 (木)

音楽Ⅰ ~名画と名曲・39

20060105Klimt1JPボレスラフ・バルロクの演出、ユルゲン・ローゼの舞台装置によるウィーン国立歌劇場の「サロメ」の旧いプロダクションは、1980年の引越し公演で日本でも上演されました。
ローゼの装置は、深いエメラルド・グリーンに彩られた舞台全体にクリムト風の装飾を施したもので、そのむせかえるような世紀末的雰囲気は、無きに等しい演出を補って余りあるものでした。(参考画像

うねり渦巻く曲線によるクリムトの装飾は、「黄金時代」と呼ばれる金をふんだんに使った彼の全盛期の作品に、特に頻繁に現れるものです。これは記号としても機能していて、円は女性を、四角は男性を表しています。

一般には1903年のラヴェンナへの旅行によってモザイクに目覚めたのが、彼の「黄金時代」の始まりと捉えられています。
しかし金の使用も、図形的な記号の使用も、実際にはそのずっと前から試みられています。

中でも重要なのは1895年の作品「音楽Ⅰ」。(上の図版。ミュンヘンのノイエ・ピナコテークにあります。)

クリムトの場合、前に取り上げたロセッティがアカデミックな教育を途中で放棄したために、技巧・技法的に自由がきかなかったのとは違って、アカデミーの教授職に推薦されるかもというというほどの腕前でした。
このため建築装飾の仕事をしていた時代の作品はアカデミックというのか、当時の伝統的なスタイルによっています。しかしそうした中でもクリムトは各国の新たな美術の影響を受けていて、むしろその潮流をいちはやく取り入れています。
それはイギリスのラファエル前派であり、ベルギーの象徴派であり、フランスの象徴主義であり、そして印象派の画家たちの作品でした。

そうした新しい美術を吸収し、アール・ヌーヴォ(ドイツ語ではユーゲント・シュティルと言います)の流れの中で、クリムトだけの新たなスタイルを開花させる、その入口に立つのがこの「音楽Ⅰ」なのです。

この絵も多様な解釈を許す作品ですが、注目したいのは竪琴を弾く女性が『音楽』の象徴であること。そして金色の曲線と円が、流れ出る音楽を暗示していることでしょう。

この竪琴の女性は、前回のベートーヴェン・フリーズの「詩」において、遥かに洗練された形で繰り返されます。
そしてそこでも曲線と円(女性の記号)とが流れ出る音楽を想起させます。
と、考えてみるとクリムトにとってあるいは女性とは音楽的なるものであり、音楽とは女性的なるものであったのではないでしょうか。
そう考えてみると、「幸福への憧れは詩の中で満たされる」の、女性に抱かれた裸の騎士の意味もちょっと変ってきそうです。女性=音楽に抱かれているという解釈も出来るんじゃないでしょうか。

この女性に抱かれた騎士のモティーフは、前回の項へのBowlesさんのコメントでも言及されている、ストックレ邸のフリーズでも繰り返されます。
20060105Klimt2JP下絵の写真しかもってないので、下絵を掲載しますが、「成就」と題されたこの作品は、「幸福への憧れは詩の中で満たされる」の裸の騎士のヴァリアントと見なすことが出来ます。
騎士の広い背中は女性をあらわす円によって埋め尽くされています。このためこの作品はエロティックなものととらえられており、事実そのとおりなのですが、これを

「音楽Ⅰ」

「ベートーヴェン・フリーズの『詩』」

「同『幸福への憧れは詩の中で満たされる』の騎士」

「ストックレ邸のフリーズ「成就」

という流れの中におくと、埋め尽くしているのは「音楽」という解釈も成立しうるのではないでしょうか。

この「成就」はご覧頂けばすぐ分かるように、「接吻」のプロトタイプでもあります。
構図を変えて男性と女性を逆にし、より美しく官能的に仕上げられた「接吻」は、「黄金時代」の到達点であり最高傑作でもあります。
この「接吻」は一般に愛のオルガスムス、あるいはエクスタシーを描いていると見られがちですが、そうでしょうか?

私はこれこそ「音楽Ⅰ」から「ベートーヴェン・フリーズ」をへて到達した、音楽による恍惚の境地と見なしたいと思います。
この作品から放射されるのは、まさに音楽そのもの。この「接吻」の美も感動も、そこに音楽が聞こえるからといっては、ちょっと独りよがりすぎるでしょうか。

ということで、もしアバドがウィーン・フィルハーモニーに復帰して「浄められた夜」を演奏・録音することがあったら、そのCDジャケットには是非とも「接吻」を使って欲しいと思う次第なのです。(でもってどうしてもこの組み合わせじゃないと駄目なんです。)

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2006年1月 3日 (火)

ベートーヴェン・フリーズ ~名画と名曲・38

200601031
「なんと悲劇的で、そしてまたなんと至福に満ちていることか・・・」

ドイツ・グラモフォンがクラウディオ・アバド指揮ウィーン・フィルによるベートーヴェン交響曲全集のリリースを開始した時、CDのジャケットにはクリムトのベートーヴェン・フリーズが使われました。
これは、なるほど!と膝をうちましたね。
それまでのベートーヴェン交響曲のレコード・ジャケットといえば、決まったように不機嫌そうな作曲家の顔か、演奏者の写真。まあせいぜいが「英雄」にナポレオン、「田園」に綺麗な田舎の景色といったところ。

しかし世紀末の爛熟したヨーロッパ文化の香りを残し、いかなる管弦楽団よりも最もデュオニソス的な表現を得意とするオーケストラと、晴朗な表情とアポロ的な造形に特色のある指揮者との録音に、クリムトのベートーヴェン・フリーズ。ちょっと、やられたという感じだったでしょうか。

冒頭に掲げたのは、ロダンが1912年にこの「ベートーヴェン・フリーズ」を見たときに発した言葉ですが、ウィーン・フィルによるベートーヴェンの交響曲演奏について述べたものとか言っても通用しそうです。

このベートーヴェン・フリーズは1902年に描かれたものですから、前回の「接吻」の5~6年前ということになります。
クリムトが作風を変え、国際的なアール・ヌーヴォの流れの中で独自のスタイルを確立した時期の作品と言えると思います。

この「フリーズ」というのは、日本語では装飾帯などと訳されますが、建物の壁や、壁面の上の方などに飾られる装飾的な彫刻や浮き彫り、壁画などのことをいいます。

つまりこれらは建物の壁面装飾としてえがかれたのですが、どの建物かというと、これが今やウィーンの観光名所として名高いセツェッション(ゼセッション)なのです。(一番下の写真)
日本語では分離派館などと訳されることもあるこの建物は、当時の新しい潮流を作り出していた若い芸術家たちの牙城でした。
一時、ベートーヴェン・フリーズは他の場所に行ってたこともあるらしいのですが、現在はゼセッションに戻っています。


作品は壁面によって3つに分かれていて、「幸福への憧れ」「敵対する無法者の力」「幸福への憧れは詩の中で満たされる」という3場面からなっています。(クリックすると大きい画像になります。)
このタイトルからも想像がつくように、これはベートーヴェンの第9交響曲がモテーィーフとなっています。

作品についての詳細は画集か、ネットのそれなりのサイトをご参照いただくこととして、音楽好きにとってまず面白いのは最初の「幸福への憧れ」(一番上の絵)。
画面右側に黄金の甲冑を身に着けた騎士が描かれていますが、これが実はマーラーに似せて描いてあるのです。
クリムトの依頼で、マーラーはこの作品が出品された展覧会のオープニングで、ベートーヴェンの主題を編曲して、自らオーケストラを指揮して演奏したという話です。
裸の男女はやせ衰えた人類。騎士に超人の世界へ導いてくれるよう嘆願しています。

2006010322番目の「敵対する無法者の力」では、幾重にも折り重なってやってくる苦難がベートーヴェン的な戦いを示す。ということになっています。巨大な猿の怪物がなかなか優れたイメージかと思います。

2006010333番目の「幸福への憧れは詩の中で満たされる」は、当然想像されるように第九の第4楽章で使われたシラーの詩に基づいているのですが、クリムトの解釈はまったく個性的です。
というかベートーヴェンによるシラーの解釈からは、完全に離れてしまっています。

全人類の救済を求められたはずの騎士は、人類から顔をそむけます。そして輝く甲冑を脱ぎ捨て、裸になって女性の両手にかき抱かれます。
騎士は女性の愛によって救済されるのでしょうか?どこがベートーヴェンじゃい!という感じですが、しかしこの「幸福への憧れは詩の中で満たされる」の左側に描かれている「詩」(右下の絵)によって、クリムトのベートーヴェン・フリーズは第九を超えたベートーヴェン世界を完結させます。

200601034この「詩」こそ長大なベートーヴェン・フリーズの締めくくりなのですが、ここに描かれたのは古代的な衣裳に身を包み竪琴を弾く女性。幸福への憧れが満たされるのはただ音楽。華やかな金を使っているにもかかわらず、漂うエレガントさと静謐さ。これは明らかに第九を越えた、晩年の弦楽四重奏曲を示唆していないでしょうか?

200601035振り返ってみると、クリムトはすでに黄金によって装飾された、竪琴を弾く女性像を描いています。しかもそのタイトルは「音楽」。1895年に描かれたクリムトのターニングポイントとなるべき作品です。

一番下の写真はウィーンのゼセッション。
(続く)

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2006年1月 1日 (日)

接吻 ~名画と名曲・37

20060101Klimt1JP「真に黄金の幸福・・・」

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

ということで新春第1発目は、なんだか華やかっぽいクリムトの「接吻」から。
冒頭に掲げた言葉は、リルケがこの作品の恋人たちをとりまく空間について述べたものです。
クリムトは日本でもとても人気のある画家ですし、この「接吻」は彼の全作品中でも最も有名なひとつですから、皆さんよくご存知の作品かと思います。
ウィーンのベルヴェデーレ宮殿内にあるオーストリア絵画館にあります。

特に音楽好きの方にとってはクリムト作品はよくマーラーや新ウィーン楽派のCDジャケットに使用されますから、おなじみと言ってよいでしょう。

で、クリムトはマーラーと新ウィーン楽派のどちらに、より相応しいんでしょうか。

▼まず名前。グスタフですから、マーラーと一緒です。
▼生年。1862年(7月14日)。マーラーが1860年(7月7日)ですから、わずか2歳違い。シェーンベルクは1874年、ベルクは1885年、ウェーベルンは1883年ですから、世代的にもマーラーと一緒。
▼没年は1918年で、マーラーよりは長生きしたものの、マーラーの7年後に55歳で亡くなっています。(マーラーは1911年に50歳で死去。)
▼ 生まれはウィーン郊外のバウムガルテンですが、父親はボヘミア出身です。これもボヘミア生まれのマーラーとの共通点といって良いでしょう。

ということでマーラーとのアナロジーで語られる資格は、100%持ってるわけですが・・・。でもなんか私はクリムトの絵とマーラーの音楽って、あまり共通するものを感じないんですよね。やはりシェーンベルクやベルクの方がしっくり来るように感じます。
たぶんマーラーの音楽が単なる後期ロマン派的な美意識を越えて、多彩で多様な宇宙を作り上げてるのに対して、クリムトの作品は完全に一つの気分で統一されてるからじゃないかと思うのですが。

20060101Klimt2JP外見はましてや違っていて、繊細で神経質な印象を与えるマーラーに対して、クリムトはあんな絵を描く人とはとても思えない容貌で、結構びっくりです。→
若い頃の写真をみると、映画「ニジンスキー」でのアラン・ベイツみたいな感じなので、だんだん不細工になっていったのかもしれません。

今の私たちから見ると、クリムトの作品を貫く大きな柱は、世紀末的な美意識と、性的なオプセッションといえると思います。
しかしそのような傾向が出始めたのは、随分後のことで、当初、というのは1880年代のことですが、クリムトの作風は非常に古典主義的なものでした。
仕事のメインは天井画や壁画といったもので、無論そこにクリムト独自の個性は現れているものの、この「接吻」に代表されるようなものとは全く違っています。

それらは当時の市民たちの趣味を忠実に反映したものだったようです。ブルク劇場や美術史美術館などの装飾を手がけたクリムトは、壁画など建築物の装飾という分野では、若くして第一人者と評価されることになります。
1893年にはウィーン美術アカデミーの教授にも推薦されることになりますが、これは政府と皇帝の承認が得られず、実現しませんでした。

これはクリムトをとても落胆させたらしいのですが、しかしこれを契機にクリムトはそれまでとは全く異なる、あらたな芸術革命への道をさぐり始めます。
(続く)

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2005年12月15日 (木)

ポンパドゥール侯爵夫人(もっと続き) ~名画と名曲・36

20051215BoucherJPポンパドゥール侯爵夫人にたいする評価は当時も今もさまざまで、国庫が窮乏しているにもかかわらずの贅沢三昧。外交の失敗で7年戦争に突入せざるを得なかったこと(この戦争のためにフランスの財政はますます厳しいものとなっていき、国民はどんどん重税にあえぐようになる)。この二つはやはり非難されても仕方のないことでしょう。
(勿論フランスの国家財政は太陽王ルイ14世の時代にすでに傾いていた訳ですから、ポンパドゥール夫人とルイ15世だけのせいにするのはいささか不当ではあるのですが。)

侯爵夫人は政敵を排除したり、身内を取り立てたりということはしましたが、この種の利益誘導は20世紀になるまでは悪いこととは思われてませんでしたから、時代を考えればさしてあげつらうこともないような気がします。

彼女をたたえる側は、その人柄と芸術・文化に対する貢献を第一にあげるかと思います。ポンパドゥール侯爵夫人はルイ14世の愛人だったマントノン夫人を尊敬していたようなのですが、マントノン夫人のように裸体画などを猥褻として破棄してしまう焚書坑儒をやるような、無粋なまね(というか文化に対する破壊行為)はしませんでした。
それどころかポンパドゥール侯爵夫人がいたからこそ、ロココ芸術は革命前の最後の花をひらかせることになったとも言えます。優美に、そして華麗に。

また彼女をいわゆるキャリア・ウーマンとして、フェミニズムの観点から評価する向きもあるようです。18世紀という時代に平民から国のトップに上り詰めたのが、女性であるというのは、やはり驚くべきことかもしれません。

プロにせよコンにせよ、全ての評者の意見が一致してることがひとつあります。それは「愛」。どうやら彼女はルイ15世を本当に愛していたらしいのです。
それはほとんど宗教的なものさえ感じさせます。愛と崇拝がないまぜになったような。

彼女は自分の使命を、国王が出来るだけ毎日を楽しく、気持ちよく暮らせるようにすることと考えていました。そのためにさまざまな娯楽を用意し、花と果物の香りに満ち満ちた城館を立て続けました。
王様に快楽を与えるのが至上の目的ですから、そのために財源がどんどん食いつぶされていこうと、そんなことは問題ではなかったし、王の負担を減らし、悩み事を取り除くためには政治の世界にも進出していきます(もちろんそれは自分の権力基盤を確固としたものにするにも役立ちました)。

ポンパドゥール侯爵夫人は「我らの後に洪水は来たれ」と言ったといいますが、これは日本語では「あとは野となれ、山となれ」と意訳するみたいです。
少女時代から身体が弱く病気がちだった侯爵夫人ですが、『腺病質なわりにはノンシャラント』というようなところがあったのかもしれません。

為政者は民の幸せを考えてこそ、真の支配者となれるなどという考えをもてなかったとしても、18世紀でしかも女性なんだからしょうがない、と考えるか、18世紀にもなってしかも知的女性にしては時代錯誤と考えるか。微妙なところです。

フランスが戦争に苦しみ、政局運営が困難になっていくに従って、もともと弱かったポンパドゥール侯爵夫人の健康は、どんどん損なわれていきます。1764年4月、わずか42歳の若さでポンパドゥール侯爵夫人はヴェルサイユで亡くなりました。ヴォルテールは書いています。
「ひとつの夢が終わった・・・」
(終)

○絵はこれもブーシェによる肖像画で、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館。

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2005年12月14日 (水)

ポンパドゥール侯爵夫人(さらに続き) ~名画と名曲・36

20051214BoucherJP1752年に行われたイタリアのオペラ団によるパリ公演で、その論争には火がつけられました。ペルゴレージの「奥様女中」などが上演されたのですが、それをきっかけにあの有名なジャン=ジャック・ルソーが、イタリア・オペラこそが音楽の本質を表しているのであり、フランスのオペラは音楽の本質から外れていると非難したのです。

世論はまたたくまにイタリア・オペラ派とフランス・オペラ擁護派とに二分されました。
この議論は王室をも巻き込み、国王はフランス・オペラ派、王妃はイタリア・オペラ派に分かれました。それぞれの支持者は、(オペラ座の前進である)王立音楽アカデミーで公演が行われるさいには、それぞれイタリア・オペラ派は王妃マリー・レクザンスカの桟敷席に、フランス・オペラ派はルイ15世の桟敷席に集まって気勢をあげたのです。

これが音楽史に有名な「ブフォン論争」です。(フランス人はイタリア・オペラ団のことをブフォンと呼んだそうです。)

イタリア・オペラ派はルソーのほかにディドロやダランベールなど百科全書派の連中。
そしてフランス・オペラ派の代表は当時すでに大作曲家だったラモーでした。
(現代の我々からするとちょっと理解できませんが、当時の一部の聴衆にとって、ラモーの作品というのは堅苦しく形式ばっていて、イタリアのオペラ・ブッファのような活気にかけると思われていたようです。)

この論争の本質は、<旋律重視のイタリア・オペラ>対<和声重視のフランス音楽>という部分にありました。

ラモーは偉大な音楽理論家でもあり、和声こそが音楽の基本、旋律さえも和声から導かれるという立場でした。
これにルソーは噛み付いたのです。しかしその背後にはルソーの初期の作品を、ラモーがけちょんけちょんにけなしたという過去があり、二人の対立(というよりルソーのラモーへの攻撃)はブフォン論争のずっと以前からくすぶっていたのです。

それがブフォン論争によって、一般社会と王室を巻き込んで、派手に燃え上がったということなんですが、さてポンパドゥール侯爵夫人はというと。

百科全書派の知識人と交際があった彼女ですが、もちろん当然のように国王派につきました。
侯爵夫人が本当にラモーに代表されるフランス音楽をイタリア・オペラより優れていると感じていたのか、王妃が本当にペルゴレージらのブッファを好んでいたのか・・・。あるいは音楽史には載らない陰のところで、ブフォン論争にはポンパドゥール侯爵夫人と王妃マリー・レクザンスカの、女の戦いも隠れていたのかもしれません。

もともとポンパドゥール侯爵夫人は、非常に優れたアマチュアの女優だったらしく、ヴェルサイユ宮殿に劇場をつくり、自ら主演して演劇やオペラを上演していました。
その中にはラモーやモンドンヴィルの作品も含まれています。
また、当時パストラーレと呼ばれる少人数の出演者による、田園を舞台にした他愛のないストーリーのオペラが流行したのも、この劇場にぴったりのサイズだったからと言われています(ヴェルサイユとは関係ありませんが、モーツァルトの「バスティアンとバスティエンヌ」のような作品)。

面白いのはブフォン論争が起こった1752年にはフォンテンブローの離宮で、ルソーのオペラ(パストラーレ)「村の占い師」が、ルイ15世とポンパドゥール侯爵夫人を前に初演されていて、大好評を博していることです。
結局、王にしても侯爵夫人にしても、和声主導だろうと旋律主導だろうと、面白ければ、芸術的論争はどうだってよかったのかもしれません。

ブフォン論争は2年後ぐらいには、下火になります。まあ確かにどうだって良さそうな話ですし、時代もやがてフランス革命がおきて、オペラどころじゃなくなるわけですね。

音楽の世界でもラモーの最後のオペラの初演は1764年のこと。しかしそのわずか二十年後にはモーツァルトの「フィガロの結婚」や「ドン・ジョヴァンニ」のような作品が生まれてるわけですから、その差異にはめまいすら覚えます。モーツァルトの天才がどうのこうの言うのはまた別の話として、なにもかもの進み方が急ピッチだった、そんな時代だったのかもしれません。

○ ラモーの声楽を伴う劇場作品は細かくジャンル分けされてるのですが(トラジェディ・リリークとかパストラール・エロイークとか)、ここでは使い分けるとかえって話を煩雑にするので、オペラでまとめました。
○ なお冒頭の絵はブーシェによるポンパドゥール侯爵夫人の肖像画。ミュンヘンのアルテ・ピナコテークにあります。
まだ続く

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2005年12月13日 (火)

ポンパドゥール侯爵夫人(続き) ~名画と名曲・36

20051213LatourJPこれもポンパドゥール侯爵夫人の肖像画ですが、こちらはモーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールの作品。パステルで描かれています(ルーヴル美術館)。前のブーシェの作品が何年に描かれたのかちょっと判らないんですが、少女の面影を残しているのに対して、こちらは落ち着いた中年女性の趣があります。夫人の34歳ぐらいの肖像です。

ポンパドゥール侯爵夫人はルイ15世の「公式の愛人」だったわけですが、肉体関係は最初の5年間ぐらいしかなかったと言われています。その後、夫人は国王が若い女性と関係するのを認めつつ、自分自身は『肉体関係のない愛人(?)』というか、国王の一番の親友で、一番の側近とでもいった立場に自らを置くことにしたようです。
伝記によればポンパドゥール侯爵夫人は冷感症で、常に国王を満足させられてないんじゃないかと気に病んでいたそうで、もしかすると後の立場の方が、彼女としても気が楽だったかもしれません。

しかし一番の側近ということは、それまで男性の有力貴族たちが占めていた場所を奪い取ることになります。そうでなくても「平民のくせに」と貴族たちからは反感をもたれていたポンパドゥール夫人ですから、彼女を追い落とすための陰謀が色々と仕組まれていくのでした。
ところが驚いたことに、夫人はいつもそれをうまくやり過ごしていくのです。天性の勘があったとしか、思いようがありません。

もっとも侯爵夫人はつねに有力貴族に取り入り、反対派に対しても誠心誠意、相対していたようです。最初は。

エストラード夫人という女性がいました。ポンパドゥール侯爵夫人の夫のいとこで、彼女がヴェルサイユに連れてきた女性だったのですが、なぜか彼女を裏切り、ポンパドゥール侯爵夫人に反対する急先鋒のアルジャンソン伯爵のスパイをしていたのです。ポンパドゥール侯爵夫人は彼女を親友と思って信頼していたのに--
そしてある時ついにエストラード夫人とアルジャンソン伯爵は、ポンパドゥール侯爵夫人追い落としの作戦を実行します。それは別の若い女性をルイ15世にあてがって、新しい寵姫にしようと言うものでした(実際ルイ15世はその女性にかなりまいっていたらしい)。

しかしこの作戦は、ポンパドゥール侯爵夫人に筒抜けとなり、失敗に終わります。

しかし侯爵夫人は叱責することもなく、その後3年間もこれまでと同様に、エストラード夫人を侍女として側に置いておきます。
ところが侯爵夫人は、またしてもエストラード夫人がアルジャンソン伯爵のために、夫人を裏切った証拠をつかんでしまいます。エストラード夫人以外の犯人は考えられない状況で、彼女は侯爵夫人のベッド脇にあったルイ15世の自筆の政局メモを盗んだのでした。

二度目の裏切りに、ポンパドゥール侯爵夫人は電光石火、行動にでます。国王の娘の王女(前からエストラード夫人を嫌っていた)を通じてエストラード夫人を排除するよう、ルイ15世に直訴させたのでした。
エストラード夫人は何も知らずに馬車でパリの街に出かけようとしたところ、出発してすぐに彼女の馬車に国王から親書が届けられました。宮廷からの追放が命じられていました。
「エストラード夫人がこの親書に目を走らせているところに、ポンパドゥール夫人を乗せた車が近づいてきた。ポンパドゥール夫人が窓から顔を出して、その様子を小気味良さそうに眺めていたことを、遺憾ながら記しておこう。」(ナンシー・ミットフォード「ポンパドゥール侯爵夫人」より)

(ポンパドゥール侯爵夫人は後にアルジャンソン伯爵の排除にも成功するのですが、伯爵は大変に有能な人だったらしく、これはフランスにとっての損失となります。
有能な人材が失われたことで、結果的にポンパドゥール侯爵夫人が政治の世界にも進出することになるのですが、実際には彼女は政治・外交の素人でした。
ルイ15世の時期、フランスはオーストリア、プロイセン、イギリスの外交術の前に、手も足も出ない状態になるのでした。)


反対派の排除に成功し、名実共に国王に次ぐ権力者となったポンパドゥール侯爵夫人ですが、国王以外にただ一人、彼女でさえもうやうやしく畏敬の念をもって接しなければならない人がいました。もちろん王妃です。

王妃マリー・レクザンスカは――フランス王妃にしては変った名前ですが、これは彼女がポーランド王の娘だから――宗教心に篤い女性で、かなり面白みには欠ける人だったようです。女性としては才色兼備を絵に描いたようなポンパドゥール侯爵夫人には、かなうべくもありません。それでも勿論、王妃は王妃です。

侯爵夫人はつねに王妃に対して、へりくだった姿勢でいたようですが、正妻である王妃が愛人の存在を快く思うはずがありません。それでも王妃は表立って侯爵夫人を毛嫌いしたり、排除しようと画策したりということは無かったようです。「どうしても愛人を持つのでれば、あの人が一番まし」と言ったといいますが、本音だったんじゃないでしょうか。


ところで18世紀中葉というこの時期、パリではオペラをめぐって芸術上の議論が沸き起こります。これは王室も巻き込んだ大論争となりました。
続く

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2005年12月11日 (日)

ポンパドゥール侯爵夫人 ~名画と名曲・36

20051211BoucherJP権力者として歴史に名を残した女性というのは、クレオパトラからサッチャー元首相まで、少なからず烈女という一面を持つものですが・・・

ルイ15世の寵姫で、当時のフランスの政治をも支配したポンパドゥール侯爵夫人に限っては、猛々しい性質はまったく持ち合わせなかった人のようです。
この絵はロココの華、フランソワ・ブーシェによる「ポンパドゥール侯爵夫人」の肖像画ですが(ルーヴル美術館)、夫人はまさに絵そのもののような、美しくたおやかで愛情に満ち溢れた、魅力的な人だったのでした。

彼女の侯爵夫人という称号は、後に国王から与えられたもので、もともとは貴族ではなくパリのブルジョアの出身でした。つまり本来なら宮殿に上がる資格はなかったのですが、少女時代にはやくも占い師から「将来、王様の心を支配することになるだろう」と予言されていたと言います。

もともとの名前はジャンヌ・アントワネット・ポワソン。後にエティオールという人と結婚してエティオール夫人となります。
すでにパリ時代から彼女は、単に容姿端麗なだけでなく、知性と審美眼を持ち合わせ、ヴォルテールや百科全書派など、当時の先端を行く知識人たちとのつきあいがあったようです。

ヴォルテールは若い頃にはジャンヌ・アントワネット(以下面倒なので全部ポンパドゥール侯爵夫人と書きますが)を熱烈に褒め称えていて、侯爵夫人も彼の才能を認め、ルイ15世に見初められて宮殿に上がったのちにも、なにくれとなくヴォルテールを引き立てるのでした。

そんなわけで一時はヴォルテールもヴェルサイユ宮殿に出入りしたりするのですが、彼のひねくれたとでもいうのか、厄介な性格が邪魔して、わざと侯爵夫人が大嫌いなフリードリヒ大王の下に走ったりします。(フリードリヒ大王は当時の自由主義者にとってのアイドルだったらしい。)

その後再びヴォルテールは夫人側に戻ってきたりするのですが、その間ポンパドゥール侯爵夫人は、ヴォルテールがプロイセン側にいっている時期も含めて終始一貫、彼に年金を与え続けています。

知識人だけでなく芸術の擁護者でもあったようで、ポンパドゥール侯爵夫人は幾多の芸術家に援助を与えています。中でも陶磁器に目がなかった彼女は、マイセンにも匹敵する陶磁器を製作しようと計画し、セーヴルに磁器製造所を作ります。それが有力な産業に成長したのはご存知のとおりです。

彼女は絵画にも目利きで、多くの優れた画家がポンパドゥール侯爵夫人の庇護によって、才能を羽ばたかせることが出来ました。
中でもブーシェは最も彼女の恩恵を受けた一人です。彼は若い頃から才能を認められ、活躍していましたが、40歳の時に侯爵夫人お付きの画家として、取り立てられました。

当然国王付きの画家にくらべれば、世間的な地位は一歩下になるわけですが、ブーシェ自身『国王付きの画家よりもこっちの方がいい』と言ったとか。

ブーシェの絵は一つ前の世代のヴァトーとも、次の世代のフラゴナールとも異なり、繊細で可憐、ひとつも人を不快にさせるところの無い柔らかな装飾性に満ちたものですが、侯爵夫人の美意識にぴったりとあったんだろうなあと思います。

しかし美術以上にポンパドゥール侯爵夫人の気持ちをひきつけたのは、建築でした。というよりお城。豪壮華麗、めくるめく装飾と木々や花々に満ち溢れた城館を、ポンパドゥール侯爵夫人は次々と建てていきました。
国庫が窮乏し、人民が重税に苦しむのもものかわ、贅をつくした館が一つ、またひとつと建てられていったのです。

18世紀の半ば、つまりフランス革命までもうすぐという時期にそんなことをやったらどうなるか。人々の不満は国王よりポンパドゥール侯爵夫人に集中しました。

人妻の身でありながら国王の愛人になるという姦婦として、宗教心や道徳心にこだわる人々の非難を浴び、平民のくせにヴェルサイユに上がったとして貴族たちの反感をかい、加えて人民からの圧倒的不人気と、四面楚歌の二乗ぐらいの状況にポンパドゥール侯爵夫人はおかれます。
いったいどんな女性なら、そんな状況に耐えられるのでしょうか?
続く

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2005年11月15日 (火)

中世の愛(後-2)<ロセッティの女たち> ~名画と名曲・35

20051115Rossetti1JP
この作品はダンテの「神曲」におけるパオロとフランチェスカをモティーフにした作品。水彩です(1855)。中央の二人がダンテとヴェルギリウスで、右がパオロとフランチェスカのさまよえる魂。左は二人が初めてのキスを交わすシーンです。

ベラスケスの項では、時間軸にしばられない絵画の自由さについて述べましたが、これは逆に時間芸術ではない絵画でストーリーを語ろうとする場合の不自由さを感じさせます。
(もっともアカデミックな教育を途中で放棄したロセッティは、空間表現が苦手でそのために背景が平板で装飾的にならざるを得なかったという部分があります。仮にやりたかったとしても、ベラスケスのような真似は、彼の能力では不可能ではあったのですが。)

1980年代にNYのメトロポリタン歌劇場で出されたザンドナイの歌劇「フランチェスカ・ダ・リミニ」の上演は、まさにロセッティの絵画の世界をそのまま舞台に現出させたようでした。といっても私は映像でしか見ていないのですが、もしかすると映像の方がアップがあるぶんだけより分かりやすいかもしれません。

このオペラは1914年に初演されたもので、ダヌンツィオの戯曲がもとになっています。オペラ用の脚色にはダヌンツィオ自身もからんでいて、ザンドナイの甘美な音楽のせいもあって、過剰なほどに耽美的な作品となっています。私は好きですけど。

ファッジョーニの演出、フリジェリオの装置、スクァルチャピーノの衣裳で新制作されたこの舞台、ロセッティの絵とキャプチャした画像との比較でみていきましょう。
(あまり写真をズラズラ並べるのもうざいので、別に開くようにしてますから、クリックしてください。)

1幕の装置がまず(広義の)ラファエル前派的です。(参照画像1)

20051115RossettiJP
平板であえて奥行きを拒否、しかも花をあしらった装飾的な装置。花を背景にあしらうというのはロセッティの最も好むところであり、またそれゆえに少女趣味と批判される由縁でもありました。(右は「ウェヌス・ウェルティ・コルディア」)

そんな背景に美しい金髪の乙女達が並んでいます。(参考画像はロセッティ作「愛しい人」。黒人少女はイゾラ・ジョーンズの起用にもかかわってるかもしれません。)

またこうした平板な背景に人々の立像というのは、ロセッティにもバーン=ジョーンズにもあり、いわば常套手段でした。

登場するヒロイン役のレナータ・スコット。この髪と衣裳はロセッティのもの以外のなにものでもありません。

スコットの2幕。

3幕のパオロとフランチェスカのシーン。これは男女の位置と服の色が逆になっていますが、じつはロセッティが参考にしたと思われるW・ダイスの作品がこんな色になっています。参考画像は右からロセッティ、ダイス、METの舞台写真(左右逆転しています)。

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティが描き得なかった、パオロとフランチェスカの愛の世界を、フリジェリオ&スクァルチャピーノとファッジョーニのトリオは見事に再現したと言えます。

ダンテの名前をつけられ、宿命のようにヴィクトリア朝のダンテとして華々しい活躍をしたロセッティ。彼が憧れて、結局は得られなかった中世の愛の世界が、100年後のニューヨークで鮮やかによみがえったのでした。

このオペラはパオロとフランチェスカの死で終わり、死を超えて結びつく愛はドラマでは描かれていません。それを感じさせるか否かは、演奏者たちにゆだねられているのですが、ここでのスコットとドミンゴは、奇跡的な名唱といえます。何かが乗り移ったかのようなスコットの絶唱、それをがっちりと支えるドミンゴの安定感。

私たちが若い頃はザンドナイの「フランチェスカ・ダ・リミニ」というと手に入るのは、デル=モナコとマグダ・オリヴェロのハイライト盤だけで、全曲は入手不可能でした。(あるいはチェトラあたりにあったかもしれませんが。)

それだけにこの上演のライヴ録画のLDでの発売は、まさに渇を癒すものだったのでした。私はどうしてもレヴァインという指揮者が好きになれないのですが、これだけは別で多分レヴァイン以上にこの作品を演奏できる人はいないでしょう。しいてあげればシャイーがスカラ座でやればどうかというぐらいでしょうか。それでもここでのスコット、ドミンゴを超える歌手は集められないでしょうから(ヴィジュアル的にはアラーニャ夫妻あたりのほうが似合うかもしれませんが)、これはまさに永遠の命を持つ上演記録であると言えるのかもしれません。

芸術によって愛が死をも超えて永遠の命をかちえた一瞬。ロセッティの創作活動の理想そのものが、実現されたと言えるように思います。
(終り)

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2005年11月14日 (月)

中世の愛(後-1)<ロセッティの女たち> ~名画と名曲・35

20051114RossettiJP
この作品は「レイディ・リリス」というタイトルなんですが、レイディといっても当時の貴族夫人とかではなく、伝説に登場する魔女です。

これまでに出てきた絵がジェインをモデルにしているのに対して、これはファニーがモデルです。
ロセッティは当然ですが、題材によってモデルを使い分けていて、「神曲」のベアトリーチェをはじめとする理想の女性役にはジェインを、娼婦や魔女の役にはファニーを選んでいたようです。
ごらんになってお分かりのように、ジェインとは随分違う感じですね。ただ波打つ美しい長い髪だけは共通していますが。

ファニーはリジーやジェインのような繊細な女性というよりは、おおらかで健康的・肉感的な女性だったそうで、ロセッティは彼女のことが大好きだったようです。でも(ファニーにとっては)残念なことに、大好きなのと愛してるのは違うんですね・・・。

それはともかくロセッティは、彼のヒロインたちをさまざまな役柄にあてはめ、それをキャンバスに固定していきました。
もしかするとロセッティが二十世紀に生きていて、ジェインに女優の才能があったら、彼は映画を監督したかもしれません。
ヒッチコックのグレイス・ケリーやワイルダーのヘップバーンのように、愛するヒロインを自在に使いこなして。

* * * * * * * * *

ロセッティが描いた作品の中で(当時の)現代を舞台にした風俗画は1作しかありません。あとは宗教的な作品などもありますが、ほとんどは過去の文学・伝説などを題材にした作品。特に登場人物にあてはめた女性の肖像画です。
中でもダンテと中世の騎士物語の二つは、最も重要なモティーフでした。

「中世志向」には当時のイギリスの「時代の趣味」という面もあったのですが、それにしてもちょっと偏執的なまでにこだわっているように思われます。

言うまでも無く19世紀人だからといって、中世という時代にたいする感じ方は一様ではないでしょう。ブルックナーの中世観とルードウィヒ二世の中世観は違うはず(はず、多分)。いったいロセッティにとっての「中世」とはなんだったのでしょうか。

「それは死に導く愛、死によって引き裂かれる恋愛、充足をあとへあとへと遠まわしにする情熱を求めることになるのである。」
「かれらは死を超えて、永遠に抱きあったまま愛し続けるのである。」

これは谷田博幸さんの「ロセッティ ラファエル前派を越えて」から勝手に抜き出したもので、(まったく前後の文脈も論旨も切り捨ててるので、もし本人に見られたら怒られると思いますが、)私にはここにロセッティの中世観も芸術観も恋愛観も集約されていると思います。特に下のほう。

中世とは死がもっとも身近にあった時代です。そして「愛」もヴィクトリア朝の偽善的で形骸化した恋愛ではなく、もっと生々しくむき出しのエネルギーをもっていた時代です。
騎士物語によって中世に親しんだロセッティにとって、中世と言う時代は、「愛が死をも超えて存在した」時代だったのでしょうか。
ワグナーのように死によって成就する愛ではなく、死をも超えて魂が結びつく愛。

ロセッティにはジェインをモデルにして描いたベアトリーチェの絵が、レプリカも含めれば10作もあります。
ということはつまり、ロセッティにとってジェインは神聖で理想的な女性ではありました。

しかし彼にとってジェインとの愛は(夫の黙認があったとはいえ)不倫であり、許されざる愛でした。もちろん彼は一応キリスト教徒なのですから、心に思っただけで、それは姦淫です。
つまりジェインはベアトリーチェであると同時に、フランチェスカ・ダ・リミニでもありました。

現実のロセッティとジェインは、トリスタンとイゾルデでもなければ、アーサー王(またはランスロット)とグィネヴィアでもなく、パオロとフランチェスカでもありませんでした。
死を超えて結びつこうにも、死んだのはリジーのほうでした。本人が自殺をはかっても未遂に終わりました。

ロセッティにはせっせと、彼のヒロインたちを中世的状況におしこんで、絵画を仕上げるよりほかなかったのです。
(続く)

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