ミステリ&美術

2008年3月 5日 (水)

「僕はジャクソン・ポロックじゃない」 ジョン・ハスケル

20080305haskelljp新聞のテレビ欄をながめていたら、今日BSでエド・ハリスの「ポロック」をやっていたんですね。
アメリカの画家ジャクソン・ポロックの伝記映画であるこの「ポロック 2人だけのアトリエ」は、俳優のエド・ハリスが自ら監督・主演した作品で、妻役のマーシャ・ゲイ・ハーデンがアカデミー賞とNY批評家協会賞の助演女優賞をとっています。

私はアメリカ映画は(招待券もらったとき以外は)見ないことにしているんですが、この「ポロック」だけは、うっかりアメリカ映画であることを忘れて劇場で見てしまいました。アメリカの画家の伝記をアメリカの俳優が監督・出演してるんだから、アメリカ映画に決まってるのに、私はいったい何を勘違いしてしまったのでしょうか?でもねポスターを見てヨーロッパ映画のような気にたぶんなっちゃったと思うんです、きっと

で、その「ポロック」今日の放送は気づいたのが遅くて見逃してしまいましたが、放映記念ということで、映画とは何の関係もありませんが、ジョン・ハスケルの「僕はジャクソン・ポロックじゃない」を取り上げてみました。

ジョン・ハスケルという人はカリフォルニア州の生まれ。UCLAを卒業後、俳優、パフォーミング・アーティストとしても活躍していたという人だそうです。2003年にこの「僕はジャクソン・ポロックじゃない」で文壇デビューしました。この処女作は短編集なんですが、かなり評判をよび、2作目も(今度は長編らしいです)すでに出版されてるとのことです。「僕はジャクソン・ポロックじゃない」の邦訳は2005年に白水社からでました。

便宜上ミステリ&美術のカテゴリーに入れましたが、ミステリではなく日本流分類では純文学のジャンルに入るんだろうと思います。

全体は9つの短編からなり、それぞれの短編がさらにいくつかのエピソードの集合体として構成されています。それらのエピソードは主人公がポロックだったり映画俳優だったり、音楽家だったりと、実在するアーティスト、あるいは実在するかどうか不明の有名・無名人(人でないことも)達を主人公としています。

『しかし、映画や芸術の世界の超有名人であれ、「珍獣」であれ、主人公たちは精神的な不安やアルコール依存症など、心理的な暗部を抱えた人物として扱われている。』

というのは巻末の解説からの引用ですが、さらにこの解説にも書いてあるように、「わたし、僕」という一人称で物語を語る人物が登場したりもします。登場しない場合でも「わたし、僕」の存在は常に読者に意識させるように書かれており、この人物の反応と、登場する有名人&非有名人たちの心理の動きとが、重なったり離れたりと、とても不思議なポリフォニーを演奏します。

主人公のアーティストと、著者としての「わたし、僕」とが重なり合うというと、なんとなく三島の「金閣寺」とかドミニク・フェルナンデスの「天使の手の中で」とかウザい系の大作を連想してしまいますが、もっと乾いていて洗練されている感じです。といってもニューヨーク派のおしゃれな雰囲気でもないのですが。
また三島やフェルナンデスのように枠組みの中にすっぽり著者が入り込んでしまうとか、作者が完全に主人公と同一化してるとかいうのとはまるで違って、ここでは<作者=わたし、僕>は主人公たちとは離れたりくっついたり、なんとも定義しがたい存在となっています。

短編中で並行して語られるいくつかのエピソードも、全然違う話が一つに収斂したりしなかったり、なかなか一筋縄ではいきません。知的、技巧的と評されてるようですが、確かにその通りという感じが。

ところで上に取り上げられるアーティストとして、「音楽家だったり」と書きました。そして「重なったり離れたり」の「ポリフォニー」とも書きました。となると登場する音楽家がグレン・グールドなのは、あるいは必然といえるでしょうか。

グールドの項目は、小説というよりもむしろシナリオ的に書かれています(あるいは組曲的に)。グールドだったらさもありなんという話ばかりですが、無論これらは作者の創作です。ちなみに作者はオーソン・ウェルズとゴダールに影響をうけ、彼らの映画の作り方を小説に取り入れてるらしいです。

著者のキャリアの関係もあるのでしょうか。ここで一番多く取り上げられてるのは映画や俳優の話です。

ハスケルはここでちょっと奇妙なテクニックをつかっています。映画の筋を追いながら、ちょっと一部を省略することで、読者をミスリードするのです。読み手は次の章に入って、作者にミスリードされたことを知ります。しかし作者は嘘をついたり、わざと間違ったことを書いてるのではありません。ただほんのちょっとしたことを省略するのです。

こんなテクニックを使う人が選ぶ映画がヒッチコックの「サイコ」だったりするのは、これもまた必然といえるでしょうか。ここでは話の軸が映画の登場人物になったり出演する俳優になったりと、きわめて技巧的に構成されているのですが、嫌味は無くそのあたりに著者の力量を感じます。

最後、9つ目の短編のタイトルは「奥の細道」。もちろん松尾芭蕉が登場します。

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2007年10月30日 (火)

「ダーティホワイトボーイズ」 スティーヴン・ハンター

20071029hunterjp アメリカの人気作家スティーヴン・ハンターの94年の作品。日本では97年に扶桑社ミステリーから邦訳が出版されました。めちゃくちゃ分厚くて文庫本で730ページもあります。

ハンターは当初ポリティカル・スリラー、軍事アクションの名手として登場しましたが、この「ダーティホワイトボーイズ」 を含む一連の『スワガー・サガ』によって警官小説・犯罪小説の書き手としても超一流であることを証明しました。

日本では大変に残念なことにシリーズ第1作の「極大射程」の翻訳が後にまわされ、この第2作「ダーティホワイトボーイズ」 と第3作の「ブラック・ライト」が先に紹介されるという逆転が起きてしまったのですが、それもしょうがないと思わせる程に「ダーティホワイトボーイズ」 は魅力に満ちています。
(「極大射程」は今年、映画が公開されましたからご覧になった方も多いかと思いますが(私は見てませんけども)、専門的な銃の解説が重要であったり、少し地味な部分があります。そのため後回しになったのかもしれません。)

ハンターの小説の主人公はおおむね――この「ダーティホワイトボーイズ」 の警官パド・ビューティも含めて――寡黙で地道に仕事を積み重ねていき、しかもここぞという所では決して勘所を逃さない、勇気と能力と信念を持った男たちが、あてがわれています。
ということはつまり、かつてゲイリー・クーパーやヘンリー・フォンダが演じた西部劇のヒーロー像をそのまま踏襲しているといえるでしょう。無論1980年代以降に発表されているわけですから、クーパーやフォンダで済むわけではなく、警察の同僚の若い妻との不倫に悩んでいたり、ヴェトナム戦争での心の傷を負ってたりと、それなりの影を引きずってはいるのですが。

「ダーティホワイトボーイズ」 の一方の主人公である警官パドは、3人を殺して重犯罪刑務所から脱走し、次々と殺人を重ねていく終身刑の囚人ラマーの一味を追いかけます。
このラマーと、一緒に脱走した2人、新たに加わる女の4人組が、作品のもう一方の主人公となります。主人公という言い方は変なのですが、この犯人側の描写があまりに鮮烈で、作者の意図にかかわらずそういいたくなってしまうのですね。この作品は警官小説であると同時に一種のピカレスク(悪漢小説)ともなっています。

ということで普通に考えるとひ弱なインテリ好みの音楽だの美術だのという分野は、ハンター小説には似合わないわけですが、時々ハンターは教養の一端を覗かせることがあります。ごくさりげなく映画の話題が挿入され、映画好きの読者をニヤリとさせたりもします。

それもそのはずでハンターはもともとノースウェスタン大学出身の新聞記者で、長く書評や映画評を担当、96年からはワシントン・ポスト紙の映画批評担当部門のチーフをつとめているのです。

ということで話を小説に戻すと、一緒に逃げた2人のうちの一人、リチャードは富裕な家庭で育った画家志望の人間で、本来なら極悪人が収容される重犯罪刑務所には相応しく無い人物。

入所してすぐにライオンの絵を描いたのが同房のラマーの気に入って、リチャードはラマーの庇護下にはいります。
リチャード自身もなぜにラマーがライオンの絵を気に入り、リチャードにライオンを描くように求め続けているのか判りません。

捜査の途中でリチャードが描いたライオンの絵を入手した警官パドは、なんらかの手がかりになるものと感じて、図書館でいわゆる泰西名画にあらわれるライオンの絵を調べます。

そこで出てくるのがドラクロワの素描「頭部を高く掲げ、左に首をねじったライオン」Lion tourné vers la gauche, la tête levée(1954)。一応リンクしましたが、なにしろデッサンなので、他にいくつもおなじ題名のものがあるかもしれません。必ずしもこれを小説の中でパドが見たとは言い切れないのですが。
(なおこれはデッサンをさらに複製したものの写真のようですが、まあ同じと考えていいと思います。)

20071030dealcroix1jp ところで小説とは関係ありませんが、ドラクロワはなぜか大変にライオンが好きでライオンを主題にした絵画、デッサンの類を数多く残しています。
右はその中でも最も有名な「ライオン狩り」1855年の作品でボルドー美術館にあります。構図が中途半端な感じですが、実はこの絵は火事で損傷してしまい、上3分の1が欠けてるそうです。

20071030delacroix2jp 左は同じ主題でシカゴ美術館にあるもの。1861年の作品です。ドラクロワはライオンのほかに馬も好きで、激しく荒々しいものに惹かれていたのかもしれません。

なお「ライオン狩り」を主題にした作品は、このほかにオルセー美術館にもありますし、ボストン美術館やエルミタージュ美術館にもあります。私はたまたまどれも写真を持ってないので、ボルドーとシカゴのものだけ載せましたが。

閑話休題。パドはライオンを手がかりに、ついにラマー一味の居場所をつきとめます。緊迫する展開、迫真の銃撃戦など、見せ場が続くので、パドが図書館でドラクロワの素描を見たシーンなどは、すっかり頭から消え去っているのですが、、、、ラストシーンでそれまで脇役に甘んじていたリチャードが主役に転ずると、記憶の湖底からフッと浮かび上がってくるかのように、再び顔を見せるのです。「頭部を高く掲げ、左に首をねじったライオン」が。
――で、読者は思わず『上手い!』と唸るという寸法です。

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2007年10月10日 (水)

「フェルメールの闇」 田中 純

20071010tanakajunjpこの小説の表紙はフェルメールの「絵画芸術」。開くと口絵ページがあって、そこには「デルフトの眺望」。と思いきや・・・どう見てもそっくりなのですが、両方とも日本人画家の青木敏郎さんが描いた模写。

これはかなり凄いです。あとがきによれば青木さんはこの模写を描くに当って、絵の具に混ぜる砂を調達しようとしたところ、現代のデルフトの砂がフェルメール時代とは違って粒子が粗かったため、代わりにガラス粉を使ったんだとか。

というわけでこの小説、テーマは贋作。もちろんフェルメールのです。
作者の田中純さんは1946年、福岡県生まれ。71年大蔵省に入省。80年に在ブラジル一等書記官となり、85年退官という、ミステリ作家としてはなかなか渋い経歴の持ち主です。

この「フェルメールの闇」は2000年にマガジンハウスから出版されました。(田中氏は他に中央公論社から「東京遊民」などという本も出しているようです。)

主人公は帝国美術館につとめていたものの、美術館が購入したルノワールを贋作と主張して、結局は退官する羽目になった元学芸員の光岡。光岡は美術館を辞めた後、美術品収集を趣味とするサラ金社長に拾われ、その会社の顧問をしています。
そんな彼の前に、ある日かつてボストンの美術館から盗まれ、いまだ見つかっていないフェルメールの「コンサート」が出現します。持ち込んだのは画廊に勤める美女、美奈子。
「コンサート」はどうみても本物。美奈子はこれを光岡が顧問を勤めるサラ金会社の社長にただでやるから、代わりにロンドンのファザビーズでオークションにかけられる予定の、新発見のフェルメールの「自画像」(!)を競り落とすように、社長を説得して欲しいと依頼します。

こうして光岡は本物と模写、模写と贋作が織り成す、深い闇の世界に引きずり込まれることになります。

作者は当然フェルメール・ファンなのでしょう。大変な力作で、フェルメールに関しても、模写・贋作に関しても該博な知識が盛り込まれ、美術好きならわりと楽しめますし、勉強にもなると思います。

惜しいのは人物像で、主人公の光岡もヒロインの美奈子も造形が大変に曖昧で、文学的な興趣を削ぐことになっています。地の文章は正確・清潔で好感がもてますが、台詞がかたいのもちょっと残念。(もっとも文章がカッチリしすぎるとミステリアスな雰囲気って出なくなるものなんですね・・・)

ミステリとしては時に瑕疵というか少々疑問なところが見受けられるのと、一流の作品には必ずある「やられた!」という『騙される爽快感』とか、思わず唸る鮮やかな構成の妙とかに欠けているのが問題でしょうか。せめてラストなどもうちょっとなんとかならなかったのものか・・・。書き下ろしだそうなので、息切れしたのかもしれませんが。

タイトルの「フェルメールの闇」。私はどうもフェルメールという名前と『闇』という言葉がうまくマッチしないように思いますけども・・・。

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2007年7月13日 (金)

「フェルメール殺人事件」 エイプリル・ヘンリー

20070713henryjpフェルメール殺人事件などという安易な題名。なのにフェルメールとはなんの関係も無い表紙絵(この項の最下行を参照)。
「魅力的な男性二人の間でとまどうクレアだが・・・」お前はハーレクイン・ロマンスかと突っ込みたくなるような宣伝文句。
まったく講談社はこの本を売る気あるのか、という感じがしますが、最初の頁を開くと――

「錯乱円=サークルズ・オブ・コンフュージョン

レンズの収差や焦点が合わないためにフィルム上にあらわれるぼんやりした円状の像のこと。初期のカメラで、像を上下逆に映すピンホールカメラによって生じる。技法の特徴からしてフェルメールは、そのカメラのぼんやりした性質をつかったと思われる。彼の作品の多くに"錯乱円"の技法が見られる。」

Circles of Confusion というのが、この作品の原題。
初めはいまいち乗れないけれど、ネタ不足の折、フェルメールの名前がついてるから、とりあえず読んでみますか、――と言う感じで読み出した訳ですが、この最初の頁でちょっと興味をひかれました。

期待したのはピンホール・カメラとフェルメールの関係だったんですが、残念ながらそちらの展開はほとんど無し。(ちなみにフェルメールは初期のカメラであるカメラ・オプスクラを使ったのではないかとも推測されていて、「デルフト眺望」などにその影響を見る人もいます。)
美術がらみでも新しい知識を仕入れることが出来るとか、作者の斬新な意見を読むことが出来るとかいうことも、まるでありません。
で、そちらの期待は満たされなかったんですが、意外!この本、面白いのです。

その最大の理由は、ヒロインが非常に上手く描けてること。
まずオレゴン州で自動車局に勤め、ナンバー・プレートの審査をしているという設定がユニーク。日本は記号と番号だけですが、アメリカはアルファベットの組み合わせに出来るんですね。で、なにがしかのお金を払えば、好きな言葉を車のナンバープレートにつけられるみたいです。主人公クレアの仕事は申請のあった文字列が卑猥な意味を持ってたり、反社会的な単語になってたりしないかを審査するもの。

そんな、世にも地味~な職業についている平凡な女性が、なぜにフェルメールが関係する殺人事件に??――ということで続きは、小説の方でどうぞ。

あと戦時中の美術にかかわる話が出てくるんですが、そういう時は大体ナチスの問題だけが取り沙汰されるのがパターンで、戦後にドイツに駐留したアメリカ軍の悪行にスポットをあててるのは、珍しいんじゃないでしょうか。

ただし、この作品が面白いのは、あくまでもロマンティック・サスペンスとしてであって、本格美術ミステリーとしてはさっぱりなので、そっちは期待なさらぬよう。
ん?つまり講談社の売り方で正解ってこと・・・?

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2007年6月27日 (水)

「写楽殺人事件」 高橋克彦

20070627takahashijp高橋克彦さんは、誰も知らない人がいないような人気作家ですし、この「写楽殺人事件」も大変に有名な作品なので、いまさら紹介するまでもないかも知れませんが。

1983年に出版された作品で江戸川乱歩賞を受賞し、高橋さんの名前を一躍世に知らしめました。

写楽ですから当然「写楽とは誰だったのか?」という謎がからんできます。その謎と、現代を舞台にした事件とが、密接に結びついて話が進んでいくんですが、単純に誰だったのかの謎と、小説のストーリーとが並行して進んでいくわけではありません。作者はまず冒頭で写楽が誰だったのかを明らかにしてしまいます。

そしてすべてを読み終えて、再び最初の頁を開くと・・・唸ります。絶妙。

この作品は高橋さんの出世作ではありますが、処女作ではありません。習作は別として処女作となるのは、小説現代のコンテストに応募した、ヨーロッパ旅行の体験談で、この時高橋さんは編集長から「10年間何も書くな」と言われたんだそうです。
高橋さんはこれを忠実に守ったとのことですが、これはいったいどういうことだったんでしょう?

なんとなくシュヴァルツコップがベルガンサに向って「あなたは歌手に向いてないからスペインに帰りなさい」と言ったという話を思い出しますが、しかしこの10年間の蓄積が、作家高橋克彦の誕生に大きく寄与していた可能性は、もちろんあります。
若くして職業作家になってしまったら、無類の幅広い教養をもとにした、今のような八面六臂の活躍はとても出来なかったかもしれません。

高橋さんには何年か前に、旅番組の取材でインタビューしたことがあります。
直木賞を受賞した「緋の記憶」に登場する、岩手県花巻市の鉛温泉(※)について話していただきました。

なんというか物凄い巨大で底知れないものを持ってるような人で、テレビカメラの前では落ち着いた感じで必要なポイントだけポンポンと喋るんですが、雑談になると出るわ出るわ。もう古代から近世までの東北の話だったら、何を聞いても知らないことありませんみたいな・・・。

デビュー時には東北をベースにした本格推理作家の誕生かと思われた高橋さんですが、その後はミステリーは勿論のこと歴史小説、時代小説、伝奇小説、ホラーと一気に活躍の場を広げました。たぶん頭の中から、どんどんと溢れ出てくるんでしょうね。

(※ なお作品中には温泉や旅館の固有名詞は出てきません。この鉛温泉はもうなんと言ったらいいのか――すこぶる付きでユニークな温泉なので、そのうち「東北の温泉」シリーズで取り上げようと思っています。)

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2007年5月10日 (木)

「狼の帝国」 ジャン=クリストフ・グランジェ

20070510grangejpジャン・レノ主演の映画「クリムゾン・リバー」の原作で、日本でも圧倒的な支持を得たジャン=クリストフ・グランジェの2003年の作品。邦訳は2005年に出版されました。

基本的には美術とは関係ない話なんですが、2つだけ美術にかかわる要素が出てきます。

一つは連続殺人の被害者の女性たちが、皆まるで鼻や手が欠けた古代彫刻のように、身体の一部を無残に切り取られていたこと。この小説の主人公の一人(複数の重要登場人物がいて、誰を主人公とすべきなのか判らない)警部のポールはそこから犯人は、古代ギリシャなどの彫刻に強い執着を持っている人物ではないかと推測します。

そしてもう一つはやはり主人公の一人である記憶喪失の女性アンナが偶然あるギャラリーで出会う絵画です。

アンナは非常にしばしば記憶を途切れさせる上に、時に人の顔が奇妙に歪んで見えるという心の病に侵されています。

あるとき彼女はギャラリーで、まるで彼女の視覚の中でぐちゃぐちゃに変形していく人物そっくりの絵を発見します。

それがフランシス・ベーコンの作品。

ベーコンといえば「知は力なり」で知られる16~17世紀イギリスの大哲学者で、目玉焼きに添えたり、野菜と炒めても美味しいですが、アイルランド出身の20世紀でもっとも重要な画家の一人でもあります(1909-1992)。映画好きにはベルトルッチが「ラスト・タンゴ・イン・パリ」のタイトルバックに使ったことでも、おなじみですし、デレク・ジャコビがベーコン役を演じた「愛の悪魔/フランシス・ベイコンの歪んだ肖像」という作品もありました。

このアンナがベーコン作品に出会うエピソードが、その後小説の中で、どう発展していくのか期待したんですが、実は何の発展もしません。

人間存在の不安を表したと言われる、ベーコンの作品と主人公の存在の不安をシンクロさせたかったのかとも思うんですが、どうもそういうことでもないみたいで・・・

単純にアンナの頭の中で、人物の顔がどんな風にデフォルメされて写るのかを、示したかっただけなのかも。ちょっと残念。

もっともそれはこちらの勝手な思い込みで、小説自体はさすがベストセラー作家だけありますね。
全く違う2つの話が、別々に進んでいくんですが、それが中盤で一つに収斂するあたりなど、やはりぞくぞくします。まあミステリー・ファンはことさらに、この手の構成が好きということもありそうですが。

ベーコン作品は著作権の関係でここには出せないので、リンクだけしておきます。
これとか、これとか、このページの下の方とか。

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2006年12月19日 (火)

「墜落のある風景」 マイケル・フレイン

20061219headlongjp フレインの「墜落のある風景」は、ユーモア・ミステリーのジャンルに入る作品なんですが、単に小説としてだけでなく、ブリューゲルの謎を解くいわば「美術ミステリー」としても、なかなか面白い作品です。
前に「名画と名曲」シリーズで、ブリューゲルを取り上げたときにも、チラッとだけふれました

主人公のマーティン・クレイはなんと哲学者。しかし美術史家の妻ケイトの影響もあって、このところ美術作品の意味を探るイコノロジーに凝っています。

そんなときに偶然クレイは隣家で1枚の古い絵を発見します。

これは、これは、もしやブリューゲル?
しかももしかすると失われた「月暦画」の1枚では?

ということで、その隣の家の男からうまくブリューゲル(らしき絵画)を掠め取り、ガッポリ儲けた上に、美術史家としても名をあげようとするドタバタと、本当にブリューゲルで、本当に月暦画の1枚なのかどうかを推理していく美術ミステリーとが、ほどよく溶けあって進んでいきます。

作者のマイケル・フレインは1933年、ロンドンの生まれ。「ガーディアン」の記者などを経て、コラムニストへ。

小説が日本で紹介されるのは、「墜落のある風景」(1999、邦訳は2001年・創元推理文庫)が初めてでしたが、この作品の前に小説8作、哲学書(!)1冊、戯曲13本、映画とテレビのための脚本3本を書いていて、チェーホフの翻訳などもしているそうです。

もっともフレインは日本では小説家としてよりも、むしろ戯曲作家として有名でしょうか。

「コペンハーゲン」は2000年度のトニー賞を受けていて、日本では2001年に江守徹の主演で上演されましたし、「デモクラシー」は去年、鹿賀丈史と市村正親の共演で話題をよびました。また「ノイゼス・オフ」は世界各国で人気を博してるそうで、日本でもやはり去年、新国立劇場で井川遥らの出演で上演されました。

この「墜落のある風景」の巻末の解説に、カート・ヴォネガットの言葉が引用してありました。「マイケル・フレインは私のお気に入りの英国ユーモリストである。」
カートはこの作品についても「わが愛するユーモア作家マイケル・フレインは今回ミステリ仕立ての物語と、眠りを誘う――もとい、異常なまでの博識を駆使して、偉大な絵画は、偉大な音楽と同じく、惚れぼれするほど華々しく人の心をひっかきまわすことができると証明してくれる」なんぞと賛辞を述べています。

それで、この「墜落のある風景」、絵画好きにはすこぶる楽しめる小説だと思うんですが、少なくとも日本ではこの作品が凄く人気があるとか、高く評価されてるなどという話は聞いたことが無いので、美術が好きじゃない人にはあまり関心を呼ばないタイプの小説なのかもしれません。

でもたとえ美術に興味が無い人でも、私のブログを(少なくともこの春から)読んでくださってる方でしたら、ブリューゲルについては基礎知識バッチリだと思うので、すんなり読めるはずです。
――と、最後は手前味噌でしめる。

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2006年12月 9日 (土)

「モジリアーニ・スキャンダル」 ケン・フォレット

20061209follettjp映画化もされたベストセラー小説「針の眼」(1978)で、まさに彗星のように私たちの前に登場したケン・フォレット。
日本人にとってはまれにみる大型新人の出現だったわけですが、実は本国イギリスではすでに10作もの作品を発表していたというのは、後から知りました。

その頃の名前はサイモン・マイルズだとかザカリー・ストーンだとかいうのだったそうで、う~ん、確かにケン・フォレットに比べるとなんか弱いかも(失礼)。

この「モジリアーニ・スキャンダル」はそのストーン時代に書いたもので(1976)、フォレット自身も強い愛着を持っている作品のようです。

作品は「針の眼」以降の重厚長大なものとは違って、軽やかな筆致のクライム・ノヴェル。

まず女子学生ディーがパリで知られざるモジリアーニの作品を捜す手がかりを得て、イタリアに旅立つシーンで始まります。
失われた傑作を探す話なのかと思いきや、舞台はロンドンに移り、こんどは贋作の話に。
いったいこれは何の話なの?と思う間もなくストーリーはどんどん変な方向へ。

いくつもの話が並行して語られていって・・・いったいこれはどうなるんだろうと思うと、さすがはフォレットというべきか、最後はきっちりと話が収束します。それこそ故アルトマン監督あたりが映画化したらピッタリだったような。

部分・部分の表現や描写が特にユーモラスということはないのですが、全体に英国風なのか、ひねったユーモアがあり、後のフォレットには見られない一面かもしれません。

ただ、この作品はモジリアーニを主題にしているとはいうものの、画家の知られざる一面などの新しい知識を得られるとか、モジリアーニを見るときの視点が変わるとか、そういうことはなく、単なる題材として取り上げただけのようです。
モジリアーニの必然性は薄く、 The Modigliani Scandal というタイトルがおしゃれっぽいから、モジリアーニにしただけかも。

なおロンドンの名だたる画商を騙せるような贋作が、あまりにも簡単に作られるというあたり、いかになんでもムリがあるように感じます。

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2006年10月26日 (木)

「さらば死都ウィーン」 ダニエル・シルヴァ

20061026silvajp美術修復師ガブリエル・アロン シリーズ』という副題がついています。

このタイトルで、しかも主人公は美術(絵画の)修復師。当然、ウィーンを舞台にハプスブルグ家秘蔵かなんかの失われたマスターピースが見つかって、それをめぐって殺人の嵐かなんかが巻き起こるんだろうと。――普通そう思わないでしょうか。

読んでびっくり。確かに主人公は絵画の修復師(それも一流の)なんですが、それは世を忍ぶ仮の姿。実はイスラエルのエージェントだったのでした。
それに最初の殺人はウィーンで起きるものの、すぐに舞台はヴェネツィアやらイスラエルやら、アルゼンチンやら、アメリカやら、ミュンヘンやら、チェコやら、ポーランドやら世界中に広がります。(バビ・ヤールの谷のこともちらっと出てきます。)

テーマは美術とは何の関係も無く、ホロコースト。
あとがきを読むとこの作品はホロコーストの未解決の問題をテーマにした三部作の完結編ということで、その第一作(未読ですが)はナチスによって略奪された美術品がテーマだったのだそう。それで主人公を絵画の修復師に設定したのかもしれません。

作者のダニエル・シルヴァはUPI通信の記者の後、CNNで報道番組のプロデューサーをつとめた人。ユダヤ系なのかどうかは書いてないので分かりません。
作品自体がつまらないわけではなく、ホロコーストの問題を扱うことは重要だとも思いますし、歴史に立脚してるので知識も得ることができます。
ただ、現在のイスラエルの立場も疑うことなく100%の正義として扱っていて、そこにどうしても抵抗を覚え、素直に楽しめない部分があります。

なお原題は A Death in Vienna。もしかするとDeathは民主主義の死とか正義の死とか、そういう意味も込めてるのかもしれません。それにしても『デス・イン・ヴィエンナ』って、ちょっと恥ずい題名かも。さすがに邦題を「ウィーンに死す」とは出来なかったんでしょうね。

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2006年10月 9日 (月)

「マティス・ストーリーズ 残酷な愛の物語」 A.S.バイアット

20061009matissejpどうも体調が悪かった上に、ごたごたも重なって、まったく書けないでいました。ぼちぼち更新を再開したいなと思っていますが、虫食い状態になるかもしれません。

ということで「マティス・ストーリーズ」。

画家アンリ・マティスの作品にインスパイアされた3つの短編をおさめた小説集。日本語版は「残酷な愛の物語」という副題がついています。
3つの短編それぞれで、マティスの作品に対するかかわり方は異なっています。

第1話は「薔薇色のヌード」。
絵(Le Nu Rose ,1935)の方はわりと有名な作品で、ボルティモア美術館にあります。マティスは1954年に亡くなっていて、版権が微妙なので画像へのリンクだけ貼っておきます。
http://www.clas.ufl.edu/users/dbremm/img1028269374.jpeg

「ある日、彼女がその店に入ったのは、窓こしに《薔薇色のヌード》が見えたからだった。変わっているわ、と彼女は思った。コート掛けの上に、あの豪薯で立体的なヌードが肉感的に横たわっているなんて。」

と、始まるこの作品は、日本版の表紙がなかなかおしゃれにまとまってることもあって、なんとなく『アーウィン・ショーの短編のような感じなのかな?』なんて思って、読み始めました。
それは違っていたのですが、でもその間違った先入観のせいで、私は舞台がニューヨークだとばかり思って読んでいました。途中でチャリング・クロス・ロード(ロンドンの)なんて場所が出てくるからびっくり。。。。。

あわてて作者の略歴を見ると、

作者のアントニア・スーザン・バイアットは1936年生まれのイギリス人。もともとはロンドン大学で英文学を教える学者で、批評家としても有名な人だそうです。それが小説を書き始めて、最初は一部の人にしか注目されなかったようですが、90年発表の「ポゼッション」でベストセラー作家の仲間入り。人気作家のマーガレット・ドラブルの妹で、現代のブロンテ姉妹などと呼ばれているとか。

3つの短編は、どれも知的職業についている中年女性を主人公にしていて、まずこの「薔薇色のヌード」では、マティスの作品が、あるいはその喪失が、主人公の女性の心の秘密をあらわにしていきます。そして、ちょっとオシャレでちょっと皮肉なエンディング。

2つ目の「芸術作品」は、マティスの『沈黙の棲む家(Le Silence habité des Maisons ,1947)』をモティーフにしたもの。途中でネタばれ気味ですが、なかなか愉快な作品です。
3つめの「氷の部屋」は、『黒いドア(La Porte Noire ,1942)』をモティーフにしたもの。前の2つの作品が、どんでんがえしというには軽やかな、しかし意外な結末をもたらして、読後感をスッキリさせてくれたのに対して、ちょっとたれる感じがあるかも。

この二つの短編はいずれも、「薔薇色のヌード」に比べてマティスという画家、あるいは作品自体への言及も多く、作者のマティスへの愛情が伺われます。
文学としての評価のことは判りませんが、全体にマティスの絵の魅力を、新たに気づかせてくれるような作品といえるんじゃないでしょうか。むしろマティス嫌いの方にこそお薦めしたいと言えそうな。

(『沈黙の棲む家』『黒いドア』は、どちらも個人蔵の作品のようです。本の表紙は『沈黙の棲む家』)

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