ミステリ&音楽

2012年2月25日 (土)

「夜想曲集 ~音楽と夕暮をめぐる5つの物語~」カズオ・イシグロ(後)

20120224_nocturnes 第四作は「夜想曲」。夜想曲といったらショパン。あるいはフィールドやフォーレを連想する人もいるでしょうか。いずれにせよさぞやロマンティックなお話が繰り広げられるものとおもいきや、スラップスティックなのです。しかも主人公は整形手術中で顔を包帯でぐるぐる巻きにされた醜男のサックス弾き。
音楽はホーギー・カーマイケルの名作「ザ・ニアネス・オブ・ユー」。

最終章は「チェリスト」。壁の崩壊後に西側に出てきたばかりの才能ある若いチェリストと、彼を指導する偉大な女流チェリスト――あるいは女教師というべきか――の物語。とても不思議な話です。
ネタバレになってしまうので具体的なことは書けませんが、こういうアーティストは現実にはいない筈です。つまりその《偉大な女流チェリスト》であるエロイーズ・マコーマックのことですが。
でも読み終わってすこしたつとなんだかこういう人も居るような気がしてきます。カズオ・イシグロですから、決してその豪腕でありえない事でもありうるように描写する、というようなことは起きません。いや、いない。いや、もしかしたらいるのかも。なんだか妙にこのエロイーズのことが気になるのです。
音楽はこの章だけクラシックで、ベンジャミン・ブリテン。

この五つの小品には共通して登場する人物もいますし、最初と最後は西側に出てきた旧共産圏の若いミュージシャンが主人公。全体がゆるい連環の中にあります。短篇集というのはどれか一つを読んでは、別の何かに移りというようにランダムに読んでいく方も多いかと思いますが、まとめて読んだほうがよりよく味わえるかも知れません。五日連続一日一篇ずつとかがいいかも。

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2012年2月24日 (金)

「夜想曲集 ~音楽と夕暮をめぐる5つの物語~」カズオ・イシグロ(前)

20120224_nocturnes カテゴリーは便宜的に《ミステリーと音楽》に入れましたが、もちろんミステリーではありません。これは映画化もされた「日の名残り」でイギリス最高の文学賞・ブッカー賞を受賞、今や世界的な作家になっているカズオ・イシグロが書き下ろした初の短篇集。サブタイトル通りいずれも音楽が関わっています。

五歳の時に父親の仕事の関係でイギリスにわたり、ケント大学、イースト・アングリア大学大学院を卒業。英国籍を持つカズオ・イシグロは、もちろん日本人作家ではなくイギリス人作家としてとらえるべきなのでしょう。
しかし五つの短編の総てに漂うさりげないユーモアは、イギリス人のそれとは少し違うような気がします。ユーモアと言ってもただ可笑しいのではなく、忍び寄る夕闇のようなほろ苦さに辺りを包まれているのですが、そこにイギリス人の作家ならなぜか添えずにはいられないらしい意地悪な刺は含まれていません。イシグロのほろ苦さは、あくまでも優しさと繊細さという細かい泡でメロウな舌触りに仕上げられています(ドイツで飲むビールみたいに)。

短篇集の最初の一篇「老歌手」は東欧出身のあるギター弾きが語る老歌手のお話。夜のヴェネツィアを舞台に、ロックの波の中ですっかり忘れ去られた往年のバラード・シンガーとその妻。他の作品はあえてオチはつけず読者に渡すような形で物語が終わっているのですが、これだけがオチのようなものがついています。

歌手は「恋はフェニックス」を歌います。東欧がまだ社会主義だった時代、ギター弾きの母親が好きだったという。シナトラよりヒットしたグレン・キャンベルより、その老歌手の若かりし頃のレコードを愛していた母。

「たくさんの旅と別れを詰め込み、私たちはその歌を歌いとおした。アメリカ人の男が女のもとを去っていく。歌詞から歌詞へ、町から町へ、女のことを思いながら去っていく。フェニックス、アルパカーキ、オクラホマ…長い長い道を車で去っていく。母には決してできなかった旅だ。そんなふうに過去を振り捨てていければ……と、たぶん、母も願ったと思う。悲しみを振り捨てていければ…と。」

第二編「降っても晴れても」は、捻ったユーモアがくすくす笑いを誘うといった作品。スラップスティック・コメディの味もあります。音楽はサラ・ヴォーンとクリフォード・ブラウンの一九五四年録音。

三つ目の作品は「モールパンヒルズ」。イギリスの田舎、エルガーゆかりの地を舞台に、ミュージシャン志望の学生とスイス人夫婦のお話。
そういえば日本には丘ってありませんよね。田んぼの続く平野はあり、雑木林の低い山はあるけれど、イギリスのようになだらかな丘が二重にも三重にも重なる景色というのは見た記憶がありません。

スイス人夫婦は各地を回って歩くミュージシャン。スイスの民族音楽、ビートルズ、カーペンターズ。なにやらかにやら。

意外とスイスの民族音楽のCDって少ないんですね。民族音楽というとスイスの場合、すぐにヨーデルを思い浮かべますが、ここで小説の主人公たちが演奏してるのではそういうものではないようです。どちらかといえばウィーンのホイリゲで奏でられているよな音楽かなとも思うのですが、作中には音楽の描写はないので判りません。

上にリンクしたCDは日本人による演奏。これだけは聞いたことが無いので、おすすめと言うんじゃなくて、「探したらこんなのがありましたよ」というただの紹介です。

(続く)

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2007年9月 9日 (日)

「カルーソーという悲劇」 アンネ・シャプレ

観客は寂として声がなかった。拍手するものもなかった。ダヴイッドが両脚をうしろにまげて輪を描き、右足を頭の上にただよわせ、劇的効果が最高潮に達した瞬聞、足指がバラを放下したときも。全観衆が―とカレンは思った―自分と同じように息をとめていた。蝋燭の光のなかで燃えるように輝くバラが、赤いビロードの上をすべる音さえ聞こえたはずだ。この瞬間にルチアーノ・パヴァロッティがせつなげな声で歌いあげなければ。
テ・ヴォリヨ・ベーネ・アッサイ マ・タント・タント・ベーネ・サイ「きみを愛してる。とても、とても」

20070909carusojpドイツ・ミステリ大賞を2回も受賞しているアンネ・シャプレの処女作。ドイツでは1998年に出版、日本ではこの5月に創元推理文庫から邦訳が出ました。

シャプレの本業はミステリー作家ではなく、実は政治評論家(コーラ・シュテファンの名前で)なのだそうです。言ってみれば余技なのですが、2回受賞ということからもわかるように、当然余技にとどまらない、きわめて興味深い作品となっています。

原題は Caruso singt nicht mehr (カルーソーはもう歌わない)で、最初音楽ミステリかと思ったのですが、表紙を見ると赤川さんの本みたいなユーモア・ミステリ風。登場人物の一覧にも、裏表紙のシノプシスを読んでも、カルーソの文字は一つもなく、ん~、これはなんぞや???

主人公は――といっても4人いるんですが、とりあえず出だしのパートの主人公は――かつてはフランクフルトでコピーライターをしていて、今は都会生活をやめ、田舎に引っ越したパウル。

しかし憧れの田舎生活も思ったほど楽ではなく、馬殺しやら放火やら、物騒な事件が横行します。そんななか今度は殺人まで――それもパウルがひそかに恋心を抱いていたアンネの夫が殺されるという事件が起きます。

特にネタバレというほどのことでもないと思うので、書いてしまいますが、この作品の主題は、旧・東ドイツのシュタージの問題です。

映画「善き人のためのソナタ」で再び注目を集めている、かつての国家公安局シュタージ(国民を監視していた)。それがすでに壁が壊れて10年近くたった(旧)西ドイツの田舎の村と、どうかかわってくるのか?

この作品は発表された時にドイツでは、圧倒的な好評をもって迎えられたらしいのですが、英米が本家のアガサ・クリスティ流の田園ミステリーで成功しているということの他に、このテーマの設定も好評の一因であったろうと思われます。

もっともこの作者、ちょっと変わった文体が好みで、句読点が好きなのか、特に冒頭の方は、やたら短い文章がブツ切れで出てくるのです。しかも話が進んでいかないのでかなりイライラさせられます。
で、ようやくそのブツ切れ文章に慣れた頃、いきなり話が転がり始めます。すると文章も普通になってきます。出だしの方は多少我慢した方がいいかも。

カルーソーは、いわば小道具として登場するに過ぎないのですが、いろんな意味で実に上手いタイトルです。「カルーソーという悲劇」ではちょっとワケわかんないので、直訳にして欲しかったと思います。マザーグース的というかクリスティっぽさも出てきますし。

なおこの作品はどちらかといえばアガサ・クリスティやエドマンド・クリスピンに近いもので、シュタージつながりで「善き人のためのソナタ」のような深い洞察とか感動とかを求めてはいけません。念のため。

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2007年6月16日 (土)

「神宿る手」と4部作(後) 宇神幸男

20070616ugamijp「あらゆる芸術のなかで、音楽だけが、神に近づく唯一のものであり、その叡智にはなにかしら人間の心性を高めるものがある」(ジェラール・バローの言葉~「神宿る手」より)

作品の終盤近くで出てくる、バローのこの台詞を読んで、私は凍りつきました。

それまでバローの言葉はほとんど出てこないし、わずかに表現上の問題について触れた一言程度でした。しかし作品のクライマックス近くなって、いきなりバローはこんな哲学を、あるいは音楽哲学を語るのです。

その内容についてはさておき、なぜ作者はこんな言葉をバローに語らせてしまったのでしょう。

この台詞を語り、音楽によって神に近づき、心性を高めた筈のピアニストは、ナチの協力者として楽壇から葬り去られた男なのです。そんなことがあっていいのでしょうか。

無論、あの時代に演奏活動を禁止された人たちが皆協力者であったり、支持者、まして党員であったはずはありません。フルトヴェングラーのようなケースを作者は想定していたのかもしれません。しかしそんなことは一行も書いてないのですから、読者にそこまで想像しろというのは無理があります。

第3部にいたってようやくバローが独・墺圏と占領地だったパリでしか演奏を許されなかったという台詞が出てはきますが、「神宿る手」では、バローはナチ疑惑で楽壇から葬られたということしか、読者には明らかにされていないのです。

それでもまだこれがフルトヴェングラーだったら、情状酌量の余地はありました。フルトヴェングラーがベルリン・フィルを守るためにドイツにとどまったのかどうか、私には勿論わかりませんが、すくなくとも音楽的には、彼には自己の音楽を実現するために、絶対にベルリン・フィルハーモニーが必要だったことでしょう。あるいはドイツの聴衆が必要だったとも言えるかもしれません。

しかしバローはピアノさえあればどこでも弾けるのです。ましてやポリーニやアルゲリッチやコルトーやハイドシェックの良いところだけ集めたような人です。ドイツ語圏の聴衆を必要とするなどということがあろう筈はありません。バローはすすんでナチの広告塔になったか、あるいはそのような政治的な事柄には無頓着だったか、いずれかとしか考えようがないのです。
別の理由で広告塔にならざるを得なかったのだとしたら、それを作者はこの第1部の中で明かすべきですが、そこには何も触れられておらず、しかもこの作品の続編は、第1作が好評だったために計画されたものであり、第1作発表時にはこれ単独で終了する可能性もあったのですから。

いかな作者でも、ヒトラーがフルトヴェングラーやバローの演奏によって心性を高らしめた結果が、ホロコーストだとは言わないでしょう。
バローは「音楽の叡智が心性を高める」などとは、決して言うべきでありませんでした。戦時中政治的にナイーヴだったのだとしたら、戦後バローに出来ることは唯一つ、カラヤンのようにただもくもくと音を磨くこと。それだけが唯一の誠実な姿勢だったのではないかと思うのです。

なぜこのようなことが起きてしまうのかといえば、作者の音楽と人間性についての考察が中途半端だからに尽きます。


第2作にはこの種の音楽哲学めいたことは出てきませんが、第3部になると宇神さんの得意の主張が次々と出てきます。そのせいもあって作者の筆はあきらかにノリノリで、この第3部が全4部作の中で一番精彩があります。

「演奏は画一化する一方です。伝説的な演奏家はもはや存在しなくなり、ロマンは失われてしまった。しかし昔は違った。コルトーのショパンは目をつぶって聴いてもコルトーが弾いていることがわかった。個性の喪失・・・・・・、私はこれが我慢できないのです。」(平田の言葉~「ニーベルングの城」より)

「ブルーノ・ワルターもいっているが、音楽には道徳的な力がある。一般に演奏家と自己顕示欲は不可分と信じられているが、本来、音楽は人を謙虚にするものなのだ。謙虚にならない人間がいるとしたら、その人は音楽には向かない」(バローの言葉~同)

「競争心はえてして心眼を曇らせる。それは本質的には芸術とは関係がない。」(同)

「刺激を求め、新らしきに付き、安易な耳の逸楽に身を委ねる時代になりました。人はベートーヴェンを聴きにではなく、ベートーヴェンを指揮する誰かを聴きに来るのです。」(フルトヴェングラーの台詞として~同)

これまた果たしてその台詞が小説の上で適切に機能してるかどうかは別として、宇神さん自身の意見の表明としてみると、私には大いなる矛盾を含んでいるように思います。


まず、この第3部におけるカラヤンに対する誹謗、全4部を通してのホロヴィッツに対する悪意は、到底容認できないものがあります。ホロヴィッツではなくラノヴィッツという名前になってるのですが、来日公演でどうのとか、モスクワでこうのとか、読者が連想するのは、明らかにホロヴィッツ以外の何物でもありません。
「音楽には道徳的な力がある」
2ちゃんねるクラシック板における、クラヲタを自称する人たちの吐き気をもよおすような悪辣で下品な発言の数々を読んでいたりすると、果たして上の言葉が正しいのかどうか、私には分からなくなってきますが、いずれにせよ作者が音楽から道徳的な力を得ていたら、カラヤンとホロヴィッツに対するこんな非道徳的としかいいようのない、侮辱的な表現や設定など決してありえなかったはずです。

「本来、音楽は人を謙虚にするものなのだ。」
私は宇神さんが普段どんな評論を書いているのか、あまりよく読んではいませんし、覚えてもいませんので、なんともいいようが無いのですが、宇野さん一派の棟梁が「謙虚」だって!?と思わざるを得ません。芸術家の真摯な営為を、単に個人的な曲に対する理想と合わないからというだけで一刀両断する、あんな謙虚さを欠いた批評家を神と仰ぐ人が謙虚だなんてお笑いの一語に尽きます。

「個性の喪失・・・・・・、私はこれが我慢できないのです。」
そもそも演奏家が謙虚であろうとするなら、ひたすら作曲家に忠実になること以外にありえないのではないでしょうか?演奏家が自ら個性的であろうとするなどもってのほか。現代の演奏家が楽譜にとらわれて個性がなく画一化されているという主張と、謙虚であれとする主張との間には矛盾があります。
現代の演奏家に個性がないなどというのは、単に宇野さんをはじめとする『ある種の人々』が、極端なデフォルメ以外には個性を認められないほど、感覚が磨耗していて、微妙な違いを聞き分けられない以外の何物でもありません。

「人はベートーヴェンを聴きにではなく、ベートーヴェンを指揮する誰かを聴きに来るのです。」
それは逆に上に書いた『ある種の人々』ではないかと思われます。
演奏家の個性や解釈を聞かせようとするのではなく、ベートーヴェンを聞かせようとする演奏家こそが現代の演奏家であり、『コルトーのショパン』ではなく『ショパン』を、『フルトヴェングラーのブルックナー』ではなく『ブルックナー』そのものを演奏しようとする姿勢こそが、巨大な作品世界に私たちを導いてくれるのではないでしょうか。
でなければ何故に「これからの演奏家に個性はいらない」と喝破したハイティンクのブラームスが(もちろん宇野氏はその発言に大いに噛み付いた)、あるいは「全ては楽譜に書かれている」と主張するアバドのヴェルディが、あれほどにも感動的でありうるのでしょうか。

長くなったのでこのへんでやめますが、最後に全体を。

第3部「ニーベルングの城」は全4部作中もっともすぐれていて、第4部「美神の黄昏」がそれに次ぎますが、第3部終わりと第4部は冒険小説になっています。アルプス周辺の観光情報もなかなかに面白く、宇神さんは本格推理よりも、こちらの方に才能がありそうです。
第2部「消えたオーケストラ」は一番弱く、ストーリー展開、状況の設定などかなり無理があり、ミステリー・ファンを納得させるのは無理でしょう。
なお第3部のタイトルは文庫版では「ニーベルンクの城」と改題されています(グがクに)。理由は不明です。

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2007年6月13日 (水)

「神宿る手」と4部作(前) 宇神幸男

20070613ugamijp 宇野功芳さん系列の音楽評論家で、小説家でもある宇神幸男さんの小説第1作。1990年に出版され、異色の音楽ミステリーとして評判になりました。
宇神さんはこの続きとして、同じ登場人物による「消えたオーケストラ」「ニーベルングの城」(文庫版は改題「ニーベルンクの城」)「美神の黄昏」を発表。ワグナーの「リング」を髣髴とさせる4部作の音楽ミステリーという、他に類の無い偉業をなしとげました。

ただしこの第1作「神宿る手」はおそらく、単独で構想されたものと思われ、これだけでまとまった作品となっています。続く3作は順番に読んでいかないと、ちょっと訳が分からなくなります。

実は私、この宇神さんの4部作、評判は聞いていたのですが、これまで読んでいませんでした。なんか三島由紀夫ばりの美文で、音楽の専門的知識がペダンティックに綴られた、私の一番苦手そうなタイプではないかと、勝手に思っていたのです。
実際に読んでみたら三島ばりどころか、むしろほとんど情感をまじえない乾いた文章で、読みやすく書かれたものでした。妙な偏見と予断が一番いけないということで。

話は幻のピアニスト、ジェラール・バローの新録音が発売されるというニュースから始まります。スクープしたのはFM雑誌の「FMジャーナル」。特種を抜かれて慌てる国内最大の音楽出版社が出している雑誌「音楽の苑」の編集者、蓮見が全体の狂言回しとなって話が進んでいきます。

FMジャーナルはもちろん共同通信社が出版していた「FM fan」、「音楽の苑」は「音楽の友」のパクリで、まずここで笑っちゃいます。そう、1990年だとまだ FM fan があったんですよねぇ。

蓮見はこの新録音発表の陰にいた謎の女性、島村夕子に出会い、振り回されることになります。
この島村夕子なる女性、稀に見る美女らしく出会う男性全てを虜にしてしまうような人なんですが、その割りに読み終わっても、結局どんな人間なのか印象がまとまりません。ヴィジュアル的には諏訪内晶子あたりイメージすればいいのかなと思うんですが。

もう一人重要な女性の登場人物(音楽の苑の編集部員)が居るんですが、こちらはヴィジュアル的にも印象をわかせにくく、ちょっと惜しいことになっています。
男性の登場人物は、端役でも生き生きとした筆致で描かれているので、著者は女性を描くのが不得意なのかもしれません。

さてその幻のピアニスト、ジェラール・バローとはどんな人なんでしょうか。

バローはドイツのピアニストということになっているんですが、その名前からも分かるようにフランス系で、フランス人を父に、ドイツ人を母にストラスブールで生まれました。

戦前には天才ピアニストとして讃えられ、フルトヴェングラーとも共演。しかし戦争中もドイツにとどまり、ベルリンや占領地のパリで演奏し続けたために、戦後ナチ疑惑をかけられ、活動を停止。楽壇に復帰することなくスイスに隠棲してしまいます。

「パハマンの音色、フィッシャーとケンプの滋味、ポリーニのテクニック、リパッティの純潔、コルトーの奔放、エリー・ナイの神がかり、グールドの機知、リリー・クラウスとハイドシェックのテンペラメント・・・」などを兼ね備えた天才ピアニストなんですが、ハイドシェックが入ってるところがいかにも宇神さんらしいところ。彼は愛媛県宇和島文化センターの職員で、あの宇和島ライヴで有名なハイドシェックのコンサートを実現させた人なんだそうです。

話はこの新録音のCDの贋作疑惑から、バローの日本招聘計画へと進んでいくのですが、この「神宿る手」にはミステリーにはつきものの殺人事件がありません。殺人どころか、普通の意味での犯罪すらないのです。にもかかわらず、この作品はまさしくミステリー以外の何物でもなく、その点ですこぶるユニーク。日本のミステリー史に残るといっても良い存在価値を持っています。

とはいえ欠点がないわけではなく、いくつか注文したいこともあります。――まあ、その類のことは、90年の初出時に評論家から指摘されてると思うので、いまさら私が書いてもしょうがないんですが、感想ということで。

まず前述したように、女性の描写がいまいちなこと。4部作全体を読んでも私には島村夕子という女性の人間像が、あまりよくとらえられませんでした。

次に地の文と台詞の割り振りが間違っていて、台詞が登場人物の性格描写にもストーリー展開にも役立っていないことが見られ、多少いらいらさせられます。ただしこの欠点は第3部になると突然解消し、一つ一つの台詞が生き生きとしてきます。
第3部では戦中戦後のドイツも重要な舞台となり、フルトヴェングラーらが登場します。作者にとっては書いていてこちらの方がよほど楽しかったのではないかと思われます。

それからファンタジー不足とユーモア不足。途中に楽壇スキャンダルが出てくるんですが、いくらなんでももうちょっと何かなかったのかと思います。またミステリー・ファンというものは、ちょっとした謎にも予想を裏切る鮮やかな解決を求めたがるものですが、常に予想の範囲内で進行するというのが、残念に思います。
ただしこれも第3部・第4部では解消されています。

しかし以上の不満はささいなことで、さしてあげつらうほどのこともないかもしれません。
最大の問題点は、そうした小説技術や作劇上のテクニックなどとは全く別のところにあります。
(続く)

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2007年4月30日 (月)

「ローレライの呼び声」 ポール・アルテ

20070430halterjpライン川にすみ、その美しい声で舟人たちを惑わして、破滅に導くというローレライのお話。日本人にとっては「なじかは知らねど心わびて・・・」という近藤朔風の訳がおなじみの、ハイネの詩、ジルヒャーの作曲による有名な歌曲でも知られています。

アルテの「ローレライの呼び声」は、そのローレライ伝説をモティーフにした短編。邦訳でわずか12ページの短い作品です。
本格ミステリとしては、特に斬新なトリックが使われているわけでもなく、傑作とまでは言えないように思いますが、大変に美しい視覚イメージを呼び起こす作品です。
もっともローレライに関しては、私はフンメルさんのサイトを拝読して思わずググって見てしまった、黄色いペンキを塗りたくられた超・悪趣味像が、すっかり目に焼きついちゃってるんですが。(いま探したらペンキのは見つかりませんでした――って、明らかに見ないほうがいいですけど。トラウマになるから。)

作者のポール・アルテはフランス、アルザス=ロレーヌ地方のミステリー作家。ディクスン・カーのギデオン・フェル博士をモデルにしたツイスト博士が主人公のシリーズで知られ、この「ローレライの呼び声」もツイスト博士が謎解きに挑みます。

アルザス=ロレーヌ地方がフランス領になったりドイツ領になったりした地域であるというのは、学校の歴史の時間にも習いますから、どなたもご存知と思います。しかし実際にそこに住んでいる人は何を考え、どんな思いで日々の暮らしを送っていたのか。アルテの作品は推理小説というエンターテインメントの形を借りながら、この地方の人々の苦難の歴史や屈折した思いを描いていて、興味をひかれます。

この「ローレライの呼び声」は日本版では、「赤髯王の呪い」という中篇と一緒に収められていて、「赤髯王・・・」が本のタイトルになっています。この「赤髯王・・・」は出版では後になりましたが実質的なアルテの処女作で、こちらの方は掛け値なしの傑作。これもツイスト博士のシリーズではあるのですが、ある料理人の一人称で書かれているため、どうしても文体の点で文学的興趣を呼び起こすというものにはならないなあ・・・などと思っていると、あとでうっちゃりをくうことになります。

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2007年2月 5日 (月)

「無伴奏組曲」 アラン・ジョミ

20070205jomyjp装丁が美しく、クリーム色のベースに文字だけというシンプルな表紙は、まるでかつてのDGGのアルヒーフ・レーベルか、数は少なかったもののグラモフォン・レーベルで出ていたバロックのLPジャケットのよう。しかもその文字も思わずニヤリとする工夫が凝らされて。
(ま、人によっては白水社あたりから出ていそうな外国語の教科書みたいと思うかもしれませんが。)

著者のアラン・ジョミは映画音楽の作曲家。クロード・ミレール監督の「なまいきシャルロット」や「伴奏者」、それにトリュフォーの原作をミレール監督が映画化した「小さな泥棒」などの音楽で知られています。
また同時にドキュメンタリーなどの監督もやっている多才な人で、この「無伴奏組曲」は小説としては、ジョミの処女作ということになるようです。(カテゴリーを増やしたくないので、ミステリー&音楽に入れましたが、ミステリーではなくて普通の小説です。)

主人公のレコード・プロデューサーは録音契約のために訪れたカリフォルニア州モントレイで、一人の年老いたユダヤ人と出会います。
記憶の底からかすかに浮かび上がる面影。少年時代の主人公を肩車してくれた人、偉大な音楽家だった祖父のチェロを譲り受けた人・・・

その老人はかつての祖父の弟子カールで、テレジンの収容所を生き延びたチェリストでした。
テレジン。――ドイツ語ではテレージエンシュタット。デッカの退廃音楽シリーズなどで、その存在があらためてクローズアップされたナチのユダヤ人強制収容所。そこはアウシュヴィッツなどへ送られる前の中継地点であると同時に、外国からの批判をかわすためにユダヤ人の町という名目で作られたモデルケースの収容所です。そこではユダヤ人音楽家によるオーケストラが組織され、演奏会も行われていました。

しかしカールはテレジンで、妻カミーラと離れ離れになってしまいます。カミーラはアウシュヴィッツの収容所に移送されてしまったのでした。

終戦後、カールは必死でカミーラを捜しますが、見つけることもできず、しかし死者の名簿にもその名を捜すことは出来ませんでした。カミーラは生き延びたのか、それともアウシュヴィッツで死んでしまったのか。

そしてある日・・・

バッハの無伴奏チェロ組曲第4番が、重要な役割を果たし、読者のイメージの中である感動を作り上げます。ただもしかすると、この曲を聴いたことの無い人には、まったく何が起きてるのか理解できないかもしれないという恐れも、なきにしもあらず。

美文が連なるわずらわしさも無く、かといって無味乾燥な文章でもなく、この小説(の日本語訳)はかなり私好みの文章というか表現になっていて、読んでいて心地よさを感じました。原作者によるものなのか、翻訳者によるものなのか、たぶんその両方だろうと思いますが。

深みや重みはありませんが、哀しくも美しい物語は、読後もちょっと心から離れないものがあります。

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2007年1月11日 (木)

「ウィーンの血」 エイドリアン・マシューズ

20070111viennabloodjpお正月といえばニューイヤー・コンサート、ニューイヤー・コンサートといえばシュトラウスのワルツということで、「ウィーンの血」を。

この作品は2026年のウィーンを舞台にした近未来ミステリーで、原題は Vienna Blood。
ドイツ語にすると Wiener Blut ですから、つまりヨハン・シュトラウスのワルツのタイトルの英語訳です。作中にもこの曲についての言及が、2回ほど出てきます。

ワルツの方は日本では普通「ウィーン気質」と訳しますが、小説の日本語版タイトルがストレートに「ウィーンの血」となってるのは、単に「ウィーン気質」では売り上げが見込めないというだけでなく、血統・血脈・血縁といった要素が重要な意味を持つ作品だからでしょう。

主人公はウィーンの新聞でコラムを書いているシャーキー。彼は偶然に知り合った男レオが、交通事故で死んだことを未亡人ペトラから聞かされ、事故の調査を依頼されます。ペトラは事故を装った殺人ではないかと疑っていたのでした。

レオがシャーキーに残した謎めいた言葉を手がかりに、調査を始めたシャーキーは、レオとペトラ夫妻が全く同じ父親と母親のDNAを受け継いでいることをつきとめます。

全然関係のない両親から生まれたはずの二人。なぜそんなありえないことが・・・

この作品のテーマは「行き過ぎた生命工学への警鐘」なのですが、それだけならロビン・クックの2番せんじ?――と思えなくもないのですが、そうならずに独自の魅力を主張することに成功しています。

その要因は二つ。

1)2026年という近未来の設定が、いわばブレードランナー的な効果を出していること。それがウィーンという落日の都の魅力とあいまって、奇妙に退廃的な雰囲気をかもしだしている。

2)作者の文章が近未来サスペンスとしてはかなり独特。

「だがやがてヴァイツェンゴルトの小麦ビールの半リットル樽を何杯か飲み干すと、憂いに沈んでいた彼の気分は指数曲線を描いて上昇し、酔眼の快活さに道を譲った。その日の夜が終わる頃にはただその内的興奮だけに支えられ、内臓で泡立三酸化炭素と手を携えた『蛍の光』がぐんにゃりした身体に内圧を与えて、座った姿勢を奇跡のように維持させている状態だった。
 わたしの視覚皮質もそろそろ立体視の基本原理を忘れはじめたころ、いきなり彼がびっくり箱から飛びだすように立ち上がった。」
「暗緑色の安ガラスの向こうを、人生の外洋を進む明かりを灯した遠洋定期船のような彼の姿が、前後左右に揺れながら遠ざかっていった。」
「今日は雪こそないものの、天候は壮大な核の冬を引きずっているかのようだ。気温は零下十度、光は花歯岩のように硬い。細かく砕いた水晶のような霜が荒々しくきびしい明るさをもたらしている。」

隠喩・暗喩・直喩。作者のマシューズはやたら比喩表現の好きな人のようで、しかもこのような文章が全編をおおっています。
ハードボイルドはよく比喩の宝庫などといわれますが、それらが主に読者に的確なイメージを与えるために用いられるのに対して、ここでの比喩表現はむしろ、装飾のための装飾といった趣があります。

そしてこのほとんどクリムト的とでもいいたい過剰に装飾的な文章と、ブレードランナー的な奇妙に退廃的な雰囲気は、この作品になんとも世紀末的な魅力を与えています。

もっともこの「ウィーンの血」がイギリスで出版されたのは1999年(日本語訳は2000年)。まさしく世紀末真っ只中の作品なので、ある意味では当たり前なのですが。

さて文体はともかく、ミステリーとしてはこれはホワイ・ダニット(何故そのような犯罪が行われたのか、理由を追求するミステリ)に分類されます。そしてその結論はかなり驚くべきものではないかと思います。少なくとも私には予想だにできませんでした。
権威あるCWA賞シルヴァー・ダガー賞を受賞していますが、納得です。

なお装飾的な文章が嫌いな人にとって、この作品は相当にウザイものに感じられると思います。そんな方にはあまりお薦めできません。念のため。

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2006年11月 9日 (木)

「運命交響曲殺人事件」 由良三郎

200611091984年の第2回サントリーミステリー大賞の大賞受賞作。なんといっても作者が東大の医学部教授というのが話題になりました。(正しくはその2年前に定年で退官した東大医科学研究所の教授。)

当時を思い出すと、最初はやはり「う、運命?こともあろうに?ちょっとしたクラシック通ならもうすこし凝った曲目を選ぶんじゃないの?」といった反応だったでしょうか。

ま、そんなこんな少々<?>な気分で読み出すと。――なんと主人公の県警捜査一課長はエアチェックマニア。FM放送から録音した膨大なカセットテープをコレクションしているという設定。かなり嬉しくなっちゃいました。
タイトルこそ「運命交響曲」などと初心者っぽいんですが、実際には作者は相当なクラシックファンであることが、読み始めるとすぐにわかります。

で、そのベートーヴェンの交響曲もトリックに有機的に結び付けられていて、<クラシック好き&ミステリ好き>としては、かなり満足させられます。もっとも本当にこのトリックが可能なのかどうかは、多少疑問に感じなくもないし、もうひとつゲネプロがらみの重大な問題もあるんですが。


これはその後もミステリー作家として活躍した、由良さんのデビュー作ということになる訳ですが、おそらくかなりのミステリー好きでもあったのでしょう。医科学研究所ウイルス研究部の教授だったにもかかわらず、処女作でペダンティックに専門分野の知識を披露するような目くらましに頼らず、直球で勝負してきたところが立派だったと感じました。

ただ今回20年ぶりに読み返して見ましたが、さすがに文章と単語の選択の両方で、古さを感じさせるところがあります。
登場人物はクラシックのことを『洋楽』というんですが、84年ぐらいの段階で、そういう言葉遣いだったでしょうか?ちょっと覚えていないんですが。(今だと『洋楽』は非クラシックの外国曲全般という意味で使われるでしょうか。)
この作品に続く「殺人協奏曲ホ短調」では、登場人物がショスタコーヴィッチの音楽を『超近代音楽は難しくて』などと言っていて、笑っちゃいます。なるほど。近代音楽を超えてるから、超近代音楽。

主人公の家庭でビデオを買うかどうかを悩んでいたり(今なら安いものだと1万円ちょっとで買えますが、当時はビデオは10万円以上したと思う)、クロームテープなんていう懐かしい単語が出てきたり、ニヤニヤするところが随所にあって、作者の意図とは全く無関係に楽しめます。
(トルコ風呂という単語も出てきますが、こういうのは時代の証言なんだから、絶対にソープランドに変えたりしないでほしいところです。)

由良さんは大正10年生まれ。おそらくこの世代のクラシック好きだと、SPで繰り返し繰り返しベートーヴェンの交響曲第5番を聞くというのが、王道だったのかもしれません。処女作を「運命交響曲」にしたのは、単に世間で一番知られてるクラシック曲だというだけでなく、私たちには分からない強い思い入れがあったのかも。(85年には「葬送行進曲殺人事件」という作品を発表。当然エロイカだと思って読んでみたら、現場が葬儀場だというだけで、音楽とは何の関係もない小説でした。)

日本の本格推理小説の世界は、赤川次郎さんの登場で全く違う段階に入りましたが、由良さんはデビューこそ遅かったものの、スタイルはそれ以前の横溝正史風の趣を残した、ちょっと古いタイプのミステリー作家に分類できるのかもしれません。惜しいことに一昨年亡くなられました。

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2006年9月24日 (日)

「ピアノ レッスンズ」 ノア・アダムス

20060924pianolessonsjp音楽好きのノア・アダムス氏は51歳にして、突如「ピアノが弾けるようになりたい」と思い立ちました。この「ピアノ レッスンズ」はそんなアダムス氏がゼロから始めて1年間、その悪戦苦闘の日々を綴ったドキュメント、というか体験記(というかエッセイ?)です。

このブログでは、あまりカテゴリーを増やしたくないので、便宜上『ミステリー&音楽』に入れましたが、勿論ミステリーではなくってノン・フィクション。でもまるで小説のように楽しく読めます。

アダムス氏はまず大枚をはたいて、スタインウェイのピアノを購入します。「ええっ、スタインウェイ!?」と日本人なら驚愕するところですが、アメリカ人にとってのスタインウェイは日本人にとってのYAMAHAやKAWAIのようなもんなんですね。家庭用のアップライトも作ってるのです。

そして練習を始めるんですが、まあ当然のようにすんなりとはいきません。彼は初心者用のコンピュータ・ソフトを使ってみたり、初めてピアノを弾く人のためのセミナーに申し込んでみたりと四苦八苦を続けます。

そして12ヶ月。いったいアダムス氏はピアノが弾けるようになったのでしょうか?それともせっかくのスタインウェイを中古屋に引き取ってもらったのでしょうか?もしかして叩き壊して薪にしてしまったのでしょうか?

著者のノア・アダムスというひとはワシントンDCのラジオのパーソナリティなんだそうで、有名人へのインタビューの話も随所にさしこまれます。
でもどうやらこの1年間、アダムスさんの興味は仕事のシーンですら、やたらピアノに向かっていたみたい。インタビューした人の中には、「ペリカン文書」などで名高い作家のジョン・グリシャムも含まれていました。

「ジョン・グリシャム?本人に会ってきた。金持ちだ。賭けてもいい、彼はピアノが弾けない」

またこの他に(ピアノのレッスンの話だけでは、さすがに本1冊はもたないので)、音楽関係の話題も色々とさしはさまれています。

私が面白かったのは、スタインウェイ以上の高級ピアノを目指して旗揚げした、アメリカの小さなピアノメーカーの話(現在は製造してないようです)。
スタインウェイやベーゼンドルファー、ベヒシュタイン、エラールといった歴史のある有名なピアノ、ピアノ・メーカーについてなら、それなりに読むことも調べることも出来ますが、音楽史の片隅で埋もれてしまうようなエピソードは他では読めませんし、なかなか興味深いものです。こうした話を掘り起こすことができるのも、マスコミ人ならではと言えるかもしれません。

翻訳は中央公論社から出版されています。曲名や人名の固有名詞の訳で、音楽出版社とは違うものがあり、微妙に違和感(シューマンの「予言の鳥」をわざわざ『プロフィット・バード』と英語で書かなくても・・・)を覚えなくもありません。

※ 画像の一部はSozaiRoom様からお借りしました。

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