名画と名曲Ⅱ

2012年3月 6日 (火)

髭のはえたババ ~名画と名曲・65

Jpeg 17世紀のことです。ナポリ王国に3人の子供を持つマグダレーナ・ヴェントゥーラという女性がいました。
彼女が37歳になったある日のこと、マグダレーナは口の周りになにやら異変を感じました。女の人でもうっすらと髭が生えてくる人は大勢いますが、ごわごわの男性のような濃いヒゲが生えてきたのです。しかも頭も禿げ始め、まるで男性のような容貌になってしまったのでした。

決して男が女のふりをして暮らしてたのではありません。その証拠に彼女は髭が生えた後も4人も子供を生んでるのですから。
彼女はナポリ王国の副王だったアルカラ公爵に謁見。公爵はこれを本国のフェリペ三世に知らせようと、リベーラに依頼して肖像画を描かせました。それがこの絵で、1631年に描かれたもの。現在はトレドにあります。

後ろにいるのは2人目の夫のフェリックスという人。(どの段階で再婚したのかは、はっきりとはしません。17世紀のカトリックですから離婚は出来ないと思うので、最初の夫とは死別でしょうか?)この絵が描かれた時のマグダレーナは52歳で、抱いて授乳しているのはフェリックスとの間に出来た最後の子供だそうです。

まあ、世の中には不思議なこともあるものです。オリンピックなどでセックス・チェックが行われてどうのこうのという話はよく聞きますが、ここまで立派な髭は男だってなかなか生えないように思います。女性でもお婆ちゃんになると、髪が薄くなって剥げてくる人も多いですが、まだ出産できる年齢ですからねえ…

20120306jos_ribera_2 この絵を描いたホセ・デ・リベーラ(1591-1652)はスペイン人の画家ですが、上のエピソードからもわかるようにナポリで活躍しました。
ナポリ王国は当時はスペインの属領時代にあたり、スペインから派遣された副王(総督)がおさめていたのです。リベーラがイタリアに渡ったのはかなり若い時だろうと推測されていますが、スペインに帰ることなく、死ぬまでイタリアにとどまりました。典型的なバロックの画家で、この作品でも光と影の強い対比や、恐ろしいほどにリアルな写実的表現など、カラヴァッジョの強い影響を感じさせます。

リベーラの作品の多くは宗教画なんですが、代表作の一つにルーヴルにある「エビ足の少年」というのがあります。ベラスケスも宗教画と王族の肖像画の間に小人の絵とか描いていますし、この時代障害を持った人々の絵を描くことに何か意味があったのかも知れません。

なお右側の石碑の上にあるのはカタツムリで、両性具有の象徴とされています。

さてオペラで髭の女性といえば、もちろんストラヴィンスキーの「レイクス・プログレス」のババでしょう。「蕩児の帰郷」とか「道楽者のなりゆき」とか「放蕩者のなりゆき」とか、この作品も日本語訳が一定しませんね。ヴェネツィアにおける1951年の初演では、アン・トゥルーラヴ役をシュワルツコップが歌ったことでも知られています。
ババは髭の生えたトルコ女という役で、通常はメゾ・ソプラノによって演じられます。

が・・・

当然のように現代では本物の髭を持つカウンター・テナーにやらせようと思う演出家は出てくるわけで、ブライアン・アサワがサロネンの指揮で歌ったものがDVDになっています。私は見てませんが、すごく凄いという噂です。
普通にメゾが歌ったものではモネ劇場時代に大野さんが振ったルパージュ演出のものが出てるようです。ダグマル・ペツコヴァーがババを歌っています。また、ユロフスキ指揮のグラインドボーンの上演はブルーレイで出ていて、ホックニーが舞台美術を担当してるようです。

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2012年1月 3日 (火)

聖ゲオルギウスの竜退治 ~名画と名曲・64

20120103_uccello_1 干支にちなんで竜の絵を取り上げてみたいと思います。
「聖ゲオルギウスの竜退治」は古今のさまざまな画家によって描かれていますが、そのなかからパオロ・ウッチェロ(あるいはウッチェッロ 綴りはUccello)の作品を。

ウッチェロは14世紀の終わりにトスカナに生まれた初期ルネサンスの大画家(1397~1475)。
ウッチェロにはこの題材で有名な作品が二つあります。一つは下の画像のロンドン・ナショナルギャラリーのもので、こちらのほうが有名なのかも知れません。1456年頃の作品とされています。
今日はそちらではなく上の画像の方、パリのジャックマール・アンドレ美術館のものを取り上げたいと思います。1458年から60年頃にかけて制作されたようです。

20120103_uccello2 むかしむかしトルコのとある異教徒の街では、湖に住む恐ろしい竜に毎日羊を二頭捧げることにしていました。しかしついに羊が少なくなったため、今度は羊一頭と若者を一人ずつ捧げることにしました。当然のようにだんだん若者も少なくなり、ついに最後の一人、王の娘になってしまったのです。王は悩んだ末、やむなく王女を犠牲にすると決断し、湖のほとりに彼女を置き去りにします。するとそこに聖ゲオルギウスが通りかかりました。彼は竜に戦いを挑み、勝利します。聖ゲオルギウスは喜ぶ街の人たちをキリスト教に改宗させ、去っていくのでした。
――というようなのが、すごく端折ったこの竜退治のストーリーです。竜は異教の象徴と解釈されているようです。

ウッチェロはメディチ家にも出入りし、ヴェネツィアのサンマルコ寺院のモザイクやフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレのフレスコ画を担当するなどの売れっ子でしたが、晩年には困窮したとも言われています(ヴァザーリによる。でもハッキリとは判りません)。
ご覧いただければわかるようにウッチェロのグラフィカルな画面と、くっきりした鮮やかな色使いは、レオナルド以降のルネサンスにはまったくなじまないものでした。その後も写実的な絵画を重んじる時代が続いたことから、ウッチェロの名前の正当な評価は20世紀を待たねばならず、この点ではピエロ・デッラ・フランチェスカともちょっと似ています。

さてこの絵の中で私は特に竜に注目したいと思います。竜/龍は西洋と東洋では全然捉え方が違い、私達が考えるのは蛇の体に鰐の顔を持ったようなやつですが、西洋の画家が描くのはおおむねコモドドラゴンを怪物化したようなものになるようです。

しかし20120103_uccello_3このウッチェロの絵では、竜は明らかに鳥です。骨格が完全に鳥なのです。
この右側の図はごく一般的な鳥の骨格ですが、各部の比率を少し変えれば、このドラゴンの骨格に完全に重なることが容易に見て取れると思います。ウッチェロはドラゴン=鳥として描いたのです。

これはどう考えれば良いのでしょうか?二つの考え方があると思います。

一つはウッチェロは自分のことをドラゴンだと考えていたというもの。実はウッチェロとはイタリア語で鳥のことなのです。
ウッチェロの本名はパオロ・ディ・ドーノで、鳥が大好きだったためにパオロ・ウッチェロと呼ばれるようになったのでした。
自らをドラゴンになぞらえて、それが美しい姫君の前で、騎士の槍によって刺殺される。性的妄想としたら、どんだけドMなんだよという感じですが、そのような解釈が妥当かどうかは判りません。(たぶん不穏当であろうと思います。)

もう一つは恐竜との関係です。もちろんこの時代まだ恐竜の存在というものは知られていませんでした。
恐竜の存在が明らかになるのは、19世紀の話です。しかし何故人々がまさに洋の東西を問わず、龍・ドラゴンというとてつもなく巨大な爬虫類様の怪物のイメージを持っているのかについては、「恐竜の記憶ではないか」という有力な説があります。つまり人間の祖先である初期の哺乳類が恐竜について持っていた記憶が、DNAに刻印され現在の人類にまで受け継がれているのではないかという考え方です。

そして鳥が実は恐竜の子孫であることが明らかになったのは、1980年代のことでした。当初は否定的な見解もあったそうですが、現在は鳥類の祖先が肉食恐竜だというのは常識となっています。巨大な身体でのっしのっしと白亜紀やジュラ紀の地球を闊歩する草食恐竜ではなく、より小さく早く獰猛な「ジュラシック・パーク」で恐ろしげに描かれた、あの肉食恐竜たち(の何か)です。

ウッチェロは《恐竜=鳥類の祖先説》が出される500年以上も前に生きた人ですから、そんなことを考えるはずもありません。恐竜の概念自体がなかったわけですし。なぜ彼はドラゴンを描くのに鳥の骨格を使ったのでしょうか?

理由は判りません。でも、人類のDNAに刻まれた「肉食恐竜から鳥へという、当時の哺乳類にとっては最大の恐怖だったであろう恐竜たちの進化の記憶」が、ウッチェロという天才の頭脳を通じて噴出したものと考えるのが、一番ワクワクするんじゃないかと。

さてゲオルギウスというのはラテン語名で、この人はカッパドキアの人らしいので(異論もあり)本来はギリシャ語でゲオルギオスというのがベターなのであろうと思います。英語名はジョージ、フランス語はジョルジュということになります。美術館ではそれぞれセント・ジョージとかサン・ジョルジュとかの表記になっているかと思います。

音楽の世界では、わざわざジョージやジョルジュを探さなくても、そのものズバリの人がいます。アンジェラ・ゲオルギウ。
先日の来日公演ではチケットがまるで売れず客席ガラガラで、本人が舞台に出てきてギョッとした表情を浮かべたそうですが、一昨年のコヴェントガーデン来日公演のキャンセルがあんまりで、ファンが離れちゃったんでしょうか?

私はこの人はショルティの「椿姫」だけは感動的ですし、凄いと思います。でも他の録音(パッパーノとのプッチーニやフランスものなど)は立派な声だとは思うのですが、感動はしないし、何よりもどこにどう焦点をあてて聞けばいいのかよく判らなくなってしまうことが多いのです。ゲオルギウの問題じゃなくて私の問題でしょうけど。

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2011年10月 4日 (火)

美しき女庭師(後)~名画と名曲・63

20111004 フィレンツェにやってきた当初は挫折を味わったものの、レオナルドやミケランジェロの技法をものにしたラファエロは、たちまちのうちに人気の画家となります。フィレンツェに来たのが1504年で1508年にはもうヴァチカンから招聘されてるのですから、ものすごいスピード出世と言えます。

ローマを本拠にラファエロは有名な「アテネの学堂」を始めとする壁画、「バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像」などの肖像画、そしてもちろん聖母子像を始めとする宗教画と、すべてのジャンルで傑作を放っていきます。
画像は1512~1514年ごろに描かれた「サン・シストの聖母」。ドレスデンの国立絵画館にありますが、もともとはサン・シスト教会のために描かれたので、こう呼ばれています。

ラファエロは37歳で病気で急死するのですが(熱病と言われていますが、はっきりしたことはよく分かりません。ラファエロはやたらモテモテだった上、ヴァザーリが『性愛がすぎて死んだ』などと書いているので、性病で亡くなったんじゃないかという説もあります)、その時点ですでにその名声はレオナルドやミケランジェロをしのいでいたとすら言われています。

死後ラファエロは美術の世界で神格化されることになります。ラファエロこそすべての規範であり、絵画の理想であるとする考え方が主流となり、19世紀にはそれはピークとなります。
もちろんそれに対する反動もありました。イギリスではラファエロ以前の絵画に戻ろうとする思想を打ち出した一群の人々が出現、ラファエル前派と呼ばれました。

ドイツではどうだったでしょうか?
ドイツでもやはりラファエロは神の如き存在でした。フリードリヒら当時の人気画家たちの評価も大きな影響力を持ったようで、ラファエロこそは画家の代表とみなされていました。さらに神格化と共に大衆化もあったようで、ラファエロの聖母子像が小さく複製されて、居間に飾られるというような光景が、何処の家庭にも見られるようになります。

20111004_2 1939年、亡くなる前の年にパウル・クレーは「美しき女庭師」という絵を発表します。ただしタイトルはフランス語で La belle jardiniere 。ラファエロの「美しき女庭師」を意識したのは当然ですが、クレーが見たのはルーヴル美術館でだったので、イタリア語ではなくフランス語のタイトルとなったのでしょう。
ラファエロ同様、三角形を基本においた構図が、まず目に入ってきます。

中央公論社の《世界の名画》の解説によれば、これはレストランのウェイトレスを描いたものだそうです。ふんわりと広がったスカート、忙しそうに動く足、画面右はお盆に載せた5つの――コーヒーカップでしょうか、ワイングラスでしょうか?あっちからこっちから呼ばれて、もうどっちを向いていいのか判らない顔。山盛りのチップもあります。庭園の緑もあって、公園にでも面したオープンカフェなのかもしれません。

しかしこの作品にはもうひとつクレー自身がつけた副題があります。そちらはドイツ語で Ein Biedermeier-Gespenst、「ビーダーマイアーの亡霊」と訳されています。いったいどういう意味なのでしょうか?

高階秀爾氏は1970年代に出版された「十二人の芸術家」の中で、この問題を取り上げています。
詳しくはお読みいただくのが一番いいんですが、かいつまんで書くと、これは神格化だけでなく大衆化され、何もわからないのに「ラファエロが最高」と言ってはばからない小市民階級の通俗的な趣味に対する皮肉だということのようです。

この頃のクレーはナチスによって作品が退廃芸術の烙印を押され、健康も害し、かなり困難な時期を送っていました。ラファエロを最高とし、型にはまったものをありがたがる小市民の姿は、未来を開くはずの新しい芸術を「退廃芸術」として迫害するナチスの姿と重なります。

ビーダーマイアーという言葉は家具の様式を語るときぐらいしかお目にかかりませんが、小市民の典型的な姿を意味するとされています。基本的には19世紀前半の市民階級の生活様式を言いますが、音楽の世界では昔はシューベルトの曲をビーダーマイアー様式と言っていたと思います。最近そういう表現にお目にかからないのは、シューベルトの音楽がそれだけでは捉えられない深いものを持っていることが、正当に認識されたからでしょうか。

結局はナチスにつながっていく、そうした小市民的美意識を「ビーダーマイアーの亡霊」として、皮肉を込めて描いたのだということのようですが、この作品は皮肉で描いたにしては、あまりにも美しく魅力的です。

それについて高階さんは、天使と悪魔を同時に見つめるクレーの目について語り、「ビーダーマイアーの亡霊」を描くときですら、叙情的創造力を眠らせることがなかったと結論づけています。それこそがクレーの神秘であると。
20111004_3
解釈についてはともかく、この作品はとりあえずラファエロを下敷きにして抽象的な線で画面を構成したものとみなすことができます。
具体的には左のとおり。

こう見ていくとマリアの顔が横になっていることと、その右の逆三角形が気になります。ウェイトレスを描いたものとした場合はお盆にあたるものですね。顔が2つあるのでしょうか?これが亡霊という可能性もありそうです。マリアの顔の中の図形も数字のように見えなくも無いですし、全体になにか深い意味があるのかもしれません。

さてYoutubeをうろうろしていたらこんな曲を見つけました。
http://www.youtube.com/watch?v=mL7AlTUnJEI

オリエッタ・ベルティは60~70年代に人気のあったカンツォーネ歌手。いまでもテレビ番組などでは活躍してるらしいですし、ヒット曲を集めたベスト盤などはコンスタントに発売されてるみたいです。
サンレモ音楽祭でマッシモ・ラニエリのパートナーとして「愛の詩」を歌った歌手といえば一番わかりやすいでしょうか。(デュエットという意味ではありません。サンレモ音楽祭は歌唱ではなく楽曲を競うコンクールなので、1曲を二人で歌うことになっています。)
この曲は知りませんでしたが、オリエッタ・ベルティは声もはりがあるし、歌もうまいしなかなか良いですね。

関係ないけどベルティの歌う「愛の詩」はこちら。物凄く良いです。

 

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2011年10月 3日 (月)

美しき女庭師(中)~名画と名曲・63

20111003 父親から絵の手ほどきを受けたラファエロは、父の死後ペルージャでペルジーノの弟子となります。これはおそらく作風から言って、幸福な出会いだったに相違ありません。ラファエロの才能は順調に開花し、師を超える――少なくとも師と区別がつかないぐらいの所まで来ていました。ラファエロは美貌にも恵まれました。1504年、美しく成長した21歳の青年ラファエロは、いよいよフィレンツェに進出します。

しかしここでこの才能のある若き画家は生涯ただ一度の挫折を経験します。
ミケランジェロとレオナルドの競争まっただ中の、嵐のような情熱が吹きすさぶ大都会、イタリア・ルネサンスの中心地フィレンツェにおいては、田園地帯の平和な工房で穏やかで古臭い絵を描いていた青年など、まったくお門違いだったのでした。

中でもミケランジェロはラファエロの存在など歯牙にもかけませんでした。ミケランジェロはいったいこの田舎出の青年をどう思っていたのでしょうか?
当初ミケランジェロはラファエロが訪問したいと言っても、全く会おうとしなかったと伝えられています。もちろん気難しいミケランジェロですから、才能を認めていない画家に対してなら、時間をさく気になどならなかったことでしょう。でもレオナルド・ダ・ヴィンチはラファエロを可愛がったと伝えられていて、レオナルドが認めた才能がミケランジェロに判らないはずはないでしょう。天才は天才を知ると言いますし、趣味や美的センスは正反対でも、才能は分かったはずです。
後にラファエロが有名になってからも、二人は不仲だったことで有名なのですが、どうしてなのでしょう?

ここでなんの根拠もないのに勝手に想像すると、私は嫉妬だったと考えています。
ミケランジェロはラファエロに嫉妬していたのです。才能にではありません。才能ならミケランジェロは自分が最高、(唯一レオナルド以外は)誰も追いつけないと思っていたでしょうから。ラファエロの天才を持ってしても、ミケランジェロにはそれを嫉妬する必要などありませんでした。

ミケランジェロにはレオナルドという偉大な先輩が立ちはだかっていました。レオナルドは絵画だけでなく音楽・科学から軍事にいたるまですべての才能をもち、さらに神のようだとも天使のようだとも伝えられる美貌も持っていました。その美しさは女性ばかりか男性をも惹きつけたと言われています。

モーゼ像がミケランジェロの自画像と伝えられるように、ゴツくて強面のミケランジェロには美貌と才能というニ物を与えられたレオナルドは、極めて不愉快な存在だったに違いありません。
でもまだ先輩のレオナルドだけなら我慢できました。さすがのレオナルドも年齢を重ねれば、若き日の美貌は次第に衰えてもきたことでしょう。
ところがそこにまるで若き日のレオナルドを彷彿とさせるような、縮小コピーが登場したのです。またも天が二物を与えた絶好の例が、ミケランジェロを嘲笑うようにフィレンツェの街を歩き始めたのです。これを不愉快と言わずして何と云うべきか。

ということでミケランジェロとラファエロの不仲の原因は、実は不細工男のイケメンに対する嫉妬だったのでした。(根拠なき空想ですので信用しないように。念のため。)

ラファエロが凄いと思うのは、レオナルドから大きな影響を受けているのは勿論ですが、嫌われていたミケランジェロからも非常に多くを吸収していることです。

1507年、フィレンツェに来て3年もたたないで描いた「美しき女庭師」の三角形の構図は、レオナルドから学んだものですが、その後に描かれた聖母子像はあきらかにミケランジェロに多くを負っています。

上の画像は「椅子の聖母」(1514、フィレンツェのピッティ美術館)と呼ばれているものですが、マリアとイエスの体のひねりとその組み合わせでまとまった画面を創りだしていくやり方は、「美しき女庭師」時代のラファエロにはありえないものでした。ミケランジェロの得意のパターンであり、しかもそれを完全に吸収してミケランジェロとは異なるラファエロ独自のものにしています。

20111003_3 右の絵は「アルバの聖母」(1511、ワシントンDCのナショナル・ギャラリー)と呼ばれている作品で、ことにミケランジェロの影響が強い作品です。ラファエロは1508年からローマに移っていて、1512年完成のミケランジェロのシスティナ礼拝堂天井画の全体像はこの時点では見ていなくても、部分的には見ていたかもしれませんし、下絵は確実に見ていたものと考えられます。聖母マリアの伸ばした足など完全にシスティナを連想させます。

この「アルバの聖母」は私が最も好きな絵の一つで、もし西洋美術史上で好きな作品を十選べと言われたら、絶対に入れる作品です。前に音楽雑誌に誰が書いたのだったか、「美と感動は別物。美しいから感動するなどということはない」と書いてあったのを読んだことがあります。
残念ながら芸術が純粋に美しさだけで人を感動させる例は、確かにあると思います。それはこの「アルバの聖母」とフォーレの「ラシーヌの雅歌」を挙げただけでも、十分ではないでしょうか。
(続く)

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2011年10月 2日 (日)

美しき女庭師(前)~名画と名曲・63

20111002600gif 《オペラのあらすじ》でモーツァルトの「偽の女庭師」を取り上げたので、タイトルつながりということで「美しき女庭師」を。
この絵はラファエロが1507年、24歳頃に描いたもの。大変美しい作品で、ルーヴルの至宝の一つです。「美しき女庭師」というのは愛称で、正式名称は「聖母子と聖ヨハネ」。

ラファエロはその美しく優美な画風から、音楽とのアナロジーで言ったら当然モーツァルトに比せられるということになりますが、作風だけではなく二人にはなぜか妙に共通するところがあります。

まずふたりとも30代半ばで夭折しているということ。
モーツァルトは35歳、ラファエロは37歳で亡くなっています。

二人とも生まれたのは穏やかな地方都市でした。
モーツァルトはご承知のようにザルツブルク。大司教がいて宗教的には重要な街だったとはいえ、政治的には宮廷のあるウィーンからはるか離れていました。
ラファエロが生まれたのは、ウルビーノ。当時のイタリアは都市国家が林立し、ウルビーノもそうした中の一つで宮廷もありましたが、やはりローマやミラノ、フィレンツェ、ヴェネツィアという大都会とは異なる静かな地方都市の一つでした。

と同時にふたりとも故郷に縛られることはなく、各地に羽ばたいて活躍することになったのも共通しています。もっともラファエロはモーツァルトのようなコスモポリタンにはなりませんでしたが、これは時代が全然違うのでしょうがありません。

そしてモーツァルトもラファエロも父親が同じ職業でそれなりの名声を得た人でした。ラファエロの父はジョヴァンニ・サンティといってウルビーノの宮廷画家でした。ラファエロは父親と幼い頃から、ウルビーノのドゥカーレ宮殿の部屋をめぐり、ピエロ・デッラ・フランチェスカメロッツォ・ダ・フォルリの作品に親しんだものと考えられています。
もっともラファエロがその画風において父親の影響を受けたかどうかは分かりません。というのも成人するまで息子のウォルフガング・アマデウスに大きな影響を及ぼしたレオポルドと違って、ジョヴァンニ・サンティはラファエロが11歳の時に亡くなってしまったからです。まあ芸術家とその父親の関係というのもよくわかりませんし、11歳で死んだから影響がないなどとは必ずしも言えないかもしれませんが。カルロス・クライバーのように自らが巨匠と呼ばれるようになってからも、父親の解釈にこだわってる人もいましたし。

違うといえば、亡くなるまでの運命もモーツァルトとラファエロはやや異なっています。モーツァルトが死ぬ直前は借金まみれで、貧困のうちに没したのに対し(必ずしも貧乏ではなかったという説もあるそうですが)、ラファエロは画家として活躍するようになってからは、ほとんど一直線に栄光の日々を駆け抜けました。
モーツァルトの場合、K500番台後半以降の曲は異様なほどの深みに達していますし、レクイエムに聞ける死の影も、最後のピアノ協奏曲やクラリネット協奏曲にあらわれる枯淡の境地も、何かあそこで亡くなったのが必然のように感じさせます。
それに対してラファエロは30代にははやくも画家として当代最高の評価を獲得し、大規模な工房を主催してエネルギッシュに活動していました。そんななかある日突然、病気によってバッサリとその命が絶たれたのです。おそらく周囲の人々の悲嘆と落胆はモーツァルトの比ではなかっただろうと思われます。

 

さてそのラファエロの若き日の傑作「美しき女庭師」なんですが、その前に。――この絵を見ると明らかにおかしいとは思われないでしょうか。「いったい女庭師はどこにいるんだ?」と。
ここに描かれているのは聖母子と少年の聖ヨハネ。だったら聖母マリアを女庭師と言ってるのか?――なら何故に、と。

この愛称についてちゃんと解説されている文章を読んだことがないのですが、私は明らかにこれは誤訳であり、修正すべきと思います。
「美しき女庭師」はイタリア語の La bella giardiniera (ラ・ベッラ・ジャルディニエラ)を訳したものです。英語では名詞に男女の区別が無いので The beautiful gardener となります。

問題はこの giardiniera の訳なんですが、確かにイタリア語の辞書をひくと、そこには女庭師とか女性園芸家、庭師の妻といった訳語しかありません。そもそも -iere(a) というのはイタリア語で職業を表す接尾辞なので、そうなるのは当然なのですが、しかし。

男性名詞の giardiniere には「庭園愛好家」という訳があります。
また giardiniera の項目には熟語として maestra giardiniera というのがあります。訳は幼稚園の先生。
また辞書には載っていませんが、この件で色々サイトを見ていたら、『庭で子供たちを遊ばせている女性を giardiniera というと、ルーヴルでは解説している』という記事も見つけました。

庭で幼児イエスと聖ヨハネを遊ばせている美しき聖母、あるいは庭園を愛する(庭園を愛でている)聖母とでも言った意味で、この愛称は付けられたのであろうと思います。まあいつの時代についた愛称か判らないですし、つけられたのがあまりにも古い時代だとその頃のイタリア語の意味を調べるのはちょっと無理なので、絶対とは言いいづらいものがありますが。

この作品の愛称である La bella giardiniera はいっそ「美しき庭園の聖母」「美しき庭の聖母」みたいな訳にしてはどうでしょうか?まあ庭園というよりむしろ菜園じゃないかとか、美しきが庭園/庭にかかってるのか聖母にかかってるのか判らないとか、これも日本語として良い訳とは言えないのですが、でも少なくとも「美しき女庭師」よりは・・・
(続く)

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2011年7月16日 (土)

パドヴァの聖アントニオ(後)~名画と名曲・62

20110716 これはスペインのバロック期の画家スルバランの作品で、プラド美術館にあります。昨日のマエーリャとは同じシーンを描いたとは思えないほど、異なった印象をあたえます。

マエーリャが雲や天使たちで作品を柔らかく彩り、夢幻的な印象すら与えるのに対して、スルバランの作品はいかにもバロック的な光と影のコントラストによって、厳しくも敬虔な雰囲気をつくりだしており、対照的です。

その結果スルバランの絵には、まさに今そこに奇跡がもたらされているのだというリアルさを感じるのに対して、マエーリャの場合はまるで聖アントニオが夢を見ているか、宗教的なトランス状態の中で幻覚をみているかのように思えてきます。

実際に起きた事柄は後者のほうでしょうから、リアルとはいったいなんなのか、なかなかに悩ましいところです。

もちろんこの違いは画家の資質によるものが大きいわけですが、バロック最盛期に生きたスルバランと、ロココを経過したマエーリャという時代の違いも大きいのでしょう。

さてアントニオはなくなった翌年の1232年に聖人に列せられ、死後も様々な奇跡が起こったと言われています。その奇跡の内容については調べたんですが、あまりよくわかりませんでした。現在パドヴァに聖アントニオ聖堂というのが建っていて、遺骸がおさめられているそうですが、そこは病気回復のご利益があるみたいで、お参りする人が絶えないのだとか。

ところでこの聖アントニオがある日、リミニの街にやって来ました。アントニオは説教を始めようとしたのですが、妨害にあいます。そこでアントニオはアドリア海に向かって説教を始めたのですが、それをきこうと海の魚たちが岸辺に集まり、水面から顔を出したと伝えられています。

マーラーの歌曲集「少年の魔法の角笛(子供の不思議な角笛)」の中の「魚に説教するパドヴァの聖アントニオ」はこのエピソードをもとに、思い切り皮肉を聞かせたというんでしょうか、実は人間世界のアレゴリーと感じさせる歌詞で、独特の諧謔的な世界を生み出しています。

この魚に説教のシーンはヴェロネーゼが描いていますが、残念ながら私は写真を持ってないので出せません。 

私が初めて「魔法の角笛」を聞いたのは十代の頃で、まだ「大地の歌」と何曲かの有名交響曲ぐらいしか知らなかった頃でした。ルードウィヒ、ベリーの歌にバーンスタインのピアノというCBS盤を買ってみたのですが、第一印象は「なんて変な曲!」。

なにしろドイツ歌曲といえばシューベルトかシューマン。中でも「冬の旅」や「詩人の恋」のような旋律も美しく、ストーリー性のある曲に惹かれていた当時の私としては、「角笛」の歌曲の数々はどうにも馴染めなかったのです。

なかでも一番変だったのが、この「魚に説教するパドヴァの聖アントニオ」。メロディーも奇妙なら、歌詞はもっと奇妙で「なんじゃ、こりゃ?」という感じ。

結局LP時代には評判だったF=Dとシュワルツコップのセル盤も、バーンスタインらがオーケストラで再録音したものも、買わずじまいに終わりました。

アバド盤もいまひとつだったし、今だったらやはりバーンスタイン&コンセルトヘボウのDG盤でしょうか。

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2011年7月15日 (金)

パドヴァの聖アントニオ(前)~名画と名曲・62

600 前回も取り上げたスペインの画家マリアーノ・サルバドール・マエーリャの「パドヴァの聖アントニオ」(1787)です。
非常に優れた作品で、「春」(1764-70)と比べても、画家の腕がさらに上がってることがわかると思います。

構図、デリケートな色彩の調和、光と影の対比。いずれも見事でどうやらマエーリャの作品の中でも、傑作として認められているようです。
上部がアーチ状になってることからも判るように、もともとは教会のために描かれた作品ですが、現在はマドリードの市立美術館にあります。

聖アントニオはこの絵の中では、幼児イエスの足に口づけしていますが、言うまでもなくこの人はかの「魚に説教するパドヴァの聖アントニオ」さんです。

という言い方も我ながらいかがなものかと思われますが、カトリックの人にとっては数々の奇蹟――中でもアントニオの前に幼児イエスが現れたことで有名――でよく知られている人気のある聖人ですが、クリスチャンじゃない音楽好きにはひたすら「魚に説教する・・・」で有名ですね。

この聖アントニオなんですが、パドヴァだしアントニオというのもイタリア人の名前ですが、実はこの人はポルトガル人で、1195年にリスボンで生まれました。本名はフェルナンド・マルティンス・デ・ブラフォン。生地には現在リスボン聖アントニオ教会という教会が建っています。

アントニオ(というかフェルナンド)は貴族の生まれだったのですが、母親が大変に信仰心のあつい人だったらしく、苦しむ人を慰め、貧しい人に手をさしのべるようにと息子を教育します。

そんな子供時代だったせいで、本来は騎士になることを期待されていたフェルナンドですが、必然的に神に仕える道へと進むことになります。
15歳で修行僧となったフェルナンドは、25歳で司祭になった後、(色々あって)フランチェスコ会に入信し、アントニオという名前を得ます。そして(色々あった末に)聖フランチェスコに会いにアッシジに行き、そのまま現地に留まることになります。

アントニオは特に説教がうまいことで知られ、多くの人々を感動させたと言われています(ここが「魔法の角笛」の歌詞に結びつく)。やがて彼はイタリア各地、そしてフランスからも招かれるようになります。

アントニオはフランスから戻った後はパドヴァに居を定め、北イタリアのフランチェスコ会の代表にもなりますが、しかし長年続いた旅の生活が彼の肉体を蝕んだのでしょうか?
1231年にアントニオは田舎に移り、そこで病気療養の生活を送ることになりました。するとそのアントニオの前に、幼児イエスが現れるという奇蹟が起こります。それも何度も。そのたびにアントニオはイエスを両手で抱きかかえました。
聖アントニオの絵の主題といえば、幼児イエスが登場するのはこのエピソードに由来します。

アントニオの病状は残念ながら、田舎への転地療養でも回復せず、彼はパドヴァへ戻る途中に、36歳の若さで天に召されます。
(続く)

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2011年6月23日 (木)

マエーリャの「春」~名画と名曲・61

20110623600 FM放送で庄司紗矢香とカシオーリのデュオ・リサイタルのライヴが放送されていました。曲目はベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタが3曲で、2番と「春」「クロイツェル」。

演奏がどうかは判りませんが、久々に「春」と「クロイツェル」を続けて聞くと、やはり凄い充実感がありますね。「音楽を聞いた」という感じ。

《春》といえばもちろん絵画ではボッティッチェッリの「ラ・プリマヴェラ」が最初に浮かぶわけですが、そういえば、私の好きなプラドにも「春」があったのを思い出しました。

スペインの画家マエーリャの作品。タイトルはズバリ「春」。

マリアーノ・サルバドール・マエーリャは18世紀の前半(1739)に生まれ、19世紀の前半(1819)まで活躍した、バレンシア出身の画家です。マエーリャの綴りはMaellaで、便宜的にリャと表記しておきますが、言うまでもなくかのスペイン語の lla の発音になります。

この「春」は四季を描いた連作の一つで、プラド美術館にあります。
1764年から70年にかけて描かれたもので、実に美しい作品です。傑作と呼んでいいんじゃないでしょうか。

中央にいるのは花の女神フローラ。右下でフローラを見上げているのはクピドでしょうか。
ユノーがマルスを生んだ時の逸話に関連するらしいですが、ここでは単純に美しさを愛でたいと思います。
フローラの身体の自然なひねり、クピドの左手が持つ薔薇の花。そもそも色彩のバランスに定評のある画家ですが、顔の下半分をおおうチークの赤が衣装の赤とあってたりして、絶妙な色彩のハーモニーを感じさせます。

マエーリャが生きた時代は、ロココから新古典主義へというスタイルの変遷があったわけですが、解説によればマエーリャの作品も初期のものはロココの影響がつよく、それが次第に新古典主義のスタイルへと変化しているらしいです。

私は初期の作品は見たことがないので、実際の作品に即してはわからないのですが、この「春」もたしかに花冠などロココ風の優雅さ、繊細さを感じさせ、なんとも上品で魅惑的な雰囲気を作品に与えています。

この原稿、ベートーヴェンのスプリング・ソナタで書き始めましたが、これはどうもベートーヴェンではなかったですね。モーツァルトの弦楽四重奏曲第14番「春」のメヌエットあたりがピッタリだったようです。

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2011年5月24日 (火)

セビリャの闘牛場~名画と名曲・60

Photo 世界で最も人気のあるオペラの一つ「カルメン」。
――などと、ついうっかり簡単に書いてしまいましたが、「カルメン」って最近あまり注目される上演がないような気がします。少なくとも日本では。

伊原直子さん以後、日本人でカルメン役にぴったりのメゾといったら誰になるんでしょう?永井さんとか藤村さんとか世界的活躍のスター歌手はいますが、二人ともカルメンとは正反対の感じですし…

海外歌劇場の引越公演でも、二十数年前のバルツァ&カレーラスの公演をしのぐような舞台の評判というのも聞いたことがありません。私自身は最近は全然オペラを見てないので、そもそも分からないんですけども。

(ワルトラウト・マイアーでMETが持ってきたのは、97年ですからもう14年前。それにマイアーのカルメンは否定的評価が多かったような気がします。
オッターが歌ったのがありましたが、演奏会形式でしたしこれも14年前。彼女のカルメン役も賛否両論だったような。
一時ドマシェンコがカルメン役として絶賛されてましたが、彼女はなにか難病でリタイアしたんでしたね。そういえばローザンヌ歌劇場がドマシェンコのカルメンで来日公演をする予定だったのが、ウリア=モンゾンに変わったということがありました。)

Photo_2 そんな「カルメン」ですが、最近では当然「いわゆる現代的演出」が普通になってるのでしょう。このいかにもな感じの舞台写真(ウリア=モンゾンとアラーニャ)は、バルセロナのリセウ劇場でのカリスト・ビエイト演出のもの。車を使うというのは70年代にリナ・ウェルトミュラーがやってたと思うので、あまり新しくありませんが、このえげつなさは現代ならではかも。

伝統的な演出の場合、終幕の舞台はセビリャの闘牛場です(正確には闘牛場の外)。セビリャの有名なマエストランサ闘牛場は、現在はこんな感じ

しかし昔は上の画像のような状態でした。右半分はほとんど現在と変わってませんが、屋根のある席が途中で切れてて、街の風景が見えるようになっています。(これは多分このとおりで、画家が効果のために創作したのではないと思いますが、はっきりはしません。)他の写真で見ると現在はぐるっと有蓋席がめぐらされてるようです。

この絵はスペインの画家、ホアキン・ドミンゲス・ベッケルが1855年に描いたもの。サン・セバスティアンの美術館にあります。

原作となったメリメの「カルメン」は1845年、ビゼーの歌劇「カルメン」は1875年ですから、彼らが脳裏に描いた闘牛場の姿は、まさにこのようなものだったといって良いでしょう。

ドミンゲス・ベッケルはセビリャに生まれ、セビリャで活躍しセビリャで没した人です。ローカルの画家といっていいんだろうと思いますが、
▽光と影を効果的に使って画面を巧みに構成していますし、
▽画面の半分以上を占める雲と澄んだ空の美しさ、
▽色彩の対比、
▽遠くに見えるセビリャ大聖堂とヒラルダの塔の印象深さ、
▽そしてそれらが与える遠近感など、
なかなか素晴らしい作品じゃないかと思います。

ところで実は私は「カルメン」というオペラがあまり好きじゃないのです。いや、むしろ嫌いという方が近いかも知れません。もちろん素晴らしいアリアや重唱の連続であることは認めますが、登場人物がどうにも共感できなくて…

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2007年9月13日 (木)

夜と夢(後) ~名画と名曲・59

20070913hodler1jp これは「夢」という作品で、ホドラーが1897年に描いたものです。チューリヒのプライヴェート・コレクションにありますが、わりと有名な作品です。

なんか随分ポスターっぽいなと思われる方もいらっしゃるかもしれません。実はこの作品の上の部分は、ポスターの原画として描かれました。ところがそれがポスターとしては使われなかったために、ホドラーは下の裸体の男性を描き加えて、作品の主題を「芸術家の見る夢」としたのでした。上部の夢に出てくる乙女は理想の女性を表していると言われています。

後にホドラーは別のポスターを製作するときに、今度は男性の部分だけを再利用しています。

ホドラーの作品の大きな特徴は、水平方向に流れる形態や垂直方向に立ち上がる形態などを反復させ、一定のリズムを作り出すというのがあります。これをホドラーはパラレリスムと呼んだのですが、この作品にも、また前回取り上げた「夜」にも見られます。

このパラレリスムは単に画面に統一感をもたらすだけとか、あるいはリズミカルな動きを持ち込むというだけではありません。小学館の画集における有川治男さんの解説によれば「一個一個を取り上げてみればそれぞれ異なる存在を、本質的な一致を見せるその生の様相から捉えなおし、それを統一的な形として表現する」というのがパラレリスムの意義ということになります。

「夢」では横たわる青年はすべて水平方向への動きで、逆に乙女は立ち上がる花や、流れ落ちる髪など垂直方向の動きで統一されています。色々な見方が出来そうに思いますが、例えば水平方向の動きは眠りや安らぎの大地を、垂直方向に並んだ花は生命力を表し、乙女は生命力溢れ立ち上がる人間の象徴などと解釈されているようです。


20070913hodler2jp ホドラー(右は自画像、ジュネーヴの美術歴史博物館にあります)は、「夜」によってようやくヨーロッパ画壇に認められ、経済的にも40年近く続いた窮乏生活に終止符を打つことができました。
「夜」に登場する女性のモデルであるオーギュスティーヌとは息子ももうけます。

この作品「夢」が描かれた1897年ごろは、ホドラーの生涯の中でも決して長いとはいえない幸福な時代でした。

1908年55歳のときに、ホドラーは二十歳も若いヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルという女性と出会います。二人は情熱的な恋をして、娘も生まれます。

しかし二人の幸せな生活はわずか5年。このヴァランティーヌも、癌で亡くなってしまうのです。ホドラーの人生にはどこまでも死がついてまわるのでしょうか。

ヴァランティーヌが亡くなってまもなく、ホドラー自身も病気になり、1918年ジュネーヴで息を引き取ります。

       

19世紀後半に書かれた夢の音楽といえば、やはりワグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲集」の第5曲「夢」でしょうか。「トリスタンとイゾルデ」が作曲される直前の、1857年に作曲されています。

この歌曲集は、ワーグナーと不倫関係にあった人妻マティルデ・ヴェーゼンドンクの詩につけた5曲からなる曲集ですが、第3曲「温室にて」は「トリスタン」第3幕への前奏曲、第5曲「夢」の旋律は「トリスタン」第2幕の愛の二重唱に、それぞれとりいれられることになります。

夢は育ちつつ、花を咲かせ
夢みつつその香を送る
そして静かに君が胸に消え行き
墓の中に沈み行く
           (渡辺護訳)

この曲集をコンサートで聞く機会は、それほど多くないように思いますが、私にとっては比較的初期のクラシック・コンサートの思い出と結びついています。

ウン十年前の話で、ちゃんとは覚えてないんですが、たしか高校生の頃だったと思います。東北大学のオーケストラが第九を演奏した際に、当時の学生オケとしては珍しく、メゾ・ソプラノに長野羊奈子さんを呼び、長野さんは第九の独唱のほかに、前半にこの曲集を歌いました。歌唱がどうだったかはまるで覚えていないのですが、声が素晴らしかったことだけはハッキリと記憶に残っています。

ピアノ伴奏ですがヤノヴィッツが80年代後半に行った、来日公演での歌唱も忘れがたいものです。彼女の全盛期にカラヤンが録音してくれなかったことが、残念でなりません。

録音だと昔はフラグスタートとクナッパーツブッシュのデッカ盤で決まりでしたが、CD時代にはいってからはどうなんでしょう?。
やはり定番はジェシー・ノーマンあたりになるのでしょうか。
最近だとニーナ・シュテンメも録音してるそうですが、私は聞いてません。むしろミシェル・ブリードがウィーン弦楽六重奏団といれたものが気になるかも。去年あたり国内でも出てたらしいんですが。

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